昨日の「訪問着・おソロショール」のお話から、またちょっと別路線へ…。
そして本日も更に「長文」です。お覚悟めされい?
写真は自前の訪問着の上前部分「大名行列」です。
まだしつけついたまんま…。
実際にそうであったかどうかは別として、四丈ものの共八掛を
ショール分にまわしたんじゃない?きっと、というのが呉服屋さんのお話でした。
まぁ使い方はひとそれぞれ、ですからその是非を問うつもりはありません。
もしそうだとしたら…のお話しで、訪問着は共八掛が原則ですから、
訪問着として、ちっと寂しくなっちゃったということです。
で、まぁ訪問着とつけさげ、というお話しをしてみようと考えたわけです。
訪問着とつけ下げの、ハッキリ違うところはどこなのか…とは、
よく出てくる質問だったり説明だったりします。
実は、今の時代で言いますと、呉服屋さんでさえ
「これはどっちですか?」と聞かれて、思わず「えーと」と迷うことがある…
というのが現状だそうです。
一番カンタンなのは「共八掛」かどうか、なのですが、
こちらが上の訪問着の「共八掛」、こんなふうに絵のある場合も
地色だけの場合もあります。
最近は「共八掛つきのつけ下げ」なんてのもあるんです。
また縫い目に柄が渡らないのがつけ下げ、とされていますが、
けっこう続いているものもあったりして、
そのたびに「これ、訪問着じゃないの?」なんて思ったりするんですよね。
こちらが「柄が渡る」つまり縫い目でちゃんと続く、というところ。
写真小さくてすみません、人の着物や体もちゃんとつながっています。
それではまず訪問着とつけ下げの昔々をたどってみましょう。
最初にお話ししたいと思うのは、着物を取り巻く環境は、
とにかく明治維新から、どぉぉぉぉーっといろいろかわったということです。
着物の歴史の上でも、たとえば江戸時代ひとつとっても、変化はあります。
まずは安土桃山の華やかさが残っていて、それが爛熟したといわれるのが元禄時代
そしてその後ジミ~になっていったわけですが、その間270年…。
そういう変化も、ゆっくりし少しずつ、時間をかけてかわっていったわけです。
それが、明治維新からの変わりようは、あれよあれよ…。
明治ではジミ目の名残がまだまだあったものが、
大正ではとても派手になりました。それには、外国からの機械や染料、
材料の輸入や技術の進歩などがあったからです。
また世情というものも、押さえつけられていた時代から、
ある程度の自由を得られたことで、民心の動きや変化もあったと思います。
また商いの方法もかわりましたし価値観も変わりました。
そういったものを全て含んで、着物はかわってきたわけです。
さて元々「いい着物」の柄は「総柄」と「絵羽」の二種類だったわけです。
つまり、いまでいうなら「小紋」と「留袖」の違いです。
私の手持ちの昔ちりめんは、小紋というにはものすごく柄が大きくてハデ。
例えばこんなの。今こんな小紋なんてありません。
これは全体で見ると柄に上下がありませんから、
今の分け方なら「小紋」なのです。これを昔は「総柄」といったわけです。
つまり、全体に柄がはいっているもの。
もうひとつは絵羽柄、これは柄に上下があって一枚の絵のようについているもの。
この二つ位で分けていたわけで、普段着は縞、格子とか、実際細かい小紋とか…。
絵羽のほうは、江戸時代はだいたいが渋いんですね。
若い人の絵羽の振袖などを見ても、
なんというか華やかさはあるけれど落ち着いているんです。
だんだんすこしずつ派手になっていったわけですが、
身分制度だのがなくなり、また暮らしぶりもすこしずつ豊かになってきて、
女性たちは「堅苦しくない美しい着物」をのぞんだわけです。
古着でたまに「散歩着」というのが出ます。
散歩なんていうと、今の時代ならGパンとかセーター、へたすりゃジャージ…、
とてもリラッスしたイメージですが、この散歩着は、実は今で言う訪問着のこと。
つまり、それまで絵羽の着物を着てのお出かけといえば冠婚葬祭位だったものが、
人々は「楽しいおでかけ」ができるようになったわけです。
もちろん「裕福な階級」がはじまりではありますが、
たとえば「観劇」とか「食事会」とか「買い物」とか…どこが散歩やねん…。
