メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No13
パリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)は、コロラドの南ロッキー山脈の美しい花々を発見した第一人者として知られている。
彼のプラントハンターのスタートは、1848年からの米国とメキシコの国境線調査(the United States and Mexican Boundary Survey 1848–1855)に外科医・植物学者として参加したところから始まる。
1846 年4 月25 日に勃発した米国・メキシコ間の戦争は、1848 年2 月2 日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約(Tratado de Guadalupe Hidalgo)の締結をもって終了した。この条約でメキシコはテキサス以西の北部領土を失い国土の約半分を失うことになる。
パリー25歳の時に参加したこの国境線周辺を調べるための調査は、陸軍の測量士・探検家で正確な地図を描くことで実績があるエモリー(Emory,William Hemsley 1811-1887)のリードで実施された。その報告書は、地図だけでなく古生物、動物学、植物学、地理など博物学的な内容を含んでいた。
この米国・メキシコ間の戦争があった1840年代以降は、アメリカのフロンティアの時代であり西部へ、南部へと領土が拡大し、地図作成とその地域の特性を把握する博物学的な探検の時代でもあった。
No9でとりあげたグレッグ(Josiah Gregg 1806 -1850)もこの時代に、メキシコからサンフランシスコまでの探検を行い、地図を作り植物を採取し新しい陸路の開拓をしたが、馬から落ちて怪我をした彼は仲間に見捨てられて死亡した。
専門性を持った若者が、自らの責任で未知を切り開いていける活躍する場が数多くあったアメリカ建設初期のいい時代でもあった。
パリーの生涯
パリーは、イングランド南西部にあるグロスターシアで生まれ、9歳の時の1832年に両親と共にアメリカに移住し最初はニューヨークに住んだ。
1842年にユニオン大学を修了し、コロンビア大学に進み医療と植物学の研究を行い1846年に博士号をもらった。このコロンビア大学で植物学者のトーリー(Torrey,John 1796-1873)及びその弟子のグレー(Gray,Asa 1810-1888)の影響を受けたことが後の彼の進路を決定する。何しろこの二人は、アメリカを代表する植物学者であり、パリーも植物学研究の中心にいたことになる。
この時代までの医学生は、薬を自ら作らなければならなかったので植物・薬草の勉強をする必要があったが、医者よりも植物を採取するほうに魅力を感じる者が多かったという。
パリーも、卒業後直ぐにアイオワ、ダベンポートに引越し短い間だけ外科医を開業した。が、外科医よりも野外での植物を収集することに関心があることが彼自身わかり、しかも、師匠のような学者を目指すのではなくフィールドワーカー(プラントハンター)の道に邁進することになる。
(写真)パリーの好んだスタイル、これで山歩きをした
(出典)Wisconsin Historical society
その手ほどきは外科医を辞め、1847年の中部アイオワの調査、1848年にウィスコンシンとミネソタの地勢調査にアシスタントとして参画することから始まり、この二つの調査の報告書は、当時の地質学の権威オーエン(Owen,David Dale 1807–1860)が1852年に取りまとめて発表し、この中にパリーのレポートが含まれているという。
この地勢調査の時に採取した植物を、恩師のトーリーに送ったところ、弟子のグレーに「パリーは素晴らしい植物を採取して標本を作る。」と書き送っているので、早くしてプラントハンターとしての技量・センスが認められた。
植物学者として一人立ちしたのが、1848年からの米国とメキシコの国境線調査(the United States and Mexican Boundary Survey 1848-1855)だが、何人かいる植物学者のうちの一人であり、1850年にはこの調査も目処が立ちパリーは暇になった。そこで彼は石炭を探しに出かけ、サンディエゴの北部にあるソルダッドバレー(Soledad Valley)で新しい松を発見した。
1850年6月30日に恩師のトーリーに手紙を書き、「もしこの松が新しい種ならば、貴方の名前をつけPinus Torreyanaとしたい。」という処世術も知っていたようだ。
この「トリーパイン(Torrey Pine)」は、世界でも珍しい松で、その数が3000本程度しかないというが、発見者のパリーと生息地のソルダッドバレーを有名にした。もちろん恩師のトーリーもだが。
その後パリーは、ダベンポートで外科医に戻ったが、南北戦争(1861-1865)の頃は,夏場はコロラドで過ごしシカゴイブニングジャーナルに植物誌を寄稿する。
