歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奥州市・白鳥舘遺跡 初の「藤原氏時代」遺構

2008年11月29日 | Weblog
 奥州市前沢区の国史跡白鳥舘(しろとりたて)遺跡から、奥州市世界遺産登録推進室の発掘調査で奥州藤原氏と同時期・12世紀後半とみられる2棟の建物跡と溝跡などの遺構が見つかった。
 建物跡はほぼ同規模(南北約4m、東西8・5m以上)で、重なるように位置していた。片方の建物南側には庇(約1・6m)があり、建物跡を東西に横切るように約5・5mの溝跡(幅約40cm)があった。かわらけなどの出土品から時代を特定した。
 平泉町で見つかった遺構と同規模で、庇があることなどの特徴が合致していることから、藤原氏との深い係りがあらためて証明された。
 現地説明会は30日午後1時半から開かれる。
[参考:岩手日報]

白鳥舘遺跡
 岩手県奥州市にある藤原清衡の祖父に当たる安倍頼時の八男・白鳥八郎則任の居城跡と伝えられる遺跡である。
 S字型に蛇行する北上川に周囲を180度以上囲まれる天然の要害であり、10世紀から16世紀まで北上川の要衝地として利用されてきた。衣川区の長者ヶ原廃寺跡とともに国の史跡「柳之御所・平泉遺跡群」に追加指定された。
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中国浙江省・田螺山遺跡 6000年前の茶畑か、栽培起源示す

2008年11月29日 | Weblog
 中国浙江省の初期稲作集落跡・田螺山遺跡で、6000-5500年前の地層から世界最古の茶畑とみられる遺構が見つかり、金沢大の中村慎一教授(考古学)らの日中共同研究グループがこのほど、金沢市で開かれた成果報告会で発表した。
 共同研究グループによると、当時の地表に掘られた縦約3m、横約2mの穴の中から、木の根が10数株出土。低湿地で保存状態が良く、顕微鏡で組織を調べたところ、ツバキ属と分かった。列状に並んでおり、植樹されたとみられる。約5m離れた場所でも同様のものが見つかった。
 ツバキ属にはツバキやサザンカ、茶の木がある。研究グループは、つばき油の採取には樹木数が少なすぎると判断。樹高がかなり低そうで葉を摘むのに適しているなどとして、茶の木の可能性が高く、数mおきにまとめて植えた茶畑と推定した。
 茶は中国・雲南地方が野生種の発祥地とされるが、紀元前1世紀(前漢)の文献の記述が最も古く、それ以前の状況は分かっていない。今回の発見は、茶が予想以上に前から親しまれていた可能性を示すとともに、栽培の起源を探る上で貴重な成果となりそうだ。
 12月13日に、下記要領により講演会が開催される。

サテライト・プラザミニ講演 中国の初期稲作遺跡を掘る―浙江省田螺山遺跡の日中共同調査―
日   時: 2008年12月13日(土) 14:00~15:30
開催場所: 金沢大学サテライト・プラザ、金沢市西町教育研修館内(西町3-16)
講   師: 中村慎一 (金沢大学人文学類教授)
講演内容
 中国浙江省余姚市にある田螺山遺跡は約7000年前の初期稲作文化の集落跡である。地下水位下に埋もれていた遺跡には,人骨・動物骨,木材,植物種実などの有機質遺物がきわめて良好な状態で保存されていた。「中国のポンペイ」ともいえるこの遺跡で,われわれは中国の研究機関と共同で自然遺物を中心とする調査・研究を展開している。世界最古の「茶畑」の発見など,これまでにいくつもの重要な成果が挙がっている。その一端を数多くの写真を交えながら紹介する
対   象: 入場無料。誰でも参加可。事前の申込は不要。
問合せ・申し込み:金沢大学サテライト・プラザ TEL:076-232-5343 FAX:076-232-5383
[参考:共同通信、金沢大学]

中国で6千年前の茶畑 浙江省・田螺山、起源示す(共同通信) - goo ニュース
中国茶、6千年の薫り? 浙江省で「最古の茶畑」発見か(朝日新聞) - goo ニュース
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安芸高田市・郡山城跡 中世の造成跡、郭跡と石垣遺構を確認

