五條市(ごじょうし)は奈良県南西部、吉野川流域に位置する市です。金剛山と吉野連山に囲まれ、大和国と紀伊国を結ぶ交通の要衝として、また吉野山地への入口として古来より重視されてきました。御所市、淀町、下市町、天川村、黒滝村、野迫川村、十津川村、上北山村に、また県を跨いで大阪府河内長野市、千早赤阪村と和歌山県橋本市、高野町に隣接。吉野川の流域に開けた町の辻辻には、こうした道標や石灯籠を幾つも見ることが出来ます。「市の木:楠」「市の花:桔梗」を制定。
キャッチフレーズは「豊かな自然と歴史が織りなすなごみとロマンとふれあいの創造都市」
明治22年(1889)、町村制の施行により、宇智郡五條町・牧野村・北宇智村・宇智村・南阿太村・野原村・阪合部村・大阿太村・南宇智村が発足。
1928年、野原村が町制を施行し、宇智郡野原町となる。
1952年、大阿太村大字佐名伝が吉野郡大淀町へ編入される。
1957年、宇智郡五條町・牧野村・北宇智村・宇智村・大阿太村・南阿太村・野原町・阪合部村が合併、五條市が発足。
1959年、宇智郡南宇智村を編入。
2005年、吉野郡西吉野村・大塔村を編入。現在に至ります。
マンホールには市章を中心に、「市の花:キキョウ」がデザインされています。
昭和33年10月1日制定の市章は「「五」の文字を金剛山に因んで山形に図案化し、飛躍発展と市民の融和を象徴。」公式HPより
撮影日:2009年6月27日
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旧吉野郡西吉野村(にしよしのむら)は奈良県の中南部、乗鞍岳の麓に位置した山間の村です。全国有数の柿の生産地として知られて、村のイメージキャラクターは『カッキー』。また村域にある賀名生(あのう)梅林は、丘陵を麓から中腹までおおいつくすように2万本の梅が咲き誇る県下有数の梅林として知られ、村の観光資源の一つとして多くの人々が訪れる名所よなっています。五條市、下市町、大塔村、天川村、黒滝村、和歌山県高野町に隣接。「村の木:ヤマモモ」「村の花:福寿草」を制定。。
明治22年(1889)、町村制の施行により、吉野郡白銀村・賀名生村・宗檜村が発足。
1959年、吉野郡白銀村・賀名生村・宗檜村が合併、吉野郡西吉野村が発足。
2005年、五條市に編入。
昭和63年7月1日制定の村章は「「にし」を図案化し、「に」は村の姿・「し」は融和と協調の精神を表し、中央の空白部分は村の地図を表したもの。」奈良県年鑑より
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旧吉野郡大塔村(おおとうむら)は奈良県の南西部、紀伊山地の山岳地域に位置した村です。紀伊半島の中央部、紀伊山地を東西に分ける十津川沿いに村落を構える山間(やまあい)の村で村域の96%は森林であり、古くより林業が盛んに行われていました。十津川村、野迫川村、西吉野村、上北山村、天川村、和歌山県高野町に隣接。「村の木:杉」「村の花:笹百合」を制定。
明治22年(1889)、町村制の施行により吉野郡大塔村が発足。
2005年、五條市に編入。
昭和47年頃の制定とされる村章は「護良親王が難を逃れてこの地に参られたと伝えられ、カシワの紋章はこの宮の紋章であることから、この紋章を当村の村章として用いたもの。」奈良県年鑑より
幾つもの自治体の知章を見てきましたが、大塔村の村章は、美しいという言葉がぴったりです。
旧吉野郡西吉野村・大塔村に関しては未訪問の為、マンホール画像はありません。
不思議なくらい宗教色が無く・・と言うよりも押しつけがましさが無かったと言った方が正解かも。
https://blog.goo.ne.jp/tibinekosan/e/76fcd8523a87a6ca92bb570b1f438791
裏山に古墳が連なり・・・とは、何という恵まれた環境!!
