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第二バチカン公会議の教会論の主要な誤謬の要点:宗教統一的な教会の概念、団体的・議会的統治と民主主義的指針、人間の自然権や教皇の権力に関する誤った考え、など

2021年08月13日 | カトリックとは

ルフェーブル大司教とデ・カストロ・マイヤー司教の教皇ヨハネ・パウロ二世への公開書簡(1983年11月21日)

教皇聖下、

 願わくは聖下が私どもをして聖下に次のような考察を全く子供としての率直さを持って提出することを許し給わんことを。

 二十年前から教会の状況はあたかも占領されたかのように思われるほどです。教会の自己破壊のために数万の聖職者と数千万の信者達が苦悩と困惑の中で生きています。

 第二バチカン公会議の公文書の中に含まれている誤謬、公会議後の改革、特に典礼改革、公文書によって広められている間違った考え、聖職位階によってなされる権力の乱用は、人々を混乱と動揺の中に投げ込んでいます。この悲しみに溢れる現状において多くは信仰を失い、愛徳は冷め、教会の本当の一致という考えが時と空間に置いてたち消えています。

 聖なるカトリック教会の司教、使徒の後継者として、かくも多くの霊魂達が全世界で、教会の教導職によって定められ、常にどこでも教えられてきたその信仰と道徳の中に留まろうと望んではいるものの残念ながら方向を狂わされているのを見、私たちの心は動転しています。このことに口を閉ざしているとしたら、私たちにとってこれらの悪しき仕業の共犯になってしまうように思えます。

ですから、私たちが過去十五年間に取ってきた個人的な態度・足取り[でも足りなかったこと]を考えると、聖下に公に介入しなければならない義務を感じます。それはこの劇的な状況の主要な諸原因を告発し、使徒継承の聖伝によって忠実に私たちにまで伝わった信仰においてその兄弟達を固めるために、教皇聖下にペトロの後継者の権力を行使してもらうためです。

 このため私どもはこの手紙に付録を付け、この悲劇的な状況の源にある、そして、既に他方で聖下の前任者達によって排斥されている主要な誤謬を指摘することを致しました。次のリストはその付録の題ですがこれが誤謬の全てではありません。

1.-信仰において分裂している教会という横に広がりすぎた宗教統一的な教会の概念。これは特にシラブスによって排斥されている。

2.-団体的・議会的統治と民主主義的指針。これは特に第一バチカン公会議によって排斥されている。

3.-信教の自由に関する文章に明らかに現れている人間の自然権に関する誤った考え。これは特にピオ九世の「クァンタ・クーラ Quanta Cura」とレオ十三世の「リベルタス・プレスタンティッシムム Libertas Praestantissimum」によって排斥されている。

4.-教皇の権力に関する誤った観念

5.-ミサの聖なるいけにえとその他の秘蹟に関するプロテスタント的考え。これはトレント公会議第二十二総会によって排斥されている。

6.-最後に、一般的に言って検邪聖省の廃止によって生じるようになってしまった異端の自由な流布。

 誤謬を含む公文書はそれが上にある源から来れば来るほどにそれだけより深い不安の困惑を引き起こします。聖職者も平信徒もこの状況に最も動揺しているのは他でもなく教会に、ペトロの後継者の権威に、教会の聖伝の教導職に最も強く我が身を付けているものなのです。

 教皇聖下、この不安が消えるようにするのは緊急のことです。なぜなら、群は散りぢりになり、捨てられた羊達を金で雇われたものが追っているからです。カトリック信仰の善のため、霊魂達の救いのために、私たちは聖下に彼らの誤謬に反対の真理をもう一度断言して下さるように、聖なる教会によって20世紀もの間教え続けられた真理を再確認して下さるようにとひたすらに願い乞い求めます。

