メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No14
No13にパリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)と一緒にメキシコを探検したパーマー(Palmer,Edward 1831-1911)をここでとりあげるが、比較して読んでもらうと似ているが対照的な人物であることがわかる。
欧米の文献では、パーマーのことを“アマチュアのプラントハンター”と記述しているのによく出会う。この指摘が何に基づくのかがよくわからない。
ミドルネームがわからないためなのか?
庭師からスタートしなかったためなのか?
植物採取専業でなかったためなのか?
或いは、パリーのように医学・植物学を学んでスタートしなかったためなのだろうか?
大きな違いは、パリーは豊かであったためストレートに目標を達成したが、パーマーは貧しかったために遠回りをし、80歳まで長生きしたがゆえに晩年にやっとプラントハンターにたどり着いた。という違いがある。
パーマーの生い立ち
エドワード・パーマー(Palmer,Edward 1831-1911)は、生まれが1829年という説もあり生い立ちが良くわからない。1831年1月12日生れたという説に従うと、彼はイングランド、ノーホォークの庭師の家に生まれ、18才の時の1849年にアメリカ合衆国に移住し、オハイオ州クリーブランドに引っ越した。
そこで、彼は著名な医者・ナチュラリスト・園芸家で1843年設立のクリーブランド医科大学の創設者の一人でもあるコイトランド(Kirtland ,Jared Potter 1793-1877)と出会い、ナチュラリストとしての生き方に強い影響を受けたという。
(写真)パーマーの肖像画
(出典) Harvard University Library
パーマの最初のチャンス
パーマーの最初のチャンスは、彼が22歳の1853年にやってきた。
当時の米国の状況を整理しておくと、米国は、1823年のモンロー宣言でヨーロッパ大陸とアメリカ大陸との相互不干渉を唱え、ヨーロッパ諸国の植民地からの独立戦争が勃発していたラテンアメリカへのヨーロッパ勢力の介入を阻止するいわゆる孤立主義的政策が100年間続くことになる。
この政策の背景には、1803年にナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収、1818年イギリスとの間で旧仏領ルイジアナの一部と英領カナダの一部を交換、1819年スペインから南部のフロリダを購入、1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合して領土は太平洋に到達した。
さらに、メキシコとの間での米墨戦争によって1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1858年にさらにメキシコ北部を買収し、人が棲まない広大な領土を獲得した。つまり、南アメリカ大陸を含めてこの権益を守れば十分に成長できるというフロンティアがあった。
孤立主義を唱えながらも一方で、ヨーロッパ勢力が十分に進出していない東アジア(中国・韓国・日本)へも威嚇外交を行い、ペリー提督が浦賀に黒船4隻を引き連れてやってきたのもこの時代の1853年7月8日だった。
ところでパーマーの最初のチャンスだが、キャプテン、ペイジ(Page, Thomas Jefferson,1808-1899)によるパラグアイの水路探検隊(1853-1855)に、看護班の看護士及び植物採取人として加わったことだ。
ペイジ中尉が指揮する米海軍の軍艦Water Witch号は、1853年2月8日にパラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンの河川の水路を調査する目的でノフォーク港を出港した。
他国の河川の水路を調査すること自体侵略であるが、さらに米国にとって好都合だったのは、1855年2月にリオデラプラタ川を調査中のWater Witch号が、パラグアイの砦守備隊によって砲撃を受け、舵手の Samuel Chaneyが殺されたことだ。
Water Witch号は、1856年5月8日に修理のためにワシントン海軍ヤードに戻ったが、戦争かしからずんばお詫びかの岐路にたったのはパラグアイで、結局米国に屈服し遺族への賠償と米国に有利な通商条約を1859年に締結することになった。
