“死”のニュースは、毎日、世界中を駆け巡っている。
遠い世界だけのことではなく、それは、身近なところでも起こっている。
それを見れば、“死”というものは、いつ訪れてもおかしくないことがわかる。
人を死に至らしめるのは老いや病気が多いのは間違いないけど、それだけではない。
“生”というものは常に“死”と隣り合わせであり、人は、いつ死んでもおかしくない状況で生かされているのである。
あまりにインパクトが強すぎて、地が大きく揺れた恐ろしさが、まるで昨日のことのように思い出されるが、あれから明日で五年。
2011年3月11日の朝、その日で自分の人生が終わることを知って仕事や学校に出かけた人はどれだけいただろうか・・・
多分、一人もいなかったはず。
それでも、多くの人の人生が終わりを迎えた。
そして、それぞれの意思に関係なく、残された多くの人の人生が予期せぬ方向へ流されていった。
それでも、五年という時間は変わりなく過ぎた。
そして、過ぎた時間の分だけ、非被災地にとっての震災は遠くにぼやけていった。
それが、時間が持つ優しさでもあり冷たさでもある。
だからか、この時期以外、普段は、あまりニュースにもならなくなった。
どうでもいいように思える有名人のスキャンダルは飽き飽きするほど繰り返し報道されるのに、震災のニュースは、まるで“旬”でもあるかのように一時的なものになっている。
しかし、今でも、困っている人はたくさんいる。
長い苦しみに耐えている人はたくさんいる。
そして、ボランティアで、それを支えている人もたくさんいるのだろう。
続きはこちら
遠い世界だけのことではなく、それは、身近なところでも起こっている。
それを見れば、“死”というものは、いつ訪れてもおかしくないことがわかる。
人を死に至らしめるのは老いや病気が多いのは間違いないけど、それだけではない。
“生”というものは常に“死”と隣り合わせであり、人は、いつ死んでもおかしくない状況で生かされているのである。
あまりにインパクトが強すぎて、地が大きく揺れた恐ろしさが、まるで昨日のことのように思い出されるが、あれから明日で五年。
2011年3月11日の朝、その日で自分の人生が終わることを知って仕事や学校に出かけた人はどれだけいただろうか・・・
多分、一人もいなかったはず。
それでも、多くの人の人生が終わりを迎えた。
そして、それぞれの意思に関係なく、残された多くの人の人生が予期せぬ方向へ流されていった。
それでも、五年という時間は変わりなく過ぎた。
そして、過ぎた時間の分だけ、非被災地にとっての震災は遠くにぼやけていった。
それが、時間が持つ優しさでもあり冷たさでもある。
だからか、この時期以外、普段は、あまりニュースにもならなくなった。
どうでもいいように思える有名人のスキャンダルは飽き飽きするほど繰り返し報道されるのに、震災のニュースは、まるで“旬”でもあるかのように一時的なものになっている。
しかし、今でも、困っている人はたくさんいる。
長い苦しみに耐えている人はたくさんいる。
そして、ボランティアで、それを支えている人もたくさんいるのだろう。
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もぅ5年、まだ5年。人それぞれの歩みがあったでしょうね。自分も、どうしようもない気分の浮き沈みをアルコールで誤魔化したりしています(笑)
一生懸命、生きていきましょう!!
隊長の活躍を江戸川区の南の方から応援しています!
人気blogでなければこんなことは言いませんが。
私は隊長さんよりかなり長く生きておりますが修行も経験も足らないせいか全く人間が出来ておりません
きっとずっとそのまま生きていくのでしょう
でもそんな私でも隊長さんのブログを読ませて頂くことでまた明日も頑張ろうと思えます
ありがとうございます
隊長は本当は心の暖かい方だと思います。
心の冷たい人は、自分が冷たいという自覚すら無いような気がします。
京都の龍安寺に「吾唯足知」のつくばいがあるのをご存じですか?
満足を知っている者が幸福というような意味だったと思います。
もはや悟りの境地と行って良いでしょう。隊長は確実にその境地に近づいていると思います。次回を楽しみにしています。
ここ最近、人間の心の深さを感じさせるような記事が多く、つくづく感心させられます。隊長さん、厳しいお仕事を通して常人では得られないような「人の生き死に」に対しての何かしらの感得をされているように感じました。ご自身は謙遜されるかもしれませんが、人は真っ当に生きて日々を考えれば、やはりそれぞれに“ある境地”に近づくものなのだなぁ、と思います。私も隊長さんのように自分の人生でそのような気持ちに近づきたいと思いました。ご活躍、お祈りします。ありがとう。