私たちが聖下にこれを申し上げるのは、聖ペトロが福音の真理に従っていないと聖パウロが聖ペトロをとがめたときの、その心境において申し上げています。聖パウロの目的は信者達の信仰を保護する以外の何ものでもありませんでした。聖ロベルト・ベラルミノはこのような場合の一般的道徳原理について語り、霊魂の救いに害を与えるであろう教皇の行為に対し人は抵抗する義務を持つと教えています。

 私たちがこの警告の叫びをあげるのは、この叫びは新しい教会法の誤謬、異端とは言わないけれども誤謬によって、またルターの生誕500周年の祝賀と演説によってますます激しくなるばかりですが、聖下の助けに出たいという目的なのです。...本当に限りは尽きました。教皇聖下、願わくは天主が私たちの助けに来たり給わんことを。私たちは絶えず聖下の意向のために聖なる童貞マリアに祈っています。

 私たちの忠孝に満ちた献身の情を受けとめて下さりますように。

マルセル・ルフェーブル(テュールの元司教)

アントニオ・デ・カストロ・マイヤー(カンポスの元司教)

 

第二バチカン公会議の教会論の主要な誤謬の要点

1.-"横に広がりすぎたlatitudinariste"宗教統一的な教会の概念。

 教会が「天主の民」であるという概念は以後数多くの公文書の中に現れる。公会議文書の「エキュメニズムに関する教令 Unitatis Redintegratio」や「教会憲章 Lumen Gentium」、新しい教会法典(c.204.1)教皇ヨハネパウロ二世の書簡"Catechesi tradendae"とカンタベリーの英国聖公会での演説、キリスト者の一致のための秘書室が出した宗教統一のための方針"Ad totam Ecclesiam"などがその例である。

 この概念は横に広がりすぎた意味と誤った宗教統一の概念を含んでいる。

いろいろな事実が明らかにこの概念が残念なことに謬説であることを示している。たとえば諸宗教の儀式ができるような部屋を作ることの許可、カトリック聖書解釈学とはもはや相容れない統一聖書の発刊、カンタベリーで行われたような宗教統一的儀式。

 「エキュメニズムに関する教令 Unitatis Redintegratio」では、キリスト者間の分裂は「この世にとって躓きの対象であり全ての被造物に福音をのべ伝えることへの障碍となる。・・・聖霊はその他の宗教をも救いの手段としてお使いになることを拒まれない」と言うことを教えている。この同じ誤りがヨハネ・パウロ二世の"Catechesi tradendae"という文書の中で繰り返されている。

ヨハネ・パウロ二世がカンタベリーのカテドラルで1982年5月25日にあたかも使徒信経の一致がかつて教会に存在したことがなかったかのように「キリストの約束は私たちに信頼の念を起こさせ、聖霊は聖霊降臨の後そのすぐ初期の時代から教会内に導入された分裂をいやして下さると信じます」と宣言したのはまさにこの同じ精神であり、聖伝の信仰とは全く反対の断定である。

 「天主の民」という概念はプロテスタンティスムも同じキリスト教宗教の特殊な形態に過ぎないかのように信じろと促している。

 第二バチカン公会議は、異端の分派らとの「聖霊における本当の一致」(教会憲章 Lumen Gentium, 14)「彼らとのまだ不完全なある種の交わり」(Unitatis Redintegratio, 3)があることを教えている。

 この宗教統一的な一致はレオ十三世の回勅「サティス・コニトゥム Satis Cognitum」に矛盾している。この中でレオ十三世は「イエズスは『一般的には似通っているがしかし互いに区別され、"不可分の唯一の教会を形成するある絆"によって繋がれているのではない多くの共同体を寄せ集めたような教会』を創立したのではない」と教えている。

 同様にこの宗教統一的な一致はピオ十二世の回勅「フマニ・ジェネリス Humani Generis」に反している。彼はこの中で、[人は救霊の為には]カトリック教会に属さねばならに必要性[があるのだが、それを]を何らかの別の形に還元しようとする考えを排斥している。

 また同じ教皇の回勅「ミスティチ・コルポリス Mystici Corporis」にも反している。この中では信仰において離ればなれになっているいろいろな共同体の絆であるような「霊的」教会という概念を排斥している。

