萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第86話 建巳 act.20 another,side story「陽はまた昇る」

2020-11-17 23:42:07 | 陽はまた昇るanother,side story
Of moral evil and of good, 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.20 another,side story「陽はまた昇る」

かすかに甘い、ほろ苦い渋い香。
書籍くゆらす匂い、僕には懐かしい。

「すごい…」

ならんだ背表紙に惹きこまれる、弾む。
見つめる書籍名ずらり揃う、その豊かさに友だちが笑った。

「ウチの書籍部は学術文庫ほぼ揃うんだ、最高学府ってのもダテじゃねえよな?」

チタンフレームの眼鏡ごし、からり明朗な瞳が笑う。
気負いない明るさに周太も素直に肯いた。

「うん、大学で買えるなら勉強するのにありがたいもの、」
「だよな、探したり注文したり時間がもったいないもんな?生協なら学割あるしさ、」

隣も頷いて、浅黒い健やかな笑顔ほころばす。
どこまでも明るい衒いない、そんな視線と言葉に微笑んだ。

「賢弥、ほんとうに学びたがりだよね?」

時間も、お金も、少しでも多くそのために。
そんな友人は日焼ほがらかに笑った。

「せっかく木曽の山奥から出て来たんだしさ、学費だって無駄にしたくねえじゃん?東京は物価も高いしな、」

本つい眺めながら答えてくれる。
その言葉に自分を省みて、ほろ苦さ口ひらいた。

「僕ね、工学部に行ったこと、お母さんに謝らないとなって…いまさらだけど、」

大学は工学部を選んでしまった。
警察官になるために、父の跡を追うためだけに。

「そっか、銃を扱うから工学部って考えたとか?」

率直な声まっすぐ訊いてくれる。
あくまで直截な友人に微笑んだ。

「うん…」

ただ肯いて、昨日までの時間すこしだけ軋む。
もう終わった時間の想いに、明るいバリトン微笑んだ。

「機械とか強いと森林学でも役立つんだよな、山仕事は重機が必要なコトあるからさ?青木先生かなーり喜ぶよ、」

ここでも役立つ、そう告げてくれる。
こんな言葉ひとつ温かで、ただ感謝に笑った。

「ありがとう賢弥…僕、がんばるね、」
「こっちこそ、」

闊達な瞳からり笑って、チタンフレームが先を見る。
ならんで歩きだした先、節くれ頼もしい指が示してくれた。

「このへんは文学コーナーだけど、周太は好きだろ?」
「うん、賢弥よく来てるの?」

頷いて尋ねながら、友だちの言葉に温かい。
こんな自分を見てくれている、その瞳が眼鏡ごし笑った。

「ほぼ毎日来てるよ、ツイ寄っちゃうんだよ本屋、」
「あ…わかる、それ、」

笑いかけながら嬉しい、だって同じだ。
ふたり本の匂い歩きながら、懐かしい書名に立ち止まった。

『東方綺譚-Nouvelles orientales』

惹きこまれる名前に指ふれる。
父と祖父が遺した書斎の一冊、フランス文学の名著。
この一冊に消えない想い見つめて、開いた目次に訊かれた。

「源氏の君の最後の恋、って、あの光源氏?」
「ん…そうだよ、」

肯きかえす視界の真中、そっと疼かれる。
この物語に重ねた感情の時間、あの痛み忘れてはいない。

―英二みたいだって思ったんだ、僕は…そして僕は、

死を迎える男、かつて栄華を極めた存在。
その男を最後に看取ったのは、多くいた恋人の一人だった女性。

「周太は読んだことあるんだろ?おもしろかった?」

ほら?訊いてくれる声は明るい。
明朗ただ温かで、引き戻してくれた声に微笑んだ。

「ん…哀しいけど凛としててね、勁い、きれいな世界だよ、」

きれいだ、ただ悲劇だけじゃない。
想い微笑んだ一冊に、小麦色のびやかな手が差しだされた。

「読んでみるよ、買ってくるな?」

だから渡してもらっていい?
そんなふう差しだされた掌に一冊、渡して鼓動そっと疼いた。

―あ…弥生さん?

