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法隆寺五重塔・相輪の鎌のナゾを解く(産経新聞「なら再発見」第47回)

2013年09月28日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版などに好評連載中の「なら再発見」、今朝(9/28)のタイトルは「法隆寺五重塔の謎 相輪の鎌 雷除けの呪(まじな)い?」、筆者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」会員で、堺市在住の河井勇夫さんである。河井さんは最近、執筆メンバーに加わったばかりで、これがデビュー作である。では、全文を紹介する。

 法隆寺には「七不思議」が伝わる。南大門の鯛石▽3つの地下蔵▽五重塔の鎌▽夢殿の礼盤(らいばん 台)の裏が汗をかいている▽クモが巣を張らない▽池の蛙に片目がない▽雨だれの穴が地面に残らない―の7つだ。
 なかでもあまり知られていないのが、五重塔屋根の相輪(そうりん)にかかる4本の鎌だ。なぜ、こんなところに鎌が4本もかかっているのだろう。
 この鎌を作ったのは堺市にある水野鍛錬(たんれん)所だと聞き、4代目の水野康行さんを訪ねた。



 堺は16世紀後半、ポルトガルから伝来したタバコの葉を刻む包丁の製造で栄え、日本の刃物産業の中心地となった。同じ頃、種子島に伝わった鉄砲の製法が堺に伝えられ、堺は日本一の鉄砲産地にもなった。
 水野鍛錬所は、そんな伝統産業を今に引き継ぐ多くの刃物店や古い町並みの続く旧紀州街道に面して立つ。店構えはクラシックながら、小粋な鍛冶(かじ)屋の雰囲気である。
 店で水野さんは、その鎌を手に持たせてくれた。高さ約1.2メートルの鎌で、手に持つとずっしり重みを感じる。
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 水野家には「佐伯定胤(じょういん)五重塔鎌表白」という古文書が残されている。法隆寺123世管長だった佐伯定胤師が五重塔の鎌のいわれを書き残したもので、表白文の内容はおおよそ以下の通りだ。



佐伯定胤五重塔鎌表白

 鎌倉時代、五重塔に落雷があり、火災が発生した。幸い4人の大工が死を決して消し止めた。その時、西大寺の興正(こうしょう)菩薩・叡尊(えいそん)が駆けつけ、北室院に泊まり込んで対策を練った。
 叡尊は木簡に墨書して護符(お札)とし、五重塔の各層に安置するとともに、雷除けのため鉄の鎌4本を相輪最下部の四方にかけた。
 しかしその後600年を経た今(昭和22年当時)、4本の鎌がたった1本になっているのは大変残念だ。今回の大修理で本来の形に戻すため、堺の名匠・水野正範に鎌の製作を依頼する。
      *   *   *
 法隆寺では昭和9年に昭和の大修理が始まり、水野鍛錬所2代目の正範さんがその腕を見込まれて刀工として参加した。
 建物の解体修理のときに集められた古釘(ふるくぎ)を使い、鎌を鍛えて昭和27年に奉納した。鎌は魔物とされる雷を怖がらせる雷除けの呪(まじな)いのようだ。鎌は予備を含めて8本作られ、同鍛錬所にはあるのはそのうちの1本である。
 鍛錬所の奥には、昔ながらの工房が残されている。鞴(ふいご)を使い、代々伝わる鍛錬法に従って火造り・鍛造が行われる。五重塔の鎌も、その古式を踏まえて作られた。
 魔除けの鎌は300年ごとに作り変えられると伝わるが、水野さんによれば、それは正確でないようだ。
 この鎌は今後100年、200年にわたって法隆寺五重塔に燦然(さんぜん)と輝き、塔を守ってくれることだろう。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 河井勇夫)

堺市に住む河井さんが堺市の水野鍛錬所を取材することで、こんな興味深いお話を聞くことができた。ソムリエの会のメンバーのうち4分の1は県外在住(大阪、名古屋、東京など)なので、このネットワークを活かせば、今回のような取材もできるのだ。河井さん、興味深いお話を有難うございました。

コメント (2)
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