2008年11月29日 | Weblog
 市教委は28日、戦国大名・毛利氏の居城で、国史跡の郡山城跡(同市吉田町)で、城を囲んだ郭跡と石垣遺構を確認したと発表した。発掘調査で郡山城跡から郭の石垣が見つかったのは初めてで、上部に中世の郭の造成跡も確認された。
 石垣は、2006年9月の豪雨で発生した土砂崩れ災害の復旧工事中に出土し、今年9月初めから調査を行った。最下層から東西に約7m、高さ1・2m、幅0・8mの石垣が出土した。表面が平たく加工された花崗岩が、垂直に5段に積み重ねられ、すき間には小石が詰められるなど、丁寧に築かれていた。石垣の上には南北に細長い2段の郭跡を確認。上部の郭は中央部分が大きく崩落していたが、下部(約100㎡)はほぼ原形をとどめていた。
 上部は、土を盛り固めた「版築」により、高さ5~8mを土盛りし約200㎡が造成されていたことが崩落跡から判明した。
 周辺から16世紀後半の陶磁器が出土していることや、古文書の記録などから、天正年間(1573~91年)に元就の孫・輝元が築造したと推定される。
また今回の調査では、くぎなどの小さな鉄製品を作ったとみられる鍛冶炉跡も見つかった。
 29日午後2時から遺跡見学会を開く。見学会当日は、吉田歴史民俗資料館付近から、案内看板が設置される。
[参考: 読売新聞、朝日新聞}

 建武3年(1336)毛利氏が吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として下向した後、毛利時親(?-1341)が郡山南東の一支尾根に築城した。
 天文9年(1541) 吉田郡山城の戦いでは、尼子詮久(1514-1561)軍に包囲され攻められるが、陶隆房勢(1521-1555)の援軍もありこれを撃退。毛利輝元(1553-1625)の頃には、石垣等も使用した城郭へと強固にした。櫓が本丸に建てられたが天守閣は存在しなかったとされる。
 天正19年(1591)毛利氏が豊臣大名になり、広島城を築城し移転した。
 慶長5年(1600) 関ヶ原で敗れた毛利氏は防長2か国へと減封され長門萩に移り、吉田郡山城は廃城となった。
 寛永14年(1637) 島原の乱の後、キリシタンの決起を恐れた江戸幕府は郡山城の石垣、堀など破城した。

[10月28日掲載分]
安芸高田市・郡山城跡 初の石垣出土
 安芸高田市教委は27日、毛利元就(1497-1571)の居城として知られる同市吉田町の郡山城跡の麓から16世紀後半の石垣や城郭が出土したと発表した。同城跡からの石垣出土は初めて。
 石垣と城郭は城跡西南にあり、市街地との高度差がわずか約30mの平地近くまで城が広がっていた。石垣は加工石を積んだ切り石積みで幅7m、高さ1.2m。城郭2段の最下部にあたる。元就の孫・輝元(1553-1625)による増築とみられる。
 山城の城郭は1637年の島原の乱以降、江戸幕府の指示で取り壊しが全国で進み、同城でも山頂付近の三の丸など一部の石垣が残るのみ。城の全容は古文書や絵図で想像するしかなかった。
[参考:中国新聞]
郡山城跡から初の石垣出土(中国新聞) - goo ニュース

郡山城
 郡山城は、南北朝時代、安芸国吉田庄の地頭として定着した毛利氏が、その勢力を拡大していくなかで、一貫して本拠とした山城。城は1336(建武3)年、毛利時親(ときちか、?~1341)が郡山東南の一支尾根に築いたが、毛利元就(1497~1571)の時には標高約400m、比高約200mの郡山全山に拡大された。山頂に本丸他が築かれ、峰には200以上もの曲輪があり、全山を城郭化した大規模な山城だった。256年間、毛利氏の居城となった。
 城域は、東西約1.1km、南北約0.9kmで、南側の麓には内堀が巡り、城内には270段余の平段や、大通院、洞春寺、常栄寺、満願寺などの寺院が建立された。

