時の喫茶店

趣味は歴史そして哲学 自然の中に溶け込んでいく心を追い求めたい

悲しいこと

2014-11-28 20:31:35 | 日記


自分が一番悲しいことは、ある人の住所を聞く気もなかったのに、住所を聞きたそうな思いをしていると思われたことです。

実際、そんな思いはなかったというのも、まず自分はとても無精なので、そんなところまで行くはずがない。

もうひとつは、人間は努力によって精神的な存在になれるということだ。

宮沢賢治の詩のなかに有名なでくのぼうということばがあるが、人はそういう存在になれると感じる。

ただ現代世界では、あふれ出る情報量と終わらない仕事がその邪魔になっているだけだ。

今日は予定より2時間遅れている一日をすごしている。不思議なもので予定よりはやい一日を過ごしたことがない。

思うに彼女はなにを思ったのだろう。

自分の学生時代にもない思いだ。

人は精神で生きる。自分がその頃たたかっていたのは自分の精神の限界とその境界線上のさまよいだ。

そのことをわかってもらえなかったのが大変悲しい。

人が人と出会うというのはすぐれて精神上のことだと思う。

そこには故郷・都市・農村そして合唱、いろいろな要素がごちゃまぜになってはいっている。

だから、もしそれがほんとうの出会いならば代わりの出会いに出会う確率はそうとう少ない。

彼女がそのときほかの誰かの声を聞いたのならばそれは間違いだ。

人の声とともに自然の音を聞かないといけない。

近年、多くの人々が出会いながら分かれているのは、それは自然の声、とくに自分が育った土地にある程度近い自然の声を聞かないからだ。

自然は、文明に報復する。

歴史の多くが滅びたのはそれは自然から遠のいたからだ。

田楽からでてきた能楽がさかえたのが義満の時代ならば、次第に自然から遊離した室町幕府を倒した信長が野生児であったこともわかる。

江戸幕府がその腐敗の局に薩長の農村の自然児に倒されたのもわかる。

人の出会いもそうであり、それが自然を離れ技巧的になるにしたがって人間関係だけの世界におちいり、本来の自然をなくし、やがて社会的な部品にすぎなくなればそれも壊れる。


骨董がこころをひきつけるのは、それがいにしえの自然に近いところで作られたからだ。

それが、其の時代の自然のなかでつくられたからだろう。





頼れるもの

2014-11-27 19:09:51 | 日記


現代は、人々がそれぞれ自分勝手に動いている時代だ。

だからいつものようにその人に頼ろうとしてよりかかろうにも、その人は別の道を歩いている。

だからいったい誰にたよったらいいのだろう。

今の人たちには昔の村といった共同体に対する思い出が無い。

これはある意味おそろしいことでほとんどの人たちは都会人であるということだ。

都会人の生きる道、それはもう路地裏にひっこんでしまうか、やたらしゃべりだすかだろう。

路地裏にひっこんでいるよりパーティーに行きたいとは誰かが昔言っていたことだが、日常でない世界においてどれほどの出会いがあるだろう。

ある意味、山の中の小さな神社にある銀杏の木が、落ち葉をふやして絨毯のようになっている、そこにはきっと昔、パーティーがあったのだ。





そして、今はそこには誰もいない。

けれども、人間はそんな光景を思い浮かべるようでないとどっか生きていけないものではないだろうか。

育ちのよい人間が増えた。暴力のかわりに言論を、正義の言論を、そんなものを言ってもなんか過保護社会の象徴のような気がする。

ここではだから、自分の言葉をつかおうと思う。

人には考え方にくせがあると今日、精神科の先生の講演のなかのひとことだが、さすがにするどいことをみておられる。

人にはくせがあり、そのくせが強い人ほど自分を出してはいけないのだと思う。

自分にもずいぶん癖があり、それを出してはいけないと思うので趣味に沈むことにしている。

最近は、エリアスタディーズといってある地域の歴史や文化や音楽などについていろいろ調べようと思っている。

自分はときとして夢のなかで午前5時の紫色の闇のなかに立っていることがある。

そこは自分が住んでいた仙台の山の光景でもあるけれども、山口県あたりの昔さかえたが今はてきとうにさびれている温泉街の旅館のたちならぶ世界でもあるようだ。
ただよくその建物をみると、古い鉄筋のマンションばかりであるようで、そのなかに誰かがいることがわかっているが、しかし決して探しようが無いことがわかっている。