1869-1871年には、イギリスの化学者スミソンが遺贈した基金によって1846年ワシントンに設立されたスミソニアン協会及び農務省の初めての植物学者として勤務し、1873年というから彼が50歳の時に、眠っていた魂がかき立てられロッキー山脈の中央に位置するイエローストーン(ちょうど前年の1872年にイエローストーン国立公園が設置される。)に探検旅行に行き、1878年にはメキシコを探検した。メキシコ探検は、6歳年下で似たような経歴を持つエドワード・パーマ(Edward Palmer1829-1911)と一緒に植物探索をした。(パーマに関しては後にとりあげる。)
パリーは、生涯で30,000以上のユニークな植物をカリフォルニア・コロラドなどで集め、最も優雅で美しいコロラドの山々の野生の草花・植物を記述する第一人者だった。
親交のあるキュー植物園の園長フッカー(Hooker,Joseph Dalton 1817 – 1911)からは“コロラドの植物の王”と称された。或いは、ロッキー山脈の美しい花々を紹介したので、“ロッキーの帝王”と言ってもいいのだろう。
晩年は、温厚で人にやさしく、植物学上の知見・標本などを独り占めしないで、求めるヒトには温かく支援したと言う。アーサー・グレーなどはこの恩恵に相当助けられたようだ。
アメリカの1800年代は、単なる冒険家・探検家ではなく科学的な国土の資源調査が求められた時期であり、軍人・冒険的な科学者がチームを組んで国土調査を実施した。
パリー、グレッグなどがその隠れた逸材であり再評価が進んでいるようだが、人間としても興味がわく。
荒野でのプラントハンティングに生死をかけるほどのめり込んでいたので、本質的には二人とも同じだと思うが、パリーは長生きした分丸くなったのだろうか?或いは、角が取れ丸くなった分長生きしたのだろうかとも思ってしまう。
パリーが採取したサルビア
キュー植物園のデータベースには4種のサルビアが記録され、ミズリー植物園のデータベースには、23種のサルビアを採取したとなっている。
その中から気になるサルビアをとりあげる。
(1)Salvia serpyllifolia Fernald (1900) サルビア・セルビリフォリア
(出典)Robins’s Salvias
「サルビア・セルビリフォリア」は、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシ(San Luis Potosí)の1850-2460 mの山中で「サルビア・ミクロフィラ」をも採取したパリーとパルマによって同じ場所で発見採取された。
当初は「パープルのミクロフィラ」と思われていたが、1900年に別種として米国の植物学者フェルナルド(Fernald, Merritt Lyndon 1873-1950)によってクリーピングタイム(Thymus serpyllum)に似た葉をしているのでserpyllifoliaと命名された。
そして育苗園では1990年頃に種から栽培されるようになったというが、日本ではまだあまり普及していない。
この赤味が入ったパープルは実に素晴らしい。これが、小さな光り輝く葉と一体になり横に広がる姿は見ごたえがありそうだ。開花期は夏から秋で、木質の60-90cmの樹高。
(2)Salvia amarissima Ortega (1797) サルビア・アマリッシマ
(出典)Iris' Tuin
メキシコ、サン・ルイス・ポトシで1878年パリー&パーマが採取。
受理された学名はSalvia circinnata Cav. (1797) ,類似Salvia polystachya Cav.(1791)
Salvia urica の近縁など帰属がまだ怪しげなところがあるが、確かに「サルビア・ウリカ」に似た花であり、ブルーの花に白いマークが入るのは美しい。草丈150㎝と大柄で、初夏から晩秋まで開花する。
最初に採取したのは、1785年にニュースペイン(=メキシコ)の植物園の園長になったスペインの植物学者セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)。
(3)Salvia glechomifolia Kunth (1818) サルビア・グレコミフォリア
(出典)Les Senteurs du Quercy
1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシでパリーとパーマが採取したが、最初の発見者は、フンボルトとボンプランのようだ。
草丈30cm程度で匍匐性があり、花穂を伸ばして花弁の中央に白い線が入ったヴァイオレッドブルーの小さな花を夏中咲かせる。葉に特色があり、種小名の“glechomifolia”は、 「グレコマ(Glechoma)」のような葉をしたを意味する。
(4)Salvia hirsuta Jacq.(1798) サルビア・ヒルスタ
(図)Illustration of Salvia hirsuta (Salvia hirta Kunth, )
