昨日(6/21)の奈良新聞に、嬉しいニュースが載っていた。見出しは《平城宮跡保存の先覚者 棚田嘉十郎(たなだ・かじゅうろう)を顕彰へ 財団職員が提案、市長も意欲》だ。記事によると
《きっかけは、市立南部公民館(同市生涯学習財団運営)施設長の上安董子さん(63)が今年4月、同館の書庫を整理中、「小説棚田嘉十郎 平城宮跡保存の先覚者」(中田善明著)という書物を見つけたこと》。
http://www.nara-np.co.jp/n_soc/080621/soc080621e.shtml
《「1300年祭で嘉十郎を顕彰してください」と本書を添えて藤原昭市長に手紙を出した》。その手紙が市長を動かし《具体的な検討が近く開始されるもようだ。市民との協働的な展開が期待されており、絶版となっている小説の復刻運動をはじめ、英訳活動、嘉十郎劇の上演など、いろいろなアイデアが出ている》。
第一次大極殿院(模型)
なお《嘉十郎は同市須川町の生まれ。奈良公園の植樹を担った植木職人で、たびたび上京して著名人の賛同に奔走。運動が軌道に乗ったところ、関係者の背任的行為に遭い、責任を痛感して自刃した。享年61歳。国の史跡指定はその翌年》。
私は『小説棚田嘉十郎』(1988年京都書院刊・定価1600円)を今年の2月に買って読んだ。絶版になったこの本を探すのに、上安さんは1か月もの間、古書店を回られたそうだが、私は幸運にも、Amazonのマーケットプレイスで、すぐに見つけることができた。
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4763640119/ref=dp_olp_2
嘉十郎は私財をなげうち、「大極殿狂人」と陰口をたたかれながらも、荒れ果てていた平城宮跡の整備と保存に奔走する。嘉十郎が保存運動に立ち上がる前の1900(明治33)年、大極殿跡の土壇に立った彼の様子が同書に描かれている。この年、彼は42歳であった。
《嘉十郎は驚いた。天皇が住居された跡にしては一面が田畑であり、大極殿の跡とされたところも、それらしき土壇があって納得されるものはあったが、その土壇は枯草で覆われ、農民の番小屋が建っていたり、牛が繋がれたまま放棄され、牛の糞(くそ)がところかまわず落とされていて、えもいわれぬ異臭を漂わせていたのである。「これは、恥ずかしい!」 大極殿の跡だといわれる土壇の上に立った時、嘉十郎は荒涼たる光景に眉をひそめると、思わず呟(つぶ)やいた》『小説棚田嘉十郎』 。
平城(なら)遷都祭2008(5/3 背後に見えるのが復元中の大極殿院)
奔走する嘉十郎は、貧困と疲労で失明の危機にまで追い込まれる(手術で3m先が見える程度には回復する)。構想実現まであと一歩のところで、怪しげな新興宗教団体の介入を許し、嘉十郎は自らの不明を悔いて自殺する。枕元には、保存運動に協力を得た陸軍中将、男爵、元奈良県知事、元奈良県内務部長などに宛てた遺書と辞世がしたためてあったという。
※参考:伝えたいふるさとの100話「1300年の時を経てよみがえった朱雀門」
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato062.htm
この本に感銘を受け、市長に手紙を書かれた上安さんのお気持ちは貴重なものだし、それに応えようとする藤原市長の態度も立派である。
朱雀門(5/3)
市長には嘉十郎翁の功績を顕彰すると同時に、現在、奈良の地域おこしに汗を流されている市民をバックアップできるような、何らかの支援策も期待したいと思う。
※冒頭の写真は、大極殿院跡を指さす嘉十郎翁(平城宮跡で09.6.24に再撮影)。私の読後感によれば、翁はこういう颯爽としたイメージではなく、貧困と失明と周囲の無理解と戦いながら、最後は無念の死を遂げた孤独な理想家であり、先覚者であった。合掌。
《きっかけは、市立南部公民館(同市生涯学習財団運営)施設長の上安董子さん(63)が今年4月、同館の書庫を整理中、「小説棚田嘉十郎 平城宮跡保存の先覚者」(中田善明著)という書物を見つけたこと》。
http://www.nara-np.co.jp/n_soc/080621/soc080621e.shtml
