自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

恋愛に見られる仮面劇

2013年10月08日 | 健康のための心の波動

 

相手への幻想を抱く理由  平成25年10月8日

*********************

 

心理学者 ジェームズ・ヒルマンはその著 ”魂のコード”(*1)

次のように書いている。

”私たちは生まれるとき、

 性格と使命の両方を携えてくる。

 しかし、誕生時の霧がこの知識を曇らせ、

子供時代の苦労を しばしば、辛く恐ろしいものに

してしまう。

子どもの時に、私たちは神聖なる愛と

エネルギーの確かな繋がりを失ってしまうのだ。

 

そして、急に、食物 と 安全な生活 に 

もっぱら 頼るようになっていく。”


子どもの時に、私たちは神聖なる愛と

エネルギーの確かな繋がりを失ってしまうのだ。”

という言葉の背景には、その繋がりを失わせる原因や

きっかけが あるはずだ。


その一つの要因が、真摯に自分自身と向き合う

子供心の純粋性を犠牲にして、家族、特に両親との、

人間のエゴのぶつかり合いに、巻き込まれていく

過程をさしているのだろう。  

                                     

たとえば、成人しても、傍観者の仮面を手に取る人。

子ども時代、自由に意思疎通や話し合いが 親と

行えなかったと レッドフィールド氏は言う。

傍観者タイプの人は決して相手を、容易に信用しない。


世間は信用できない人ばかりだと固く信じている。

そして、個人的な情報を教えれば、あとで自分の

不利になるように思われるか、批判される原因

なるに違いないと思っている。  

とレッドフィールド氏は言い、 

“こうした思い込みが、傍観者から 常に放射され、

その波動に会う人(非傍観者)が引き寄せられ 

その思い込み通りの状況が無意識に成就してしまう。“ 

としている。


成人して、尋問者の仮面をかぶる人の背景を、

氏はこう指摘する。

“普通、尋問者は 両親が不在か、彼の要求に

無関心な家庭で育っている。 

こうした不安に満ちた、十分なエネルギーを

与えられない状況で自分にできる唯一の方法、

つまり、誤りを指摘し、家族の行動を批判する 

尋問者の仮面をかぶることで注目とエネルギーを得てきた“

と分析する


コントロールドラマは 幼児期や成人後の人間関係に

見られるが、 恋愛に見られる仮面劇のパターンがある。

 著書(*2)から、引用する:


新しい人間関係は男女の恋愛関係の追及以上に

緊急を要するものはない。

新しい霊的気づきの中で、再び、はるか昔からの問題を

問い直すのである。

なぜ、二人の愛が終わりをつげ、複雑な権力闘争へと

発展することが多いのだろうか?”

 

と前書きをしたうえで

”二人には共通の価値観やライフスタイル” があり、

”素晴らしい感覚”

何年もの間で初めての充実感”を お互いに、感じ、

”自分の見失っていた一部を発見した”

ような気持ちになる。

 

そして、魂の高揚感とともに、ロマンスが始まる。

愛が湧きあたる”のだ。

                 

ところが、時間がたつにつれて、

”何かが起こる”。 

”振り返ってみると、何か状況がおかしいのに気がつく”

次第に権力闘争が始まるプロセスへ移行していく。 


”二人の関係が始まったときに感じた

愛情を相手がもうくれなくなったのだ。

さらに、自分が本当に必要としている愛情を相手が

一度もくれなかったことに、やっと気が付き始めたりする。


それと同時に 相手もまた、自分の人間性や行動の欠点

を見つけては、様々な不満をじぶんに対して抱いて

いることがわかる。”

という状態が、

典型的な権力闘争がいよいよ開始された”

ということになるという。

 

どうして、権力闘争に突入したのか?

どうして、仮面をつけ、相手からエネルギーを奪い合おう

するようになったのか?

