「アメリカの鏡・日本」というのは、太平洋戦争が終わり、アメリカが戦勝国として日本を裁き、日本再建の道筋をつけようとしていた時、アメリカに日本を裁くような資格はあるのか、と自問自答した本。日本は明治維新以降、英米を始めとした欧米列強の指導のもとに、世界の秩序を学びながら、欧米諸国のやり方を巧妙に真似て、欧米諸国が唱える価値観である「法的擬制(フィクション)」と権益確保を行ったにすぎないのではないかと。ただそのやり方はあまりに稚拙で植民地の対象となった東南アジア、中国、朝鮮の現地人民から大反発を食らった。さらに日本が中国や朝鮮半島でおこなった植民地化を欧米列強は認めようとしなかった。それだけではなく、資源に乏しい日本の弱みにつけこんで孤立化を図った。これが日本が1931年の満州事変から太平洋戦争へと突入した原因だったと分析した。それにしても、そこにアジア人からみた欧米人への被差別意識があり、アジア人代表として「大東亜共栄圏樹立」、という日本によるお題目にも一定の支持はあったと分析する。ミアーズの優れたところは、アメリカ人の価値観ではなく、日本人の視点から見るとどうか、という点を徹底的に分析したことである。この本で感動的だったのは、ミアーズの日本軍の弱さ分析と、明治維新以降、日本がどのように列強に並べるように努力してきたかを歴史家として客観的に分析しているところ。歴史の事実なので知っているはずだったが、このような客観的に分析された記述には初めて出会った。
まずは日本占領の目的は、「日本が二度と侵略戦争を企てることがないように徹底的にその社会・経済システムから作り直すこと」。太平洋戦争開戦時にアメリカでは日本兵の勇猛性は徹底した精神教育から来ており、降伏することがないので最後の一兵まで戦う、だから本土に上陸してすべての兵隊を根絶やしにして立ち上がることができない状態にまで追い込まなければ戦争終結はない、と分析されていた。それは戦争中盤以降、そうでもない、日本兵も降伏する、日本兵も死は怖いのだ、ということを捕虜や日記から知ることになるが、硫黄島や沖縄戦闘が終わってもなお、本土上陸は100万人のアメリカ人将兵の犠牲があっても成し遂げなければならない、と主張する意見もあったという。国を罰する、ということと人を罰する、ということの違いについても言及している。人の価値観を変えるために、教育制度、宗教、葬式、婚姻の習慣、伝統芸能、礼儀作法などの端々にまで目を配り、戦前の精神教育の名残が再び頭をもたげないようにする必要があることも指摘している。これは博愛主義からは程遠く、日本国民の文明の抑圧であり、戦争の合法的行為をはるかに超えた懲罰であり拘束であることも指摘、本当にここまでのことをアメリカ人はできるのか、と自問自答しているのである。
アメリカが日本を罰しようとしてる犯罪とは、パールハーバーの一方的かつ計画的攻撃とその後の捕虜や被占領地域現地人殺人に対してである。それに対する日本の弁明は「自国の安全保障」のためであったとし、攻撃は「正当防衛だった」と。ミアーズはここに注目、満州事変以降の日本の中国、朝鮮、インドシナへの侵攻が、アメリカや西欧諸国がすでにそれまでに散々行ってきた植民地支配と支配国からの収奪と原則は変わらないのではないかと考える。つまり、西欧的価値観から作り上げられた作り物の法制度と、一度獲得した権益の維持の歴史と日本の行為を重ねあわせてみると、日本のやり方が稚拙であったことを除けば、根本的論理は同じであると。パールハーバーの一方的計画的攻撃はアメリカが主張するようにアメリカ本土の征服を企んでのことではなく、1941年のアメリカ、イギリス、オランダが打ち出した、「自国内にある日本資産、そして貿易と金融の凍結」が日本経済の窒息を招き、それが日本の暴発の原因を作ったと分析、1941年12月の日本による宣戦布告も数カ月前から予測され、3週間前には攻撃も予想されていたという。
太平洋戦争を始めた時の日本の経済力についても分析、潜在工業力はアメリカの10%、レーダーと通信技術は甚だしく貧弱であり、石油も不足、冷静に考えれば英米相手の戦争を長期に遂行できるような状態ではなかったはずと考える。実際に開戦後6ヶ月、ミッドウエイ開戦以降、日本海軍力は著しく低下、1943年からの太平洋諸島での戦闘は、アメリカ軍の敵は日本兵ではなく、その島々が持つ地形だったという。タヒチの七面鳥撃ち、と言われた話があるが、日本兵を攻撃するのは「動かないアヒル撃ち」だった、あまりに一方的な戦闘であり、戦闘に慣れ海兵隊員でさえ、気分が悪くなるような虐殺だったという。1945年3月以降はそれもなくなり、日本からの攻撃は「カミカゼ自爆」だけになり、沖縄戦では、アメリカ軍の艦船が沖合に停泊し、上陸をする、という状況でのカミカゼ自爆であったのにもかかわらず、成功確率は19%、優秀なパイロットはすでにいなかったと分析している。
