Chinchiko Papaさんが書いているブログのタイトル「落合道人」の中の「交叉する中村彝と清水多嘉示。」という記事を読んだ。
その中に清水多嘉示の遺族が所蔵するという中村彝とされるある書簡の写真が載っていた。
以前、武蔵野美術大学で清水多嘉示の資料展示があったが、私はその展示を見落としていた。この書簡がそこに出ていたかどうか、そのうち確認したいと思う。
私はその書簡の存在を、Papaさんのこのブログ記事のお蔭で初めて知った。
その書簡の内容、写真で判読できる範囲で言うのだが、実に珍しい画家の名前が登場している。
平賀、松原、幸徳といった画家たちである。
彝の研究の方からは、これらの画家はほとんど馴染みのない人たちであり、具体的にどのような関連があったのか、私は知らないでいた。
だが、この書簡の存在で、彝がアメリカに渡ったこれらの日本人画家が、フランスのサロン・ドートンヌに「通過」するかどうか、大いに関心を持って見ていたことが知られる。少なくともそのような内容を含む書簡である。(※追記参照)
それらの画家とは、すなわち平賀亀祐、幸徳幸衛、そして松原というのは松原兆雄のことと、写真の書簡を判読していくと分かってくる。
幸徳は秋水の甥に当たる画家で、近年、展覧会も開かれ、研究が進んでいるようだ。
松原兆雄は、清水夏晨の私家版の詩歌集『永遠と無窮』(大正9年)の装丁やカットの他、さらに夏晨の「自序」とは別に「序文」を書いている。
『永遠と無窮』というタイトルは、彝の『無限感』を想像させ、何か共通する時代感覚が見られるので、ちょっと興味深い。
ところで、この書簡、どうしても気になることが一つある。それは、この書簡の筆跡が、写真からではあるが、彝本人のものには見えないということである。
清水多嘉示の遺族所蔵の書簡であるから、多分、多嘉示がパリから持ち帰ったものと考えてよいのだろう(※※追記参照)。
そうであるならば、この書簡、彝の周辺にいた者によって代筆されたものと考えるのが自然ではないだろうか。(下の追記に書いたように今の私は、これが代筆である可能性も保留しなければならないと思っています。)
実際、そのようなものは他にないわけではなく、また、彝の病状は、この書簡が書かれたとされる頃、あまり良くなかったのだ。
まさに代筆された可能性が強い状況だったと逆に推測されると言ってもよいだろう。
病状は、その後、作品も制作し、テーヌの翻訳を原稿用紙に書いたりすることができるほどに恢復はするが、この書簡からほぼ一年後、彝は亡くなるのである。
その中に清水多嘉示の遺族が所蔵するという中村彝とされるある書簡の写真が載っていた。
以前、武蔵野美術大学で清水多嘉示の資料展示があったが、私はその展示を見落としていた。この書簡がそこに出ていたかどうか、そのうち確認したいと思う。
私はその書簡の存在を、Papaさんのこのブログ記事のお蔭で初めて知った。
その書簡の内容、写真で判読できる範囲で言うのだが、実に珍しい画家の名前が登場している。
平賀、松原、幸徳といった画家たちである。
彝の研究の方からは、これらの画家はほとんど馴染みのない人たちであり、具体的にどのような関連があったのか、私は知らないでいた。
だが、この書簡の存在で、彝がアメリカに渡ったこれらの日本人画家が、フランスのサロン・ドートンヌに「通過」するかどうか、大いに関心を持って見ていたことが知られる。少なくともそのような内容を含む書簡である。(※追記参照)
それらの画家とは、すなわち平賀亀祐、幸徳幸衛、そして松原というのは松原兆雄のことと、写真の書簡を判読していくと分かってくる。
幸徳は秋水の甥に当たる画家で、近年、展覧会も開かれ、研究が進んでいるようだ。
松原兆雄は、清水夏晨の私家版の詩歌集『永遠と無窮』(大正9年)の装丁やカットの他、さらに夏晨の「自序」とは別に「序文」を書いている。
『永遠と無窮』というタイトルは、彝の『無限感』を想像させ、何か共通する時代感覚が見られるので、ちょっと興味深い。
ところで、この書簡、どうしても気になることが一つある。それは、この書簡の筆跡が、写真からではあるが、彝本人のものには見えないということである。
清水多嘉示の遺族所蔵の書簡であるから、多分、多嘉示がパリから持ち帰ったものと考えてよいのだろう(※※追記参照)。
そうであるならば、この書簡、彝の周辺にいた者によって代筆されたものと考えるのが自然ではないだろうか。(下の追記に書いたように今の私は、これが代筆である可能性も保留しなければならないと思っています。)
実際、そのようなものは他にないわけではなく、また、彝の病状は、この書簡が書かれたとされる頃、あまり良くなかったのだ。
まさに代筆された可能性が強い状況だったと逆に推測されると言ってもよいだろう。
病状は、その後、作品も制作し、テーヌの翻訳を原稿用紙に書いたりすることができるほどに恢復はするが、この書簡からほぼ一年後、彝は亡くなるのである。
【追記】※幸徳の伝記や平賀の年譜を参照すると、本当に彝はこれらの画家を知っていたのかどうか、今の私は疑問に思っている。というのは、彝が生きているあいだに幸徳と平賀がフランスに行っている事実が私には確認できないので。松原については、1913〜16年にサンフランシスコの美術学校で学んだ後、パリに行き、1919年頃に米国に戻ったらしい。さらに彝の没後だが、彼は1926年にも滞仏していたようであり、バルビゾンを訪ねたり、モレーで制作していることが、ある新聞から知られる。
だが、多嘉示宛とされる先の手紙の内容を見ると、彝の在世中に幸徳と平賀も米国からパリに行ったよう読み取れる記述がある。また、この手紙に言及されている山崎なる人物が誰なのかも私には判らない。
今はこの手紙自体がその筆跡から彝の真筆でないことは確実と考えるが、更に代筆であるかどうかも詳細に検討する必要があると思う。
※※ この手紙、多嘉示が直接パリから持ち帰ったものだろうか。筆跡のみならず、判読しうる書簡内容から見ても、どうもそうではなさそうだ。遺族所蔵は間違いないので、私は本文記事のように、代筆手紙の可能性を当初は探った。だが、多嘉示の帰国後、年数を経て、第三者から多嘉示本人、または遺族のどなたかにこの手紙が渡った可能性も考えなければならないのではなかろうか。(2020年6月18日追記す。同年6月30日追記一部訂正。)
ほんとですね、ご指摘を受けるまでうっかり気づきませんでした。生誕130年記念会では、ほかに清水多嘉示あてに書かれた、中村彝からのハガキが4点、「芸術の無限感」に収録されたフランスの清水に宛てた手紙(銀座伊東屋の原稿用紙へ筆記)を拝見したのですが、おっしゃるとおり筆跡が異なります。
彝の身近にいて、口述筆記を引き受けたのは果たして誰だったのか・・・、推理するととても面白そうなテーマですね。ありがとうございました。
きっとミステリーよりも面白くなることも。
今後も「落合道人」読ませて下さい。