明治8年(1875)7月30日、八人兄弟の六男として生を受けた『柳田國男(松岡國男)』。「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、特に初期においては「山の生活」に着目。著書「遠野物語」に、「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と記しています。写真は『大正天皇』即位の御大礼において「大嘗祭」に出席した時のものと思われます。
利根川べりの布川にある旧小川邸の離れは、彼が13歳の頃から三年間を過ごした場所。現在、旧小川家の母屋(復元)と土蔵は「柳田國男記念公苑」として一般に広く開放されています。
小川家母屋の庭先には、國男が東京の自宅で育てていた「山桃」の木が、高く茂っています。
施設の記念スタンプは、國男少年が書物を乱読したという「小川家の土蔵」。
土蔵の前には「小川家の屋敷神」が祀られており、ここで國男少年は「神秘体験」をしました。 好奇心旺盛な少年は、家人の留守を見計らいこの祠の石の扉を開けて中を見てしまったのです。中には綺麗な玉が入っており、それを見た途端心がざわめき、そうして見上げた青空には星が輝き・・
・・・と、突然、ヒヨドリが鳴きながら空を通過し、その声で正気を取り戻す事が出来たといいます。
「触らぬ神に祟りなし」・・兎にも角にも石祠に手を合わせ🙏🙏、履物を変えて土蔵へと移動。
土蔵の中に入って一番に目に飛び込んできたのは、ガラスケースの中で貴重品然とした「玉」。例の「石祠の玉」・・・ですが大丈夫😄。これはレプリカで、実物は別の場所に保管されているとの事。 神として祀られている物に、迂闊に手を出してはいけない・・不心得物は肝に銘じましょう!
狛犬を盗んだり、鳥居を傷つけたり、あまつさえ本尊とされる仏像を盗むなど、信仰の有無に関わらず人として最低の行為です!!
資料館の展示内容は実に多岐に及んでおり、本来ならじっくり腰を据えて見たい物ばかり。
「私の家は日本一小さい家」だと、國男が折に触れて人に話したと言う「生家の模型」。
これは2014年12月に訪ねた、兵庫県福崎町にある実際の彼の生家で、四畳半と三畳が二間ずつ・・。確かに大きいとは言えませんが、当時の一般庶民の家を見れば「日本一小さい」は言い過ぎ😓 居住者人数に対してと付け加えましょう😄
様々な展示に見入りながら進んでいた私の足をピタリと止めさせたのは、壁に架けられていた一枚の絵。 その絵の中から聞こえてきたのは、消え行く嬰児の声、詫びて・・詫びて・・吾が子を殺める母の、血を吐く無音の叫び。私はただ・・・立ちすくんでいました。
「柳田國男は、『故郷七十年』の中で、「利根川べりの生活で、私の印象に最も強く残っているのは、あの川畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである」と述べています。 今も布川の徳満寺本堂に掲げられ、「間引き絵馬」として知られるこの絵馬は、産褥の女がはちまきを締めて、生まれたばかりの嬰児を押さえつけているという悲惨なもので、障子に映った影絵には角が生えており、そばには地蔵様(現在は足の部分だけが残る)が立って泣いています。この絵馬は先に当地方を襲った飢饉の被害の甚大さを物語る貴重な資料の一つで、食料が欠乏した場合の調整は死以外になく、人工中絶ではなく、もっと露骨な方法が採られてきたことが伺えます。これを見た國男は、「その意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になった。」と述べており、後に民俗学を志す原点なったともいわれています。」資料館説明より
飢饉の被害の甚大さを物語る貴重な資料の一つで、食料が欠乏した場合の調整は死以外になく・・・絵馬に描かれた室内の様子は、屏風などの調度を見てもそれなりの大家と思われます。そんな家庭であっても子を間引かねばならなかったのか・・・と同時に、誰が何の意図でこの絵馬を書いたのだろうかという問いが生まれました。それが子殺しをしてしまった母親であるなら、自らを鬼としたことも、親の手によって殺される子に御仏の慈悲があると信じたかった心も・・上っ面ではあるけれど、でもわかるような気がします。
訪問日:2019年3月16日
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