駿河湾沿岸近くの有度山(うどやま)の山頂と、その一帯に位置する「日本平」。 駿河区と清水区の境界にある景勝地で、その名称は『日本武尊』の伝説に由来します。
日本平から望む富士山は遥かに遠く、それでもなお美しく、『日本武尊』も同じ景色を見たかもと思うだけで胸が熱く(笑)ついつい感動してしまう私。
はるか昔・・・小高い丘に登り周りの平原を見渡す『日本武尊』の姿を見た土地の人たちは、この地を「日本平」と名付けたと・・・古より語り継がれてきました。
【倭は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 倭しうるわし】
古事記に登場するこの歌は、『日本武尊』が死を前に故郷である大和の国を懐かしんで詠んだと伝えられています。所詮神話の作り話、実在などしないと笑う種類の人たちもいますが、私は『日本武尊』が詠んだと言われる「倭(やまと)しうるわし」のこの言葉が、切なくなる程好きです。
訪問日:2011年11月13日
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神話ではなく実在の人物として、清水区には私が愛してやまない侠客『清水次郎長』がいます。『大政・小政に森の石松』、次郎長一家の話は、映画や小説でもずいぶんと取り上げられました。 みんな飛びっきりの男前な気質で、子供心にも胸がときめいたのを覚えています(笑)
ご亭主殿が感慨深げに見ている建物は、明治十九年に清水次郎長が清水波止場に開業した「船宿・末廣」を復元したもの。
『清水 次郎長』・・本名『山本 長五郎』は、幕末・明治の侠客で東海道一の大親分とうたわれた人物。次郎長は晩年の住居を港の中心部(清水区港町)である波止場と定め、「船宿・末廣」を建てました。「勝運」「願 次郎長」と刻まれた碑は、侠客であった次郎長らしいよね (^^♪
「末廣」には、日露戦争で活躍した『広瀬武夫』や『小笠原長生』、画家の『富岡鉄斉』。広辞苑編者の『新村出』等々・・私でも名前を存じ上げている著名人が訪れ、次郎長と歓談したと言われています。
しっかり者の女房『お蝶』に店の事は任せっきりで、木綿の着物に素足でどこへでも出かけた次郎長。 おしどり夫婦として仲良く寄り添い、大勢の子分たちの親代わりとして慕われ束ねてきた次郎長親分。
次郎長の晩年は、近所の子供たちに慕われ、ゆったりと時を過ごす「港のおじいさん」。穏やかで和やかな時間は、時に生死を分ける博徒の世界に生きてきた次郎長が最も欲して来た時間だったのかもしれません。
明治26年(1893)、風邪をこじらせた次郎長は、恋女房のお蝶に手を握られ73才でこの世を去ります。 大正5年(1916)にお蝶も死亡。「船宿・末廣」は次郎長の養女『山本けん』が引き継ぎました。
1999年、清水港のすぐ近くを流れる巴川の河口付近に建てられた「清水港船宿記念館・末廣」。もう少し早い時間に訪問できれば、「次郎長親分の等身大の人形」と記念写真も撮れたのに、ああ、勿体無かったな・・・。
目の前に広がる海の景色は、かって次郎長親分が眺めた頃とは違っているだろうけど、空を写す海の色はきっと変わっていない。激動の時代の中で、幕府軍・官軍の色分けをせず、人としての誠を貫き、清水港の発展に尽力した「清水の次郎長、まっこと男前!!」
訪問日:2011年11月12日
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