(出典)Missouri Botanical Garden、Library
Plantarum rariorum horti caesarei Schoenbrunnensis descriptiones et icones|Opera et sumptibus Nicolai Josephi Jacquin. Volume 3 of 4
Illustration of Salvia hirsuta (Salvia hirta Kunth, )
「サルビア・ヒルスタ(Salvia hirsuta Jacq)」は、オーストリアの植物学者ジャカン(Jacquin ,Nikolaus Joseph von 1727-1817)の著作にイラストで描かれている。花は確かにシソ科特有の口唇型であり初夏から晩秋に開花するという。葉は丸みを帯びて草丈60㎝と書かれている。
ジャカンは、1755-1759年にマリー・アントワネットの父親に当たるフランシス一世の命でシェーンブルン宮殿の植物を集めるために西インド諸島と中央アメリカに行かされたので、この時に採取し「Salvia hirsuta」と1798年に命名した。
パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシでこの「サルビア・ヒルスタ」を採取しているが、実物の写真はなかなか見当たらなかったので、栽培種として現存しているのか疑問がありそうだ。
(5)Salvia nana Kunth (1818)サルビア・ナナ
(出典) Iris' Tuin
パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サンルイスポトシの山中でこの「サルビア・ナナ」を採取する。第一発見者はフンボルトとボンプランで、メキシコのサルビアシリーズNo7でとりあげたハートウェグもグアテマラで1841年に採取している。
花は、良く見ると(2)でとりあげた「Salvia glechomifolia 」に良く似ていて近縁種のようだ。さらに似ているのは、コスミックブルーセージと呼ばれる「サルビア・シナロエンシス(Salvia sinaloensis)」だ。
(6)Salvia puberula Fernald(1900) サルビア・プベルラ
(出典)Robin’s Salvias
パリーとパーマが1878年にメキシコ、サンルイスポトシの1850-2460 mの山中で採取した。
この種は、 「サルビア・インボルクラタ(Salvia involucrata)」そっくりであり、密接な関係がありそうだ。わずかな違いは葉の色のようであり、黄色味が強いライムイエロなのが「Salvia puberula」、緑色が強いライムグリーンなのが「Salvia involucrata」ということのようだが、どうも大きな違いではなさそうだ。
(7)Salvia regla Cav.(1799) サルビア・レグラ
(出典)Robin’s Salvias
パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシの山中でこの「サルビア・レグラ」を採取する。
直立性の樹高200㎝の落葉低木で、初夏から晩秋まで緋色の花が枝先につく。葉はハート型で光沢があり芳香がある。サルビアとしては大型であり、直立も珍しい。さすがにメキシコはサルビアの宝庫だ。
■パリーが採取したその他のサルビア
8.Salvia axillaris Moc. & Sessé ex Benth(1878)
・ メキシコ、サン・ルイス・ポトシで1878年パリー&パーマが採取。
・ サン・ルイス・ポトシからオアハカへの中部メキシコ原産の多年生植物で、草丈100㎝、花は小さな黒紫色の萼内部に隠される小さな白いチューブというから是非見たいと思ったが、見つけることが出来なかった。
9.Salvia chamaedryoides Cav. (1793)
・ ⇒「No11:ジャーマンダーセージとドイツの移民、シャフナー」参照
10.Salvia keerlii Benth. (1798)
・ ⇒「No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ」参照
11.Salvia laevis Benth.(1833)
12.Salvia mexicana L. (1753).
・⇒「No3:サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana )を発見したアンドリューの謎」参照
13.Salvia microphylla Kunth (1818)
・ ⇒「No2:大探検家が発見した サルビア・ミクロフィラ(Salvia microphylla)」
14.Salvia oresbia Fernald (1900)
・⇒「No11:ジャーマンダーセージとドイツの移民、シャフナー」参照
15.Salvia patens Cav. (1799).
