✦世界の王室✦

プリンセス・ダイアナ

じゃーん!真打登場です。やっぱりヨーロッパ王室と言えば、
なんたってこの女性でしょう!



そう誰もが知っているダイアナ妃。
亡くなって十年経つのに、その人気は衰えてませんね。
かくいう私もダイアナ妃が初めて世の中に出てきて、
王室に興味を持ち始め、勿論、大ファンでした。

実は、私、ダイアナ妃、見たことあるんです!!
チャールズ皇太子も、ついでに見ちゃったんです。(すんごい失礼)
皆さん、覚えてます?あのお二人が日本にいらっしゃって、
東京の街を車に乗ってパレードされたのを。
それを見に行っちゃったんです。ほほほ。
ダイアナ妃の陶器のような肌の美しさが遠目からでも
判りました。が、意外や意外、実は生チャールズ皇太子、
全く普通のおっさんとは違うのです。別格です。
とっても品があるんですよ。高貴とはこういうものか!という
感じですね。歌舞伎座もお二人が行かれる日のチケットを買って、
ストーキングです。(残念ながら、見えなかったのですが・・・)

1961年7月1日、オルソープ子爵であった父、エドワード・ジョン・スペンサーと
母・フランシスの間の三女として生まれ、ダイアナ・フランシス・スペンサー
(Diana Frances Spencer)と名付けられました。スペンサー家は英国王室
とも縁が深く、スチュアート王朝の末裔であり、チャールズ2世、ジェームズ2世
などを祖先としている名門貴族の家柄なのです。



1969年に両親は離婚。母・フランシスがピーター・シャンド・キッドと不倫の末、
家を出るという悲劇が幼いダイアナの身に起こったのです。
(ピーター・シャンド・キッドとチャールズ皇太子の現妻カミラは親戚!)
父のスペンサー伯(1975年に祖父の死によって、伯爵位を継承)は、
1976年に作家のバーバラ・カートランドの娘レインと再婚。この義母と
スペンサー家の4人の子供達は、いずれもうまくいかなかったとの
ことです。

学校の成績は、それほどかんばしくなかったそうで、16歳で
上流階級の子女らしく、ダイアナはスイスのフィニッシィング・
スクール(花嫁学校)に留学。丁度、その頃、ダイアナが
当時自分の姉のサラとデートしているチャールズ皇太子に
初めて会ったのです。スイスの学校もさほど好きでなかったらしく、
17歳になる前に、ダイアナはロンドンに戻り、アールズ・コート
近くのフラットを祖母の遺産で購入し、ルーム・メートと暮らし
始めます。そうして間もなく、チャールズ皇太子と再会する日が
やってきました。



1981年2月24日、二人は婚約を発表。
この時から、世間の目は確実にダイアナに釘付けになっていきました。
大きな深いブルーの瞳で、覗き込むように人を見る仕種は、
本来、誉められたものではないですが、ダイアナに限っては、
若く、世間ずれしていない、シャイな印象を世界に植え付け、
好感度増に貢献しました。ストロベリー・ブロンドの髪をショートにした、
「ダイアナ・カット」も流行したものでした。



婚約後、あっと言う間に痩せて、更に美しくなったダイアナの
ウェディング・ドレス姿は、本当にお伽の国のお姫様のようでした。
二人の結婚式は、1981年7月29日にセント・ポール寺院で
執り行われ、世界中で750億人がテレビ放映を見たと
言われています。勿論、私もそのひとり。
そうして上の写真、ふたりがバッキンガム宮殿のバルコニーで
キスをするシーン、これも世間をあっ!と言わせ、新しい王室を
予感させたものでした。


1982年6月にウィリアム王子、1984年9月にヘンリー王子と
男の子ふたりに恵まれ、順風満風かと思われた結婚生活は、
チャールズ皇太子に他の女性の存在の影がちらつくことが原因で、
破綻し始めます。そうしてダイアナ妃本人も、その腹いせなのか、
寂しさを紛らわすためか、チャールズ皇太子以外の男性と不倫。
亡くなる一年くらい前の告白インタビューで、乗馬トレーナーの
ジェームズ・ヒューイットとの不倫を妃自身が認めています。
またこの男性とヘンリー王子が赤毛だけでなく、顔立ちも似ているので、
実の父親なのではないか?という噂は、今でも繰り返し話題になるほどです。
1996年8月28日、二人の離婚が成立。

離婚後、慈善活動を精力的にこなすようになったダイアナ妃。
若かりし頃は、慈善活動については、「それくらいしか
やることがない」ような暴言を吐いたインタビューが残って
いますが、酸いも甘いも経験して、今度は真摯に活動を
始めたようでした。地雷撲滅・エイズ撲滅運動にも熱心に
取り組んでいました。多分、今後は慈善活動家として
生きていこうと思っていたのではないでしょうか?
そうしてこの結婚・離婚の傷を癒やしながら、素敵な男性に
出逢って、第二の人生をスタートさせることを期待していた
ことでしょう。



1997年8月31日。翌日から両王子との休暇を過ごす
はずだったダイアナ妃は、今でも真偽が問われている
謎の多いパリのトンネル内の交通事故で、36年という
短すぎる生涯を閉じたのです。

このニュースを耳にしたとき、何のことか理解するのに
時間がかかったことを覚えています。まさか若いダイアナ妃が
死ぬわけがない!あのダイアナ妃が!!という気持ちで、
事の次第を呑み込めなかったのです。去年、ダイアナ妃の
死から十年を記念して、追悼コンサートや追悼ミサなどが
ありました。「もう十年」と思うものの、両王子の成長ぶりを
見ると納得してしまいます。

本当に薔薇のようなプリンセスでした。

コメント一覧

管理人
ユージェニー様、コメントありがとうございます。
ダイアナ妃の公務ということに関して言えば、別居・離婚後の慈善活動の方が私には印象に残っています。(離婚後の活動は公務と言っていいのでしょうか?) その活動には、ダイアナ妃の意志が見受けられるように思います。なので私としては、ダイアナ妃がひとりで公務なされるようになってからのことを踏まえて、自己裁量出来る「公務の見直し」というのであれば、それは素晴らしいことなのではないかと思います。





ユージェニー
初めまして、管理人様、ユージェニーと申します。
私、実は、ダイアナ妃がチャールズ皇太子の恋人と騒がれ始めた1980年の晩秋の頃から、ヨーロッパ王室に興味を持っているものです。あれから28年たって、こんな事になるとは思いもしませんでした。でも、ダイアナ妃は、世界の王室の妃殿下達に大きな影響を与えていると感じています。その中に、日本の皇太子妃雅子様も含まれているのではないでしょうか?
皇太子殿下は、例の記者会見で「公務の見直し」に言及されました。これは、皇太子殿下と雅子様がイギリス留学中に、ダイアナ妃がどのように公務をされていたのかよく理解されていたはずなのです。それで、皇太子殿下は、ダイアナ妃を公務を念頭に「公務の見直し」といわれたのではないでしょうか?もう少し積極的で、自分の裁量でできる「公務」をという意味で。秋篠宮様の言われる「受け身の公務」ではけっしてないのです。
本当にダイアナ妃は、今のヨーロッパの王室の皇太子妃に多くの影響を与えていますね。
どう思われますか、管理人様。
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