津山市神戸に鎮座される「作楽(さくら)神社」。御祭神は『後醍醐天皇・児島高徳』。
由緒「元弘元年(1331)、鎌倉幕府の打倒に失敗し囚われの身となった「後醍醐天皇」は光厳天皇への譲位を強制された後、京から隠岐へ配流となり、その途上、美作国院庄の守護館に宿泊した。時に、備前の人、児島備後三郎高徳は、天皇の奪還を試みて船坂山や杉坂峠で一行を待ちかまえたが、みな失敗に終り、単身この館に忍びこもうと企てるも果たせず、折から館の門の前に春雨にぬれて美しく咲いていた桜の幹を削り白くなった所に、「天莫空勾践 時非無范蠡」と十字詩を刻んで立ち去った。貞享5年(1688)津山藩家老:長尾勝明は児島高徳の忠義心を讃え、その桜の樹があったと伝わる場所に高徳顕彰碑を建立。明治元年(1868)津山藩主松平慶倫は、政府から神社創設の許可を得て、作楽神社の創建となった。」岡山神社庁HPより抜粋
ふりしきる雨の中、館に幽閉された『後醍醐天皇』に己の無力さを詫びる『児島高徳』の像。
【天 勾践を空(むな)しうすること莫(なか)れ 時に范蠡無きにしも非ず】(天は、呉との戦いに敗北し捕らわれた越王・勾践(こうせん)を見捨てなかったように、先帝を見捨てることもありません。勾践に范蠡(はんれい)という忠臣がいたように、先帝を助け出す忠臣が必ず現れましょう。)
境内全域は鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の居館の跡と推定され、館跡の東・西・北の三方には総延長500mほどの現存土塁が残されています。大正11年(1922)3月8日、敷地全体(30,189平方m)が「院庄館跡(児島高徳伝説地)」として国の史跡に指定。また1973年と1980年の二度にわたる発掘調査では井戸や柱の基礎が見つかっています。
境内の一画に建つ「噫忠義桜十字詞之碑塔」は、「戦艦大和の建造者である海軍技術中将『庭田尚三』を会長とする忠桜会が、昭和46年に建設したもので、表面に「天莫空勾践時非無氾范蠡」と、後醍醐天皇御製二首および斉藤監物の七言律詩「題児島高徳書桜樹図」を、裏面に道家大門の和歌二首を記してある。」現地案内より
【 あはれとは なれも見るらむ わが民を 思ふこころは 今もかはらず 】(今の私を哀れと見る者もいるだろう、だが全ての人々をわが民と慈しむ心は今も変わってはいない)京の石清水八幡宮の前を通られた時に詠まれたと伝えられます。
【よそにのみ 思ひぞやりし 思ひきや 民のかまどを かくて見むとは 】(仁徳天皇の御歌で知っていた民のかまどを、思いもかけずこのような所で直接見ることになろうとは・・)美作市楢原中の笠懸の森で休息された時に詠まれたと伝えられます。
「女院塚」は『後鳥羽上皇』が隠岐に御遷幸の途次、この地で病歿された寵妃:姫法師を葬った塚と伝えられています。
歌誌「水甕」同人で郷土史家でもあった『野村完六』文学碑
【 とびひとつ まぢかにまひて美作や 高き山はら雪にくれゆく 】
『井隆・矢野峰人』。「寮歌よ永遠なれ」詩碑
「白桜十字詩」と呼ばれる詩を初めて耳にしたのは12歳の時、卒業式の式典で校長先生が私たち卒業生へのはなむけとして謡ったのが最初です。今ならきっと、身も心も赤く左に傾いた人たちが、口角泡を飛ばして校長先生を謝罪に追い込んだかも・・などと思います。数十年を経た今でもはっきり覚えているという事は、当時の私にとって、それほど心に響いたという事でしょう。
参拝日:2015年4月24日
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