・⇒「No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ」参照
16.Salvia tiliifolia Vahl(1794)
17.Salvia unicostata Fernald(1900)
※ 学名の表示:属名、種小名、命名者、( )内は命名された年
パリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)は、コロラドの南ロッキー山脈の美しい花々を発見した第一人者として知られている。
彼のプラントハンターのスタートは、1848年からの米国とメキシコの国境線調査(the United States and Mexican Boundary Survey 1848–1855)に外科医・植物学者として参加したところから始まる。
1846 年4 月25 日に勃発した米国・メキシコ間の戦争は、1848 年2 月2 日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約(Tratado de Guadalupe Hidalgo)の締結をもって終了した。この条約でメキシコはテキサス以西の北部領土を失い国土の約半分を失うことになる。
パリー25歳の時に参加したこの国境線周辺を調べるための調査は、陸軍の測量士・探検家で正確な地図を描くことで実績があるエモリー(Emory,William Hemsley 1811-1887)のリードで実施された。その報告書は、地図だけでなく古生物、動物学、植物学、地理など博物学的な内容を含んでいた。
この米国・メキシコ間の戦争があった1840年代以降は、アメリカのフロンティアの時代であり西部へ、南部へと領土が拡大し、地図作成とその地域の特性を把握する博物学的な探検の時代でもあった。
No9でとりあげたグレッグ(Josiah Gregg 1806 -1850)もこの時代に、メキシコからサンフランシスコまでの探検を行い、地図を作り植物を採取し新しい陸路の開拓をしたが、馬から落ちて怪我をした彼は仲間に見捨てられて死亡した。
専門性を持った若者が、自らの責任で未知を切り開いていける活躍する場が数多くあったアメリカ建設初期のいい時代でもあった。
パリーの生涯
パリーは、イングランド南西部にあるグロスターシアで生まれ、9歳の時の1832年に両親と共にアメリカに移住し最初はニューヨークに住んだ。
1842年にユニオン大学を修了し、コロンビア大学に進み医療と植物学の研究を行い1846年に博士号をもらった。このコロンビア大学で植物学者のトーリー(Torrey,John 1796-1873)及びその弟子のグレー(Gray,Asa 1810-1888)の影響を受けたことが後の彼の進路を決定する。何しろこの二人は、アメリカを代表する植物学者であり、パリーも植物学研究の中心にいたことになる。
この時代までの医学生は、薬を自ら作らなければならなかったので植物・薬草の勉強をする必要があったが、医者よりも植物を採取するほうに魅力を感じる者が多かったという。
パリーも、卒業後直ぐにアイオワ、ダベンポートに引越し短い間だけ外科医を開業した。が、外科医よりも野外での植物を収集することに関心があることが彼自身わかり、しかも、師匠のような学者を目指すのではなくフィールドワーカー(プラントハンター)の道に邁進することになる。
(写真)パリーの好んだスタイル、これで山歩きをした
(出典)Wisconsin Historical society
その手ほどきは外科医を辞め、1847年の中部アイオワの調査、1848年にウィスコンシンとミネソタの地勢調査にアシスタントとして参画することから始まり、この二つの調査の報告書は、当時の地質学の権威オーエン(Owen,David Dale 1807–1860)が1852年に取りまとめて発表し、この中にパリーのレポートが含まれているという。
この地勢調査の時に採取した植物を、恩師のトーリーに送ったところ、弟子のグレーに「パリーは素晴らしい植物を採取して標本を作る。」と書き送っているので、早くしてプラントハンターとしての技量・センスが認められた。
植物学者として一人立ちしたのが、1848年からの米国とメキシコの国境線調査(the United States and Mexican Boundary Survey 1848-1855)だが、何人かいる植物学者のうちの一人であり、1850年にはこの調査も目処が立ちパリーは暇になった。そこで彼は石炭を探しに出かけ、サンディエゴの北部にあるソルダッドバレー(Soledad Valley)で新しい松を発見した。
1850年6月30日に恩師のトーリーに手紙を書き、「もしこの松が新しい種ならば、貴方の名前をつけPinus Torreyanaとしたい。」という処世術も知っていたようだ。
この「トリーパイン(Torrey Pine)」は、世界でも珍しい松で、その数が3000本程度しかないというが、発見者のパリーと生息地のソルダッドバレーを有名にした。もちろん恩師のトーリーもだが。
その後パリーは、ダベンポートで外科医に戻ったが、南北戦争(1861-1865)の頃は,夏場はコロラドで過ごしシカゴイブニングジャーナルに植物誌を寄稿する。