答えは簡単だ。

 

二人とも

内なる神とのつながりからではなく、相手からエネルギー

をもらおうとし始めた”からである。

                 

レッドフィールド氏はこう述べる:

”最初に愛し合って一緒になるとき、私たちはお互い

エネルギーを統合させ、完全に満たされた感覚を味わう。

相手は慈しんでくれた、親の思い出だけでなはく、親との

間で一緒に感じた満足感を与えてくれる。


ふつうの人間でしかない相手に、子供の時に父親や

母親に対して感じた献身的で、魅惑的な幻想を押し

付けてしまうのだ。 


そして、相手が本当はどんな人間かしっかり見ようとも

しない。 

ただ自分の幻想を相手に見る。

・・・略・・・

男は金銭的なことでつまずいたり、失業したり、野球を

見に行ったり、付き合いで、遅くなったりする。

女は男がめげているのに、なぐさめようともしない。

完全だと見えたものが、壊れ始める。”

 

犠牲者的仮面をつけたり、尋問型の仮面をはずしたり、

時には、傍観者になり、なられ、”エネルギーの

キャッチボールドラマ”が 恋愛当事者の間で、始まる。

これが、コントロールドラマの始まりだ。

最悪の場合、脅迫者になって、どちらかが傷つくことさえ

あるのだ。

                           

しかし、、ロマンス時代、の仮面劇を通して、人は、

 自己の中にある、男性性と女性性を統合させることを

学び、他者からエネルギーを奪う必要を感じない

独立した一個人として目覚めることで、恋愛を成就させる

ことができると示唆している。

                             

お互い、思いやりと愛を根底に、相手を尊重し合える関係

を築きたければ、まず、自己統一をはかり、内部の自分と

繋がりあうことが先決問題だと レッドフィールド氏は述べる。

 

こうした、コントロールドラマを演じないように

どのように 普段 心がけたらよいのだろうか?

同氏は、こうヒントを出している。


”(互いのコントロールドラマの原因)を見つめたら、

恨んだり憎んだりすることは避けなければならない。

意識がたかまるにつれて、いつか、私たちは

異なる次元から自分の人生に起こったことを観るよう

になり、生まれてきた環境も自分で選んだもので

あることがわかるようになる。”   

                   

まず、恨んでいる人、 ”特に家族”がいれば、許すこと。

生まれた環境を自分で選んだのなら

その意味を考えてみる事。

だから、次の言葉が出てくる:

”幼いころの両親や兄弟を責めずにいられない

自分がいるのなら、それは責めること自体が、

コントロールドラマになる。

虐待された体験談をして、同情やエネルギーを

勝ち取ろうとするか、自分の傍観者や尋問者のドラマを

合理化しようとしているだけだ。

自分自身を過去から解放するまで神の内なる

エネルギーとの繋がりを十分に追及できないのは、

このためでもある。

人を非難すれば、必ず、昔のドラマへと振り戻される。

                                  

それ以上のエネルギーの拡大はそこでストップ

してしまう。

何ができるのか?

 

それは許すことだ。

許すことだけが、何回も繰り返されるコントロールドラマの

終止符を打つことができる。”

 

続く・・・・・・・

 

(*1) ジェイムズ・ヒルマン ”魂のコード” 

河出書房新社、1998

(*2) ジェームズ・レッドフィールド 

”聖なるヴィジョン” 角川書店、1998

参考図書)

ジェームズ・レッドフィールド ”聖なる予言” 

角川文庫ソフィア、1996

”第十の予言” 角川文庫ソフィア、1997

 ”聖なる予言 実践ガイド” 角川書店、 

 

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仮面家庭劇~後編

2013年10月06日 | 健康のための心の波動

 

様々な無意識にかぶる仮面・・平成25年10月06日

************************************ 

心身ともにリラックスする場所。

家庭はそういう所だというイメージがある。

たぶん 多くの場合はそうであるだろうし

反対に、家庭の中で、ストレスを昂じている

人たちもいるかもしれない。

それは、傍からは 気が付かないし、見えない

”仮面劇”が繰り広げられているからだ。

 

そして、家庭仮面劇に幼いころから

巻き込まれて育ってきた子供たちは、

その影響を引きずることになる。

 

学校で、職場で、人間関係に ストレスを感じ、

登校拒否や心身症、社会に出てからは、

躁うつ病など、社会不適応障害が

見られることもある。 

 