名前ひとつ、渡した一冊の手に疼く。
けれど闊達な瞳ほがらかに笑って、踵まっすぐ歩きだした。

「この翻訳者のヒト、田嶋先生すげー絶賛してんだよ。周太も講義の手伝いするなら聞かされるよ、きっと、」

明朗なバリトン笑って話してくれる。
だから笑って相槌うちながら、かすかな香ほろ甘く渋い。

―賢弥も想い重ねるのかな、弥生さんのこと…僕みたいに、

ほら心裡めぐってしまう、この友だちに。
こんなに明るい聡い学友、けれど哀しみも痛みも抱いている。
そんな感情のトレース見つめるまま、カバーされた一冊に友だちは言った。

「なんか腹減ったなあ?周太、なに食いたい?」

からり闊達な視線が笑ってくれる。
チタンフレーム透かしても明るい瞳、きれいで、研かれた想いに微笑んだ。

「あたたかいもの、食べよ?」

※校正中
(to be continued)
【引用文献: Marguerite Yourcenar『Nouvelles orientales 東方綺譚』】

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第86話 建巳 act.19 another,side story「陽はまた昇る」

2020-10-30 22:23:03 | 陽はまた昇るanother,side story
Of moral evil and of good, 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.19 another,side story「陽はまた昇る」

桜ほの明るいキャンパス、ブルゾン姿が駆けてくる。
本を抱えて、チタンフレームの眼鏡きらめいて、友だちが笑った。

「おはよっ、周太、」

眼鏡ごし、闊達な瞳ほがらかに笑ってくれる。
三日ぶりの笑顔ゆるめられて、ふわり周太も笑った。

「賢弥も来てたんだね、図書館?」
「うん、論文の準備しよー思ってさ、」

話しながら桜の下、抱えた本を見せてくれる。
背表紙ならんだタイトル興味深い、愉しくて尋ねた。

「返却するとき教えて?僕も借りたいから、」
「いいよ、これから毎日ほとんど会えるもんなっ、」

応えてくれるバリトン弾んで、懐っこい笑顔ほこばせてくれる。
この笑顔と毎日会えるんだ?始まる日常に笑いかけた。

「ん、会えるよ?研究生だから講義は青木先生のだけだけど、田嶋先生の研究室には毎日来るから、」

農学部と文学部、校舎は違う。
けれど通学いつもになる初日に、三歳下の学友が訊いた。

「青木先生の研究員の話は断ったってこと?なんで?」

どうして?そんな眼差しが尋ねてくる。
もう訊いていたのかな?推察と笑いかけた。

「賢弥は知ってたんだね、研究員の話、」
「あのプロジェクトは俺も関わってるからさ。青木先生、すごく楽しみだ言ってたんだけど、」

それなのに断るのか?
そう見つめてくる友だちに、自分の考えを口にした。

「大学院の入試にはマイナスだと思ったんだ、研究生は学部生とは立場が違うでしょ?」

科目履修だけする研究生が、その科目の大学院を受験する。
ある意味で「外部」扱いと変わらない、学部生のような「内部」とは事情また違う。
そんな立ち位置のキャンパスで、三つ若い友人はため息吐いた。

「あー…そのとおりかあ、でもさあ、つまらないっていうか、なあ?」

チタンフレームの眼鏡ごし、明敏な瞳くすぶらす。
こんなに残念がってくれるんだ?何かくすぐったい想い笑いかけた。

「僕もね、あの研究はすごく参加したいよ?でも、すっきりと大学院を受験したいんだ、それに美代さんは参加すると思うよ?」

あの研究なら彼女は加わる、それなら賢弥も「つまらない」だけでもないだろう?
けれど同じ道の友だちは髪がしがし掻きまぜ言った。

「まーなあ、小嶌さんも研究仲間として面白いけどさ、周太と一緒にできる思ってたからさ?いないのかあって、」
「ん…ごめんね?」

素直に謝りながら鼓動くすぐったい。
こんなふうに求められて、初めての空気に闊達な瞳が笑った。

「まあーなあ、来年もアノ研究は続くけどさ、そんときは一緒しような?」
「ん、一緒させて?大学院に受かったらだけど、」

応えながら少し不安にもなる、本当に受かるだろうか?
もう25歳になる自分、けれど大学4年生の友だちは言った。

「絶対に俺たち受かるんだぞ、周太?大学院からは俺たち同期だ、やっと見つけた研究パートナーなんだからさ、」

チタンフレームの眼鏡ごし、明朗な瞳まっすぐ見つめてくれる。
どこまでも一緒にいこう?そんな約束に周太も笑った。

「僕、がんばるよ?卒研の代わりの論文もね、ちょっと考えてるんだ、」

自分は農学部卒じゃない、そのため大学院入試には希望学科に沿う論文が必要になる。
もう書きださないと間に合わないな?難しいけれど楽しい課題に、明るいバリトン弾んだ。