そういうときの着物として、総柄のようにハデハデしくなく崩れすぎず、
留袖振袖のように華やか過ぎず堅苦しくなく、それでいてきれいでオシャレ、
で、最初は「散歩着」とか「訪問服」「社交着」といった名称がついたわけです。
まぁ、これが訪問着の始まり、といわれているわけですが、
考えてみれば、だんだん細かく分かれていく課程の始まりでもあるわけです。
昔の留袖を見ると、右前と左前の柄が同じです。
これも以前お話ししておりますが、まだ普段もお引きずりであったころ
(この場合のお引きずりは、芸者さんの出の衣装のようなお引きほど長くないです)
すわるときや歩くときに前が左右に分かれますから、
両方同じ柄がついていたほうがいいわけです。それでああいう柄つけなんですね。
それがおはしょりを先に作るようになって、前を左右に広げることがなくなって、
今のように上前から後ろを通って、だんだん柄が小さくなるというタイプに
なっていったわけです。柄のつけ方ひとつでもそういう変わり方をするんですね。
また重ねて着るのが当たり前でしたから、
留袖も振袖も、みんな重ねて着物を着るのが正式でした。
今の留袖の比翼仕立てはその超簡素化したもの。
伊達衿は重ねて着ることの縁起やしきたりを簡素化したもの、です。
こんなふうに着物というのは、その形を整えて「○○」と名前をつけて
ひとくくりにしても、形も着方も、時代の流れでかわっていくものなわけです。
では次に「つけ下げ」について。
つけ下げというものが出現したのは、日本が戦争にむかって走り出したころ。
着物にしてもなににしても、ゼータクだ…という声が上がり始め、
訪問着なんぞは槍玉…そこで考え出されたのが「つけ下げ」とされています。
えーと、ここで注意していただきたいのは、ハデじゃまずい、ということです。
これは当然「柄行」にもいわれることで、
留袖や振袖ほど派手にしないのがウリの「訪問着」を
さらに「ハデにしない方向」にしなければならなかったわけです。
ここで出てくるのが色柄とともに「反物」そのもののことです。
まず訪問着というのは「仮仕立て」の状態で柄をつけます。
つまり白生地を身頃、袖、衿…と裁ってしまって、それをざっと縫い合わせた上で
柄をつけてゆく、当然柄は細かいところまで一続きになります。
よく言われる縫い目で柄が重なる(続く)です。
つまり、販売するときも仮仕立てのままになります。
よく衣桁にかけて広げられて売られていますね。
これに対して、つけ下げは、反物を切らない状態で柄をつけていきます。
当然柄は「このあたり」でつけられます。
つけ下げの反物には、はじっこにしるしがついています。
身頃はここまで、とか袖はここ、という独特のしるしです。
そういう状態ですから、訪問着のように、きっちり柄を合わせられません。
というより、本当はできるけれど、わざとそうして柄を減らして散らし、
「柄を続けないこと」で「ゼータクではない」とアピールしたわけです。
またこの状態なら、反物で販売できますから、訪問着のように、
わざわざ広い場所もいらないし、衣桁にかけることもありません。
つまり「ほら、これは訪問着のように、手間をかけてゼータクに
柄つけしたものではありませんよ、普通の反物と同じですよー」という
目くらまし?です。
やがて、世の中が収まって本来ならつけ下げを作る理由はなくなったはずですが
それはそれとして、訪問着ほど豪華でなく、もうちょっと気楽に着られる、
更に小紋よりはちゃんとした印象、という新しい理由で生き残ったわけですね。
ところが、元々は「うるさい眼」をのがれるために、柄も小さく飛ばす程度
実はやろうと思えばできることをおさえていたわけですから、
縛りのなくなったところで、それじゃ訪問着のように柄を華やかに、とか、
続けようと思えば続けられるんだから、と柄を続けるなど始まったわけです。
つまり、最初に訪問着ありき、で始まったのですから、
訪問着の定義にはいるものを作ったら、そこですでにつけ下げではなくなる、
ということを、安価に売れる点も買われて、混ぜてしまったんですね。
そんなことで、これはたぶん、ですが、それまでは、ぱっとみれば