《「1300年祭で嘉十郎を顕彰してください」と本書を添えて藤原昭市長に手紙を出した》。その手紙が市長を動かし《具体的な検討が近く開始されるもようだ。市民との協働的な展開が期待されており、絶版となっている小説の復刻運動をはじめ、英訳活動、嘉十郎劇の上演など、いろいろなアイデアが出ている》。
第一次大極殿院(模型)
なお《嘉十郎は同市須川町の生まれ。奈良公園の植樹を担った植木職人で、たびたび上京して著名人の賛同に奔走。運動が軌道に乗ったところ、関係者の背任的行為に遭い、責任を痛感して自刃した。享年61歳。国の史跡指定はその翌年》。
私は『小説棚田嘉十郎』(1988年京都書院刊・定価1600円)を今年の2月に買って読んだ。絶版になったこの本を探すのに、上安さんは1か月もの間、古書店を回られたそうだが、私は幸運にも、Amazonのマーケットプレイスで、すぐに見つけることができた。
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4763640119/ref=dp_olp_2
嘉十郎は私財をなげうち、「大極殿狂人」と陰口をたたかれながらも、荒れ果てていた平城宮跡の整備と保存に奔走する。嘉十郎が保存運動に立ち上がる前の1900(明治33)年、大極殿跡の土壇に立った彼の様子が同書に描かれている。この年、彼は42歳であった。
《嘉十郎は驚いた。天皇が住居された跡にしては一面が田畑であり、大極殿の跡とされたところも、それらしき土壇があって納得されるものはあったが、その土壇は枯草で覆われ、農民の番小屋が建っていたり、牛が繋がれたまま放棄され、牛の糞(くそ)がところかまわず落とされていて、えもいわれぬ異臭を漂わせていたのである。「これは、恥ずかしい!」 大極殿の跡だといわれる土壇の上に立った時、嘉十郎は荒涼たる光景に眉をひそめると、思わず呟(つぶ)やいた》『小説棚田嘉十郎』 。
平城(なら)遷都祭2008(5/3 背後に見えるのが復元中の大極殿院)
奔走する嘉十郎は、貧困と疲労で失明の危機にまで追い込まれる(手術で3m先が見える程度には回復する)。構想実現まであと一歩のところで、怪しげな新興宗教団体の介入を許し、嘉十郎は自らの不明を悔いて自殺する。枕元には、保存運動に協力を得た陸軍中将、男爵、元奈良県知事、元奈良県内務部長などに宛てた遺書と辞世がしたためてあったという。
※参考:伝えたいふるさとの100話「1300年の時を経てよみがえった朱雀門」
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato062.htm
この本に感銘を受け、市長に手紙を書かれた上安さんのお気持ちは貴重なものだし、それに応えようとする藤原市長の態度も立派である。
朱雀門(5/3)
市長には嘉十郎翁の功績を顕彰すると同時に、現在、奈良の地域おこしに汗を流されている市民をバックアップできるような、何らかの支援策も期待したいと思う。
※冒頭の写真は、大極殿院跡を指さす嘉十郎翁(平城宮跡で09.6.24に再撮影)。私の読後感によれば、翁はこういう颯爽としたイメージではなく、貧困と失明と周囲の無理解と戦いながら、最後は無念の死を遂げた孤独な理想家であり、先覚者であった。合掌。
そうですね!官から民へ
平城遷都2011年で棚田嘉十郎翁と溝辺文四郎様の顕彰を民から発しましょう!
ありがとうございました。
飛鳥よしふみ
> 少数の心ある人達が、棚田翁の顕彰を、しなければと頑張って
> くださっておるように感じますが、どうも主催者側の指導者や
> 幹部の方々は、その気持ちが希薄では無いのかなと感じます。
うーん、それはどうでしょうか。以前、奈良市が嘉十郎翁を顕彰することに決めたという話を聞きました。ポスト1300年に、何か措置をされるものと期待しているのですが。
私の周囲には、当ブログ記事で嘉十郎翁のことをほ初めて知った、という人が多いです(あとは奈良検定のテキスト。10行ほどの記述があります)。われわれ「民」の方からも、盛り上げなければいけませんね。手はじめに、平城遷都祭2011で取り上げていただけるよう働きかけるとか。
さて、大変恐縮でありますが、少しだけ思いをお聞きくださいませ!