それは若い人たちが住む、大きな共同体であり、その人もその若い共同体のなかにはいっていった。

人はやがて年をとる。そのことがわかるとき、すべての共同体幻影は崩壊する。

あとに残った青春の廃墟にどうしてすがっていかれようか。

けれども人は広い門からはいるのだろう。

あらゆる技術が瞬時に過去のものとなっていく世界、その世界でメタ世界をどうして人はみつけていくのだろうか。

そのことも考えていこう。

花屋さんのこと

2014-11-26 20:31:49 | 日記


いままでいくつもの愛を気づかずにきてしまった。
なんか誤解されとも多い。

自分は、人のことを思うときにまずその精神性について深く深く考えるたちなのだと思う。

だから、思うのはどうやって文章を書くのかということが主になる。

世界にはいろいろな少数民族がいるが、自分は今のところバルト三国の歴史や地理とアイルランドの歴史や文化に興味をもっている。

仕事場では、超大国のような人間集団の圧力をうけて、青息吐息のありさまである。

講演などを聴いても、世界強国への挑戦みたいな講話がほとんどで、自分のすみかはどこにもない。

しかし世界にはバルト三国のようにすばらしい民族文化をもった集団もある。

アイルランドのようにケルト文化を復興させている国もある。アイリッシュはとてもすてきた。

また、大国のなかで翻弄されてきた中央や東欧の国たとえばハンガリーやルーマニアなどの文化のすばらしい国もある。

日本は明治維新以後、世界強国をめざしてきたために、なんか変な競争ばかりしているようだ。それは、日々の民衆の思考形態さえも支配しているように思える。

そのようなことだからどんな職場にも世界強国の集団になろうとする意識がはたらく。

最近、世界の車窓からのなかでバルト三国をおもにあつかったDVDブックがあって、とても感動してみていた。

今の日本は、ずるずると後退する世界強国の地位にしがみついて、自分の文化も忘れ経済の奴隷となっているような社会ではなかろうか。

いろいろな人が正義を発言しているが、その人たちそのものはかなりの経済的環境のなかで貧乏を知らずにきた人が多いような気がする。

自分が墓参に行く途中には、粗末だが、とても感じのいい花屋があって、そこの老婆はとくになにも宣伝しないが、ほんとにきれいな花がきちんとおいてある。

自分はそういう世界を夢のように思ってきたのだが、どっかで自分は曲がるところを間違えたのではなかろうか。

町中のはではでな花やより、山間の小さな農家の庭に咲く花のほうがはるかに美しい。

仏教で時のことを法というが、山間の小さな庭の花になかにこそ本当の法、時がある。

なんか自分は仕事はできなくていいからそういう世界を歩いていたい。

最近は茶道もできないが、茶道は少しでも習っておいてよかった。

習っているときは窮屈だが、なにか日本の花というものがみえるような気がする。

もういい加減に経済の呪文をとなえて無間地獄におちていくのを避けたいと思う。




世界の車窓から

2014-11-25 18:57:27 | 日記


世界の車窓からという番組はあまりに有名な長寿番組である。

この番組はほんとうにレベルが高い。

こういう番組を見ているような知人が欲しいくらいだ。

大学のときに下宿のぼろテレビでみていてほんとにおもしろかった。

今はこれがDVDブックになっていてそれもアマゾンの中古で買うと大変やすいのであった。

最近は、経済一点張りの日本社会にほんとについていてないで、昔の貧乏下宿生活をなつかしがっている。

毎日歴史ができるだけでもほんと感謝なので、あまり不満はない。

最近は、音楽ではイギリス絶対主義時代の音楽をよく聴いている。

自分の知っている金沢のアンティークを営む知人は大丈夫なのだろうか。

記事をみると結構、飲んでいるようだが。

自分もほとんど禁酒のような時代を続けているが、最近スコッチの製造工場をみたらとてもおいしそうでふと買ってみたが、結構おいしい気がする。

世界の車窓からはまずイングランド・スコットランド・アイルランドを三冊みたがどれもなかなかすばらしいナレーターも音楽もいい。

この番組は以前はfujituがやってたと思うが、今はテレコムがやっているようだ。

このような番組が世の中から失われないように思うばかりだ。

みなさんもスコットランドのスコッチ工場の光景をみてください。ウィスキーのはじまりの世界を。


2014-11-22 23:19:09 | 日記


琥珀色の液体が漆黒の夜の闇を吸い取っていく。

闇の中にいるのを避けようとしてか人は明かりのなかへと行きたがる。

しかし、思うに人間には闇も必要だ。

十分な闇がないと十分な光も無い。

昨日、今日と重い体をひきずりながら仕事にでていた。

さすがに今日の午後はなにもかもが重かった。

しかし、心はやがて深いところにむいていった。

どっか間違えていたらどうしよう、という自分の慢性的変な心配性。

心配性といってもそれならそれで毎日徹夜で仕事をすればなんとかなろうのに

毎日、別のことを考えて、過ごしている。

明日こそは人生変わると思っていても、今の人生すらも消化できない。

あやしい古備前をみて、その美にあこがれている。

そもそも今の人生にいたるまでの自分がどうかしている結果なのか。

外では狂ったようにうならせてバイクが走る。

年齢がたつとどっか静かなところへ行きたくなる。

正しい人生などどこにもない。

こんなときは、中村文則の最後の命とかなにもかもが憂鬱な夜にという内容は忘れたが、そんな本の題名を思い出したくなる。

ほんとになにもかもが憂鬱な夜。

ほんとはこんな文章など書かずに、ごろごろして本でも読んで思考の泥沼にはまっているのがよいのかもしれない。

あなたは今の自分に幸せですか、といえば、みんなはどう答えるのだろうか。

自分はただ幸せですとこたえるのかもしれない。

というのも苦しいの自分だけなのだから、実は苦しいのは世の中なのではない。

世の中は苦しくないのだが、自分は苦しい。

苦しいから骨董にはいる。

そうすれば必然的にお金がなくなる。

体力もなくなる。これは自然に。

夜の時間が過ぎてゆく、夜はとまっているのだが、自分もとまっていたい。