吉野郡大淀町(おおよどちょう)は奈良県中部、吉野川右岸に位置する町です。紀伊半島のほぼ中央にあり、北は竜門山地が聳え、南には吉野川が流れ、西部の大阿太高原(おおあだこうげん)を始め、丘陵地が多いのが特徴です。御所市、五條市、高取町、吉野町、下市町に隣接。長期にわたって過疎化が深刻な吉野郡にありながら、近鉄大阪阿部野橋駅まで約1時間という利便性から、宅地開発によって人口が増加。官公庁が集まるなど、吉野郡の中核としての存在を強めています。また日本一の降水量を誇る大台ヶ原を源流とした吉野川の水源を活かした上水道の供給を行っており、奈良県内で最も安い水道料金設定が知られています(奈良県内水道料金の半額~三割程度)。「町の木:あらかし」「町の花:梨の花」を制定。
キャッチフレーズは「ひともまちも輝く大淀町 安全で住み良い活力あるまちをめざして」
明治22年(1889)、町村制の施行により吉野郡大淀村、宇智郡大阿太村が発足。
1921年、大淀村が町制を施行して吉野郡大淀町となる。
1952年、宇智郡大阿太村大字佐名伝を編入。現在に至ります。
マンホールは中央に町章を置き、町の特産品である「梨」と「吉野川の鮎」がデザインされています。
昭和41年5月制定の二代目町章は「大淀町の「大淀」を図案化したもの。」公式HPより
昭和37年1月15日制定の初代町章
大淀町六田地区に残る「町指定史跡・柳の渡し」には、天明6年(1786)建立の道標を兼ねた石灯籠や、【右 よしの ・ 左 いせ】と刻まれた道標が残されています。
用事が有っても無くても立ち寄ってしまうのが「道の駅」。「吉野路 大淀iセンター」、行けば何かしら、例えば美味しいものとか、珍しいものとかの発見があるものです(笑)。
山岳を神仏の世界そのものとする修験道。その聖地「大峯山系」では、今もこのような山伏(修験者)姿の行者が修行をしているそうです。こちらの熊さんは・・どのような経緯でこんな姿(剥製)になったのやら
撮影日:2009年6月27日
そんなにあっちにもこっちにも行けないよ(主人)
・・・そうか・・・
じゃぁ今見る事が出来るもの全部、画像に残しておくよ(私)
と、いつもこんな感じ(((((^_^;)
まかろんさん、本当に私を褒めるのが上手
こんな風にコメント頂くと毎日の更新が楽しい(*^^*)。
マンホールだけの地味な記事にだって
ちゃんと言葉を見つけて下さる
文章を生み出す人の凄さ
文章を大切にする人の優しさ
両方を、決して押しつけがましくなく披露してくれる
いつの間にかコメントを心待ちにしている私がいます。
Fc2への素敵なコメント、転載しました
きっと紫陽花たち、大喜びしてます
いつか紫陽花の咲く庭で、
まかろんさんの朗読など聞きながら
素敵なエアーお茶会しましょうね。
本当にいろんなところを回ってますね〜。👏
毎日、ふむふむと読んでいましたが、
橋の道標まで写真に撮られているのを見て、
はっとしました。
学者みたいな、すっごい網羅ぶりですね。
まるで各地を舐め尽くすような・・。
どこからこの情熱が来るのだろう、と思いました😳
紫陽花のサイト、ありがとうございました。
どこもかしこもキラキラした、おとぎ話のような
ページでした。
コメントも書いたのですが、
なぜか何回認証をしても、やり直せと出てしまい・・
ここにコピペしておきます。
『tibinekoさん、なんて素敵な紫陽花たちでしょう。
そして紹介する言葉が踊っています。
詩心があふれていますね👏
絵本のようです。
わくわくと、ウキウキと拝見しました😊
最初の数行にはどきっとしました。
tibinekoさんは本当に、心の愛が大きい人です。
原種に戻ってしまった、というのがまた
紫陽花の神秘を感じるようで、物語を感じますね。
素敵なサイトをありがとうございます。
インターネットの森のなかにぽっかり開けた、
小さな泉のような素敵なページです。
そんなtibinekoさんがこれからも、
愛と詩心を(そしてマンホール愛を!)胸に
笑って過ごされることを願います😊🙏 』
単に大人の事情だったのか・・・
平成の大合併ではいろんな地区で悲喜こもごもの話があったようで
それも主に、自分たちの慣れ親しんだ地名が消滅することに対してというのを多く聞きました。
私の故郷も大合併で市名は全く新しいものになりましたが
三つの町の名前は市名の後にそのまま続いたので、あまり違和感は感じずに済みました。
それよりも「大淀高校」と「吉野高校」の統合で「奈良南高校」・・
これは地元にゆかりの無い私でもちょっと「・・・・・」です。
歴史ある校名の筈が、奈良の南の方にある高校です!みたいで(^^;)
あ、そういえば母の母校も大淀高校。2年前に吉野高校と統合して「奈良南高校」なんて実も蓋もないつまらない校名の学校に生まれ変わりました。
わがふるさと高取は隣接する明日香村が防波堤となり、開発の波から取り残され開発の手は山を越えた大淀に伸びました。
でもやはり人口減少時代を迎え当時開発された住宅地も町ぐるみの高齢化が進んでいるようです。
平成の大合併の折、大淀町、下市町、吉野町の三町で合併協議が進められ全国的な知名度もあり吉野町と下市町は『吉野市』の新市名を受け入れましたが、大淀町はこれを拒絶、結局合併はとん挫したといういきさつがあります。
吉野が桜ブームもあり観光客が大挙来訪する中、吉野市にしとけばあれやこれやとメリットもあっただろうに。