「あっコレは訪問着、こっちはつけ下げ」とわかったものが、
眼くらましの必要がなくなったために、つけ下げも豪華になってしまい、
見分けがつきにくくなった、その上共八掛のあるつけ下げだの、
柄が続いたつけ下げだのが出てきた…。つまり距離が縮まっちゃったんですね。
私が若いころは「衿みればわかる」といったのですが、
最近はそれもアテになりません。
こうなると単純に、お店に並んでいるとき「仮仕立てか、反物か」しか
判別する方法はありません。
そしてもうひとつ「つけ下げ小紋」というのがあります。
小紋は上下がありませんが、その向きをわざとつけて前と後ろを分けて
柄付けする、でも柄は訪問着のような大柄ではなく、細かい柄小紋柄…。
これがまたですねぇ…私過去にこれ調べて、途中でギブアップしました。
つけ下げ小紋は格として、扱いは小紋なのかつけ下げなのか…。
これについて、プロの呉服屋さんでさえ、あちこちで全く反対のことを
いっていたのです。あるところでは「小紋だから、礼装にならない」
また別のところでは「つけ下げの染だから礼装になる」「小紋の一種」
「つけ下げに入る」どっちなんじゃい…なんですね。
じっさい現場でも「訪問着、つけ下げ、つけ下げ小紋」については、
ずーーっと混乱しっぱなしで、益々わからなくなっているんじゃないでしょうか。
たとえば書き出してみると、
* 完全な訪問着(豪華絢爛、柄ばっちりズレなし、共八掛)
* つけ下げの訪問着寄り(共八掛もアリ、八掛別でも柄は訪問着なみにズレなし)
* つけ下げの小紋寄り(八掛別、柄もおとなしめ)
* 江戸小紋(小紋だが、紋をつけることによって略礼装になる)
* つけ下げ小紋(上下のある柄付け)
* 小紋(上下なしの柄付け)
こうやって分けると、小紋はどこまで言っても小紋でいいと思います。
元々江戸小紋でも、紋をつければ略礼装になりますが、
そのときに縫い取り紋にしたほうがより気楽に着られます。
つけ下げ小紋も縫い取り紋をつければ、江戸小紋ランクで使える、
とそんな感じになりませんか?
いかがですか?着物というのは、全て順調に
進歩発展してきたわけではないんですね。
つけ下げというのは、私観ですが「あだ花」のような存在ではなかったかと、
そんなふうに思います。戦争だから、という縛りが取れたときに、
きちんと「つけ下げはこういうもの」と、定義を揺るがさずに継承すれば
そのまま今でも、小紋よりきちんとしていて、訪問着より硬くない…で、
ちゃんとハッキリした居場所をもてたかもしれません。
呉服業界は、戦後の「呉服界の混乱期」に、多くのマチガイをしました。
もちろん消費者側にも責任はあると思います。
要するにお互い着物をだいじにする方法を間違えたということです。
確かに、食べていくためにはしかたのないこともあったかもしれませんが、
着物の存続のための努力の仕方も方向性も、ズレてしまいました。
それが、わが国の文化的財産であるところの「職人」さんたちを干上がらせ、
技術の伝承があちこちで途絶え、着物のきまりごとさえ、
「売れればいい」で、ゆがめられたこともたくさんあると思います。
ずっと着物と沿って歩いてこなかった私たちの年代は、
その問題点が見えないんですね。
おばあちゃんに聞いたら「あぁそんなものは戦後にできたもんだよ」なんて
そういうことがあります。
その「戦後」のことが、ほかのことならいろいろと情報も自然とはいるのに、
着物はほとんどはいらなくなってしまったということです。
だからプロが一人「これはこうなんです」というと、
言われた人は、そーなんだーで、それだけが正しい答えだと思ってしまう。
かの先生が、共八掛分でショールを、とやったのなら、
訪問着の位置づけや意味を無視したことになります。
今はそんなにこまかくないからいいじゃない、
つけ下げも訪問着もおんなじようなもんよ、と思っていたら、
まずあなたから勉強しなおしてください、といいたいです。
着物は自由にきればいいものではありますが、
必要なくくりは崩さないほうが、順当な変化を妨げない、
ということをわかってほしいと思います。
そして本日も更に「長文」です。お覚悟めされい?