(以下からは、10月4日の前編内容の続きとなります)

 

(4)と(5)尋問者と脅迫者

(1)で述べた征服者を演じるのに、

(4)と(5)の尋問者や脅迫者という

具体的な仮面をかぶる場合が多い。

 

尋問者の特徴は、文字通り、相手を、

それとなく、尋問しながら会話をすすめる

会話が攻撃的になりやすい。

他の人のエネルギーを取るために、

批判的になっていくからだ。

 

J・レッドフィールド氏は次のように 述べる。

尋問者の コントロールドラマは現代社会に

蔓延しているドラマでもある。

尋問者がいると、私たちは 常に自分が見張られて

いるように感じられる。

 

同時に 自分ができそこないで、自分の人生さえ、

やっていけない人物の役を押し付けられたかのように

感じることもある。“    

 

尋問者は相手をそうした感じに引き込んでいくが、

それは、例えばこんな会話がきっかけだったりする。 

その服装はあなたの仕事に相応しくないですね”

とか

あなたは家の中をキチンと片づけておけないでしょう”

 これらの会話は引き金にすぎない。

 

誰でも、人生に かつて、”失敗している

という思いはあり、 

それを正さなければならない世界“ 

があることも承知している。


だから、他人から こうした尋問をされることで、

相手のペースに、自然誘導されていってしまいがちだ。

 

尋問者の無意識の戦術は、私たちがこうした糸口から、

尋問者の世界観を受け入れさせていくことにある。

いつの間にか、聞いている方は、相手の尋問者の言葉

を受け止めていく。

すると、自分の落ち度を認めざる得ない心境になるにつれ、

尋問者にエネルギーを与えていることに、

気が付かないまま、会話が進んでいく。 

 

(5)脅迫者

レッドフィールド氏はこう定義する:

“最も、攻撃的なコントロールドラマは、

脅迫者の戦略である。

こうした人のエネルギーの場に入ると、すぐにわかる。

なぜなら、エネルギーを奪われて居心地が悪く

感じるばかりでなく、危険を感じさえする。 

 

周りの世界が急に脅迫的で手に余るものに感じる。

脅迫は、自分はいつ、激怒して暴力を振るうか

わからないぞ、とほのめかしたり、行動で示したりする。

 

人を傷つけた話をし、家具を壊したり、

物を部屋の向こうに投げつけたりして、自分の怒り

がどれほどかを見せつけたりする。“

                        

彼らの狙いは、脅迫することで、

相手が、彼に完全に気を奪われてしまう状態を

作り出すことだ。

それによって、私たちのエネルギーは吸い取られていく。

 

人は、誰かが自制心を失って危険なことを

やり始めそうなとき、、相手の観方に譲歩して

自分の身を守ろうとするようになるのを

脅迫者のは知っている。

 

脅迫者にならざる得ない背景には、

幼児期、これまで述べてきたいかなる仮面も、

親の愛情を勝ち取るために通用しなかった~という

親の無関心さ や 愛情不足があるのだろう。

 

愛情や注目という、親の意識を振り向けて

もらったことのない彼は、周囲から完全に孤立して

きたという意識がしみついているだろう。

 

幼児期の彼の目には 暴力と敵意が満ちた世界に

誰も彼を助けようとする人もいなかったという、

過酷な現実が映っていたのかもしれない。

 

拒絶され続け、信用されず、周囲の誰もが

自分への加害者だと映る世界観が造られたとき、

ヒトは脅迫者の仮面をかぶる

 

だが、どの仮面をかぶっても、コントロール劇を

演じる事は可能だ。

それは、シナリオがない、演出家のいないドラマ。

母と子という 一番 基本的な、”家庭劇” 

から始まり、一生かけた”壮大なドラマ” 

に発展していくかもしれない。

 

幼児時代に かぶった(かぶらされた)仮面は

生長するにつれて、ほかの仮面と交換しながら、

外そう と思わない限り かぶり続けることだろう。

 

そうして、コントロールドラマは、永遠に続く。

自分自身を守るため

あるいはエネルギーを充足させるために

その人にとっては 生きていくうえで

大事な仮面 であることは間違いない。

 

コントロール劇の無意味さを知るまで

本人は、

仮面をつけているいことにすら、気が付いていない

かもしれない。

 

仮面劇の仮面を取るとき、

何がきっかけになるのだろう?

