クローズアップ現代…見て、なんだか背筋が寒くなりました。
「ウェアラブル端末」のお話でした。
ウェアラブル、つまり身に着けられる端末ですね。
以前、メガネにつけた端末で、あれこれ情報が入る…というものをやっていました。
私は「便利道具はみんなで使えばいい」「超・便利道具は、使う人を選ぶべきだ」と考えるほうです。
パソコンを毎日便利に使っている私ですが、だからと言ってパソコンで何もかもやろうとは思いません。
手で書いたほうがいいものもあるし、自分の字でメモしたほうがいいこともある…。
本のページをめくって調べたり、実物を引っ張り出したり、そういうほうがいいこともある…。
いつも「どこまでいっても道具は道具だ」という考え方です。
番組では、端末が実際使われている様子を紹介していました。
病院です。手術に使う道具は膨大です。しかもぜんぶ専門的なもの。
これを今までは、看護師さんがひとつひとつ型番を確かめながら、
大きな倉庫の中をいったりきたりして探していたわけです。
これをウェアラブル端末を身に着けるわけです。まず本体のコンピュータを腰に、
見るための端末(メガネ)を眼に、そして手にはバーコードの端末。
まず探す品物の番号と写真が見え、倉庫内のそのブツがある棚を表示、そこへ行き、型番のものを取り、
バーコードをあてると、OKなら次の品物が浮かび、間違っていれば指摘する。
これで、時間短縮だけでなく、まったく医学的知識のない人でも、端末を付ければどんな品物でも探せるわけです。
このおかげで、手術用品をそろえるのはパートさん、これで看護師さんの仕事が3時間へったそうです。
「スキルのある人はそのスキルのシゴトを頑張ってほしい」。
これは、うまい使い方だと思います。アマゾンの倉庫も似たようなものですね。
ところがもう一つのほう、これは電話オペレータの職場だったかと思いますが、
出社すると首から端末をぶら下げる…これが、その人がどこへどんなふうに歩いたか、
どのくらい効率よく仕事をしたか、休憩やシゴトで、誰とどれだけ話をしたか…全部データが出るわけです。
これで分かったのが、休憩時間をしゃべったり動いたり、活発にすごすほど仕事量がアップする…。
また、誰と誰が会話しているかが図でわかると、会話が少ないほどその図形の外に出る…。
図の外に出る人は仕事の面でレベルが下がる…なので、上司はその図形の外側に近い人に、
話しかけたりコミュニケーションをとるように、気を配る…。
MCと、ゲストの哲学者は「自分がだんだんデータ化されていく」…と。
たとえば好きな人がいて、特にその人に話しかけたりすると「もしかして」と思われたり・・・。
こりゃ監視ですよね、と。
こんなにまでして、シゴトの効率を上げる必要があるのでしょうか。
いや、確かに職場はシゴトをするところで、その成果は上げるべきものではあります。
しかし、ここまでやられると、おちおちおしゃべりもできないし、腰が痛くてもたもた歩いていたら、
この人ノロマ…なんて思われたりしないかと、気になりますわ。
人間がロボットのようにしなければなりません。
ほかに成果を上げる方法は、きっとあると思うのですが。
また、目に着けた端末で、シゴトの手順を指導してもらいながらすると、
プロの職人の技でも、たとえば機械の操作とかが素人でもできるので…。
この世から職人なくしてどうする…。第一、いまだって機械ではできないミクロ単位の「削り」など、
職人の手と目の感覚でやっているのです。それすらもできるようになるというのなら、
誰も何もできなくてもよくなりますよね。それは文化の損失…にならないのでしょうか。
人が人と関わって、叱られたり褒められたりして、自分の士気を高めたり、仕事への気持ちを強くしたり、
感謝したり、尊敬したり・・・そういうことは、機械で得られる便利さなどには、
比べ物にならないくらい大事なことだと思います。
先日「気配」「気配り」のことを書きましたが、人と関わらずに人は育ちません。
それに、なにより手やアタマを使うことは、人間にとっていいことだと、私は思っているのです。
ディズニーの「ウィリー」というアニメでは、すべてコンピュータの管理によって、椅子にすわったまま、
生活に必要なことを全部機械にやってもらう…という人間の集団が出てきます。
みんな肥満体で、最後に自分の足で立とうとするのに、ウンッと足を踏ん張ります。
道具は道具でしかない、だから「使う人」「使い道」を限定するほうがいいと、いつも思います。