 この宗教統一運動はピオ十一世が回勅「モルタリウム・アニモス Mortalium animos」の中で教えたものと反対である。この教皇はこう言った。「この点に関して非カトリック者がキリスト者の諸教会の一致を実現させようとして使っている手段のこの複雑な宗教統一運動とこの問題の根源にあるある誤った意見をここで示し排斥するのが適当である。この意見を支持する者たちはキリストのこの言葉を常に引用する。「彼らが一つとならんことを。一つの群れ一つの牧者とならんことを」(ヨハネ17:21、10、16)そして彼らはこのキリストの言葉は一度も実現したことのなかった望み、祈りを表現していると主張している。彼らは実にキリストの本当の教会が持つべき印である信仰と統治の一致が実際的に今日に至るまで決して存在したことがなくまた今日でも存在していないと言いたてている。」

 カトリックの道徳と法律が排斥するこの宗教統一運動はついに「非カトリックの役務者」から悔悛、御聖体、終油の諸秘蹟を受けることを許すに至ってしまった(新教会法典Canon 844)そしてカトリックの聖務者に御聖体の秘蹟を非カトリック者に配ることを許可し「宗教統一的なもてなし」を促進させている。

 これらのことは明らかに天主から受けた啓示に反している。天主の啓示は「分離」を命じ「光と闇、信者と非信者、天主の神殿を分派の神殿との」一致を投げ捨てている(コリント前14ー18)。

2.-団体的・議会的・民主主義的な教会の統治

 今日の近代主義者達は、まず信仰の一致を揺るがして後、統治の一致を揺るがし教会の位階制度的な構造を揺るがしている。第二バチカン公会議の文書「教会憲章 Lumen Gentium」によって既に暗示された教えが今度は新しい教会法典によって明確に採択された。それは、教皇を含めた司教達の団体は同じく教会において最高権力を享受し、それは常住し恒常的であるという教えだ。

 この二重の最高権力という教えは教会の教導職の教えとその実践に反している。特にこれは第一バチカン公会議とレオ13世の"Satis Cognitum"とに反している。つまり、[教会の聖伝によれば]ただ教皇だけがこの最高権力を保持し、教皇が適当だと判断する限りにおいてまた非常事態においてこれを教皇が他のものに伝えるのだ。

 この重大な誤謬に教会の民主主義的な方針が付け合わされている。つまり、新教会法典が定義するように「天主の民」に主権が存するというのだ。

 このヤンセニスト的な誤謬は、ピオ6世がこれを勅書「アウクトーレム・フィデイ Auctorem Fidei」によって排斥している(Dz.2592)。

 「基礎共同体」「草の根」をして権力を行使するようにと促す傾向は、シノドゥスの創設、司教協議会、司祭委員会、司牧委員会、ローマの無数の委員会、国別の委員会が修道会の懐にも作られていることに見いだせる。このことについては、第一バチカン公会議Dz3061と新教会法典447条を見よ。)

 教会内の権威の衰退は今日至る所で牛耳っている無秩序と混乱の源である。

3.-人間の自然権に関する誤った考え。

 第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言 (Dignitatis humanae)」は、「宗教の事柄に関し」人間に誤った自然権があることを断言している。このことは過去の教皇の教えと反対であり、彼らは厳しくかかる冒涜を否定している。

 ピオ九世は「クァンタ・クーラ Quanta Cura」と「シラブス(誤謬表)」の中で、レオ十三世は「リベルタス・プレスタンティッシムム Libertas Praestantissimum」と「インモルターレ・デイ Immortale Dei」の中で、ピオ十二世はイタリアのカトリックの法律家達に対してした演説「レ・リエッシェ Le Riesce」の中で、人間理性と典からの啓示がかかる権利を打ち立てることを否定している。