「なになに?どんなのか教えてよ、」
「賢弥こそ何やるの?訊くなら先に教えて、」

応えて笑って、キャンパスふたり歩きだす。
白く花びら光る道、二本の桜に立ち止まった。

「周太?どした、」

隣も立ち止まってくれる。
その声に微笑んで、花を仰いだ。

「この桜を見たくて、」

白い花光る、おおらかな梢きらめかす。
もう何十年を生きたろう、その幹そっとふれた。

「この染井吉野か、学徒出陣の学生が植えたんだよな、」
「え…、」

告げられた言葉に止まる。
さっき田嶋に教えられたから。

『まだ先生が学生の時に、勝手に植えたって仰ってたよ。意外とオモシロイことするだろ?』

祖父の教え子が教えてくれた、その理由が花きらめく。

「学徒出陣…」

すぐ成長して、花すら散り急いでしまう染井吉野。
それを祖父は知っていただろう、だって家の桜を植えたのは祖父だ。

「周太も聞いたことあるだろうけどさ、ウチの大学も文科の学生は学徒出陣してるだろ?その桜も文学部の学生だったらしいよ、」

いつもの明るく透る声、けれど今おだやかに響いて悼む。
なぜ祖父が桜を植えていったのか、そして、なぜもうひとつ桜は植えられたのか?

『馨さんと奥多摩で見つけた苗でな、山桜はゆっくり成長するのがイイだろ?俺が3年、馨さんが4年になる春だよ、』

田嶋と父が植えた山桜、その想いに若葉が朱い。
桜ふたつ、見つめる願い笑いかけた。

「…賢弥、僕たちが植えるなら何の木がいいと思う?」

笑いかけて視界あわく滲みだす。
目元ゆるやかに熱くなる、瞬いて、沁みこんだ。

※校正中
(to be continued)
【引用詩文: William Wordsworth「The tables Turned」】

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第86話 建巳 act.18 another,side story「陽はまた昇る」

2020-10-27 23:02:27 | 陽はまた昇るanother,side story
Of moral evil and of good, 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.18 another,side story「陽はまた昇る」

桜がふる、雪のように。
あなたの森みたいに。

「…きれい、」

仰いだキャンパス片隅、花が白く風おどる。
あの森にいたのは2日前、たった48時間くらい前。
それでも頬ふれる風ずっと温かで、そっと周太は深呼吸した。

―桜の匂いする、ね、

ゆるやかな呼吸の底、ほのかに甘く深く香る。
この花が奥多摩に咲くとき、見に行けるだろうか?

『馨さんは山が好きだったろ?だからここに埋めたんだ、奥多摩の森なら喜んでくれると思ってさ、』

ほら思い出してしまう、あなたの声。
あの言葉に嬉しくなった、父のこと想ってくれるから。

―英二はお父さんのこと、ほんとうに大事にしてくれてるんだ…でも、

父の血で染まった手帳、その血抜きした脱脂綿すら弔ってくれる。
こんなふう優しいひと、けれど、その優しさ何から生まれるの?
あなたが大切にするブナの森、そこに埋められた想いは、何?

―正義感かもしれない、英二…まっすぐなひとだから、

あなたは法曹に進むはずだった、そんな現実もう知ってしまった。

『いわゆる権力者だ、その後継者として宮田は鷲田になった、』

伊達から聞かされた事実、あの時から解らない。
あなたはなぜ自分の過去に関わるの?
どうして父の事件を追いかける?

―宮田のお家から分籍して僕とって言ってた、けど、官僚の家の人になったんだね、

家族になって、ずっと一緒にいて。
だから父のことにも関わるのは、愛情からだと信じていた。

『分籍したんだ俺、だから周太が結婚してくれないと独りだよ?』

男同士で結婚なんて、愚かだと嗤われる。
そんな現実もう知っていて、それでも、あなたの想いが嬉しかった。
けれど今あなたは別の家の人、それは「もう関わらない」意思なのだろうか?

「…わからないよ英二、」

想い唇こぼれて疼きだす。
だってまだ2日前だ、あなたの声を聴いたのは。

“なんで名前で呼ばせてんだよ周太?”

あの雪の山、美代が自分を呼んだ。
それすら苛立ったのは、あなただ。

―僕には大事なひとだから呼ばれたいんだ、名前で…そんなこと英二もわかるでしょう?

あなたも名前で呼ばせるくせに?
それを咎めたことなんて僕は無い、だって自由にしていいことでしょう?
だから僕も彼女と名前で呼び合っている、けれどあなたは、どうして呼び方も認めてくれないの?
そうして僕の人間関係ごと認めてくれないのは、なぜ?

―もう鷲田のお家のひとになったのでしょう英二、もう、僕とは家族にならないのに、

俺はきれいな人形じゃない、あなたはそう叫んだ。
そのまま自分から選んだのだと、あなたの意志で「家」を決めたのでしょう?

『男の愛人は邪魔な立場になったんだ宮田は、本人の意志とは関係なくそういうことだ、』

伊達から聞かされた今の現実を、あなたが理解していないわけがない。
でも何もあなたは話してくれない、けれど期待ひとつ再会を願っている。
次に会った時は話してくれる?そうして、自分の話も聞いてくれるだろうか?