写真は自前の訪問着の上前部分「大名行列」です。
まだしつけついたまんま…。
実際にそうであったかどうかは別として、四丈ものの共八掛を
ショール分にまわしたんじゃない?きっと、というのが呉服屋さんのお話でした。
まぁ使い方はひとそれぞれ、ですからその是非を問うつもりはありません。
もしそうだとしたら…のお話しで、訪問着は共八掛が原則ですから、
訪問着として、ちっと寂しくなっちゃったということです。
で、まぁ訪問着とつけさげ、というお話しをしてみようと考えたわけです。
訪問着とつけ下げの、ハッキリ違うところはどこなのか…とは、
よく出てくる質問だったり説明だったりします。
実は、今の時代で言いますと、呉服屋さんでさえ
「これはどっちですか?」と聞かれて、思わず「えーと」と迷うことがある…
というのが現状だそうです。
一番カンタンなのは「共八掛」かどうか、なのですが、
こちらが上の訪問着の「共八掛」、こんなふうに絵のある場合も
地色だけの場合もあります。
最近は「共八掛つきのつけ下げ」なんてのもあるんです。
また縫い目に柄が渡らないのがつけ下げ、とされていますが、
けっこう続いているものもあったりして、
そのたびに「これ、訪問着じゃないの?」なんて思ったりするんですよね。
こちらが「柄が渡る」つまり縫い目でちゃんと続く、というところ。
写真小さくてすみません、人の着物や体もちゃんとつながっています。
それではまず訪問着とつけ下げの昔々をたどってみましょう。
最初にお話ししたいと思うのは、着物を取り巻く環境は、
とにかく明治維新から、どぉぉぉぉーっといろいろかわったということです。
着物の歴史の上でも、たとえば江戸時代ひとつとっても、変化はあります。
まずは安土桃山の華やかさが残っていて、それが爛熟したといわれるのが元禄時代
そしてその後ジミ~になっていったわけですが、その間270年…。
そういう変化も、ゆっくりし少しずつ、時間をかけてかわっていったわけです。
それが、明治維新からの変わりようは、あれよあれよ…。
明治ではジミ目の名残がまだまだあったものが、
大正ではとても派手になりました。それには、外国からの機械や染料、
材料の輸入や技術の進歩などがあったからです。
また世情というものも、押さえつけられていた時代から、
ある程度の自由を得られたことで、民心の動きや変化もあったと思います。
また商いの方法もかわりましたし価値観も変わりました。
そういったものを全て含んで、着物はかわってきたわけです。
さて元々「いい着物」の柄は「総柄」と「絵羽」の二種類だったわけです。
つまり、いまでいうなら「小紋」と「留袖」の違いです。
私の手持ちの昔ちりめんは、小紋というにはものすごく柄が大きくてハデ。
例えばこんなの。今こんな小紋なんてありません。
これは全体で見ると柄に上下がありませんから、
今の分け方なら「小紋」なのです。これを昔は「総柄」といったわけです。
つまり、全体に柄がはいっているもの。
もうひとつは絵羽柄、これは柄に上下があって一枚の絵のようについているもの。
この二つ位で分けていたわけで、普段着は縞、格子とか、実際細かい小紋とか…。
絵羽のほうは、江戸時代はだいたいが渋いんですね。
若い人の絵羽の振袖などを見ても、
なんというか華やかさはあるけれど落ち着いているんです。
だんだんすこしずつ派手になっていったわけですが、
