tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

YOU SAY “YES.” ...

2009-12-24 22:50:34 | 港町 YOKOHAMA

 If you think saying “NO” is tough,. JUST WAIT 'TIL. YOU SAY “YES.” ...

1534年の4月のことだった。フランス国王フランソワ1世の命により、2隻の船でサンマロを出航。当時、豊かな中国やインドに至る北西航路の開発のため、大西洋を横断する冒険に乗り出した男の名はジャック・カルティエと言った。
北西航路は19世紀まで見つかることはなかったのだが、この探索の過程で北アメリカ大陸の海岸部が明らかとなってゆき、北アメリカの東海岸にヨーロッパ人たちは植民地を築き始めたのだった。

カナダへの最初の航海を行ったジャック・カルティエは、セントローレンス湾を横断してプリンス・エドワード島、マドレーヌ島、モントリオール島などを発見。
ガスペ半島の東端に到達し、セントローレンス川の河口付近を探検して、一帯を「ヌーベル・フランス」と命名した。
後のフランスによるカナダ領有の基礎を築いたのだ。

ジャック・カルティエが遡上した湾は、Saint-laurent(セントローレンス)と名づけられた。
ジャック・カルティエは、原住民から更に北に黄金の地サグェナイ王国(Royaume du Saguenay)があるということを知り、その後、2度、カナダを探検している。
しかし、彼は結局、アジアへの航路も発見出来なかったし、新しい土地で金や鉱物も発見できなかった。
1557年9月1日、彼はサンマロ近郊の自分の地所で死去。

さて、ジャック・カルティエが名づけたセントローレンス湾やセントローレンス河。フランス語の読みは「サンローラン」らしい。
この「サンローラン」とはまったく関係ないのだが、世界的人気を誇るフランスのファッションブランドの「YVES SAINT LAURENT(イヴ・サンローラン)」。
なにかしら、ジャック・カルティエとの接点があるものと調べてみたのだが、まったくない。
ブランド名は、デザイナー本人の名前に由来しているようだ。でも、なんでSAINTなんだろう。

その昔、「イヴ・サンローラン」を「イエス・サンローラン」と読んでた・・・orz
「ルノー」は「レオナルト」。「シボレー」は「チェブロレット」と発音して失笑を買った。
ぼくからすれば「読めるように書いてよ!」と言いたくなるっす。。

Merry Christmas!

 
 
 
 


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Dear Wendy

2009-12-23 23:03:35 | プチ放浪 都会編

  日差しの柔らかな土曜日の午後。
君は寝不足の頭をすっきりさせるため、超大手ハンバーガー・チェーンに立ち寄る。
頭の中で映画『スーパーサイズ・ミー』や、『ファースト・フード・ネーション』のワンシーンが浮かんでは消えていくが、それを振り払って、君は人の溢れた店内に入る。
近くのハンバーガーショップにはほとんど人がいないというのに、この店はこみ具合はどうだろう。

列に並んだ目の前の幼い子が
「全然わかってない・・・」
とカウンターで注文をする若い母親に大声でたてついている。
君はやれやれとため息をつく。
繰り返してゆく日々の波が穏やかな顔を見せて笑っているけど・・・

小さい頃から夢ばかり見てて、叶いもしないあこがれを沢山抱きしめてた。
大人になってやがてそんな夢は、幻なんだと現実ばかりをいまは見つめてる。
捨ててきたいくつもの夢は、ゴミの山のように積み重なっていくだけ。

まばゆく輝くその笑顔がいつかはあたたかさに変わる。
この先何年何十年経っても変わらないそんな気持ちがきっと君を強くしてくれる。
そう信じて君は立ちあがる。
きっと蓄えた力と流した涙はやがて君の心に虹を架けるだろう。

 
 
 
 

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東慶寺の庭(2)

2009-12-21 22:36:29 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

【撮影地】鎌倉市山ノ内1367(東慶寺(とうけいじ))(2009.10月撮影)
Copyrights© 2005-2009 TETUJIN
all rights reserved.

青岳尼が里見義弘の初恋の相手だったら、女性救済に後半生を捧げた豊臣秀吉の孫娘はどんな人だったのだろう。

徳川家康の天下平定は、豊臣秀吉の遺児・秀頼と母・淀君の大坂城二の丸帯曲輪内で自害にて完了した。
秀吉との遺言を破り、ヤクザの言いがかり以上の挑発で豊臣家を滅ぼしたのだった。さらに、反乱分子を徹底的に排除するため、残党はことごとく殺された。
何の罪もない秀頼の遺児国松も殺され、その結果、250年(日本の歴史の6分の1)にも及ぶ太平の時代が訪れた。
唯一、豊臣家の血筋を引くもので残されたのは、豊臣秀頼の娘で徳川家康の孫娘・千姫の養女だった奈阿姫(なあひめ)だけだった。当時、7歳。

