更新が遅れて、いささか旧聞となりましたが。
宗教学ネタです。
「宇宙誕生に神は不要」 ホーキング博士ら、新刊で主張
(以下引用)
【ワシントン=勝田敏彦】英国の著名な理論物理学者スティーブン・ホーキング博士らによる宇宙論の新刊「ザ・グランド・デザイン」が7日、発売された。この本でホーキング博士は「宇宙誕生に神は必要ない」と主張。創造主の存在を前提とするキリスト教の指導者らから批判も出ている。
物理法則には、「出来すぎ」と思える偶然の一致のようなものがいくつも見つかっており、ニュートンら著名な科学者には「宇宙は『神』によって絶妙にデザインされた」と考える人もいた。
これに対してホーキング博士らは、宇宙は「無」から自発的に生まれると考えてきた。新刊では、量子力学に重力理論を組み合わせた研究成果から、「出来すぎ」に見えるものは「創造主なしで説明は可能」で、宇宙誕生の大爆発ビッグバンも「神に点火してもらう必要はない」とした。
しかし英メディアによると、宗教指導者からは異論も相次いでいる。
英国教会を指導するカンタベリー大主教のローワン・ウィリアムズ氏は、宇宙の中を説明するために人は神を信じるわけではなく、物理学は物事が存在する理由を説明できないという趣旨の反論をしている。
やはり同教会の指導者であるスウィンドン主教のリー・レイフィールド氏は「ホーキング氏は、ビッグバンについての彼の理解を理由に、『神の存在を信じることが不可能だ』と言っているわけではない」と述べている。
(引用ここまで)
神観念には複数の特徴がありますが,その一つが「説明原理」。説明を要するのは、なぜ世界がこのようになっているのか,なぜ私が存在しているのか,なぜ,私がこんなに苦しむのか・・・といったところ。
いまや「世界の説明原理」としての神は,科学に大きくその座を奪われています。
インテリジェントデザインとかで語られる神は、こちらの神ですね。
一方,再現性の無い事象に関する理由を問うてしまうヒトの性というものもあって,それはつまり「なぜ私がこんなに苦しむのか」という問いなのだけれど,科学はそちらには「偶然」という身も蓋もない事以外答えません。
その意味では,ヒトが存在するかぎり,神はなくならないであろうと思う。
(偶然の生き死にになんの感慨も抱かないヒトが、ヒトという生き物の全てになるとは思えないので。)
ところで,事象に原因があるはず,というヒトの観念そのものが,進化の系譜において有利であったから育ったというのが私の考え。
因縁(用法は気にしないで)を理解し,将来を予測することは、確実にヒトという生物の生存可能性を上げるだろうから,選択圧がかかったはず。
そして,そのことと「世界がすべて原因により規定されている」=「因縁がすべてに存する」ということとは別に一致しない。
なぜなら,因縁によらない事象(まったくランダムに起こる事象)は,それを知覚しようがしまいが,生存可能性の上昇には寄与しないから。
すなわち,われわれの知覚系ー認識体系の網の目に,ランダム事象は「存在していても捉えられない」可能性が否定できない。
「我々に認識できないことは存在しないことと同じ」ではあるのだが,まあ,それはそれ。
トリは4原色で世界を見ているらしいから,その視覚世界の豊かさは我々の想像の外であろう。
そういうこともあるので,たんに「知覚・認識不能」=「不存在」と決めつけて,思考停止してしまうのも疑問なしとしない。
「認識できない事象が存在する可能性が否定できない」という言い方でもって,われわれにとっての「非存在」を拾い上げることも可能かと愚考する。
哲学としては,知覚系ー認識体系において捉えられる,つまり脳が捉えられる事象(理論的可能性も含む)以外のことは考えても仕方ない。
しかしヒトは問うのであって,問いの結論としての神に,リアリティを感じてしまうのならば,それはそれでやむを得ないのであろう。
といいつつ,無常観やニヒリズムもまたヒトの性ではあるのだけれど。
いずれにせよ,「なぜ私がこんなに苦しむのか」というのは「苦痛を覚える」→「苦痛を回避する」ということを行動の基本原理に据えている「生物」としての本性である。
そのような「苦痛回避システム」が生存に有利であったがゆえの宿命というか。それをキリスト教では「原罪」というのだろうとも思う。
因縁を知覚し、将来を予測できるようになったヒトは、偶然のほか、必然の帰結、すなわち死を「目前にしていなくても」恐れるようになった。
直面していない苦痛について、それを想像することで苦痛を覚える。たしかに、そうしないと将来の苦痛を避けようとする行動は取れない。
しかし、苦痛に直面する前に苦痛を感じてしまっては損ではないか。それを避けよう。そのようにして仏陀も悟りを開いたりしたのだろうし、古代ギリシャのストア派やエピクロス派も基本は同じことであろう。
つくづく、ヒトという生き物は面倒であるなあと思う。