棚田嘉十郎翁は、「仮設トイレ程度で気を悪くされないのでは。」との事ですが、そうでしょうか。
私は思うのですが・・・・100年前は、周辺は水田や田畑との事で、荒れた地も有っただろうと思います。
また牛の糞は臭うでしょうが、糞は肥しでもありました。牛は貴重な労働力でした。
私も小さい頃には、田舎でありましたので田畑には、牛もおりましたし、肥溜めも良くありました。臭っていました。だからそれは、当たり前の事で我慢もできる事であると思います。
何より、平城京跡としての未開拓地でありましたでしょうから。
しかし・・・・・100年後の現在において、整備されたそこに意図的に設置する仮設トイレとその臭い、イメージ等とは、意味合いが違うのではと思います。
もちろん大極殿も建てられたし、周辺整備もされた事だし、翁は大変お喜びだと思います。
仮設トイレ位は、小さな事かもしれませんが、私は少数の心ある人達が、棚田翁の顕彰を、しなければと頑張ってくださっておるように感じますが、どうも主催者側の指導者や幹部の方々は、その気持ちが希薄では無いのかなと感じます。
因みに、オープニング等で、棚田嘉十郎翁の功績を称える何かしらのセレモニー等は有ったのでしょうか?あったのならば、大変嬉しい事だと思います。
皇太子殿下は、この大極殿の完成にあたり、棚田嘉十郎翁のお名前は出されておりませんが、「先人方々のご苦労に感謝します」とお言葉の中で触れられました。\(^o^)/
前人未到の功績を残された郷土の先人を敬う気持ちが強く有れば、仮設トイレ設置は場所的にしょうがないとしても、せめて目隠し程度の配慮は、簡単にできたと思います。
それが、残念に思いましたので・・・・・
偉そうな事を申し上げましたが、失礼をお許しください。
炎天下の中や、雨風の中での、ボランティアガイドさん達のご苦労に感謝いたし敬意を表します。お体を大切に頑張って頂きたく思います。
ありがとうございました。 敬具
飛鳥よしふみ より
> 特別の案内表示は無く、パンフにも掲載が特に見当たりませんでした。
確かにパンフレットには記載がなく、私も残念に思います。しかしガイドツアーのマニュアルには、次の通り記載されていますし、銅像の写真(A3版)も携帯し、適時お見せすることになっています。
《地元の植木商、棚田嘉十郎は、関野の論文に感銘を受け、平城京の保存運動をはじめる。棚田は明治時代に行われた平城遷都1200年祭でも中心的な役割を果たす。棚田は保存運動の半ばで自決してしまうが、棚田の死の翌年、大正11年には、平城宮跡が国の史跡に指定されることになる》。
翁が割腹自殺されたくだりをお話しすると、お客さんの中からどよめき起こりました。
> 銅像のバック背景は、20台位の仮設トイレに成っておりました。
嘉十郎翁が大極殿の基壇を初めて見たときは《土壇は枯草で覆われ、農民の番小屋が建っていたり、牛が繋がれたまま放棄され、牛の糞(くそ)がところかまわず落とされていて、えもいわれぬ異臭を漂わせていた》という状態でした。大極殿も建てられた今、仮設トイレ程度で気を悪くされないのでは。
さて、(tetsuda)さんと学園前信子さんのお話を詠んで、5月1日に、遷都祭2010に行きまして、棚田嘉十郎翁の銅像の周辺整備が出来ているのに感動しました。
しかし・・・1300年祭の特別の案内表示は無く、パンフにも掲載が特に見当たりませんでした。
それに、銅像のバック背景は、20台位の仮設トイレに成っておりました。情けない・・・
「仏作って魂を入れず」
1200年祭の功労者であり、地元の英雄であると思いますのに・・・この時に、地元の英雄を顕彰し、子供たちにも、この尊い行いがあったから、今の1300年祭があるんだと、伝えなければならないはずなのに・・・寂しい思いが致しました。残念です。
> 棚田氏のクローズアップが今後どしどし出てきて欲しいです!