毛利氏
 安芸・毛利氏初代・毛利季光(すえみつ、1202~1247)は、鎌倉幕府草創の功臣・大江広元(1148~1225)の四男である。
父・大江広元から譲られた相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を基盤に関東御家人として毛利姓を名乗り毛利氏初代となる。
三浦氏の乱(1247)の時に、三浦方に加担し敗れ三浦一族とともに自刃する。四男経光だけが季光所領の一つ越後国佐橋荘(新潟県柏崎市)に在住して死を免れ、毛利荘は没収されるが毛利の名字は保つことができた。経光の四男毛利時親(?~1341)が安芸国吉田庄を継ぐことになる。この時親の子孫が毛利元就(1497~1571)である。
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奈良市・唐招提寺 金堂の屋根裏 簡素な叉首組構造と判明

2008年11月29日 | Weblog
 奈良県教委文化財保存事務所は28日、国宝・唐招提寺金堂の解体修理に伴う調査で、奈良時代末に創建された当時の屋根裏が、梁上に斜材を合掌に組む簡素な「叉首組(さすぐみ)」と呼ばれる構造だったと発表した。同事務所によると、屋根裏の構造は、江戸期の大規模修理に伴い、創建時の部材が当初と違う場所で再利用されるなど、大幅に変わっているという。
 金堂は幅約28m、奥行き15m、高さ16m。
 調査では各部材を検証。屋根の四隅の軒を支える「地隅木(じすみぎ)」が、加工跡から当初は大梁(おおばり)として使われていたことなどがわかった。
[参考:産経新聞、共同通信、読売新聞]
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御廟山古墳・全長200mと判明

2008年11月29日 | Weblog
現地見学会が今日(29日)から行われ、早朝から1000人が集まっていると感心の高さを数紙が報じている。
[参考:産経新聞、共同通信、読売新聞]
世界遺産の暫定リスト、御廟山古墳初めて一般公開(読売新聞) - goo ニュース

[11月27日掲載分]
 百舌鳥・古市古墳群の1つ、御廟山古墳の発掘調査・現地一般公開 29、30日に先立って、宮内庁と堺市は27日、古墳周囲から5世紀中頃の大量の埴輪片が出土したと発表した。墳丘の全長は現在の186mが約200mだったことも判明した。
 応神天皇陵第2候補にふさわしい古墳であることが改めて確認されたとしている。
 3段に積まれた墳丘の1段目の斜面とテラス部を調査。その結果、一段目テラスの端に並んだ円筒型の大型埴輪(直径40cm)の列を検出。周囲には2段目斜面からずり落ちた葺石が見つかった。さらに1段目斜面の下部にも大量の葺石のほか、冑形、蓋形など埴輪の破片を多数確認。祭祀を行ったと考えられている造り出し部に近い場所では、家型埴輪が見つかった。
 いずれも5世紀中期ごろの製造とみられ、近くにある仁徳天皇陵の埴輪よりやや古く、仁徳より古い応神天皇の陵墓としての可能性が残った形だ。
 また墳丘は、江戸時代に濠を浚渫した際に崩れ、浚渫で出た土砂をかぶせられていたことも判明。全長が現在より約14mほど大きい200mで、後円部は15mほど大きい約110mだったことが確実となった。
[参考:産経新聞、時事通信、読売新聞]

築造は仁徳陵と同時期=御廟山古墳、全長200メートル-陵墓参考地、壕を公開(時事通信) - goo ニュース
陵墓参考地の御廟山古墳、初の一般公開へ…先着5千人(読売新聞) - goo ニュース