宗教学ネタです。
「宇宙誕生に神は不要」 ホーキング博士ら、新刊で主張
(以下引用)
【ワシントン=勝田敏彦】英国の著名な理論物理学者スティーブン・ホーキング博士らによる宇宙論の新刊「ザ・グランド・デザイン」が7日、発売された。この本でホーキング博士は「宇宙誕生に神は必要ない」と主張。創造主の存在を前提とするキリスト教の指導者らから批判も出ている。
物理法則には、「出来すぎ」と思える偶然の一致のようなものがいくつも見つかっており、ニュートンら著名な科学者には「宇宙は『神』によって絶妙にデザインされた」と考える人もいた。
これに対してホーキング博士らは、宇宙は「無」から自発的に生まれると考えてきた。新刊では、量子力学に重力理論を組み合わせた研究成果から、「出来すぎ」に見えるものは「創造主なしで説明は可能」で、宇宙誕生の大爆発ビッグバンも「神に点火してもらう必要はない」とした。
しかし英メディアによると、宗教指導者からは異論も相次いでいる。
英国教会を指導するカンタベリー大主教のローワン・ウィリアムズ氏は、宇宙の中を説明するために人は神を信じるわけではなく、物理学は物事が存在する理由を説明できないという趣旨の反論をしている。
やはり同教会の指導者であるスウィンドン主教のリー・レイフィールド氏は「ホーキング氏は、ビッグバンについての彼の理解を理由に、『神の存在を信じることが不可能だ』と言っているわけではない」と述べている。
(引用ここまで)
神観念には複数の特徴がありますが,その一つが「説明原理」。説明を要するのは、なぜ世界がこのようになっているのか,なぜ私が存在しているのか,なぜ,私がこんなに苦しむのか・・・といったところ。
いまや「世界の説明原理」としての神は,科学に大きくその座を奪われています。
インテリジェントデザインとかで語られる神は、こちらの神ですね。
一方,再現性の無い事象に関する理由を問うてしまうヒトの性というものもあって,それはつまり「なぜ私がこんなに苦しむのか」という問いなのだけれど,科学はそちらには「偶然」という身も蓋もない事以外答えません。
その意味では,ヒトが存在するかぎり,神はなくならないであろうと思う。
(偶然の生き死にになんの感慨も抱かないヒトが、ヒトという生き物の全てになるとは思えないので。)
ところで,事象に原因があるはず,というヒトの観念そのものが,進化の系譜において有利であったから育ったというのが私の考え。
因縁(用法は気にしないで)を理解し,将来を予測することは、確実にヒトという生物の生存可能性を上げるだろうから,選択圧がかかったはず。
そして,そのことと「世界がすべて原因により規定されている」=「因縁がすべてに存する」ということとは別に一致しない。
なぜなら,因縁によらない事象(まったくランダムに起こる事象)は,それを知覚しようがしまいが,生存可能性の上昇には寄与しないから。
すなわち,われわれの知覚系ー認識体系の網の目に,ランダム事象は「存在していても捉えられない」可能性が否定できない。
「我々に認識できないことは存在しないことと同じ」ではあるのだが,まあ,それはそれ。
トリは4原色で世界を見ているらしいから,その視覚世界の豊かさは我々の想像の外であろう。
そういうこともあるので,たんに「知覚・認識不能」=「不存在」と決めつけて,思考停止してしまうのも疑問なしとしない。
「認識できない事象が存在する可能性が否定できない」という言い方でもって,われわれにとっての「非存在」を拾い上げることも可能かと愚考する。
哲学としては,知覚系ー認識体系において捉えられる,つまり脳が捉えられる事象(理論的可能性も含む)以外のことは考えても仕方ない。
しかしヒトは問うのであって,問いの結論としての神に,リアリティを感じてしまうのならば,それはそれでやむを得ないのであろう。
といいつつ,無常観やニヒリズムもまたヒトの性ではあるのだけれど。
いずれにせよ,「なぜ私がこんなに苦しむのか」というのは「苦痛を覚える」→「苦痛を回避する」ということを行動の基本原理に据えている「生物」としての本性である。
そのような「苦痛回避システム」が生存に有利であったがゆえの宿命というか。それをキリスト教では「原罪」というのだろうとも思う。
因縁を知覚し、将来を予測できるようになったヒトは、偶然のほか、必然の帰結、すなわち死を「目前にしていなくても」恐れるようになった。
直面していない苦痛について、それを想像することで苦痛を覚える。たしかに、そうしないと将来の苦痛を避けようとする行動は取れない。
しかし、苦痛に直面する前に苦痛を感じてしまっては損ではないか。それを避けよう。そのようにして仏陀も悟りを開いたりしたのだろうし、古代ギリシャのストア派やエピクロス派も基本は同じことであろう。
つくづく、ヒトという生き物は面倒であるなあと思う。