倉敷市林に鎮座される「熊野神社」。「日本第一熊野十二社権現宮」と称します。主祭神は『伊邪那美神、伊邪奈岐神、家都御子神(けつみこのかみ)、速玉之男神』。
「文武天皇3年(699)、修験道の祖と言われる役小角は朝廷より訴追を受け、熊野本宮に隠れていたが伊豆大島に配流された。この際、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子達を中心に熊野本宮大社の御神体を捧持したとされる。彼らは3年にわたり各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701)3月、神託を得て現在の地に紀州熊野本宮を遷座。天平12年(740)聖武天皇が児島一円を熊野神社の社領として寄進した。天平宝字5年(761)には紀州熊野と同様の十二社権現宮を整え、付近の木見に新宮を、山村に那智宮(現・由加神社本宮、蓮台寺)を建て新熊野三山とした。」Wikipediaより
桧皮葺の美しい社殿は、左から第三殿・第一殿・第二殿・第四殿・第五殿・第六殿と並ぶ熊野本宮大社と似た形式が採られており、明応元年(1492)建造春日造の第二殿は、大正10年(1921)4月に国重要文化財の指定を。またそれ以外の社殿は正保4年(1647)建造で、昭和43年4月に県重要文化財の指定を受けています。
参道鳥居の内より神域を守護されるのは、嘉永3年(1850)8月吉祥日建立の狛犬さん一対。岡山県内では時折見かける、扁平な頭と柔らかそうな頬が特徴の一対。阿形さんは口中に玉を咥えています。
鳥居を潜りそのまま車で200mほど走ると、熊野神社の境内が見えてきます。
左手の手水舎に陣取り冷たい水を吐くのは大きな亀さん。さて・・熊野権現との関連性って何か有りましたっけ?
参道真っ直ぐの左手に立つのは、2007年10月再建の長床式の拝殿。かってこの場所には明和5年(1768)建造の拝殿があったのですが2003年の失火で全焼、4年の歳月の後、新たに建立されました。
拝殿の横に設けられた社殿地の中央より神域を守護されるのは、明治40年(1907)1月吉日建立の備前宮獅子さん一対。
夢中でデジカメを向けるご亭主殿と比べてもわかるように、かなりの大きさの宮獅子さん。その厳しい顔立ちは、何人もこの神域を汚す事を許さないという思いを秘めているようです。
宮獅子さんが守護をになうのは、中央左に「第一殿・西御前」、『熊野牟須美神(伊弉冉大神)、泉津事解之男神』が鎮座。右に「第二殿・中御前」、『速玉之男神、伊奘諾大神、高天の原』が鎮座されます。
十六枚菊の真ん中に一の文字が配された神紋。いわゆる「菊一文字紋」ですがこれに関する記述は見当たりません。
第一殿の左となりに「第三殿・證証殿」、『家津御美子大神 (素戔鳴尊)』が鎮座されます。
第二殿の右手に「第四殿・若宮」、『天照大神」が鎮座されます。
「第五殿・忍穂耳尊」、『正哉吾勝勝速日天忍穂耳命」が鎮座。右端の小さな社殿は「第六殿・瓊瓊杵尊」、『天津日高日子火瓊瓊杵命」が鎮座されます。
境内左端、一段下がった位置に鎮座される「八尾羅宮(はっぴらぐう)」。御祭神は『倉稲魂神』 創立は不詳。古老に寄ると「児島が島だった頃、狐などによる農作物の被害が多大で氏子の人達が熊野神社に祈願したところ、神社の西に祠を建てれば、狐達ここに集いて田を荒らさなくなるとのお告げありて、現在の八尾羅宮(はっぴらぐう)を建立」公式HPより
案内には御祭神が「八つの尾を持つ白狐」を神使いとしていたので「八尾羅さん」の愛称で親しまれているとありました。九尾でなくてよかった😊
もう一つ気になっているのが、台石に刻まれた丸と菱形。何らかの意味があってだろうと思うのですが、それに関した記述等が無くはなはだ消化不良。
境内右手は諸堂が建立された五流尊瀧院の境内になっています。今回は拝礼のみで失礼させていただきましたが「五流尊瀧院の三重塔」の美しさは格別のものがありました。
熊野神社南方に建立された国重要文化財の「宝塔(後鳥羽上皇御影塔)」。仁治元年(1240)、前年に死去した『後鳥羽上皇』の一周忌供養のため、『頼仁親王・覚仁親王』により建立したと伝えられています。
参拝日:2010年8月10日
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