家康も孫娘にはあまかったのだろうか。
戦国一の美女と謳われた織田信秀の娘お市、そして、気位が高い長女の淀殿。淀殿の次男秀頼を経由して奈阿姫へ。美女の血筋が続く。
奈阿姫が処刑される所を体を張った必死の助命嘆願を行ったのが、秀頼の妻、徳川家康の孫娘・千姫だった。
家康は出家して子を残さないことを条件とし生を許した。
千姫と一緒に1年の時を過ごした後、奈阿姫は東慶寺に尼として入る。
「何か願いはないか?」
の家康の質問に8歳の彼女は
「東慶寺の女性救済が強固に、永遠に続きますように」
と答えたと伝わる。
そして彼女は「天秀尼」として女性を守る東慶寺中興の大和尚と呼ばれ、37歳でこの世を去る。そして、豊臣の直系は途絶。

何故、あの時代に、彼女が生きながらえて、治外法権と言っても良い場所の象徴となることを家康は許したのか。
千姫の必死の説得も含めて、もう少し考えてみると違う歴史の側面も見えてくるのかもしれない。


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東慶寺の庭(1)

2009-12-20 23:20:40 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

【撮影地】鎌倉市山ノ内1367(東慶寺(とうけいじ))(2009.10月撮影)
Copyrights© 2005-2009 TETUJIN
all rights reserved.

鎌倉で「東国花の寺  百か寺」に指定されているのは11箇所。梅・彼岸桜の「東慶寺」、桜の「瑞泉寺(山桜・枝垂桜)」「安国論寺(妙法桜)」」「極楽寺(八重一重咲分桜)」、「大本山 円覚寺(桜・ぼたん)」、サンシュユの「報国寺」、ももの「英勝寺」、みつまたの「浄智寺」、山茶花の「海蔵寺」、古代ハスの「大本山 光明寺」、ぼたん「雲頂庵」である。不思議なことに、さまざまな花で人気の「長谷寺」アジサイの「明月院」やハギの「宝戒寺」は入っていない。

縁切寺、駆込寺の名前知られる東慶寺。歴代の住持はもちろん、著名な宗教家を始め哲学者や作家が眠る場所だ。
小さな山門を入ると右に庫裏があり、その奥に泰平殿と呼ばれる仏殿がある。境内の奥には、松ヶ岡宝蔵、「後醍醐天皇皇女用堂女王墓」石標や、石段の先のやぐらの中には歴代の墓塔、中央には大きな天秀尼の墓(豊臣秀頼の娘)がある。

国の重文の木造聖観音菩薩立像は、やはり尼寺である西御門にある太平寺(現在、来迎寺(らいこうじ))の本尊だったといわれる。
このブログで前に書いたが、「南総里見八犬伝」にも登場する千葉の豪族「里見義弘」は、江戸湾を渡りこの太平寺に幼馴染の青岳尼を略奪しに来た。
http://pub.ne.jp/tetujin/?daily_id=20080420
「だって、好きなんだもの♪」
と言ったかどうかは知らない。義弘は31歳、青岳尼は22~23歳の時のことだ。
16世紀半ばの激しくも美しい恋物語。


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都内 イチョウ

2009-12-19 23:39:57 | プチ放浪 都会編

 
 
 
 

実は本郷のあたりは苦手だ。いつになってもコンプレックスが抜けない。
避けて人生を生きていこうとすれば、それも可能なのだが・・・。。

東大正門から安田講堂にかけての銀杏並木が素晴らしく見物人も多い。
だが、ぼくはコンプレックスのせいか、本郷通りの銀杏並木の黄色と東大構内の楠木並木の緑とのコントラストの方がリラックスして観賞できる。困ったもんだ。。

気力を振り絞り、赤門へ。漱石で有名な三四郎池に回る。ナナカマドの赤い実が印象的だ。
東大というと、「イチョウ」というイメージがある。たしか、校章はイチョウ。
夏目漱石の「三四郎」にもイチョウは出てくる。
「正門を這入ると、取突の大通りの左右に植ゑてある銀杏の並木が目についた。銀杏が向こうの方で盡きるあたりから、だらだら坂に下がって、正面の際に立った三四郎から見ると、坂の向ふにある理科大學は二階の一部しか出てゐない。其屋根の後ろに朝日を受けた上野の森が遠く輝いてゐる。日は正面にある。三四郎は此奥行のある景色を愉快に感じた。」

奥行きといえば、神宮外苑の銀杏並木は、絵画館を正面に、青山通り口から樹高の高いものを選んで植えて遠近感を持たせてある。こちらも愉快な景色。

イチョウの英名は Ginkgo。実は、ドイツ人医者・博物学者ケンペルが、日本に勤務中の見聞を記録した本の中で銀杏(ぎんきょう Ginkyo )を Ginkgo とタイプミスしちまったのが始まりという。
しかも、なぜかゲーテの詩は、1819年に出版された時には"GINKGO"ではなく "GINGO"。

Dass ich Eins und doppelt bin.
(私が一枚の葉でありながら 二枚の葉であることを)

「Ginkgo biloba」と題された詩が書かれたのは、1815年、ゲーテが66歳の時。
1817年、ゲーテはその詩を25歳も若いひとりの女性に贈った。
自宅の庭に植えてあったイチョウの2枚の葉を添えて。


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