―でも僕こそわからないんだ、英二のこと…ほんとうに恋なのか、な、

わからない自分の感情すら。
だからこそ明日の話をしたい、あなたと。
だって明日を見つめられるのなら、一緒に生きる意志があるのなら?
それは命尽きるとしても変わらない、それを明日を見つめた手紙に知ってしまった。

“私の母校でも一緒に散歩したいわ、大きな図書館がとても素敵なのよ?君のお祖父さんの研究室も案内したいです。”

祖母が遺してくれた手紙、そこには命の限り知っても明日があった。
もう生きられないと知っていた祖母、それでも明日を信じて未来の自分に手紙を書いた。
そうして今、自分はこのキャンパスを歩いている。

「僕、歩いてるよ…おばあさん?」

声そっと呼びかけて、唇かすめる香あまい。
頭上きらめく白い花が匂う、この空気に過去と未来が繋がれる。
そんなふうに想い交わせるのなら?

「しゅーうたっ!」

ほら呼んでくれる、快活ほがらかな声。
呼ばれた未来ただ嬉しくて、周太は友だちに振り向いた。

「おはよう賢弥、」

※校正中
(to be continued)
【引用詩文: William Wordsworth「The tables Turned」】

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第86話 建巳 act.17 another,side story「陽はまた昇る」

2020-10-24 10:48:00 | 陽はまた昇るanother,side story
May teach you more of man, 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.17 another,side story「陽はまた昇る」

この窓は桜が見える。

「きれい…」

ひとりごと微笑んで、つい想ってしまう。
ここは祖父と祖母と、父が見た窓だから。

「きれいだろ?よく湯原教授もそうして見てたよ、周太くん似てるんだな、」

低いくせ朗らかな声が笑ってくれる。
ひとりごと聞かれてしまったな?気恥ずかしさ微笑んだ。

「そうですか…祖父は桜、好きでしたか?」
「好きだったろうな、そこに植えたの先生らしいから、」

鳶色の瞳が笑って、ことん、デスクにマグカップ2つ置いてくれる。
ほの甘い芳香くゆらせて、この研究室の主は言った。

「まだ先生が学生の時に、勝手に植えたって仰ってたよ。意外とオモシロイことするだろ?」

勝手に植えたんだ?
たしかに意外で、驚いたぶん声が出た。

「あの、田嶋先生がじゃなくて、祖父が勝手にしたんですか?」

あれ、変なこと言っちゃった?

