自分が一番悲しいことは、ある人の住所を聞く気もなかったのに、住所を聞きたそうな思いをしていると思われたことです。
実際、そんな思いはなかったというのも、まず自分はとても無精なので、そんなところまで行くはずがない。
もうひとつは、人間は努力によって精神的な存在になれるということだ。
宮沢賢治の詩のなかに有名なでくのぼうということばがあるが、人はそういう存在になれると感じる。
ただ現代世界では、あふれ出る情報量と終わらない仕事がその邪魔になっているだけだ。
今日は予定より2時間遅れている一日をすごしている。不思議なもので予定よりはやい一日を過ごしたことがない。
思うに彼女はなにを思ったのだろう。
自分の学生時代にもない思いだ。
人は精神で生きる。自分がその頃たたかっていたのは自分の精神の限界とその境界線上のさまよいだ。
そのことをわかってもらえなかったのが大変悲しい。
人が人と出会うというのはすぐれて精神上のことだと思う。
そこには故郷・都市・農村そして合唱、いろいろな要素がごちゃまぜになってはいっている。
だから、もしそれがほんとうの出会いならば代わりの出会いに出会う確率はそうとう少ない。
彼女がそのときほかの誰かの声を聞いたのならばそれは間違いだ。
人の声とともに自然の音を聞かないといけない。
近年、多くの人々が出会いながら分かれているのは、それは自然の声、とくに自分が育った土地にある程度近い自然の声を聞かないからだ。
自然は、文明に報復する。
歴史の多くが滅びたのはそれは自然から遠のいたからだ。
田楽からでてきた能楽がさかえたのが義満の時代ならば、次第に自然から遊離した室町幕府を倒した信長が野生児であったこともわかる。
江戸幕府がその腐敗の局に薩長の農村の自然児に倒されたのもわかる。
人の出会いもそうであり、それが自然を離れ技巧的になるにしたがって人間関係だけの世界におちいり、本来の自然をなくし、やがて社会的な部品にすぎなくなればそれも壊れる。
骨董がこころをひきつけるのは、それがいにしえの自然に近いところで作られたからだ。
それが、其の時代の自然のなかでつくられたからだろう。