 第二バチカン公会議はどこででも「真理は真理に固有の力でしか押しつけられることができない」と信じ宣言している。

 これはピオ六世がピストイア公会議のヤンセニストたちに反対の声を挙げて教えた教えに完全に反対である(Dz.2604)。

公会議はついに真理を支持しない権利、真理に従わない権利を宣言し、政府に、真理の宗教と偽りの諸宗教との法的平等を確立するようにさせ、宗教を理由に差別をもはやしないことを強制するという愚かさにまで達した。

 この教えは人間の尊厳に関する誤った観念に基づいている。これは、フランス革命の似非哲学、不可知論、唯物論から由来するもので聖ピオ十世は教皇令"Notre Charge apostolique"の中でこれらを既に排斥している。

 第二バチカン公会議は信教の自由から教会にとって堅実の時代が出ると言った。

 しかしグレゴリオ十六世は反対に意見の規制なき自由が教会にとって利益になると言うことを述べるのは最高に恥知らずであると言っている。

 公会議は「現代世界憲章 Gaudium et Spes」の中で、人間のキリスト教的尊厳が托身の事実から由来し、托身はこの尊厳を全ての人に回復せしめたという偽りの原理を表明している。この同じ誤謬はヨハネ・パウロ二世の回勅"Redemptor hominis"の中で断言されている。この人間の偽りの権利が公会議によって認められたこの結果として我らの主[イエズス・キリスト]の社会統治の基礎が破壊され、宣教地における教会が、霊魂達がそのくびきの下にいるサタン的な力に対抗する戦いをし、我らの主を多くの人々の精神と心において統治させようとする権威と権力をゆるがせにしている。宣教精神は極端な改宗を勧めるものとして断罪されるだろう。

 宗教に関する国家の中立は、国家の大多数がカトリックである場合、我らの主とその教会にとって屈辱的である。

4.-教皇の権力に関する誤った観念

 たしかに、教皇の権力は教会において最高権力である。しかし、この権力といえども天主の権力に従属するものであるから、絶対で無制限ではない。そしてこの天主の権力は聖伝、聖書、教会の教導職によって既に公布された諸定義によって表明されている(Dz.3116)。

 教皇の権力はその権力が教皇に与えられた目的によって制限されそれに従属している。この目的は第一バチカン公会議の憲章"Pastor aeternus"の中に明らかに定義されている(Dz.3070)。

 教会の構造を変更し、それを「天主の権利」に対して「人間の権利」と呼ぶことを主張することは、たとえば、信教の自由において、新しい教会法典によって許可された「御聖体によるもてなし」において、教会の中における2つの最高権力の肯定においてなされたことは、耐え難い権力の乱用である。

 これらの場合において、またその他のこれに似たような場合において、全ての聖職者とカトリック信者にはこれに抵抗し、従順を拒む義務があることは明らかである。盲目的従順はその時異常であり、誰一人として天主よりもむしろ人に従順だったことの責任を免れ得ない(Dz.3115)。もし悪が公であり、霊魂にとって躓きの対象であるときには、この抵抗は公でなければならない(S.Th.,2ae2ae,q.33,a.4)。

 これは目下と全ての正統的な権威との関係を治める道徳の基本原理に過ぎない。

金輪際、聖伝とカトリック信仰に堅く留まるもののみが罰を受け、異端説を唱え、あるいは本当の涜聖をやり遂げた者どもは全く心配すらしないと言う事実から、この抵抗が正しいことであることの確証を見いだす。なぜなら、これが権力の乱用の論理だからだ。

5.-ミサの聖なるいけにえに関するプロテスタント的考え。

 教皇ヨハネ・パウロ二世が、新しい教会法の前にある憲章の中で定義するままの教会の新しい概念は、ミサのいけにえという教会の主要な行為において深い変化をもたらしている。新しい教会論の定義は、全く正確に新しいミサの定義を持ち出している。つまり、それはサービスであり、団体的でエキュメニカルな交わりである。これよりも良く新しいミサを定義できない。新しいミサは新しい公会議後の教会のように、教会の聖伝と教導職からの深い断絶にあるものである。