[11月18日掲載分]
御廟山古墳・発掘調査 現地一般公開 29、30日に
 御廟山(ごびょうやま)古墳(百舌鳥陵墓参考地、堺市北区百舌鳥本町1)の発掘調査が宮内庁と市によって進められているが、29、30日に現地で一般公開が行われる。
 宮内庁管理の古墳が住民に公開されるのは初めてだそうである。
 宮内庁と堺市は10月中旬から発掘調査を始め、12月19日に終了を予定。堀(幅約30~50m)に囲まれた墳丘護岸修復工事に伴う事前調査で、墳丘下部17カ所程度で発掘を行っている。これまでの他古墳調査から埴輪などの出土が期待されている。
 公開時間は午前9時~午後4時。希望者は約1km離れた大仙公園催し広場に集合し、調査状況の説明を受けたあと現地に移動する。堀2カ所に設けた仮設橋を渡り、周囲を歩く。市は両日とも5000人の見学者を見込んでいる。
 ただし、宮内庁が管理する古墳の墳丘内には立ち入ることはできないとのこと。
 御廟山古墳は高さ17m、全長186mの前方後円墳で、堺市の百舌鳥古墳群では4番目の大きさ。宮内庁の墳丘周囲の発掘に合わせ、市が一部水を抜き同庁管理外の堀を調査している。
一般公開について
 開催日時:平成 20 年11 月29 日(土)、30日(日)の2 日間 午前9 時~午後4 時まで(両日とも)
  ※雨天の場合は、当日午前5 時30 分からテレホンサービス(電話 0180-9977-55)でお知らせ。
 集合場所:大仙公園内催し広場
 見学方法:整理券を配布。1 日につき5,000 人まで 
出土品の展示: 博物館にて、11 月20 日までの発掘調査で出土した遺物を展示
[参考:産経新聞、堺市報道資料10/14,10/30]

[10/21掲載分]
堺市・百舌鳥御廟山古墳 宮内庁と市が同時調査を開始
 世界文化遺産の国内暫定リスト入りが決まっている百舌鳥・古市古墳群にあり、宮内庁が発掘調査中の堺市北区の陵墓参考地・御廟山古墳(5世紀後半)で、堺市も20日、参考地指定範囲外の周濠部分の調査を始めた。
 発掘は指定地の境界付近の墳丘裾を同庁、隣接する周濠を堺市が担当。12月中旬までに、試掘溝を設けるなどして形状、状況を確認する。この日は、すでに16日に調査を始めている同庁と、市の担当者らが現場で協議しながら、試掘溝の位置を決めた。…
[参考:読売新聞]

[9/16掲載分]
堺市・百舌鳥御廟山古墳 宮内庁と市が同時調査
 「陵墓参考地」に指定する堺市の百舌鳥御廟山古墳(5世紀中ごろ)で今秋、宮内庁が行う調査に合わせ、堺市も指定範囲外の堀を発掘することになった。陵墓や参考地の調査を、宮内庁と地元自治体が足並みをそろえて行うのは初めてである。発掘部位は宮内庁と調整して決める。

百舌鳥御廟山古墳
 日本最大の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)=全長約486m=を含む百舌鳥古墳群では、全長約186mの前方後円墳で4番目の大きさ。宮内庁は墳丘本体のみを陵墓参考地として管理し、周囲の堀は地元の地域自治会が所有している。
[参考:朝日新聞]

キーワード:百舌鳥御廟山古墳、御廟山古墳
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宮城県栗原市・清水山1遺跡 奈良時代の炭焼き窯か

2008年11月29日 | Weblog
 栗原市教委は27日、標高30mの丘陵に位置する清水山1遺跡(同市瀬峰清水山地内)で、古代の地下式炭焼き窯1基を発掘したと発表した。
 斜面をトンネル状にくり抜いた造りで、長さ5・5m、幅1・2m、最も深い部分で1・5m。窯の全面で炭の塊や炭化材が確認され、炭焼き窯と判断した。窯跡の堆積土中からは、奈良時代・8世紀半ばとみられる須恵器などが出土し、造営年代も同時代ごろとみている。炭焼きは差し渡し1m程度の土坑で伏せ焼きで行った。今回見つかった窯は大量生産用の本格的な規模と構造を持っており、多くの木炭を必要とした製鉄が近くで行われ、そこに供給した可能性が高いとする。
 当時の県中北部は律令政府が城柵造営などで地域支配を強めたようとした。炭と鉄生産にかかわる遺跡として貴重だという。
 その他に、縄文時代と古代の遺構・遺物を確認した。
 29日午前10時から午後3時30分まで現地説明会を開く。
[参考:毎日新聞、栗原市HP]
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