米国にとっては商圏の拡大が、パーマーにとっては陸路を合流地点であるリオデラプラタまで植物・昆虫・動物などを採取して旅したので、プラントハンターとしての実地訓練がこの探検隊で獲得した。
余談だが、キャプテンのペイジ中尉は、このパラグアイ探検隊がなければ、ペリー提督とともに浦賀に来ていた可能性が高かったようだ。日本に来た黒船4隻のうちの一つであるプリマス号の指揮官であり直前まで中国海域でこの船に乗船していた。
ダブルキャリアコースを歩むパーマー
パラグアイ探検隊から帰国したパーマーは、学費を稼いだことによるのか、或いは、探検隊で経験した専門性を深めるためなのか1856年彼が33歳の時にクリーブランドのホメオパシック大学で学び翌年に医学博士号を取得した。その後、医者を開業したが、南北戦争(1861-1865)が始まった翌年の1862年にアメリカ陸軍に加わって、1868年までアシスタント外科医として勤めた。
パーマーが植物採取をスタートするのは陸軍除隊後の1869年からで、46歳になっているパーマーに、米国農務省がアシスタント科学担当とプロフェショナル・コレクターのポジションを提供した時から始まる。しかしまだこの頃は、植物に特化していないで農務省のミッションで動いていた。
農務省初の植物学者に任命されたのがパリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)なので、この時に上下関係が出来たのだろう。パーリーとパーマーがメキシコ探検をするのは1878年のことだった。
しかしパーマーは、まだ植物採取だけに絞り込んではいなかった。1882-1884年はスミソニアン協会に勤め、アメリカ原住民の埋葬塚のリサーチを行い、独自の文化を持っていた民族であるという報告書を作成し、アメリカ原住民が劣っているという人種差別的な見方を否定した。これは画期的なことであったようで、アメリカの民俗学の草分け的な存在となった。
プラントハンターとしてのパーマーの活動
パーマーの植物採取活動は、1869年、彼が38歳の時に陸軍除隊後から始まる。
1875年にメキシコチワワの北部にあるガダルーペで採取活動をし、ここからメキシコとテキサスにプラントハンティングの場を絞り込むようになる。
そして、彼は、メキシコと南西アメリカで多数の植物を採取し、その数100,000と言われ、その中には、1000以上の新種が含まれる。
これだけ数多くの植物を採取したのに、“偉大なアマチュア”といわれるのは理解しがたい。が、この道一筋で悲惨な死を迎えたフランシスマッソン、フォーレスト、グレッグなどに敬意を表したいが為の区別がなされたのだろう。
この晩年の活動を支えたのは、それまでに農務省、スミソニアン協会などの定職を持ち培ってきたネットワークを活用し、ハーバード大学、スミソニアン協会、英国の植物園・博物館などをスポンサーにして植物標本を売ることで生計を支えてきたので、長期的生活設計を持った堅実な新しいタイプのプラントハンターだと思う。しかもシニアからの現役プラントハンターでもある。
その足跡を眺めるために、以下、植物を採取した記録が残されているところをキュー植物園のデータからピックアップした。
・ 1878年(47歳):メキシコ、サン・ルイス・ポトシ(パリーと一緒)
・ 1880年:Coahuila. Nuevo León、Saltillo、Sierra Madre、Monterrey、Parras、
・ 1885年:Chihuahua、
・ 1886年(55歳):Jalisco、Rio Blanco、Tequila
・ 1887年:Sonora、Guaymas、Mulege、Sur=Mexico、
・ 1888年:United States.
・ 1889年:Guadalupe I.、Sur=Mexico、
・ 1890年:La Paz 、Baja California Sur. La Paz、Sonora、Carmen Island、
・ 1891年(60歳):Colima.、Manzanillo、
・ 1894年:Saltillo、Guerrero、Acapulco、
・ 1896年:Durango、Santiago Papasquiaro、
・ 1898年:Mexico. Saltillo 、Coahuila、Torreno、Mapimi、
・ 1904年:San Luis Potosí、Rioverde、Zacatecas、Coahuila.、
・ 1906年(75歳):Tepehuanes、
・ 1907年:Tamaulipas.