 不当にも高揚された全てのことと蔑ろにされたこととを説明するのはカトリックと言うよりもむしろプロテスタント的な観念である。

 トレント公会議の第二十二総会でなされた教えとは反対に、またピオ十二世の回勅「メディアトール・デイ Mediator Dei」とは反対に、ミサにおける信者の参加の余地を誇張し、司祭の地位をただの座長におとしめ蔑ろにした。御言葉の典礼の地位を誇張し、罪の償いのためのいけにえという地位を蔑ろにした。共同体の食事と言うことを誇張してそれをし神聖化し、しかも、全実体変化による御聖体における主の現存への敬意と信仰を犠牲にしてまでもそうした。

 聖別された言語を廃止することにより無限にミサ典礼様式を多元化し、世俗的なあるいは異教的な要素を持ち寄ることによりそれを世俗化させた。また信者の本当の信仰と本当の敬虔の念を犠牲にしてまでも誤った翻訳を広範囲に広げた。

 しかし、フィレンツェとトレントの両公会議は、これら全ての変化に対し排斥文を発表し、私たちのミサは、そのカノンにおいて使徒の時代にまで遡ることを宣言している。教皇聖ピオ五世とクレメンス八世とはミサの変化や変更を避ける必要性について強く主張し、聖伝によって聖別されたローマ典礼様式を永遠に保護した。

 ミサの非神聖化、ミサの世俗化は、司祭職の世俗化をプロテスタント流になしつつある。

 プロテスタントのやり方に従った典礼改革は公会議後の教会の最も大きい誤りの一つであり、信仰と聖寵の崩壊をもたらす最もひどいものの一つである。

6.-異端の自由な流布

 探求の状態に落とされた教会の状況は、プロテスタント的な意見の自由を実践において導入し、教会内部においていろいろな数多い信経を作り上げてしまった。「聖庁」や「禁書目録」また「反近代主義者宣誓」などの「廃止」は、現代の神学者達において新しい理論が必要だと言うことを思わせ、信者の方向を迷わせる理論や、信者をカリスマ運動や聖霊降臨運動、基礎共同体へと駆り立てる新しい理論を出させた。これは結局天主と教会の権威に対抗して打ち立てられた真の革命である。

 多くの教皇達によって永久に排斥された現代の重大な誤謬は今より教会内で自由に発展している。

1-反スコラ学的な、実存主義的、反知性主義的な近代哲学がカトリック大学や大神学校で教えられている。

2-人間を全てのものの目的であるとする現代世界の言うがままをオウム返しに言おうとする教会当局の必要のため、人間中心主義が尊重されている。

3-自然主義(非超自然主義)-人間と人間的価値の高揚のために贖いと聖寵の超自然的価値が忘れられている。

4-進化論的近代主義のために、二十世紀の聖伝と啓示と教導職とが打ち捨てられている。彼らにとってもはや固定された真理もドグマも存在しない。

5-社会主義と共産主義-公会議がこれらの誤謬を排斥することを拒んだことはスキャンダルなことであった。そしてそのためにバチカンは今日では多かれ少なかれキリスト教的な社会主義や共産主義に対しては好意的であると信じるようになってしまったとしても不思議ではない。

そして過去十五年間の聖座の態度は、鉄のカーテンの向こうに対してであれ、こちら側に対してであれ、この判断が正しいことを確証している。

6-最後に、「フリーメーソン」「諸教会の宗教統一会議」「モスクワ」との一連の「同意」のために教会は牢獄にいる状態に還元させられた。これらのため教会はもはや自由に自分の使命を果たすことが全く不可能になってしまった。これらの同意は天に復習を叫ぶ本当の裏切りであり、それは最近最も躓きを引き起こし教会にとって最も害を及ぼした異端の主導者「=ルターのこと]に対してなされた賛辞の数々も同様である。

 教会がその敵に気を使うことなく我らの主イエズス・キリストの統治とマリアの統治とを実現させる自由を回復する時は来ている。



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