えびはら武司先生の「まいっちんぐマンガ道」を購入したことがきっかけで、学研まんが「大人のひみつシリーズ からだのひみつ」という本が出ているのを知り、ネットで購入。
2013年の出版だが、全く知らなかった。取り寄せた本も初判第一刷である。どうやら、売れ行きは芳しくないらしい。
自分が子供のころにボロボロになるまで読み倒し、隅々まで暗記し、おかげで大学受験までこの時の知識で乗り切った思い出のシリーズ。
これで得た知識が大量にあったので、理科社会分野の勉強では困る事がほとんどなかった(学校で学ぶのが初学ではないので「ああこれ知ってる」というものが多く、勉強の手間がずっと少なかった)のが非常に強みであった。もっとも、それらで得た知識が活かせない数学と英語はボロボロだったが。
自分が購読していたのは小学生までで、中学生になる頃には同じ学研でも「ムー」を読んだり、「科学朝日」を読むようになり、漫画から雑誌へと嗜好が変わっていった。
確か、大学生になる頃までに、ボロボロになったそれらをまとめて処分したように思う。
そして「大人のひみつシリーズ」を検索していて、当時の正調「ひみつシリーズ」をレビューしているサイトが多数あることを知った。
我が家では私がせがんで、シリーズが出るたびにほとんどの本を買いそろえていたが、小学校の友達などで、購読者は記憶に無い。だから、これほどコアな人気と熱をもっている人が多いことはちょっと意外だった。
(全くジャンル違いではあるが、同じように子供時代の思い出シリーズで、誰か「カックラキン大放送」をレビューしてくれないだろうか・・・)
10代の頃は鮮明に覚えていたひみつシリーズの知識は、主に「科学朝日」で上書きされ、教科書等の知識と融合し、そして、社会人となってからは、だんだんと忘れてしまっていた。レビューサイトでそのことをあらためて思い知らされた。
それでも、それらのサイトに掲載されている紹介記事や引用図版などから、当時の記憶が徐々に蘇ってきている。非常に懐かしく楽しい時間を過ごせた(最近では珍しいことだ)。
しかしなにより驚いたのは、それらのサイトが、学研まんがを「漫画」として批評していること。
自分にとっての学研まんがひみつシリーズは「努力せずに楽しみながら知識を得られるという俺得シリーズ」という極めて主観的なもの。
他の人は、それらを作家別に整理し、絵柄、キャラクター、台詞、ストーリー、起承転結のドラマ、ギャグの切れ具合といった「漫画として読んだ時におもしろいかどうか」を評価しているのだ。
自分には、この視点はなかった。確かに、絵柄の好みや、ストーリーの起伏に対する読後感など、シリーズでも好き嫌いはあったが(例えば私の好みはよこたとくお先生。後年トキワ荘グループと知り驚いた。内山安二先生のキャラ等は確かに面白いが、絵柄はあまり好みではなく、同先生のまんが入門も他の作家のそれに比べあまり良いと思えなかった、等)、そういったことを仔細に分析するような視点は持ち合わせていなかった。
しかし、あのシリーズ、ボロボロになり保管場所もないため、残しておく事は不可能だったが、内容の大半を忘れてしまった今となっては、猛烈に懐古的に読みたい気分になってしまう。あの頃は、何ページのまめちしきがどういう文章かまで全て覚えていたものだ。子供ってすごい。記憶って不思議。
恐竜のひみつや、からだのひみつ等の初期シリーズは、3回くらい買い直した気がする。表紙も取れるくらい読み倒したためだ。それでも、上記サイトを見るまで、内容等をほとんど覚えていないこと自体を忘れていた。今見ても読んだ記憶のないページもある。
逆に、変に印象に残っていることもある。終盤の「いる・いないのひみつ」など、ひみつシリーズがオカルトを扱うことにものすごい違和感があったものだ。この本だけ異色な気がし、読後感はかなりがっかりであった。要するに私は、科学知識とオカルト知識を求める媒体をそれぞれ使い分けていたのだなあと思う。
小山田いく先生の漫画はずっと取ってあるのだが、これらも取っておいていればなあと少々残念ではある。でも、この年齢になって、幼少のころ親しんだものを振り返る機会を多く与えられている気がする。40手前からの人生はいいものではないと思っているが、今年は、小山田いく先生の訃報など悲しみの中にあっても、人生の総括というか、まとめの機会を与えられているようで、それなりに意義深いように思う。