身分制度だのがなくなり、また暮らしぶりもすこしずつ豊かになってきて、
女性たちは「堅苦しくない美しい着物」をのぞんだわけです。
古着でたまに「散歩着」というのが出ます。
散歩なんていうと、今の時代ならGパンとかセーター、へたすりゃジャージ…、
とてもリラッスしたイメージですが、この散歩着は、実は今で言う訪問着のこと。
つまり、それまで絵羽の着物を着てのお出かけといえば冠婚葬祭位だったものが、
人々は「楽しいおでかけ」ができるようになったわけです。
もちろん「裕福な階級」がはじまりではありますが、
たとえば「観劇」とか「食事会」とか「買い物」とか…どこが散歩やねん…。
そういうときの着物として、総柄のようにハデハデしくなく崩れすぎず、
留袖振袖のように華やか過ぎず堅苦しくなく、それでいてきれいでオシャレ、
で、最初は「散歩着」とか「訪問服」「社交着」といった名称がついたわけです。
まぁ、これが訪問着の始まり、といわれているわけですが、
考えてみれば、だんだん細かく分かれていく課程の始まりでもあるわけです。
昔の留袖を見ると、右前と左前の柄が同じです。
これも以前お話ししておりますが、まだ普段もお引きずりであったころ
(この場合のお引きずりは、芸者さんの出の衣装のようなお引きほど長くないです)
すわるときや歩くときに前が左右に分かれますから、
両方同じ柄がついていたほうがいいわけです。それでああいう柄つけなんですね。
それがおはしょりを先に作るようになって、前を左右に広げることがなくなって、
今のように上前から後ろを通って、だんだん柄が小さくなるというタイプに
なっていったわけです。柄のつけ方ひとつでもそういう変わり方をするんですね。
また重ねて着るのが当たり前でしたから、
留袖も振袖も、みんな重ねて着物を着るのが正式でした。
今の留袖の比翼仕立てはその超簡素化したもの。
伊達衿は重ねて着ることの縁起やしきたりを簡素化したもの、です。
こんなふうに着物というのは、その形を整えて「○○」と名前をつけて
ひとくくりにしても、形も着方も、時代の流れでかわっていくものなわけです。
では次に「つけ下げ」について。
つけ下げというものが出現したのは、日本が戦争にむかって走り出したころ。
着物にしてもなににしても、ゼータクだ…という声が上がり始め、
訪問着なんぞは槍玉…そこで考え出されたのが「つけ下げ」とされています。
えーと、ここで注意していただきたいのは、ハデじゃまずい、ということです。
これは当然「柄行」にもいわれることで、
留袖や振袖ほど派手にしないのがウリの「訪問着」を
さらに「ハデにしない方向」にしなければならなかったわけです。
ここで出てくるのが色柄とともに「反物」そのもののことです。
まず訪問着というのは「仮仕立て」の状態で柄をつけます。
つまり白生地を身頃、袖、衿…と裁ってしまって、それをざっと縫い合わせた上で
柄をつけてゆく、当然柄は細かいところまで一続きになります。
よく言われる縫い目で柄が重なる(続く)です。
つまり、販売するときも仮仕立てのままになります。
よく衣桁にかけて広げられて売られていますね。
これに対して、つけ下げは、反物を切らない状態で柄をつけていきます。
当然柄は「このあたり」でつけられます。
つけ下げの反物には、はじっこにしるしがついています。
身頃はここまで、とか袖はここ、という独特のしるしです。
そういう状態ですから、訪問着のように、きっちり柄を合わせられません。