・ 1908年:Chihuahua、
・ 1910年:Tampico、Tamaulipas、Veracruz、
パーマーが採取したサルビア
(次号に掲載)
No13にパリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)と一緒にメキシコを探検したパーマー(Palmer,Edward 1831-1911)をここでとりあげるが、比較して読んでもらうと似ているが対照的な人物であることがわかる。
欧米の文献では、パーマーのことを“アマチュアのプラントハンター”と記述しているのによく出会う。この指摘が何に基づくのかがよくわからない。
ミドルネームがわからないためなのか?
庭師からスタートしなかったためなのか?
植物採取専業でなかったためなのか?
或いは、パリーのように医学・植物学を学んでスタートしなかったためなのだろうか?
大きな違いは、パリーは豊かであったためストレートに目標を達成したが、パーマーは貧しかったために遠回りをし、80歳まで長生きしたがゆえに晩年にやっとプラントハンターにたどり着いた。という違いがある。
パーマーの生い立ち
エドワード・パーマー(Palmer,Edward 1831-1911)は、生まれが1829年という説もあり生い立ちが良くわからない。1831年1月12日生れたという説に従うと、彼はイングランド、ノーホォークの庭師の家に生まれ、18才の時の1849年にアメリカ合衆国に移住し、オハイオ州クリーブランドに引っ越した。
そこで、彼は著名な医者・ナチュラリスト・園芸家で1843年設立のクリーブランド医科大学の創設者の一人でもあるコイトランド(Kirtland ,Jared Potter 1793-1877)と出会い、ナチュラリストとしての生き方に強い影響を受けたという。
(写真)パーマーの肖像画
(出典) Harvard University Library
パーマの最初のチャンス
パーマーの最初のチャンスは、彼が22歳の1853年にやってきた。
当時の米国の状況を整理しておくと、米国は、1823年のモンロー宣言でヨーロッパ大陸とアメリカ大陸との相互不干渉を唱え、ヨーロッパ諸国の植民地からの独立戦争が勃発していたラテンアメリカへのヨーロッパ勢力の介入を阻止するいわゆる孤立主義的政策が100年間続くことになる。
この政策の背景には、1803年にナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収、1818年イギリスとの間で旧仏領ルイジアナの一部と英領カナダの一部を交換、1819年スペインから南部のフロリダを購入、1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合して領土は太平洋に到達した。
さらに、メキシコとの間での米墨戦争によって1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1858年にさらにメキシコ北部を買収し、人が棲まない広大な領土を獲得した。つまり、南アメリカ大陸を含めてこの権益を守れば十分に成長できるというフロンティアがあった。
孤立主義を唱えながらも一方で、ヨーロッパ勢力が十分に進出していない東アジア(中国・韓国・日本)へも威嚇外交を行い、ペリー提督が浦賀に黒船4隻を引き連れてやってきたのもこの時代の1853年7月8日だった。
ところでパーマーの最初のチャンスだが、キャプテン、ペイジ(Page, Thomas Jefferson,1808-1899)によるパラグアイの水路探検隊(1853-1855)に、看護班の看護士及び植物採取人として加わったことだ。
ペイジ中尉が指揮する米海軍の軍艦Water Witch号は、1853年2月8日にパラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンの河川の水路を調査する目的でノフォーク港を出港した。
他国の河川の水路を調査すること自体侵略であるが、さらに米国にとって好都合だったのは、1855年2月にリオデラプラタ川を調査中のWater Witch号が、パラグアイの砦守備隊によって砲撃を受け、舵手の Samuel Chaneyが殺されたことだ。
Water Witch号は、1856年5月8日に修理のためにワシントン海軍ヤードに戻ったが、戦争かしからずんばお詫びかの岐路にたったのはパラグアイで、結局米国に屈服し遺族への賠償と米国に有利な通商条約を1859年に締結することになった。
米国にとっては商圏の拡大が、パーマーにとっては陸路を合流地点であるリオデラプラタまで植物・昆虫・動物などを採取して旅したので、プラントハンターとしての実地訓練がこの探検隊で獲得した。
