意思による楽観のための読書日記

悲しみのマリア(上・下) ****

1年間の大河ドラマにでもできそうな、そんな人物の生涯を描いた感動実話物語。現在でも「きよせの森 コミュニティクリニック」として医療活動を続けている病院を創設した人物、武谷ピニロピの一生。1919年にロシア・ウラジオストックからハルビンに向かう列車の中で生まれときから始まり、ハルビンで最愛の弟を病気で失ったのち、1929年ごろ、日本に母タチアナ・叔母クセーニャと共に日本へ渡り、知り合いの紹介で福島県会津若松にて暮らすようになる。物語ではマリア・ミリューコフ、弟はミーシャとして紹介される。会津で世話になったのはシベリア出兵でロシアに来ていてマリアの父でロマノフ王朝の最後の帝王ニコライ二世の側近だったミリューコフ海軍大佐と知り合った安藤陸軍大尉。会津では連隊長として地元の学校などに受け入れを依頼した。

安藤の息子健吉はマリアの兄貴分として言葉や遊びを教えた。会津では、八木福子を家庭教師とし、若松第五尋常小学校に4年生で入学、算数に才能を発揮した。会津女学校に進んだ(現・県立会津女子高校)マリアは勉学に励み、主席で卒業後、単身上京。1942年、女子医専(現・東京女子医大)を卒業。1943年、理論物理学者・武田浩太郎と結婚、出産もした。戦争中は外国人として近所からの意地悪にも合う中で必死で子育てをした。ここまでが上巻。

戦争が終わり、順天堂大学病院眼科に勤務。あるとき東京・清瀬村を訪れた時に、トラコーマや眼病、その他の病気で多くの患者たちが病院にも行けず失明したり病気になったりするのを目にした。そして、そこで知り合ったお百姓から土地を借、焼け残ったアメリカ製のタイプライターも質に入れたりしてなんとか資金を工面して武田診療所を開設した。メインは眼科のはずだったが、患者は病気の種類などはお構いなしに診療所に押し寄せた。君沢看護師が唯一の同僚だったが、マリアは必死で診療をこなした。夫は物理学者であり直接は手伝ってはくれなかったが、自転車の乗り方をおしえ、往診の効率アップに寄与、その後は自動車の運転を教え車を入手するなどして診療の効率向上を応援してくれた。娘と息子を授かったが、娘の美知子は呼び寄せた両親に面倒を見てもらったきりで、高校進学と同時にアメリカに留学、当地で弁護士免許を取りアメリカ人と結婚してしまい、日本には戻ってこなかった。娘を両親に任せっきりだったことに反省をしたマリアは息子の陽(あきら)の世話は自分でしようと考えた。しかしあまりに厳しく接したために陽は中学生になる頃から母に反発するようになり、大学生の問には家を出てしまう。しかし35歳になってからは母への理解と和解を求めて病院の手伝いをするようになる。

この間、清瀬の診療所では患者が増え、ベッドの数、診療の範囲も拡大していった。社会の動きを反映してか、看護婦の中には労働運動を引き起こして病院経営がおかしくなりかけた時もあったが、息子の陽や患者たち、近所の人たち、事務長、看護師たちの努力と奮闘で乗り切ることができた。陽は母を連れて母のミーシャへの思い出の地ハルビンを訪問、ミーシャの死んだ場所を訪問することもできた。その時中国は天安門事件の真っ最中、言論弾圧や外国人への迫害もあったが、日本で世話をした中国人たちの支援もありなんとか旅を終えることができた。

大変な生涯である。ロシア革命で生まれ故郷を終われ、日中戦争でハルビンを追われ、日本語もわからず知り合いもほとんどいない会津の町で苦労し、太平洋戦争で日本でもプレッシャーを受けながら子育てをし、戦後の混乱のなか、困窮する日本人たちの診療をするために奮闘した武田マリア。タイトルは「悲しみのマリア」であるが、「前向きのマリア、負けないでマリア」とでもしたほうが内容にぴったり来る。

上下二巻の物語だが、しっかり書けば10冊でも20冊にでもなりそうな内容、「感動のマリア」生涯の物語である。


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