というより、本当はできるけれど、わざとそうして柄を減らして散らし、
「柄を続けないこと」で「ゼータクではない」とアピールしたわけです。
またこの状態なら、反物で販売できますから、訪問着のように、
わざわざ広い場所もいらないし、衣桁にかけることもありません。
つまり「ほら、これは訪問着のように、手間をかけてゼータクに
柄つけしたものではありませんよ、普通の反物と同じですよー」という
目くらまし?です。
やがて、世の中が収まって本来ならつけ下げを作る理由はなくなったはずですが
それはそれとして、訪問着ほど豪華でなく、もうちょっと気楽に着られる、
更に小紋よりはちゃんとした印象、という新しい理由で生き残ったわけですね。
ところが、元々は「うるさい眼」をのがれるために、柄も小さく飛ばす程度
実はやろうと思えばできることをおさえていたわけですから、
縛りのなくなったところで、それじゃ訪問着のように柄を華やかに、とか、
続けようと思えば続けられるんだから、と柄を続けるなど始まったわけです。
つまり、最初に訪問着ありき、で始まったのですから、
訪問着の定義にはいるものを作ったら、そこですでにつけ下げではなくなる、
ということを、安価に売れる点も買われて、混ぜてしまったんですね。
そんなことで、これはたぶん、ですが、それまでは、ぱっとみれば
「あっコレは訪問着、こっちはつけ下げ」とわかったものが、
眼くらましの必要がなくなったために、つけ下げも豪華になってしまい、
見分けがつきにくくなった、その上共八掛のあるつけ下げだの、
柄が続いたつけ下げだのが出てきた…。つまり距離が縮まっちゃったんですね。
私が若いころは「衿みればわかる」といったのですが、
最近はそれもアテになりません。
こうなると単純に、お店に並んでいるとき「仮仕立てか、反物か」しか
判別する方法はありません。
そしてもうひとつ「つけ下げ小紋」というのがあります。
小紋は上下がありませんが、その向きをわざとつけて前と後ろを分けて
柄付けする、でも柄は訪問着のような大柄ではなく、細かい柄小紋柄…。
これがまたですねぇ…私過去にこれ調べて、途中でギブアップしました。
つけ下げ小紋は格として、扱いは小紋なのかつけ下げなのか…。
これについて、プロの呉服屋さんでさえ、あちこちで全く反対のことを
いっていたのです。あるところでは「小紋だから、礼装にならない」
また別のところでは「つけ下げの染だから礼装になる」「小紋の一種」
「つけ下げに入る」どっちなんじゃい…なんですね。
じっさい現場でも「訪問着、つけ下げ、つけ下げ小紋」については、
ずーーっと混乱しっぱなしで、益々わからなくなっているんじゃないでしょうか。
たとえば書き出してみると、
* 完全な訪問着(豪華絢爛、柄ばっちりズレなし、共八掛)
* つけ下げの訪問着寄り(共八掛もアリ、八掛別でも柄は訪問着なみにズレなし)
* つけ下げの小紋寄り(八掛別、柄もおとなしめ)
* 江戸小紋(小紋だが、紋をつけることによって略礼装になる)
* つけ下げ小紋(上下のある柄付け)
* 小紋(上下なしの柄付け)
こうやって分けると、小紋はどこまで言っても小紋でいいと思います。
元々江戸小紋でも、紋をつければ略礼装になりますが、
そのときに縫い取り紋にしたほうがより気楽に着られます。
つけ下げ小紋も縫い取り紋をつければ、江戸小紋ランクで使える、
とそんな感じになりませんか?