1869-1871年には、イギリスの化学者スミソンが遺贈した基金によって1846年ワシントンに設立されたスミソニアン協会及び農務省の初めての植物学者として勤務し、1873年というから彼が50歳の時に、眠っていた魂がかき立てられロッキー山脈の中央に位置するイエローストーン(ちょうど前年の1872年にイエローストーン国立公園が設置される。)に探検旅行に行き、1878年にはメキシコを探検した。メキシコ探検は、6歳年下で似たような経歴を持つエドワード・パーマ(Edward Palmer1829-1911)と一緒に植物探索をした。(パーマに関しては後にとりあげる。)
パリーは、生涯で30,000以上のユニークな植物をカリフォルニア・コロラドなどで集め、最も優雅で美しいコロラドの山々の野生の草花・植物を記述する第一人者だった。
親交のあるキュー植物園の園長フッカー(Hooker,Joseph Dalton 1817 – 1911)からは“コロラドの植物の王”と称された。或いは、ロッキー山脈の美しい花々を紹介したので、“ロッキーの帝王”と言ってもいいのだろう。
晩年は、温厚で人にやさしく、植物学上の知見・標本などを独り占めしないで、求めるヒトには温かく支援したと言う。アーサー・グレーなどはこの恩恵に相当助けられたようだ。
アメリカの1800年代は、単なる冒険家・探検家ではなく科学的な国土の資源調査が求められた時期であり、軍人・冒険的な科学者がチームを組んで国土調査を実施した。
パリー、グレッグなどがその隠れた逸材であり再評価が進んでいるようだが、人間としても興味がわく。
荒野でのプラントハンティングに生死をかけるほどのめり込んでいたので、本質的には二人とも同じだと思うが、パリーは長生きした分丸くなったのだろうか?或いは、角が取れ丸くなった分長生きしたのだろうかとも思ってしまう。
パリーが採取したサルビア
キュー植物園のデータベースには4種のサルビアが記録され、ミズリー植物園のデータベースには、23種のサルビアを採取したとなっている。
その中から気になるサルビアをとりあげる。
(1)Salvia serpyllifolia Fernald (1900) サルビア・セルビリフォリア
(出典)Robins’s Salvias
「サルビア・セルビリフォリア」は、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシ(San Luis Potosí)の1850-2460 mの山中で「サルビア・ミクロフィラ」をも採取したパリーとパルマによって同じ場所で発見採取された。
当初は「パープルのミクロフィラ」と思われていたが、1900年に別種として米国の植物学者フェルナルド(Fernald, Merritt Lyndon 1873-1950)によってクリーピングタイム(Thymus serpyllum)に似た葉をしているのでserpyllifoliaと命名された。
そして育苗園では1990年頃に種から栽培されるようになったというが、日本ではまだあまり普及していない。
この赤味が入ったパープルは実に素晴らしい。これが、小さな光り輝く葉と一体になり横に広がる姿は見ごたえがありそうだ。開花期は夏から秋で、木質の60-90cmの樹高。
(2)Salvia amarissima Ortega (1797) サルビア・アマリッシマ
(出典)Iris' Tuin
メキシコ、サン・ルイス・ポトシで1878年パリー&パーマが採取。
受理された学名はSalvia circinnata Cav. (1797) ,類似Salvia polystachya Cav.(1791)
Salvia urica の近縁など帰属がまだ怪しげなところがあるが、確かに「サルビア・ウリカ」に似た花であり、ブルーの花に白いマークが入るのは美しい。草丈150㎝と大柄で、初夏から晩秋まで開花する。
最初に採取したのは、1785年にニュースペイン(=メキシコ)の植物園の園長になったスペインの植物学者セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)。
(3)Salvia glechomifolia Kunth (1818) サルビア・グレコミフォリア
(出典)Les Senteurs du Quercy
1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシでパリーとパーマが採取したが、最初の発見者は、フンボルトとボンプランのようだ。
草丈30cm程度で匍匐性があり、花穂を伸ばして花弁の中央に白い線が入ったヴァイオレッドブルーの小さな花を夏中咲かせる。葉に特色があり、種小名の“glechomifolia”は、 「グレコマ(Glechoma)」のような葉をしたを意味する。
(4)Salvia hirsuta Jacq.(1798) サルビア・ヒルスタ
(図)Illustration of Salvia hirsuta (Salvia hirta Kunth, )
(出典)Missouri Botanical Garden、Library
