日本の文化「忍者」でよく知られている手裏剣は、金属製のため重量があり、先端も刃物に近く危険性が高い為、限られた場所でしか遊ぶことができません。そこでどこでも安全に遊べて、的に向かって矢を投げ入れるところが似ているダーツに着目して手裏剣型玩具「忍者ダーツ」を開発いたしました。
世界の文化「ダーツ」は世界中でファンも多く、競技人口も多いスポーツであり娯楽でもあります。
ぜひ、世界中の国で、手裏剣型のダーツを利用して多くの方に日本の文化である忍者の手裏剣打ち(投げ)を楽しんでいただきたいですね。
第二弾となる戦国武将シリーズの赤備え手裏剣を平成29年7月28日(金)に販売いたしました。
赤い忍者ダーツ発売の背景【3大赤備えストーリー】
武田の赤備え軍団の創始者であり4つの武田の赤備えの中で最も強かったのが、
飫富兵部少輔虎昌(おぶひょうぶのしょうゆうとらまさ)、虎昌の亡き後に精鋭を受け継いだのが、
弟の山縣三郎兵衛尉昌景(やまがたさぶろうひょうえのじょうまさかげ)でした。
武田四天王と賞された昌景の戦いぶりもまた虎昌に劣らぬもので、赤備えは武田家最強部隊として恐れられます。
三方ヶ原の戦いで、山県昌景隊が、井伊谷に放火。龍潭寺がこの時全焼したといわれています。
また徳川家康が、本陣に襲い来る赤備えに死を覚悟したという話も有名です。
天正10年 織田、徳川連合軍が甲斐に侵攻、武田勝頼は自刃して武田家が滅亡しました。
信長は武田遺臣を皆殺しにしようとするが家康が匿って召し抱える事になったことで、万千代(虎松)
は北条との交戦の際、功績を認められ家康の命により「武田赤備え」を継承しました。
以後、井伊の赤備えとして数々の武功を表し、赤備え最強説を継承していくのです。
そして、大坂の陣において、真田信繁も父・昌幸が慕った武田家の武名に肖った赤備えを率いて奮戦し、
家康を追い詰めました。三方ヶ原と大坂の陣、家康は生涯二度、本陣を破られていますが、
その2度とも赤備えが関わっているのです。
最強の名を不動のものとした赤備えは、戦国の世において花形であり続けたのです。
大坂の陣、井伊直政はすでに死去していましたが次男直孝が「井伊の赤備え」を率いて従軍、
「真田の赤備え」と対陣していました。
武田・真田・井伊の赤備えは、魂の系譜として現代に語り継がれています。
戦国時代の最強部隊の証、武田・真田・井伊の赤備えを魂の系譜として、赤備え手裏剣3種類をデザインしました。
1.井伊「井伊の赤鬼ver」は井桁紋と井伊直虎
2.武田「風林火山ver」は武田菱と風林火山
3.真田「日本一兵ver」は六文銭と不惜身命
手裏剣は忍者の身を守るお守りでありパワーアイテムでした。赤備えは戦国時代の武士のパワーアイテム、赤の手裏剣は現代社会のパワーアイテムとしてご利用ください。
※使用場所での識別をしやすくするために明るめの色で制作しました。
http://www.titose.net/