いかがですか?着物というのは、全て順調に
進歩発展してきたわけではないんですね。
つけ下げというのは、私観ですが「あだ花」のような存在ではなかったかと、
そんなふうに思います。戦争だから、という縛りが取れたときに、
きちんと「つけ下げはこういうもの」と、定義を揺るがさずに継承すれば
そのまま今でも、小紋よりきちんとしていて、訪問着より硬くない…で、
ちゃんとハッキリした居場所をもてたかもしれません。
呉服業界は、戦後の「呉服界の混乱期」に、多くのマチガイをしました。
もちろん消費者側にも責任はあると思います。
要するにお互い着物をだいじにする方法を間違えたということです。
確かに、食べていくためにはしかたのないこともあったかもしれませんが、
着物の存続のための努力の仕方も方向性も、ズレてしまいました。
それが、わが国の文化的財産であるところの「職人」さんたちを干上がらせ、
技術の伝承があちこちで途絶え、着物のきまりごとさえ、
「売れればいい」で、ゆがめられたこともたくさんあると思います。
ずっと着物と沿って歩いてこなかった私たちの年代は、
その問題点が見えないんですね。
おばあちゃんに聞いたら「あぁそんなものは戦後にできたもんだよ」なんて
そういうことがあります。
その「戦後」のことが、ほかのことならいろいろと情報も自然とはいるのに、
着物はほとんどはいらなくなってしまったということです。
だからプロが一人「これはこうなんです」というと、
言われた人は、そーなんだーで、それだけが正しい答えだと思ってしまう。
かの先生が、共八掛分でショールを、とやったのなら、
訪問着の位置づけや意味を無視したことになります。
今はそんなにこまかくないからいいじゃない、
つけ下げも訪問着もおんなじようなもんよ、と思っていたら、
まずあなたから勉強しなおしてください、といいたいです。
着物は自由にきればいいものではありますが、
必要なくくりは崩さないほうが、順当な変化を妨げない、
ということをわかってほしいと思います。
思っていました。
ところが今は共八掛なら訪問着扱いでしょう
と思っていましたが、付け下げにも共八掛
とは、ますます分からなくなりますね。
ところで、大名行列の素敵な訪問着、タンスの
肥やしにしないで着てあげてくださいね。
題です。見てもなかなか区別がつかず、困って
いましたが、とんぼさんの説明でほんの少し
分かったような気になりました。
これからも熱心にとんぼさんのブログで勉強し
たいと思います。
トンボさんの後を受けてこちらも風邪気味でしたか何とか持ち直してきました。
関係業者としては、訪問着と付下の区別は基本的には絵羽状態であるか丸巻き状態であるかで決めています。
紬の訪問着など、共八掛は付けないので八掛に付いては重きを置いていない様に思います。
下絵羽して青花で下絵を描いて友禅を始めるのが本来、訪問着としていますが、丸巻きで草稿から友禅を始めることもあります。
とすると付下となりそうですが、訪問着は柄の合い口を外れて隠れる所は省きますが、付下は丸巻きで商売する為に全面柄を施します。
その為、柄の重さが一緒でも付下の方が手間がかかってしまう逆現象が起きてしまう事がよくあるのです。
付下が出だした頃、上前と衽の柄は合っていても、脇の合い口の柄が違っていても平気でした。
「付下はこれでええのや」とほざいていたのですが、今はもう昔の話。
我が工房では下絵羽なしに、丸巻きで着物の全合い口を合わせた柄を三十年、既に作っていました。
otyukunさまのコメントを拝見して、疑問が解けました。
丸巻きでもとめましたので、てっきりつけ下げと思っていましたのに、仕立て代は張るは、帯合わせや着付けの際にも、訪問着と連呼されてすこぶる不審に思っていました。
つけ下げ小紋、そうでした、柄が上向きだからちょっぴりエライ、とききましたが、歳を重ねたいま思うと、仰るようにやはり小紋のくくりのなかでのランクですね。
紫の小紋のようなお着物すきです。
若いころにはこういう自由奔放な小紋がまだたくさんありました。
うう~~・と、唸りながら読ませていただきました。
私は、つけ下げは持ちません。「いったいいつ着るの?」かがよくわからなかったからです。小紋より改まって、デモ訪問着じゃ大げさ…な時は、いつも一つ紋の色無地です…。羽織で調節して。