余談だが、キャプテンのペイジ中尉は、このパラグアイ探検隊がなければ、ペリー提督とともに浦賀に来ていた可能性が高かったようだ。日本に来た黒船4隻のうちの一つであるプリマス号の指揮官であり直前まで中国海域でこの船に乗船していた。
ダブルキャリアコースを歩むパーマー
パラグアイ探検隊から帰国したパーマーは、学費を稼いだことによるのか、或いは、探検隊で経験した専門性を深めるためなのか1856年彼が33歳の時にクリーブランドのホメオパシック大学で学び翌年に医学博士号を取得した。その後、医者を開業したが、南北戦争(1861-1865)が始まった翌年の1862年にアメリカ陸軍に加わって、1868年までアシスタント外科医として勤めた。
パーマーが植物採取をスタートするのは陸軍除隊後の1869年からで、46歳になっているパーマーに、米国農務省がアシスタント科学担当とプロフェショナル・コレクターのポジションを提供した時から始まる。しかしまだこの頃は、植物に特化していないで農務省のミッションで動いていた。
農務省初の植物学者に任命されたのがパリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)なので、この時に上下関係が出来たのだろう。パーリーとパーマーがメキシコ探検をするのは1878年のことだった。
しかしパーマーは、まだ植物採取だけに絞り込んではいなかった。1882-1884年はスミソニアン協会に勤め、アメリカ原住民の埋葬塚のリサーチを行い、独自の文化を持っていた民族であるという報告書を作成し、アメリカ原住民が劣っているという人種差別的な見方を否定した。これは画期的なことであったようで、アメリカの民俗学の草分け的な存在となった。
プラントハンターとしてのパーマーの活動
パーマーの植物採取活動は、1869年、彼が38歳の時に陸軍除隊後から始まる。
1875年にメキシコチワワの北部にあるガダルーペで採取活動をし、ここからメキシコとテキサスにプラントハンティングの場を絞り込むようになる。
そして、彼は、メキシコと南西アメリカで多数の植物を採取し、その数100,000と言われ、その中には、1000以上の新種が含まれる。
これだけ数多くの植物を採取したのに、“偉大なアマチュア”といわれるのは理解しがたい。が、この道一筋で悲惨な死を迎えたフランシスマッソン、フォーレスト、グレッグなどに敬意を表したいが為の区別がなされたのだろう。
この晩年の活動を支えたのは、それまでに農務省、スミソニアン協会などの定職を持ち培ってきたネットワークを活用し、ハーバード大学、スミソニアン協会、英国の植物園・博物館などをスポンサーにして植物標本を売ることで生計を支えてきたので、長期的生活設計を持った堅実な新しいタイプのプラントハンターだと思う。しかもシニアからの現役プラントハンターでもある。
その足跡を眺めるために、以下、植物を採取した記録が残されているところをキュー植物園のデータからピックアップした。
・ 1878年(47歳):メキシコ、サン・ルイス・ポトシ(パリーと一緒)
・ 1880年:Coahuila. Nuevo León、Saltillo、Sierra Madre、Monterrey、Parras、
・ 1885年:Chihuahua、
・ 1886年(55歳):Jalisco、Rio Blanco、Tequila
・ 1887年:Sonora、Guaymas、Mulege、Sur=Mexico、
・ 1888年:United States.
・ 1889年:Guadalupe I.、Sur=Mexico、
・ 1890年:La Paz 、Baja California Sur. La Paz、Sonora、Carmen Island、
・ 1891年(60歳):Colima.、Manzanillo、
・ 1894年:Saltillo、Guerrero、Acapulco、
・ 1896年:Durango、Santiago Papasquiaro、
・ 1898年:Mexico. Saltillo 、Coahuila、Torreno、Mapimi、
・ 1904年:San Luis Potosí、Rioverde、Zacatecas、Coahuila.、
・ 1906年(75歳):Tepehuanes、
・ 1907年:Tamaulipas.
・ 1908年:Chihuahua、
・ 1910年:Tampico、Tamaulipas、Veracruz、
パーマーが採取したサルビア
(次号に掲載)
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