エネルギーが不十分なとき、不安なとき、頼りないとき

充たされないとき、特に、他者からのそれを

得る必要がないと 気が付きときかもしれない。

 

 

私たちは誰でも、男性的、女性的 両方の側面を

兼ね備えている。

そのことに気が付いて、それを応用することも

仮面劇に終止符を打つ、大切な要素だと

いわれる。

 

その続きは 次回のお楽しみ・・・・

 

 

 

 

 参考:

ジェームズ・レッドフィールド ”聖なる予言” 

角川文庫ソフィア、1996

”第十の予言” 角川文庫ソフィア、1997

”聖なる予言 実践ガイド” 角川書店、 1995

 

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仮面家庭劇~前篇

2013年10月04日 | 健康のための心の波動


無意識のコントロールドラマ・・・平成25年10月4にち

************************************

心身ともにリラックスする場所。

家庭はそういう所だというイメージがある。

たぶん 多くの場合はそうであるだろうし

反対に、家庭の中で、ストレスを昂じている

人たちもいるかもしれない。

それは、傍からは 気が付かないし、見えない

仮面劇”が繰り広げられているからだ。

 

そして、家庭仮面劇に幼いころから

巻き込まれて育ってきた子供たちは、

その影響を引きずることになる。

 

学校で、職場で、人間関係に ストレスを感じ、

登校拒否や心身症、社会に出てからは、

躁うつ病など、社会不適応障害が

見られることもある。

J.Redfield氏の研究によると、

人は、他者とのコミュニケーション時に

多かれ少なかれ、無意識に自己に以下のような役割

振り当てて 対応しているという。

 

1) 征服者

2) 被征服者(時には犠牲者)

3) 傍観者

4) 尋問者

5) 脅迫者

 

氏は、家庭の内外含め こうした仮面をかぶり、ストレスを与える

人間劇を ”コントロールドラマと名付けている。

コントロールドラマの特徴は、その場のエネルギーの流れ

を自分に引き寄せようとする働きかけがみられること。


なぜ、そうする必要があるかといえば、自分の十分でない

エネルギーの補欠が必要と感じるからだ。

相手のエネルギーをもらうことで、我々の持っている基本欲求、

力と安全”、”自己価値” が 確保できて満足と’安心’ 

が得れるような気分になる。

 

今日は、こうした、ストレスを生み出す 

コントロール劇に焦点を当ててみたい。

 

(1)征服者 と 被征服者の仮面

 被征服者の仮面 をかぶった人は、会話の半ばから、

自信を失ったような感覚に陥いってくる。

征服者(会話の相手)の 受け身的立場をとり

会話が自分のことに及ぶと、罪悪感を感じとってしまう。

  

無意識に”スミマセン”を連発する。

そうした態度が、相手を優位な立場に押し上げ 

自らのエネルギーを相手に 注ぎ続けてしまう。

  

たとえば、相手から

昨日、電話をくれると思ったのに、くれなかったんですね

と言われただけで、”だから、迷惑をかけられた

と行間の意味をくみ取り、相手から責められている気分になる。

  

あ。スミマセンでした” と つい、謝罪の言葉が出てしまう。

 征服者はすでに、この時点で、場のエネルギー”が自分に

流れ込んでいることを知っている。

 征服者にとってみれば、相手(被征服者)の 自分への

気遣いや思いやり、申し訳なさ、同情などの感情こそが、

気(エネルギー)そのものだからだ

 

2)犠牲者の仮面

ところが、被征服者の仮面をかぶっているうちに、

エネルギーの流れを逆転する人もいる。

その時にかぶる仮面が 犠牲者の仮面 だ。

 それは、相手の同情 をひくことから始まる。

あるいは、相手に責任があることを感じさせようと

するかもしれない。


たとえば次のような会話が 犠牲者の仮面をかぶった

人の例だ。

征服者 ”昨日は きっと 君が電話かけてきてくれると

思っていた”

