長らくこの話題の更新が有りませんでしたね。
いよいよベスト3に突入です。
ここまで来ると、本当に伝説の名君。並みのレベルです。
4位の劉邦辺りから既にそうですが、この辺まで来ると、
歴史家に拠っては一番の名君である。と評価されるので、
客観的な順位はもう大差が無いのかも知れません。
なので、本当にランキングは、筆者の独断と偏見ですよ(苦笑)
今回の唐の太宗、李世民と言うのは、日本とも遣唐使として深く交流の有った。
300の長い歴史を誇る大帝国、唐王朝の二代皇帝です。
二代目ですが、多くの歴史研究家は、この人物が、実質的な王朝の創始者で有る。
と言う評価をして居ます。
彼は、父で有る初代皇帝の、高祖李淵の次男ですが、
隋末期の動乱の中、父に挙兵を催したのが彼、と言う事に成っています。
また都に攻め上って、都を占領すると、唐の全軍を指揮して、
周辺に割拠する諸群雄達と渡り合い、勢力の天下統一事業の実行役として活躍したのです。
これらの功績で、朝臣達からの人気も絶大な物と成り、
父の補佐として、そして後継ぎとして都に留まり政務の手助けに尽力していた、
兄で皇太子の、李建成の影が薄く成ってしまい、
後継ぎを世民にしたいと願う勢力(主に世民付きの譜代家臣だが…)が有力と成ってしまいました。
そして悲劇が起きます。
遂に世民は、兄の建成を、宮城の入り口である、玄武門と言う所で殺してしまいます。
所謂クーデターを起こしたのですが、この事件が、完璧とも思える彼の評価を、
唯一貶めている脛の傷です。
筆者も、この事件さえ無ければ、文句無く中国随一の皇帝と言う評価したと思います。
(しかし、逆に言えば、この事件が無ければ、彼は皇帝に成れなかった可能性が高いですがね)
この事件の後、改め立太子をされ、直後に譲位(軟禁したと言う説も有る)されて、
遂に皇帝に即位した。
後半へつづく
いよいよベスト3に突入です。
ここまで来ると、本当に伝説の名君。並みのレベルです。
4位の劉邦辺りから既にそうですが、この辺まで来ると、
歴史家に拠っては一番の名君である。と評価されるので、
客観的な順位はもう大差が無いのかも知れません。
なので、本当にランキングは、筆者の独断と偏見ですよ(苦笑)
今回の唐の太宗、李世民と言うのは、日本とも遣唐使として深く交流の有った。
300の長い歴史を誇る大帝国、唐王朝の二代皇帝です。
二代目ですが、多くの歴史研究家は、この人物が、実質的な王朝の創始者で有る。
と言う評価をして居ます。
彼は、父で有る初代皇帝の、高祖李淵の次男ですが、
隋末期の動乱の中、父に挙兵を催したのが彼、と言う事に成っています。
また都に攻め上って、都を占領すると、唐の全軍を指揮して、
周辺に割拠する諸群雄達と渡り合い、勢力の天下統一事業の実行役として活躍したのです。
これらの功績で、朝臣達からの人気も絶大な物と成り、
父の補佐として、そして後継ぎとして都に留まり政務の手助けに尽力していた、
兄で皇太子の、李建成の影が薄く成ってしまい、
後継ぎを世民にしたいと願う勢力(主に世民付きの譜代家臣だが…)が有力と成ってしまいました。
そして悲劇が起きます。
遂に世民は、兄の建成を、宮城の入り口である、玄武門と言う所で殺してしまいます。
所謂クーデターを起こしたのですが、この事件が、完璧とも思える彼の評価を、
唯一貶めている脛の傷です。
筆者も、この事件さえ無ければ、文句無く中国随一の皇帝と言う評価したと思います。
(しかし、逆に言えば、この事件が無ければ、彼は皇帝に成れなかった可能性が高いですがね)
この事件の後、改め立太子をされ、直後に譲位(軟禁したと言う説も有る)されて、
遂に皇帝に即位した。
後半へつづく