(写真)ルーブル美術館展看板にフェルメールが
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上野国立西洋美術館で、『ルーヴル美術館展』が開催されている。
サクラ見学で上野に行ったときに、そのポスター・看板に見たことのある絵が載っていた。なんとフェルメールだった。
フェルメール部分をアップすると『レースを編む女』だった。
知らなかったな~、気づかなかったな~
と反省をし、後日の花見で見に行くことにした。
(写真)『レースを編む女』(フェルメール、1669-70年頃の作品)
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待ち時間30分ということだったが、たっぷり40分は待った。
中に入ると、思い通りに進むことが出来ず、後戻りもしにくいような状況だった。
大部分の絵が、天使が空を飛んでいるような宗教画だったので、これらはほとんど遠くから肩越しで眺めてふ~んという感じでいた。
同じ17世紀頃の作品とはいえ旧教徒の国フランスと新教徒の国オランダとの絵の違いに驚き、嫌いというほど感情が刺激されるわけでもなく、見れども見えず、記憶に残らない絵だった。
『レースを編む女』は意外とはやいところにあった。しかし小さい。人を掻き分けて前に出るのが大変だ~。ここは人が動かない。
フェルメール 『レースを編む女』
(アンダーラインをクリック)
フェルメール(1632-1675)晩年の作であり、1669-1670年頃に制作された。サイズは、縦23.9×横20.5cmで現存する中で最も小さい絵だった。
フェルメール作と認められている33作品の中で、縦が100cmを越えるのはわずか4作品だけであり全体的に小さい作品が多い。しかしそれにしてもこの人ごみでは見えにくい。
ルーヴル美術館では、フェルメールの部屋があり『レースを編む女』と「天文学者」が展示されているが、部屋の大きさの割りに絵が小さいのでどこにあるのか気づくのに一瞬の間があるそうだ。
その小ささの割には、この絵は、妙に緊張感がある。
息を止めて見ないでも感じられるぐらいの緊張がある。
遠くからは見えないのに、視線が編み物をしている右手と左手の糸のありそうな場所に誘導される。
それから目を上げ、少女の顔を見るが、また少女の視線に誘導され手の間に何か見落としたものがあるかもわからないという気になり手元を見てしまう。
フェルメールの大好きなブルーと、イエローが消えていくから不思議だ。
ただあるのは、緊張感と編み物で過ぎ行く時間だけのようだ。
一心不乱は無の境地に導くというが、そんなことを会得した少女がキャンバスの中にいた。
左脇のクッションからは、白と赤の糸が飛び出ている。この赤糸を除くととたんに緊張感が弱まり良家の子女の自画像となってしまう。赤糸は編み物で失った時間やこの時間でできたコトの犠牲の様でもあり、流した血の様でもある。
この犠牲で得たものは集中力であり何ものかを成し遂げる推進力なのだろう。
編み物は、上流階級での子女のたしなみだった時代があったという。
1600年代のオランダでは、裕福な市民が増加したので、余暇の過ごし方の新しいスタイルが出来上がったのだろう。
編み物は、意識を集中させ、この時間を継続させないと出来上がらないし出来映えもよくならない。しかも家の中でやるので悪い虫がつく時間がなくなる。 この精神の集中と悪い虫予防が裕福な家庭にとって必要だったようだ。
日本でも、昭和の中ごろまではこの価値観があったようだ。バレンタインデーでレース編みのしおりをもらった時にこのことを知っていれば人生も大分変わったのだろう。今では、“安くていいものが買えるわよ!”という娘たちの一言で何も言えない親になってしまった。親だけはこの価値観をわかっていたいものだ。どこかで応用できるかもわからない。
ルーヴル美術館展には、40分待で入ったが、ほぼ30分で見終わった。
展示作品は70を超えていたが、見たいものが少なかった。だが収穫もあった。
ボタニカルアートの草分け的な絵で、「風景の見える石のアーチの中に置かれた花束」(アンブロシウス・ボスハールト、1619-1621年作)だ。
花が主役として絵画で登場したのは、ヤン・ブリューゲルの『木桶の花束』が1606年に描かれていて、これが最初ではないかと思うが、改めて取り上げることとする。