Plantarum rariorum horti caesarei Schoenbrunnensis descriptiones et icones|Opera et sumptibus Nicolai Josephi Jacquin. Volume 3 of 4
Illustration of Salvia hirsuta (Salvia hirta Kunth, )
「サルビア・ヒルスタ(Salvia hirsuta Jacq)」は、オーストリアの植物学者ジャカン(Jacquin ,Nikolaus Joseph von 1727-1817)の著作にイラストで描かれている。花は確かにシソ科特有の口唇型であり初夏から晩秋に開花するという。葉は丸みを帯びて草丈60㎝と書かれている。
ジャカンは、1755-1759年にマリー・アントワネットの父親に当たるフランシス一世の命でシェーンブルン宮殿の植物を集めるために西インド諸島と中央アメリカに行かされたので、この時に採取し「Salvia hirsuta」と1798年に命名した。
パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシでこの「サルビア・ヒルスタ」を採取しているが、実物の写真はなかなか見当たらなかったので、栽培種として現存しているのか疑問がありそうだ。
(5)Salvia nana Kunth (1818)サルビア・ナナ
(出典) Iris' Tuin
パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サンルイスポトシの山中でこの「サルビア・ナナ」を採取する。第一発見者はフンボルトとボンプランで、メキシコのサルビアシリーズNo7でとりあげたハートウェグもグアテマラで1841年に採取している。
花は、良く見ると(2)でとりあげた「Salvia glechomifolia 」に良く似ていて近縁種のようだ。さらに似ているのは、コスミックブルーセージと呼ばれる「サルビア・シナロエンシス(Salvia sinaloensis)」だ。
(6)Salvia puberula Fernald(1900) サルビア・プベルラ
(出典)Robin’s Salvias
パリーとパーマが1878年にメキシコ、サンルイスポトシの1850-2460 mの山中で採取した。
この種は、 「サルビア・インボルクラタ(Salvia involucrata)」そっくりであり、密接な関係がありそうだ。わずかな違いは葉の色のようであり、黄色味が強いライムイエロなのが「Salvia puberula」、緑色が強いライムグリーンなのが「Salvia involucrata」ということのようだが、どうも大きな違いではなさそうだ。
(7)Salvia regla Cav.(1799) サルビア・レグラ
(出典)Robin’s Salvias
パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシの山中でこの「サルビア・レグラ」を採取する。
直立性の樹高200㎝の落葉低木で、初夏から晩秋まで緋色の花が枝先につく。葉はハート型で光沢があり芳香がある。サルビアとしては大型であり、直立も珍しい。さすがにメキシコはサルビアの宝庫だ。
■パリーが採取したその他のサルビア
8.Salvia axillaris Moc. & Sessé ex Benth(1878)
・ メキシコ、サン・ルイス・ポトシで1878年パリー&パーマが採取。
・ サン・ルイス・ポトシからオアハカへの中部メキシコ原産の多年生植物で、草丈100㎝、花は小さな黒紫色の萼内部に隠される小さな白いチューブというから是非見たいと思ったが、見つけることが出来なかった。
9.Salvia chamaedryoides Cav. (1793)
・ ⇒「No11:ジャーマンダーセージとドイツの移民、シャフナー」参照
10.Salvia keerlii Benth. (1798)
・ ⇒「No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ」参照
11.Salvia laevis Benth.(1833)
12.Salvia mexicana L. (1753).
・⇒「No3:サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana )を発見したアンドリューの謎」参照
13.Salvia microphylla Kunth (1818)
・ ⇒「No2:大探検家が発見した サルビア・ミクロフィラ(Salvia microphylla)」
14.Salvia oresbia Fernald (1900)
・⇒「No11:ジャーマンダーセージとドイツの移民、シャフナー」参照
15.Salvia patens Cav. (1799).
・⇒「No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ」参照
16.Salvia tiliifolia Vahl(1794)
17.Salvia unicostata Fernald(1900)
※ 学名の表示:属名、種小名、命名者、( )内は命名された年