初心者としては、やはり「ここまで!」の線引きははっきりさせておいてほしいと思います。
紬の訪問着も「なぜ?なんのために?」がわからない着物です。
以前「おしゃれ訪問着」というものを観ました。共八掛けではないのですが、表地と同じ絵を手描きで添えてありました。う~~ん!難しい~~
訪問着と付け下げの違い、歴史的な経緯も含めてのご説明がとてもわかりやすかったです。
20年ほど前、仕立ての修行中には、裾模様は下前のオクミまで、左右の袖付け、衿付けにまで柄合わせのある『付け下げ』を何枚も仕立てました。反物のままで柄合わせをしなければいけないので、訪問着よりも大変でした。お茶席用だったのか、縫いの一つ紋が入っていることが多かったです。
付け下げ小紋も、柄を合わせていくと裾から肩山まで、すべての柄が合うような柄付けのものもあり、これは小紋なのか、訪問着と呼んでいいのかわからなくなります。
江戸小紋は紋を入れれば・・・とは、展示会などでは必ず言われる常套句ですが、一口に江戸小紋と言っても柄によって格は様々。礼装向きではない柄も多いと思います。今度は、江戸小紋についても考察をお願いしたいです。
昔なら親子の会話や、呉服屋さんとの関わりで
いつの間にか知っていることだったものが、
着物がきられなくなりましたからねぇ。
いい呉服屋さんに出会えば、そういうことを
教えてくれながら、こちらがいい買い物を
できるように、図ってくれるのですが…。
知っておいて損はない、ということも
いろいろありますねぇ。
陽花様
呉服屋さんなら縫う前の状態がみられますが、
古着で写真だけのときは、写真と説明が
ナンカヘン、ということがあります。
ややこしいことになってますね。
「大名行列」…着なくちゃですねぇ。
タンスに肥やしいれても、引き出し増えないし
育たないし…。
うんちく様
男物はさっぱりしていてほんとラクですー。
奥様にお着物を買って差し上げるときのために
覚えてってくださいねー!!
otyukun様
お風邪大事になさってくださいね。
実際現場におられるかたでも、
いろいろな染めをなさっていたのですね。
古着で、つけ下げだと思って解いたら、
柄が省かれていて、あれれっと思ったり、
時々悩んでいます。
単純につけ下げのほうが格安、なんて
いえないんですね。ナゾだらけですー。
Suzuka様
着ていても、知らない人はなんでも
「訪問着」といいます。
いちいち「いえこれはつけ下げ」…。
説明が要るようなものは、統一しておくれー。
ゆん様
色無地ではちょっと、ということもあります。
お年を重ねたら、つけさげ一枚どーぞ。
あっ共八掛じゃなくてぇ、柄は続いてなくても
どーたらこーたら…ホラめんどくさい…ですね。
やのめ様
こちらこそ、はじめまして。
ようこそおいでくださいました。
本来のつけ下げならラクだったでしょうに、
ややこしいことになってしまったのですね。
こちらは選ぶほう(そうは買えませんが)で、
ウダウダと言っていれば言いだけですが、
染める方、縫う方など「現場」の方は
もっとタイヘンなんですね。
江戸小紋、以前にちらっと書いたのですが、
そうですね、江戸小紋なら何でもいい、
という勘違いもあるかもしれませんね。
お題をいただいたということで、
近いうちに、書いてみたいと思います。
ありがとうございました。
訪問着と付け下げの違い。
そういうことなのですねぇ・・・・
私の印象としては、70年代くらいはまだまだつけ下げが多く、80年代に入って訪問着全盛になったという感じです。
付け下げは近景(アップ)の柄が多く、訪問着は遠景の柄が多いという印象も持ってます。
なんか根拠無い大雑把さなのですが。
それにしてもこの大名行列の柄、本当にうっとり見惚れてしまう素晴らしさですねぇ・・・
こちらこそ、またお願いいたします。
カゼ大丈夫ですか?
あのころはまだ、そういう「見た目」の違いが
はっきりしているものがありました。
八掛を見なくても、一目瞭然、みたいな。
いまやごっちゃ混ぜです。
この訪問着、一度全部の人数を
数えてやろうと思っているんですが…。
上前の上のほうから、すそを回って後ろまで、
ずーーーっと続いているんですよ。
よくまぁ描いたものだと思います。