「あ、いえ…」

ほら目の前、鳶色の瞳が大きくなる。
こんなこと自分が言うなんて?困って、けれど祖父の愛弟子が笑った。

「あははっ、俺ならやりかねんって周太くんも思うんだ?」
「あの…いえ、」

声押し出しながら首すじ熱い、もう頬まで熱くなる。
こんな余計なこと言ってしまったどうしよう、困惑の真中で教授が笑った。

「俺もヤッたんだよ?どーせなら山桜のがイイなあ思ってさ、ほら?」

かたん、窓の鍵ひらいて武骨な手が押し開く。
節くれた指さき一点、朱い新芽こまやかな若木が見あげていた。

「馨さんと奥多摩で見つけた苗でな、山桜はゆっくり成長するのがイイだろ?」

研究室の眼下、若い山桜は新芽に萌える。
まだ若い幼い木、そこに積もらす歳月に尋ねた。

「何年生の時に植えたんですか?」
「俺が3年、馨さんが4年になる春だよ。湯原先生も笑ってたぞ?」

応えてくれる眼差しやわらかい。
きっと父との時間を見ている、そんな瞳が温かい。

「父は生きていたんですね、ここで…祖父も、」

この場所で父は生きていた、祖父も生きて笑っていた。
もう見ることはできない時間たち、それでも繋がる今に教授が笑った。

「そうだよ、これから周太くんもだな?」
「はい、」

頷いて温かい、ただ「これから」に。
もう昨日とは違う時間、場所、そこに香る紅茶に席ついた。

「まず、カニみそが苦手だな、」
「え?」

マグカップ口つけかけて止まってしまう。
どういう意味だろう?見つめた真中、鳶色の瞳にやり笑った。

「俺の弱点だ、さっき青木と言ってたろ?」

田嶋先生に無理難題されたら遠慮なくおいで?田嶋先輩の弱点を教えてあげますよ。
そんなふう森林学者に言われたな?思い出して笑ってしまった。

「はい、おっしゃられていました、」
「青木には食い物ネタ知られてんだよ、山岳部で同じ飯盒のメシだったろ?」

低いくせ明るい声が笑っている。
それくらい長閑な話題に文学者は続けた。

「でも新鮮なヤツは好きだぞ?イキのいいカニみそにカニ肉つけて食うと旨いんだ、酒が欲しくなる、」
「はい、っ、ふふっ、」

可笑しくて笑ってしまう、なんだか嬉しくて。
こんなふう父とも話していたのだろうか?想いに教授は言った。

「パリ第3大学とパリ高等師範、周太くんも行ってみたいだろ?」

書類一通、示してくれる。
さっき見たばかりの書面に、その校名を見つめて頷いた。

「はい、祖父の留学先ですから、」

頷いた口もと、あたたかな湯気に紅茶が香る。
このテーブルで父も祖父も紅茶を楽しんだ、そのままの馥郁に教授が笑った。

「じゃあ契約書、よく読んでからサインしろよ?」

差しだされた一通、一行一語ずつ心綴る。
2枚それぞれサインして、押印した1枚を差しだした。

「ありがとな周太くん、夢が叶うよ?」
「先生の夢?」

どんな夢なのだろう?
訊き返した真中で、鳶色の瞳そっと微笑んだ。

「馨と約束してたんだよ、カルチェラタンを歩こうってな、」

約束の場所、そこを自分が田嶋と歩く。
その続きを知りたい。

「先生、パリからスイスにも行きますか?」

※加筆校正中
(to be continued)
【引用詩文: William Wordsworth「The tables Turned」】

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第86話 建巳 act.16 another,side story「陽はまた昇る」

2020-10-22 21:43:07 | 陽はまた昇るanother,side story
May teach you more of man, 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.16 another,side story「陽はまた昇る」

ホント浮かれてたな、なんて普通は失礼だ。
けれど率直まっすぐ言ってしまう声は低く、けれど朗々響く。

「周太くんの言うとおりだと俺も思うぞ、大学院の受験生を引きこんじゃマズイだろ?青木が試験官する以上はなあ、」

雪焼けの笑顔ほころんで、細めてくれる瞳が鳶色きらめく。
ばたん、大きく閉じられた扉に研究室の主は苦笑した。

「田嶋先生、もうすこし優しく閉じてくださいよ?この研究室も古いんです、」
「あははっ、文学部のほうがもっとボロいぞ?」

低い声からり応えて悪びれない。
あいかわらずな文学者に周太は立ち上がった。

「田嶋先生、おはようございます、」
「おはようさん、周太くんも今日から青木の研究生か、」

低いくせ朗らかに響く声、けれど鳶色の瞳やわらかに笑ってくれる。
この笑顔にも父が生きた時間つい見つめて、ただ嬉しくて肯いた。

「はい、今日からお世話になります、」
「今日が周太くんの入学式みたいなもんだな、おめでとうさん、」

雪焼おおらかな笑顔ほころばせて、右手さしだしてくれる。
求めてくれる掌すなおに重ねて、握りしめた温もり大きい。

―大きい手だな、田嶋先生…すこし節くれて、

握手ふれる温もり自分の手を包む、大きくて武骨で温かい。
どこか父の掌と似ていて、それから深く渋く澄んだ匂い。

「できればウチの大学院に来てほしいがなあ、青木に騙されちゃいないかい?」

鳶色の瞳にやり、悪戯っ子に笑ってくれる。
こんな大人もいるんだな?可笑しくて笑った。

「ご心配いただいてすみません、でも青木先生は、騙せるほど器用な方ではないと信じています、」
「なるほど、たしかにそうだ?騙されるタイプだよなあ、」

ぽん、握手の手ひとつ敲いて笑いだす。
この手に父のザイルは繋がれていた、その笑顔が言ってくれた。

「でもなあ、奥多摩がフィールドなら本当は周太くんも行きたかったろ?」

ほら、訊いてくれる。

「はい、奥多摩は行きたいです。でも今は大学院受験があるので、」

応えながら鼓動ふかく、そっと敲かれる。
あの奥多摩だから。

『おいで周、大きな木を見せてあげるよ?』

ほら父が笑ってくれる、奥多摩の森で。
あの森に自分は森林学を志した、あの遠い幼い時間が愛おしい。
それから、もうひとりの眼差し。

『周太、このブナ大きいだろ?』

あのひとだけ見つめていた、何も知らない幸せな時間。
あの時間もう戻らない、もう知ってしまった、それでも後悔なんてない。
そうして今、ここにいるから。

「なあ青木?その研究プロジェクト去年からのヤツだよな、来年も継続なんだろ?」

ほら、訊いてくれる。
この自分の可能性のために。

―僕がやりたいこと本当に理解してくれているんだ、田嶋先生、

文学者と森林学、分野は違う。
それでも同じ想い見つめる真ん中、准教授も頷いてくれた。

「はい、来年こそ加わってもらえたらと。そのためにも湯原君、大学院こちらに来てくださいね?」

来年もある。
そう学者二人が言ってくれる、この幸せに微笑んだ。

「ありがとうございます、精一杯にがんばります、」

頭さげた視界、レザーソールの爪先あわく陽が光る。
こんなふう自分の足を昨日も見つめた、けれど今こんなに温かい。
同じ靴でも違う場所、時間、そうして立つ学舎の窓で文学部の教授が言った。