被征服者 ”あ、ごめんなさい。 つい、忙しくて・・・”

征服者 ”わかっているんだ。 どうせ、キミは僕を理解

しようとしていないんだ・・”

 

ここで、被征服者は、申し訳なさそうにうなだれていたが、

エネルギーが失われるのを防ごうとして犠牲者の役回り

に転じる

 

犠牲者 ” あなたって、いつもそういうのよね。 

何か私に期待して、それが満たされないと、怒るんだから。

私のだめなところを責めてばかり・・

私に愛想を尽かし始めてるんでしょ?

もう、別れたほうが いいのかもね。”

 

すると、征服者は、相手から 思いがけない”別れの話”

を持ち出され、予想外の展開にとまどう。

その瞬間から、今までのエネルギーの流れが 

逆転するのだ。

 

彼が彼女の目線で、考え始めたとき、犠牲者の仮面を

かぶった人は、場のエネルギーの流れ が自分のほうに

流れてきたことを感じるだろう

それはつまり、会話が自分のペースのってきたこと

でもあり、征服者(この場合、犠牲者)の世界観を共有させ、

相手に 自分の目線から、状況対応させる“ ことで、

エネルギーの主導権をとったということでもある。

 

どのような仮面をつけるとしても、コントロール劇を

演じる人たちは、人間関係に ストレスを感じるだろう。

両者の無意識の意識空間に、”エネルギーの攻防戦”が

繰り広げられるのだから。

 

(3)傍観者 の 仮面

 傍観者は、外見的に、受け身的だ。

傍観者の仮面をかぶる人の、戦術は、こうだ。

まともな会話の返答を避けて、本心をいわない、

曖昧な態度、あるいは、無関心な様子を見せることで、

相手に 関心を抱かせる。

  

そして、相手から 関心を持ってもらい、意識的に 

気を使わせる”ことで 傍観者は 相手からの

エネルギーを受け取るしくみである。

たとえば、

どのようなお仕事されているのですか?

と Aに 聞かれた傍観者B は

ええ、よく、旅行に行くので・・

と曖昧性を持たせて返答する。


すると、Aは 旅行という言葉にひっかかり、

どちらに、よく旅行されるのですか

などと質問するかもしれない。

 

このあたりから、すでに、会話の流れ、エネルギーの

場は、傍観者Bを中心に廻っている。

傍観者Bは Aの質問にさらに、答える。

まあ、いろいろな場所です。

と グレーな返答しか与えず、ますます、

相手を煙に包み込んでいく。


Aは、傍観者の仮面をつけているBの眼を通して

その人のペースで 思考を組み立て、彼の人となりを

理解しよう、と 懸命だ。


結局は傍観者Bは、望み通りのエネルギーを

こうしたAの態度から、与えられることになる。

傍観者の人はだから、大概、本音をいわず、

廻りの動きを観察しながら、 自分の存在の周りに

神秘とか、理解しにくいという 見えない壁を構築する。

 

続きは・・・・(次回に)

 

 

 

 参考

ジェームズ・レッドフィールド ”聖なる予言” 角川文庫ソフィア、

1996

”第十の予言” 角川文庫ソフィア、1997

”聖なる予言 実践ガイド” 角川書店、 1995

 

 

 

 

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ハヌマン神と孫悟空:ソーハム呼吸の極意

2013年10月02日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

ラーマヤナの中の呼吸行・・・平成25年10月2日

**********************************************

 

 光, 炎, 火, 鍋Diya, インド, ディーパバリ, Diya, 祝賀

               

 

どうしたら悟れるのか?

悟れば、病や現象苦から、開放されるのだろう。

”悟りは、自分の中にすでにある。

自分の実相に気が付けばよいだけだ~”と

覚者は教える。

ならば、どのようにして、自分の実相に 

トランスフォーメーション

できるのだろうか?