全くその通りです。この棚田氏の銅像にしても、知っている人は驚くほど少ないです。もっと多くの方に知っていただきたいですね。今回の周辺整備で弾みがつくことを大いに期待しています。
こんなにもステキに編集して下さり、後押しして下さったお陰です!色々な形で、棚田氏のクローズアップが今後どしどし出てきて欲しいです!
歴史や文化に対する誇りと感謝の気持ちを持って頂けるような緑地スペースを整備する予定との返答を頂き
ました事、ご報告致します。
> もっと詳しく知りたいですがわかりません。ご先祖やご子孫
> の事など。幼少の頃の過ごし方とか、棚田家の事とか。
『小説棚田嘉十郎』にある程度のことは載っていますが、それ以上詳しくは…。なお、奈良市にお住まいの池田元次さんが、棚田嘉十郎に関するDVDを制作されました。無償でいただけるそうなので、一度お試し下さい。池田さんの電話番号は、0742(45)8613です。
※「私財投じ平城宮跡保存運動 棚田嘉十郎の功績DVDに」(産経新聞)
http://www.sankei-kansai.com/2009/09/23/20090923-014920.php
tetsuda様とこの奈良の同じ空気を吸っていると思うだけでも心和みます。合掌
> 私の心はトテモ爽やかです。tetsudasamaからの思わぬコメントを頂きました故。
それは光栄です。顕彰や小説の復刊がうまくいけば良いですね。
> 5才と6才の孫娘に残す財産は、悲しいかな一銭もなく、
> せめてこの奈良の歴史の事蹟をと奔走した次第です。
究極の相続対策は、財産を一銭も残さないことといいます。つまりモメる心配が一切ないから。モノでなくココロの財産を残されるのは、とても意義あることです。しかもその恩恵は、奈良市民、ひいては奈良県民すべてが享受できます。
1300年祭で、嘉十郎翁をしのぶ大がかりなイベントなどが登場すれば、良い情報提供になるのですが…。
> 思わぬお褒めの言葉を頂戴し、こそばい思いをしております。
> よくぞ生きる力をお与え下さり感謝感激です。有り難うございました。
私こそ、この記事で嘉十郎翁のことを再認識した次第です。ご本人からわざわざコメントをいただき、恐縮しています。
私も子供の副読本を読むまでは、嘉十郎翁のことは知りませんでした。顕彰を契機に、翁の業績や、ひいては保存運動の難しさが広く知られれば、とても意義のあることだと思います。
暑さはこれからが本番ですが、奈良公園ではサルスベリが咲き、燈花会などの行事も始まりますので、多くの人を奈良にお迎えすることになります。電車で平城宮跡を通りかかる方が、後で嘉十郎翁のことを知ったら驚くだろうな、と今から楽しみにしています。
> 奈良県の学校では教科書に載っていないとしても
> こういった事蹟をちゃんと教えているのでしょうか。
私は、子供の副読本(三碓小学校)で知りました。他に土倉庄三郎の話も出ていて、良い副読本だと感心しました。
> 今の奈良は彼への感謝の念がまだまだ足りないかもしれません。
> 嘉十郎翁の事蹟は歴史の奇蹟と云えるかもしれません。奈良にとっては
> 今では当たり前のことでもこれは類稀な幸運というべきでしょう。
その通りです。毎日電車の窓から眺めている風景が、文字通り命を張った翁の努力の賜だったのですから。今回の顕彰で、翁の功績が広く再認識されれば良いですね。
今の奈良は彼への感謝の念がまだまだ足りないかもしれません。
果たして奈良県の学校では教科書に載っていないとしてもこういった事蹟をちゃんと教えているのでしょうか。。。
歴史マニアしか知らないとしたら非常に残念なことです。
やはり地元に即した歴史教育の大事さを痛感いたします。
それにしても嘉十郎翁の事蹟は歴史の奇蹟と云えるかもしれません。
奈良にとっては今では当たり前のことでもこれは類稀な幸運というべきでしょう。