「おい青木、俺にも誘う権利はあるぞ?」

権利、そんな言葉で植物学者に笑いかける。
どういう意味だろう?見つめるテーブル、准教授は微笑んだ。

「誘う権利って田嶋先生、湯原君を引き抜きにいらしたんですか?」
「他に何があるんだ?」

低い声にやり笑って、ネクタイゆるめた衿もと無精ひげ撫でる。
そんな山ヤの文学者に、山ヤの植物学者は困ったよう微笑んだ。

「湯原君は森林学専攻の大学院を受験してくれるそうです、いくら田嶋先輩でも譲れませんよ?」

銀縁眼鏡の瞳おだやかに困ったように笑って、そのくせ「先輩でも譲れません」と断言する。
やっぱり気は弱くないんだな?あらためて見つめる恩師に、父の旧友が言った。

「そりゃ周太くんの自由だろ、俺も青木も決めれることじゃねえだろが?先輩後輩もねえよ、」
「そのとおりです、でも湯原君を誘いにいらしたんすよね?無茶なことはダメですよ、」

淡々おだやかに問いかけながら、准教授は山の先輩を見あげる。
こんなふう遠慮ない後輩の前、仏文科の教授は周太に向きなおった。

「公的研究資金での研究プロジェクトがあるんだ、その研究員に湯原周太君を迎えたい、」

ごとり椅子ひいて、周太の隣に腰おろしてくれる。
その雪焼あざやかな手が書類一通さしだした。

「フランス語の能力はもちろん、日仏両方の文学を知る人材がほしいんだ、」

示される書面、研究課題が自分を見つめてくる。
白い文面つづられて、その一項目に唇うごいた。

「パリ第3大学…パリ高等師範学校、」

パリ第3大学 ソルボンヌ・ヌーヴェル Sorbonne Nouvelle Paris III University
パリ高等師範学校 École normale supérieureエコール・ノルマル・シュペリウール 略称 ENS

ふたつ記された校名そっと鼓動ノックする。
どちらにも記憶なぞられる「経歴」その愛弟子が言った。

「うん、どっちにも随行もお願いしたいんだ。頼まれてくれんかい?湯原くん、」

名字で呼んで、祖父の愛弟子が自分を見つめる。
その鳶色の瞳まっすぐ澄んで、確信ことん、頷いた。

「詳しいお話をうかがわせてください、」
「もちろんだ、」

ごとん、
椅子ひいて立ち上がって、鳶色の瞳が笑った。

「ウチの研究室で資料見ながら話そう、今日はもう青木からは特にないだろ?」
「はい、まだ春休みですから、」

4月1日、まだ講義は始まっていない。
それでも申し訳なくて、周太は森林学者へ頭さげた。

「すみません、青木先生、」
「謝る必要ないよ、湯原君は遠慮なく自由にしていいんだ。また講義じゃない時でも、いつでもおいで?」

銀縁眼鏡の底、おだやかな実直が笑ってくれる。
その瞳ひとつ瞬いて、可笑しそうに言った。

「今日このあともね、田嶋先生に無理難題されたら遠慮なくおいで?田嶋先輩の弱点を教えてあげますよ、」

いつも穏やかな森林学者、けれど今は悪戯っぽく若々しい。
こんな貌もあるんだな?意外で、それも嬉しくて笑った。

「はい、ぜひ教えてください、」
「ぜひ教えますよ、いつでも訊いてくださいね?一緒に闘いましょう、」

銀縁眼鏡にっこり笑って、右手さしだしてくれる。
すなおに握手して、節くれた手の温もりに文学者が言った。

「そんなの俺が教えるよ、行こう周太くん、」

さあ行こう?誘ってれる瞳が鳶色に明るい。
この眼ざしに父も笑っていた、祖父も笑ったろう。
そうして自分も今、ここから。

※校正中
(to be continued)
【引用詩文: William Wordsworth「The tables Turned」】

第86話 建巳act.15← →第86話 建巳act.17
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第86話 建巳 act.15 another,side story「陽はまた昇る」

2020-10-07 22:34:07 | 陽はまた昇るanother,side story
May teach you more of man, 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.15 another,side story「陽はまた昇る」