 

ラーマヤーナ(*1)のお話しを想いだす。

王子ラーマは、王子の存在を疎ましく思う、父の愛する

若い妃 カイカ の企みによって、14年に及ぶ、

森の中で流亡生活を余儀なくされた。

 

父との約束の年月が過ぎ、アヨージャに戻ってきたとき

ラーマを陥れた張本人、カイカ王妃 はラーマの気高い神聖さ

を認め、自分が霊的になれるよう、知恵を与えて

欲しいと懇願する。

                      

心の広いラーマは この願いを聞き入れ、王妃に、

いくつかの ”ヒントを与えた” と言われている。

 

ヒントを与える” の意味はどういうことだろうか?

ラーマ王子は、宇宙を維持する力の象徴、

ヴィシュヌ神の化身。

ここでは、神は 信者の霊的願いをかなえるとき、

ヒントを与えるのみで、直接的答えは、出さないものだと

暗示されている。

答えは、人間自ら 神から与えられたヒントから

引き出さなければならない。

つまり、間接的に、人や事件を介して、神は、人に必要な

気づきを与えるというわけだ。

 

 

私たちも、日常で時々体験することかもしれない。

人生の迷い道、暗闇で光を求めながら

答えを知りたい” と心で 切実に求めていると、

周囲の人の意見や 本などから、間接的な言葉として

ヒントが与えられ、それをもとに、次に進むべき道が

わかってきたり、勇気を与えられるという具合だ

Diya, 光, ディワリ, ディーパバリ, ヒンドゥー教, インド, 文化

大師はいう。

”それは 人は誰にでも 神聖な性質が

備わっているから

神が その資質を使い、答えを欲している人に、

ヒントを与えるのだ”

と・・・・

 

会話の中で、人への何気ない助言とか、

思いつきの一言が 

相手にとって、大きな慰めになったり

気づきのヒントになるときがあるかもしれない。

そういうとき、神様がその人をお使いになって 

助言の必要な相手に

気づきのヒントと、愛を注いでおられるのかもしれない。

 

神は そのような場合、あくまで

私たち人間の自主性を重んじられるという。

そのため、熱心に答えを神に求めても、直接的でなく、

間接的な示唆を与えられることの方が多いのだという。

 

そうすることで、

人の自由も尊重される。

あくまで本人の気づきと 自らの、自主的な動機づけ 

しか、その人の行動を変えることはできないからだ。

大師は言う。

”人の心を変えることほど難しいことはない

と。

 

本筋に戻ると、

ラーマ王子は 以下のような質問を

自分を欺いた 義母の立場にある王妃から受ける:

 

愛するラーマ、あなたの聖なる本性を知っていたのに

かかわらず、私は 自分のエゴ意識 我”と“我の物”

という狭い感情と価値判断のために、あなたに多くの

苦難を与えてしまいました。

どうか私を赦し、私に霊的な智慧を与えてください。“

 

ラーマは 王妃カイカに こう助言した。

“母上! どうか 聖なるサラユ河で水浴して、

ここに戻って、私の霊なる言葉を受けてください。 

沐浴している間に、何が起きたか報告をしてください。“

 

カイカは素直にその言葉に従い、沐浴して

ラーマの元に戻った。

そして、次のように報告した。

                             

             

“何ぴきかの羊と山羊が土手の緑の草を食べ、時々、

メ―エエと鳴き声をあげていました“

そこで、ラーマは 義理の母に

その山羊と羊の鳴き声こそがあなたへの霊の助言です。

その鳴き声の意味は ‘私は誰でしょう?’と問う声

そのものでした。

 

羊たちでさえ、そう質問しているのに、その疑問さえ

抱いたことのない人がいるとしたら、それは、羊にも

劣るというわけです。”

 

私は誰? 

サンスクリット語では “コーハム?”、

そして 答えは “ソーハム” だ。

 

王妃カイカ は、ラーマから、自分がだれか?

と問わない人は、山羊や羊より劣ると言われ、

ソーハム という答えを引き出したのだろうか?

 

ソーハムとは、”私は神なり” という意味をもつ、

真言(マントラ)である。

最も短く、そして、もっとも最強のマントラとも言われる。

 

自分のアハムカーラ小我)を 大我に昇華させ 自分の

本質を知ることができる。

ラーマは そのために、羊の鳴き声を例にとって、

真言(マントラ) ソーハム を カイカに 教えたのだった。

 

ところで、

一日 私たちは 何回 呼吸するのだろう?