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上野国立西洋美術館で、『ルーヴル美術館展』が開催されている。
サクラ見学で上野に行ったときに、そのポスター・看板に見たことのある絵が載っていた。なんとフェルメールだった。
フェルメール部分をアップすると『レースを編む女』だった。
知らなかったな~、気づかなかったな~
と反省をし、後日の花見で見に行くことにした。
(写真)『レースを編む女』(フェルメール、1669-70年頃の作品)
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待ち時間30分ということだったが、たっぷり40分は待った。
中に入ると、思い通りに進むことが出来ず、後戻りもしにくいような状況だった。
大部分の絵が、天使が空を飛んでいるような宗教画だったので、これらはほとんど遠くから肩越しで眺めてふ~んという感じでいた。
同じ17世紀頃の作品とはいえ旧教徒の国フランスと新教徒の国オランダとの絵の違いに驚き、嫌いというほど感情が刺激されるわけでもなく、見れども見えず、記憶に残らない絵だった。
『レースを編む女』は意外とはやいところにあった。しかし小さい。人を掻き分けて前に出るのが大変だ~。ここは人が動かない。
フェルメール 『レースを編む女』
(アンダーラインをクリック)
フェルメール(1632-1675)晩年の作であり、1669-1670年頃に制作された。サイズは、縦23.9×横20.5cmで現存する中で最も小さい絵だった。
フェルメール作と認められている33作品の中で、縦が100cmを越えるのはわずか4作品だけであり全体的に小さい作品が多い。しかしそれにしてもこの人ごみでは見えにくい。
ルーヴル美術館では、フェルメールの部屋があり『レースを編む女』と「天文学者」が展示されているが、部屋の大きさの割りに絵が小さいのでどこにあるのか気づくのに一瞬の間があるそうだ。
その小ささの割には、この絵は、妙に緊張感がある。
息を止めて見ないでも感じられるぐらいの緊張がある。
遠くからは見えないのに、視線が編み物をしている右手と左手の糸のありそうな場所に誘導される。
それから目を上げ、少女の顔を見るが、また少女の視線に誘導され手の間に何か見落としたものがあるかもわからないという気になり手元を見てしまう。
フェルメールの大好きなブルーと、イエローが消えていくから不思議だ。
ただあるのは、緊張感と編み物で過ぎ行く時間だけのようだ。
一心不乱は無の境地に導くというが、そんなことを会得した少女がキャンバスの中にいた。
左脇のクッションからは、白と赤の糸が飛び出ている。この赤糸を除くととたんに緊張感が弱まり良家の子女の自画像となってしまう。赤糸は編み物で失った時間やこの時間でできたコトの犠牲の様でもあり、流した血の様でもある。
この犠牲で得たものは集中力であり何ものかを成し遂げる推進力なのだろう。
編み物は、上流階級での子女のたしなみだった時代があったという。
1600年代のオランダでは、裕福な市民が増加したので、余暇の過ごし方の新しいスタイルが出来上がったのだろう。
編み物は、意識を集中させ、この時間を継続させないと出来上がらないし出来映えもよくならない。しかも家の中でやるので悪い虫がつく時間がなくなる。 この精神の集中と悪い虫予防が裕福な家庭にとって必要だったようだ。
日本でも、昭和の中ごろまではこの価値観があったようだ。バレンタインデーでレース編みのしおりをもらった時にこのことを知っていれば人生も大分変わったのだろう。今では、“安くていいものが買えるわよ!”という娘たちの一言で何も言えない親になってしまった。親だけはこの価値観をわかっていたいものだ。どこかで応用できるかもわからない。
ルーヴル美術館展には、40分待で入ったが、ほぼ30分で見終わった。
展示作品は70を超えていたが、見たいものが少なかった。だが収穫もあった。
ボタニカルアートの草分け的な絵で、「風景の見える石のアーチの中に置かれた花束」(アンブロシウス・ボスハールト、1619-1621年作)だ。
花が主役として絵画で登場したのは、ヤン・ブリューゲルの『木桶の花束』が1606年に描かれていて、これが最初ではないかと思うが、改めて取り上げることとする。