弥生門、ここが僕の夢の扉。
ずっと憧れる世界の入り口。

「ん、」

潜る門、頭上ゆれる常緑樹が青い。
木洩陽きらめくキャンパス踏みこんで、桜ひとひら舞った。

「あ、」

掌ふわり、薄紅ひとひら光る。
あわい甘い深い香、その記憶ことんと響いた。

『周、おみやげだよ?』

花びらひとつ、指先つまんだ長い指。
すこし日焼けして、そして優しい父の笑顔。

「…お父さん?」

そっと呼びかけて花びら光る。
掌ひとつ薄紅色、それから遠い慕わしい春の笑顔。

『今日は何を読もうか、周?』

遠い慕わしい瞳が笑う、声が透る。
あの瞳もこの大学で生きていた、夢を生きて。
そんな父はもういない、それでも、その軌跡はこの場所で生きている。

―僕とは違う学部だけど、お父さんは文学部だけど、それでも…僕もここに来たんだ、

想い見あげる空、古い校舎そびえる青が輝く。
すこし狭い都会の空、それでも大木ふるい古い森のキャンパスどこか懐かしい。
そうして父の聲が謳う。

Puisqu'au partir,rongé de soin et d'ire,
A ce bel œil adieu je n'ai su dire,
Qui près et loin me détient en émoi,

心を遺したままで僕は発ってゆく、
僕を見つめる綺麗な瞳に、さよならなんて言えない、
近くにいても遠くにいても君が僕に響いて、離れられない、 

Pierre de Ronsard『Les Amours』
詩の王、そう讃えられるフランスの貴族が遺した詩。
その詩を父は愛した、祖母も愛して、そして祖父がたどった軌跡の詩。

「…心を遺したままで」

詞こぼれる唇、かすかな香あまく深い。
懐かしい甘さ微笑んで、衿元ネクタイそっと整え校舎の扉くぐった。

「ん、」

頷いて階段を踏む。
レザーソール響く回廊、この音を父も祖父母も聞いていた。

―違う学部で違う棟だけど同じ学校…お父さんも、お祖父さんも、お祖母さんも、

想いめぐる一段、一段、靴音そっと昇る。
もう何度も通いなれた階段、それでも今日ネクタイの衿元が固くも弾む。

―あ…僕すごく浮かれてる、ね?

ほら自覚が微笑む、右掌のなか熱い。
熱そっと包んだ花びら大切で、たどりついた扉ノックした。

「はい、どうぞ?」

応えてくれる声、もう何度めだろう?
それなのに今、初めて響くドアノブ握りしめた。

「失礼します、」

呼びかけて扉を押して、古い音かすかに軋む。
あわい渋い甘い香かすめて、眼鏡おだやかな学者が笑った。

「やあ、今日はあらたまった服装だね?」
「はい、」

微笑んで頷いて、ワイシャツの衿すっと硬い。
アイロンかすかな匂い顎ふれて、森林生物科学研究室の主に礼をした。

「青木准教授、今日から研究生としてお世話になります。ご指導よろしくお願い致します、」

革靴の爪先が見える、その床ふかく星霜が艶めく。
かすかな凹凸は靴跡だろう、降りつもる時間に学者が言った。

「はい、今日からは研究生の湯原君だね。こちらこそよろしくお願い致します、」

かたん、デスクの椅子音にセーター姿が立ち上がる。
こつり二歩三歩、止まった靴音から掌さしだされた。

「ようこそ、森の学問の世界へ、」

さしだされた右掌、節くれ武骨にも温かい。
日焼け健やかな恩師の手に、ありのまま微笑んだ。

「ありがとうございます、」

右手ひらいて薄紅ひとひら、左指につまんで握手さしだす。
ふれた掌すこし硬く分厚くて、けれど温かさ穏やかに笑った。

「まず座りましょうか、今後の話をしましょう、」
「はい、」

すなおに肯きながら、何気ない言葉ひとつ響く。
自分には無かったから。

“今後の話をしましょう”

今後、明日その先が自分にはある。
こんなの当然ありふれて、けれど自分には当り前じゃない。

―こういう気持ち忘れないようにしよう、僕は、

当り前じゃない、普通の貌したこと全て。
そっと肚底に刻むテーブル、准教授は微笑んだ。

「さっそくですが湯原君、研究生としてだけではなく、研究員としても私の研究室に関わってくれませんか?」

提案に銀縁眼鏡おだやかに笑ってくれる。
もう示される道の勧め手は、書類ひとつデスクに置いた。

「これは官公庁の研究資金による研究プロジェクトです、」

A4サイズ一冊、厚みある書類が開かれる。
まず契約書、それから研究計画つづられるページに言われた。

「森林の再生と水源確保を課題としたプロジェクトです、この研究員としてこの研究室に勤めてみませんか?」

研究員として、ここに?
とくん、鼓動ひとつ敲かれて学者が続けた。

「フィールドは全国ですが、今年度は奥多摩がメインです。まだ1年生ですが小嶌さんにもお願いするつもりです、手塚君は昨年からいます、」

あの奥多摩で研究に携われる。
あの二人とも一緒に、こんなの夢みたいだ?