歴史学者のミアーズはここから、「日本の視点」から歴史を分析、日本人が長い歴史を通じて「世界を征服」しようと考えたことはなく、他国に征服されたくはないための行動しかなかったことを分析してみせる。欧米各国も狭い日本に興味はなく、布教だけが16世紀以降に行われてきたと考えた。その頃の西欧諸国の関心は広い中国とインドにあった。そして中国で取れる資源の積み出し基地であり、補給基地として日本の価値が出てきたのが19世紀だった。一方、ロシアは太平洋側の不凍港獲得のため、満州、樺太、カムチャッカを目指し南進してきた。ロシアに領土的野心を感じた日本はロシアを仮想敵国と考えたのは当然であった。こうした状況で、日本を指導し、権益を確保しようとしたイギリスを始めとした西欧諸国は中国での特権を確保し、日本を貿易中継基地とするための努力をした。これは西欧諸国による日本改革であり教育だった。1850年台から始まったこの改革と教育は、日清戦争を経て1899年に不平等条約が見直され、1905年の日露戦争を経て、1919年に第一次大戦終結のパリ条約が締結されるまで行われた。この時に日本は米英仏伊とならぶ五大国と評価されこの約50年の教育期間を終えた。この本が書かれた1948年時点では中国はまだこの「卒業」を迎えていない。日本は西欧諸国の教え子としての優等生だった。日本が西欧諸国から学んだことは、西欧諸国側の法律を守り、権益を維持する努力だった。1919年の「卒業」以降、日本はその教えを忠実に守った。ミアーズは「国際関係のルールとは、暴力と貪欲を合法化したもの」と看破している。
ここで現代の我々はミアーズのように客観的に歴史と現在の日本の立ち位置を考えて見る必要がある。安全保障政策や自国を守る正当防衛について。「パールハーバ攻撃は自国安全保障のために日本の正当防衛だった」という当時の日本の主張をどう評価するか、今考えて見る必要がある。日本は敗戦し、東京裁判の結果を受け入れた。「もう二度と他国の侵略を行うような戦争はしない」ことを誓い、太平洋戦争後国際連合に参加し、戦争に負けた相手国であるアメリカと日米安全保障条約を締結した。アメリカが最重要のパートナーであることに異議を唱える日本人は今や圧倒的な少数派であり、日本の安全保障はアメリカの協力と国際連合での同意が大前提となっていることも事実。つまり、アメリカの世論に反するような主張を日本が行っても、アメリカには同意はされないし、米英仏ロ中という安全保障理事会で拒否権を持つ常任理事国の核心的利益に反する主張は通らない。ここを踏み外せば、日本は1930年以降の過ちを繰り返すことにつながる。日本国憲法はアメリカの押し付けだった、という主張があるが、それではどうするのか、という各論に入った途端、アメリカと常任理事国は警戒感を持つだろう。東京裁判でA級戦犯とされた戦争犯罪人は日本で裁かれたならば戦争犯罪人とは言えない、などと言い出せば国際社会からは一斉に非難されるだろう。靖国神社参拝問題はここに触れている。東京裁判のA級戦犯、そして太平洋戦争で戦った戦死者が合わせて祀られている神社に時の総理が参拝するのは、太平洋戦争で日本と戦った「連合国」、英語で言えばUnited Nationsという国際連合と同じ国々から見れば、どう映るであろうか。自国のために戦った戦士達の霊に祈ることは国のリーダーとして当然のこと、といくら言い繕っても、敢えて靖国参拝をする政治家の姿は、日本が1930年台の価値観を取り戻そうとしていると見えるはずである。しかし、ここに矛盾がある。つまり、A級だけではなくてB,C級戦犯もいるし、そういう視点から見れば日本の兵隊はすべて戦争犯罪人だったはずである。千鳥ヶ淵の施設に参拝てたとしても問題は残るし、合祀しようとしまいと、戦歿者慰霊はすべて戦前的価値観復活だと言われかねない。どうすればいいのか。
一方的な主張ではなく、諸外国にも納得されるような戦士慰霊の方法について、もっと徹底的に議論することが必要なはずであるのに、議論が途中で途切れてしまっていることが一番の問題である。靖国には遊就館という戦争を美化する施設もあることは有名である。分祀すればいい、国家的追悼施設を別に作ればいい、という意見に、「靖国で会おう」と約束して死んでいった戦士たちの遺族は納得しない、という説明があるが、「靖国で会おう」というのは戦前日本の誤った戦争教育の一環ではなかったのか。この説明は国際社会からの誤解を助長する。現状のままで政治家が靖国神社参拝を繰り返すことは、国際社会への説明義務の放棄であり無責任であろう。
一方、慰安婦問題で、日本が謝罪しない、という主張については日本政府の責任と道義的責任という二面性があるはずだ。軍隊は直接に慰安婦勧誘をしていない、という主張があり事実確認が必要だが、そんなことは表面的な話で、実質的には徴用された人たちには強要性が感じられたはずであり、軍も事実を知っていたはずだから。そしてその責任は、十分性の議論はあるものの形式的かつ経済的にも国家間で合意され、戦後解決された。これを蒸し返しても国際的ルールとしては有効性はないし、今の韓国政府の慰安婦問題に対する主張の根拠の弱さはここにある。しかし、道義的責任は残る。この反省を忘れないことは国家としても、国民としても重要ではないか。東南アジア諸国や太平洋戦争の戦勝国からみて、村山談話や河野談話は重要だったはずであり、日本の政府がそれを継承するという意思表示は必要なこと、その存在を薄める努力は国際社会からみて胡散臭く映ることであろう。
ミアーズの提示しているような客観的視点を政府のメンバーが持てるかどうか、これが国際社会で日本が尊敬される国になれるかどうかの分かれ目である。先日の首相による靖国参拝をアメリカ政府は「失望した」と表現した。遺憾である、ではなくdisappointed、これは指導してきた生徒に対して言うような表現であり、「アメリカの鏡・日本」の読者にはハッとする表現である。自己主張の表現方法が稚拙なのではないか、安倍晋三首相には、この本を読んで気がついてほしい。
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