考古学オタクにならない方が不思議で、想像するだけでかなり羨ましい!!
瀬戸内海の海辺で育った私にとって、古代の日本に触れられる環境というのは、本当に!憧れます。
バイクタンデムだった頃の訪問は、
山道は怖いという気持ちがどうしても消えなくて
結局、山越えする根性が無いまま未訪問となりました。
大塔ですが、後醍醐天皇の皇子『大塔宮護良親王』が、
元弘の変の際にこの地の豪族『戸野兵衛・竹原八郎』らに匿われたことに由来しており
いわゆる「搭」とは無縁なのです。
今日は雨のち晴れ、のち曇りと中途半端なお天気。
でもって主人のリハビリの日で半日病院
簡単な買い物を済ませて帰宅
・・ごくごく通常の一日でした(笑)
でもありきたりの一日が実は一番良い日かも。
まかろんさんの明日が「穏やかな普通の一日」でありますように。
松下幸之助が帰依していたこともあり新興宗教としては相応の信者がいます。
奈良の智辯学園は昭和40年開校、一方和歌山高は昭和53年開校で奈良の智辯学園が兄貴分となりますが、高校野球でも進学状況でも今や和歌山高の方が上になりました。
ちなみにわたくしは高校時代は帰宅部。笑
生まれ育った高取町は古墳密度日本一。我が家の裏山にも古墳が連なり、畑をちょっと掘れば土器が出てくるような土地柄、さらに祖父が大学で吉野の歴史や奈良県の地名学について教鞭をとっていたこともあり、高校くらいまでは考古学大好きなオタク少年で、夏休みなどは遺跡の発掘のアルバイトで汗を流しておりました。笑
絵のようなデザインの物も面白いですけど、
これくらい、ザ・デザインって物の方が
日常には良いような気がします。
まあ、ご近所の方はなんのデザインだろうが、
がしがし踏んで通行しているのかもしれませんが😅
うー、まっちさんのような、知ってるぞ!って
コメントはなにも書けません。
日本全国、細かい知識は何ひとつないのです。
そう言えば、中高の地理の授業はダメダメでした。
(なので、選択は日本史と世界史にしました!
お話系が昔から得意だったのですね、思い返してみると😓)
>幾つもの自治体の知章を見てきましたが、
おおう・・。
知章なんてものがあるとすら、気づきませんでした。
いやまあ、よく考えたら見かけてはいたのですけど。
大塔村、塔があったのでしょうかねぇ。
いま私は塔の物語を発表しているところなので、
ちょっとご縁を感じます😊
今日はこちらでは、なぜか人出が多かったです。
電車も混み、お店も人がいっぱいで。
そちらではどうでしたか?
世情をよく知り、しかし流されることなく、
生きていきたいものですね😊
明日も健やかにお過ごしください🌸
まっちさんの颯爽とした制服姿、きっと素敵だっただろうなと想像します。
智辯というと智辯和歌山市か思いつかないような、スポーツ系音痴ですが、五條市にもあるんですね。
ちなみに、まっちさん、学生時代はどんなスポーツを?
ダム歩きのフットワークの軽さを見ていると、颯爽としたスポーツマンだったのかと勝手に想像しています(^-^)
江戸時代、現在の吉野郡の大半は幕府直轄の天領で五條にはそこを治める代官所が置かれていました。
九州で言えば日田と同じような存在です。
五條新町には古い町並みが残り、数年前までダイワハウスのCMにも登場していました。
市内には野球の強豪智辯学園があり、高校野球ファンならなじみのある町だと思います。
わが母校といえば明治時代に県下三番目の旧制中学として誕生し、そこそこの進学校という立ち位置でしたが、人口減少や交通の便の悪さからこの15年ほどで偏差値がガクッと落ちてしまい、かつての卒業生にとっては無念やるかたなしの状況です。