自分は最近、聖なるものを追い求めていた。
しかし、その結果はすごく自分が俗なるものではないかということだ。
最近は、明治の大学などの学校教育制度について少し勉強していた。
そのなかで、日本では医学・法学・工学などの実際的なものに学生が集中するということだ。
自分は、どうもそういうものが苦手で、文科にはいってしまい、そういうものは、大学でいろいろ自分で勝手に大学の書店にある本などを参考にして勉強していた。
その結果、自分には中世ヨーロッパの世界が織りなす世界が楽しくて、ともかく卒業して研究生で在籍している間は、学問への興味を持ち続けることができた。
今の学生の忙しさからみるととてもよい環境にいたのだと思う。
半分、修道士みたいな生活だった。
最近は、すごい美人に出会ってすっかり魂を抜かれてしまい、そのあたりの街角をさまよっていた。
しかし、すべてが消えて思うのは、すべてはなんだったのだろうということだ。
体力もあまりないので、あまり悩む気力も無い。
自己主張もしたくないので、古いものを見たりして夜をすごしている。
聖なるものを追い続けるといつしか心が俗なるものにどっぷり漬かっていることに気づく。
いい加減にこの悪循環から抜け出したいと思っても人はみなひょっとすると自分と同じようなことを思っているのだろうか。
琥珀色のブランデーが漆黒の夜の闇をすいとっていくようだ。
こんな自分にも朝があるのだから、もっとも来て欲しくない朝もあるのだが。
人のように現実的な学問をしていないので、なにかずっと山の中の小民家に花でも育てて生きているようだ。
いやひょっとすると本とかばかりの生活を送っても山の中の生活といかばかりかの違いがあろうか。
ただ、都会の闇は人をほっといてくれるということだけであろうか。
いっそ頭のなかが、琥珀色の液体でそまってくれればと思う。
最近、急に寒くなって風邪をひいたらしい。
いや、心の風邪ならしょっちゅうひいている。
明日は一日寝ていようか。
毎年、体力が低下していくことを感じている。
おまけに、忘れやすい。かなりこれはひどくすすんでいる。
ハンガリーの写真集を中古で買ってみていた。
聖イシュトバーン教会の結婚式の写真がある。花嫁は父親の手に携えられながら石の階段をのぼっていく。
どこの世界でも聖なる瞬間だ。この聖なる瞬間がなぜ永遠に続かないのかは不思議だ。
人の心の中には、聖なるものがあるが、いつも俗なるものが少しだけ強い。チャップリンの殺人狂時代の台詞みたいにいえば。
ほんとにこの俗なる世界のなかで、聖なるこころで聖なる生活をしている人はどんな生活をしているの。