2013年の出版だが、全く知らなかった。取り寄せた本も初判第一刷である。どうやら、売れ行きは芳しくないらしい。
自分が子供のころにボロボロになるまで読み倒し、隅々まで暗記し、おかげで大学受験までこの時の知識で乗り切った思い出のシリーズ。
これで得た知識が大量にあったので、理科社会分野の勉強では困る事がほとんどなかった(学校で学ぶのが初学ではないので「ああこれ知ってる」というものが多く、勉強の手間がずっと少なかった)のが非常に強みであった。もっとも、それらで得た知識が活かせない数学と英語はボロボロだったが。
自分が購読していたのは小学生までで、中学生になる頃には同じ学研でも「ムー」を読んだり、「科学朝日」を読むようになり、漫画から雑誌へと嗜好が変わっていった。
確か、大学生になる頃までに、ボロボロになったそれらをまとめて処分したように思う。
そして「大人のひみつシリーズ」を検索していて、当時の正調「ひみつシリーズ」をレビューしているサイトが多数あることを知った。
我が家では私がせがんで、シリーズが出るたびにほとんどの本を買いそろえていたが、小学校の友達などで、購読者は記憶に無い。だから、これほどコアな人気と熱をもっている人が多いことはちょっと意外だった。
(全くジャンル違いではあるが、同じように子供時代の思い出シリーズで、誰か「カックラキン大放送」をレビューしてくれないだろうか・・・)
10代の頃は鮮明に覚えていたひみつシリーズの知識は、主に「科学朝日」で上書きされ、教科書等の知識と融合し、そして、社会人となってからは、だんだんと忘れてしまっていた。レビューサイトでそのことをあらためて思い知らされた。
それでも、それらのサイトに掲載されている紹介記事や引用図版などから、当時の記憶が徐々に蘇ってきている。非常に懐かしく楽しい時間を過ごせた(最近では珍しいことだ)。
しかしなにより驚いたのは、それらのサイトが、学研まんがを「漫画」として批評していること。
自分にとっての学研まんがひみつシリーズは「努力せずに楽しみながら知識を得られるという俺得シリーズ」という極めて主観的なもの。
他の人は、それらを作家別に整理し、絵柄、キャラクター、台詞、ストーリー、起承転結のドラマ、ギャグの切れ具合といった「漫画として読んだ時におもしろいかどうか」を評価しているのだ。
自分には、この視点はなかった。確かに、絵柄の好みや、ストーリーの起伏に対する読後感など、シリーズでも好き嫌いはあったが(例えば私の好みはよこたとくお先生。後年トキワ荘グループと知り驚いた。内山安二先生のキャラ等は確かに面白いが、絵柄はあまり好みではなく、同先生のまんが入門も他の作家のそれに比べあまり良いと思えなかった、等)、そういったことを仔細に分析するような視点は持ち合わせていなかった。
しかし、あのシリーズ、ボロボロになり保管場所もないため、残しておく事は不可能だったが、内容の大半を忘れてしまった今となっては、猛烈に懐古的に読みたい気分になってしまう。あの頃は、何ページのまめちしきがどういう文章かまで全て覚えていたものだ。子供ってすごい。記憶って不思議。
恐竜のひみつや、からだのひみつ等の初期シリーズは、3回くらい買い直した気がする。表紙も取れるくらい読み倒したためだ。それでも、上記サイトを見るまで、内容等をほとんど覚えていないこと自体を忘れていた。今見ても読んだ記憶のないページもある。
逆に、変に印象に残っていることもある。終盤の「いる・いないのひみつ」など、ひみつシリーズがオカルトを扱うことにものすごい違和感があったものだ。この本だけ異色な気がし、読後感はかなりがっかりであった。要するに私は、科学知識とオカルト知識を求める媒体をそれぞれ使い分けていたのだなあと思う。
小山田いく先生の漫画はずっと取ってあるのだが、これらも取っておいていればなあと少々残念ではある。でも、この年齢になって、幼少のころ親しんだものを振り返る機会を多く与えられている気がする。40手前からの人生はいいものではないと思っているが、今年は、小山田いく先生の訃報など悲しみの中にあっても、人生の総括というか、まとめの機会を与えられているようで、それなりに意義深いように思う。