日本書紀は神代紀から始まり、基本的には一代の大王に1巻が割り当てられている。綏靖から開化、景行と成務、履中・反正、允恭と雄略、清寧・顕宗・仁賢、安閑・宣化、用明・崇峻は合わせて一巻、神功は仲哀の后、応神の母であり大王には即位していないとされるが一巻をさかれている。神代と天武が上下巻、そして持統が最終巻である。
江戸時代までの研究者は日本書紀に懐疑を抱くことはなかったが、上田秋成と山片蟠桃はこれを疑った。山片蟠桃は応神以降であれば文字が日本に伝わっているのだから事実だと考えられるが、それ以前は口伝であるので事実であるとは言えない。神代から14-5代まではつくり話でありそれ以降が事実であろうとしている。大正時代になり津田左右吉は神話の部分は天皇の統治を正当化するために作られたとし、応神以降の記述についても造作が多いと公然と指摘した。津田の研究は太平洋戦争の始まる1940年に発禁となり42年には有罪を宣告された。
鴻巣隼雄によれば、使用されている用語によって書紀は1-13巻、14-21巻、22-30巻の3つのグループに分けられるという。藤井信男はさらにそれを十群に分けた。さらに仮名の用法や出典書名分類などで各巻の性格を分類した研究が多くある。そして使われている音韻から筆者はアルファーとベータの2群に分けて考えた。
後人による加筆も指摘、継体紀は潤色があるという。推古紀にある憲法17条などの聖徳太子による記述は日本書紀編集者による偽作であるという。少なくとも書紀の編纂が始まった天武朝以降に製作されたのが憲法17条であるというのだ。また大化の改新の記述にも不自然な箇所が多いと指摘、大化の改新の詔勅は倭習と筆癖があり、後人による加筆があるという。
筆者が分類したアルファ群は14-21巻と24-27巻、ベータ群は1-13巻、22-23巻、28-29巻であり、30巻は全く別人である紀清人による記述だという。ベータ群は基本的に和化した漢文で綴られており、アルファ群は中国の原音で仮名が表記されているという。
筆者の推測は次の通り。専制的中央集権国家を目指す天武は律令と国史を車の両輪と考え、681年に律令と国史の制定と編纂を命じた。689年に浄御原令が班賜され、唐人の続守言と薩弘恪に編纂を命じた。続が14巻(雄略紀)からを担当、薩が24巻(皇極紀)からを担当した。続は21巻修了間際に倒れ、薩は27巻までを担当したがその後死亡した。そして新羅への留学経験しかない山田史御方が担当者に選ばれ、ベータ群の記述を担当した。持統天皇が崩御した後、紀清人が30巻の持統紀を担当した。
日本書紀の文法や用語、用法などからでもこのような推測ができるという事を示す日本書紀文法解説本である。
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