こういう道具は、最初に挙げた病院などでは、とても有効でしょう。
また老人や障碍者には、ありがたい補助具になります。
人が人として、本当に「共生」していくための技術やノウハウは、実はたくさんあるはずなのに、
便利な道具は、いつも先端を行く場所、健康で元気な人中心に紹介されます。
メガネをかけて歩けば、地図も出てくる、近隣のレストランや路線の情報も出てくる、たいへん便利です…
でも元気でどこも不自由がないなら、自分のアタマ使ってなんとかしないでどうする…と思います。
これを使うことで時間の短縮になる…ということを聞きます。いつも思い出します。
「せまい日本、そんなに急いでどこへゆく」…。
60年前、京都の祖母は、めったに乗らない東海道線に乗って、13時間かけて初めての横浜につき、
そこから京浜急行に乗り換え、手紙の住所を頼りに母のところへ突然来たそうです。
「ようこられたなぁ」と言ったら、目と口と耳があったらどこでも行かれる…と答えたそうな。
さだまさしの番組のはがきで「大学の先生をしているご主人が、実験中に学生に水はどこだときかれ、
蛇口を指さすと、これが蛇口か…としげしげ眺め、使い方がわからなかった」と。
ひねる方向や手加減がわからない…あぁハンドルでそだっているものねぇ。
マッチがすれない、ダイヤル電話が使えない、缶詰が開けられない…。
そりゃ、そういう道具は、どんどん良くなっていくのですから、
私などもすでに炭に火を付けるのには緊張します。
わからないことは増えていきます。それは「便利」ということと引き換えなのです。
どこまでできなくなってもいいのか…。
便利グッズを、使うべき人が使わない、あるいは使えないのはもったいないし、
使わなくてもすむ人が使うのは、無駄でもあると思っています。
その見極めをするのは、私たち自身なのだとも思います。
私は、今のところは地図を手に持って調べることも、わからなかったら「ちょっとすみません」と尋ねることも
まだまだできます。だからもしメガネ端末が今、商品化されても使いません。
歩きながらメールを打たなくても、歩きながらネットを見なくても、不便を感じないし、
それを他でやりくりするすべもちゃんとありますから。
歩くときは風や日差しを感じたり、うしろから急ぎ足で来る人の気配を感じたり、
かわいいお嬢さんのファッションをチラ見したり…
歩いているときにしかできないことをするのが人間らしいかなと、そんな風に思うからです。
「今の日本は便利になったのではない、人が怠惰になったのだ」…
以前「戦死した人たちが一晩だけ現代の日本に戻る」という設定のドラマで、
南の海に戻る幽霊が言った言葉です。身に沁みます。
や重労働軽減出来ればいいと思います。
でも使い方によっては本当に監視されている
風に思います。
心があって感情もあるんですから、ロボットの
ようには抵抗があります。
機械に使われる?
この先これが当たり前になるのでしょうか・・・
私もいつもこの番組を見ています。
昨晩のも空恐ろしくて興味深いものでしたね。
昨日のような端末やロボット、科学技術の発展の報告を見知るたびに思うのは
これらについてよく言われる言葉「より豊かな暮らし」って
いったいどゆ生活のことですか?って問いつめたいキモチになります。
宇宙の時間から見れば、どのみち大層な発展をとげた生命は、
あとは滅びに向かってつき進むだけなので、いずれ人間は
自分たちの手で人類を駄目にしていくだけのことなのだろうなあ・・・と。
だから、自分は自分なりに今を懸命に生きていくしかないのだな・・・と思っています。
なにか新しいものが出ると、つい「ついていけないわー」と
触らずにいますが、そのうちほんとに
置いていかれるような気がします。
今、同年代でパソコンをまったくやらない人が、
かろうじてケータイでメールしてきますが、
すでに「おいていかれてるわー」と言います。
もっとひどくなるのでしょうか、イヤですね。
はじめまして。コメントありがとうございます。
こんなこともできます、あんなことも可能です…といわれても、
それができなくても困らないのに…と思ってしまう…。
ほんとに「豊かな暮らし」って、なんなんでしょう。
何か新しいものを作っては、それによって問題が増えて…
犯罪の種類が多様化したり、それに追いつかなかったり。
あまりにも「それいけやれいけ」が多くて、ちょっと止まって考えようよ、と言いたくなります。
子孫にとって、いい世界を残せるのでしょうかねぇ。