神等去出祭 小早川錦棕梠
大八洲を生み給ふ「伊弉冉尊」は出雲國佐太の里に御鎮座ましました。これが即ち、八束郡佐太村の佐太神社(神在社)、御祭神が「伊弉冉」で夫神「伊弉諾尊」を祀られたのは後世である。
この御祭神「伊弉冉尊」は佐太神社で十月御崩御になったので、日本國中、八百万の神様は大母祖神のお忌みにあわれたのである。
俗界に於いても祖先の年忌御法要を行うと等しく、神界に於かせられても大母祖神「伊弉冉尊」の御祥月である十月に、毎年、佐太神社へ日本國中の八百万の神様がお集ひになって、祖先祭をお営みなさるのが、「お忌み祭」(神等去出祭)である。
陰暦十月十一日から十七日までを「上のお忌み祭」(小神等去出)と称え、二十日から二十六日までを「下のお忌み祭(大神等去出)として祭典を行われていたが、室町時代に十月十八日に「神来祭(かみこさい)を行われて以来、佐太神社にては「下のお忌み祭」を大切にする様になり、明治の中期から遂に「下のお忌み際」だけ行われている。
二十日神迎ひの神事には佐太神社、社前に注連縄を張りめぐらして浄めの湯立てが焚かれる。
日本國中八百万の神々は無数の篠舟(ささふね)に乗って佐太浦(江角浦)に上陸し恵曇神社で休憩され、其の日の夕方、佐太神社(神在社)に着かれる。
日本國中八百万の神々を迎へられた佐太神社では、大母伊弉冉尊の祖先祭の「お忌み際」であるが故に、総てのお祭り騒ぎを厳禁して、至極静かに行われるが、単にこの神社のみでなく、出雲國全体が謹慎の意を表した御祭典である。
陸上にあらせられる日本國の神々は、神在社にお集ひ給ふのであるが、海上の神々さまはお集ひなく、龍蛇を以て代参させられるのである。
陰暦十月にもなれば、季節的にお忌み荒れは続く。このお忌み荒れが凪ぐと必ず佐太七浦の何れにか、長さ一尺余り、背に亀甲、輪違ひの紋(佐太神社の神紋)のある龍蛇が着く。之を発見した浦人は、藻草を敷いた清らかな器を龍蛇の前におく、龍蛇はこの器に上がりて蜷局(とぐろ)を巻いて静まるので、之を佐太神社に献上する。
神社では陸と海との神々が集ひ給ふのであるから、六日間厳かに神事が挙げられるが、二十五日の深更に沙汰神社では注連口(しめのくち)の神事とて、かねて社前に張られてあった注連縄を切りとられ、二十六日早朝に神社の乾の方の神目山(かんめやま)に於いて神等去出の神事が行われ、お集ひになっていた八百万の神々は帰國の途につかれる。
大母伊弉冉尊お忌み祭の土産として、神々は楢葉百枚、へうそかづら百根づつを頂くかれ、榊で飾られた十五艘の舟で佐太浦から御出発になり、島根郡の多賀神社、神戸郡の万九千神社、秋鹿郡の高宮神社などで御休憩なされて、各々のお國へお帰りになる。
この日、出雲國中の在家では神在餅(神等去出餅)とて小豆を用ひた餅を搗いて神前に供えて頂く習慣になっている。これが今は善哉餅(ぜんざいもち)と言はれている。
これは、私が幼い頃、父から聞かされていた神等去出祭の伝説である。
ところが、現今、多くの書物、就中俳句の歳時記などを読むと、神等去出祭はその起因をなした佐太神社の祭典としては見えず、専ら出雲大社(杵築大社)の縁結び祭に改められているかの如くであるのは、いつの頃より始まったものか詳らかならぬ。
しかし、何れにしても、出雲は神國として神在月(神有月)の神等去出祭(お忌み祭)の行事を永遠にわすれられないであろう。
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