6秒に一度とすると、

一分10回、

10分100回、

一時間600回、

そして 一日はその

24倍の、14400回。

 

その呼吸のたびに、”ソーハム”のマントラを

心で意識して唱えるだけで

私たちの ”エゴ意識はなくなる” と

大師は語る。

so は 息を吸う時 

ham は 吐くとき

に唱える。

 

 

Lepakshi, アンドラ, Pr, プラデーシュ, インド, 寺, 彫刻

 

さて、ラーマヤナの中で、ラーマ王子がスリランカ島の

ランカ王に捕えられた 妻、シータを助けに行く場面がある。

 

その際 お供したのが、ハヌマーン、猿の面をもった

忠実な家来であった。

ラーマ王の話は、印度国内のみならず、東南アジア各国文化

にも影響を与え、その物語性が取り入れられて、

いまだに 仮面劇や影絵芝居などで、踊られたり、

演じられたりしている。                 

 

一説には、日本にも伝わったとされる。

お伽噺の桃太郎の家来になった猿 が ハヌマーンの

モデルではないかとも言われている。

 

桃太郎童話は、”鬼が島”に、桃太郎が家来に雉と猿を

連れて行き、鬼を征伐して還ってくる話。

 

ラーマヤナでは、ラーマ王子が 猿種族の空も飛べる

ハヌマーンを連れて、スリランカ島 の悪名高いランカ王

(鬼)を成敗する話だ。

 

さらに、日本では、猿の神様といえば、猿田彦が

思い浮かぶ。

日本書紀などにも

「国初のみぎり天孫をこの国土 に御啓行(みちひらき)

になられた」

伝えられていて、ハヌマン同様、先導の役目を果たし、

地方によっては、道祖神 として祀られているところも「

あるという。

猿田彦は、天孫降臨 の際に道案内をしたということから

道の神 とも言われている。

 

さらに、ハヌマン神は 中国に 渡ったという説がある。

西遊記の有名な孫悟空”のモデルと言われている。

ハヌマーンは 知恵もあり、忠実で、勇敢、かつ、空を飛べる。

孫悟空が 空を飛び、自由自在に体を

変貌させ、三蔵法師を、庇う 守護者のような役回りを演じて

いるところも、ラマ王子に使えるハヌマンの活躍を

彷彿とさせる。

 

こうして見ていると、桃太郎の家来猿も、孫悟空も、猿田彦も、

ハヌマンと、どこか通じるところがあるような気がしてならない。

ラーマ王子の物語の立役者、ハヌマーンは、その功績から

いつの間にか 忠実な神の下僕として、篤い信仰を受けて、

”神” と してあがめられ 現代でも、多くの信者を

有している。

 

 孫悟空(画像:ウイキペディア)

 

*1)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(2013/07/15 14:15 UTC 版)

『ラーマーヤナ』(Rāmāyanaサンスクリット:रामायण 英語 en:Ramayana

マハーバーラタ』と並び称される古代インドの大長編叙事詩。全7巻。

「ラーマ王行状記」の意味。

サンスクリットで書かれており、その長さは48,000行に及ぶ。

ヒンドゥー教の神話と、古代英雄であるコーサラ国ラーマ王子に関する

伝説をまとめたもの。

活躍する人物は 全てクシャトリヤであり当時のクシャトリヤ勢力

の台頭を反映している。

詩人ヴァールミーキの作とされているが、実際には、紀元3世紀ごろに、

多くの民間伝承を彼が編纂したものとされる。

但しラーマーヤナの核心部分は、第2巻から第6巻とされ、

その成立年代は第1巻と第7巻よりも古く、概ね紀元前4-5世紀頃とされる[1]

数多くの絵画、彫刻、建築、演劇、映画、ドラマ、音楽、舞踏などの

題材とされており、インド、およびその文化を取り入れてきた東南アジア

一円に深く浸透している。

 

 

 

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