「小嶌さんは奥多摩のご出身ですからね、手塚君も代々林業のお家で技術に詳しいんです。ご一緒すれば湯原君の勉強に役立ちませんか?」

穏やかな声、けれど銀縁眼鏡の瞳ほがらかに明るむ。
この先生も楽しみにしてくれている、期待もしてくれている。

―すごくありがたいな、こんな…僕にもこんな道があるんだ、

今後の話をしよう、そう告げて学者が提案してくれる。
ただ素直に嬉しくて、それでも決めてきた今日に口ひらいた。

「ありがとうございます、とても嬉しいお申し出です。でも、今の僕には難しいのではないでしょうか、」

こんな申し出ありがたい、そう出来たらどんなに楽しいだろう?
それでも受けられない「今」に恩師は眉そっと顰めた。

「なぜ今は難しいのかな?大学院の受験勉強にも役立つと思ったのですが、」
「はい、とても役立つと僕も思います、」

うなずいて見つめる真ん中、銀縁眼鏡の瞳が困惑する。
それならなぜ?問いかける眼差しに口ひらいた。

「でも、もし今、僕が青木先生の研究室をお手伝いすれば、大学院入試に関わる情報を知りうる立場になりませんか?」

ただ研究生だけならいい、学生の身分だから。
けれど研究員=職員として手伝うことは?考えた現実に学者が尋ねた。

「ようするに湯原君は、入試問題の漏洩や査定の忖度、受験の不正を心配しているということかな?」
「はい、それが事実ある無しではなくです、」

答えたテーブル、准教授の瞳が見つめ返してくれる。
初めて会った時と変わらない、その実直な視線に応えた。

「もちろん僕は、青木先生はそんなことされるとは思えません。けれど周りの眼はまた違います、疑いを招くことはしたくありません、」

この学者と出会ったのは、冤罪の場だった。
あの時の眼を忘れられない、あんな想いさせるなんて嫌だ。

―それに元警察官の僕を受入れる方ばかりじゃない、きっと、

自分の経歴は、この大学では異色だ。
それでも迎えてくれる恩師に、ただ感謝と微笑んだ。

「この研究プロジェクトは僕にとって魅力的すぎるお話です、でも、それ以上に僕は来年の今日、この研究室の大学院生として納得してここにいたいです、」

ここにいたい、誰のためでもなく自分のために。
そのために今はすこし距離が要る、そんな今に准教授はため息吐いた。

「…そうですね、湯原君の言う通りです。そうしましょう、」

節くれた指そっと眼鏡の銀縁ふれて、外して瞬く。
レンズ越しじゃない瞳こちら見て、困ったように学者は笑った。

「こんなこと君に言わせて申し訳ない、教員である私が配慮すべきなのにね?」
「いえ、僕のほうこそ生意気に申し訳ありません、」

首を振って頭を下げて、首すじ熱くなる。
こんな物言い失礼だったかもしれない、気恥ずかしさに恩師が笑った。

「私こそ申し訳ないよ?優秀な湯原君が来てくれるならって先走りました、立場も考えず申し訳ないです。つい浮かれてしまったな、」

銀縁眼鏡かけなおして、困ったよう笑ってくれる。
自分こそ「こんなこと言わせて」申し訳なくて、頬もう熱い背中に低い声が笑った。

「あははっ、ホントすっかり浮かれてたなあ、青木?」

※校正中
(to be continued)
【引用詩文: William Wordsworth「The tables Turned」】

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第86話 建巳 act.14 another,side story「陽はまた昇る」

2020-09-25 22:56:00 | 陽はまた昇るanother,side story
Of moral evil and of good, 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.14 another,side story「陽はまた昇る」

雲ゆく、屋根裏部屋の窓はるか。

「…しずかだね、」

深閑そっと声しみる。
見あげる天窓はるか紺青ふかい、月あかり雲が駆けてゆく。
上空は風が強い、そのかけら窓ふわり、白く舞い降りた。

「さくら…」

掌のばして花びら降りる。
うけとめた薄紅あわくランプきらめく、かすかな深い甘い香。
庭のどこか桜が咲きだした、そんな夜に周太は出窓を開いた。

「ん…いい風、」

頬やわらかに冷たく風ふれる。
まだ夜風は凍えて、けれど香あまく温もり春がにじむ。
冷たいくせ甘い温かい、ながれる香そっと洗い髪を梳いて心地いい。
こんなに穏やかな夜どれくらいぶりだろう?

「ほんとに帰ってきたんだ…僕、」

声そっと風ふれて、深く甘い香ふれる。
どこか桜が咲きだした、その気配に微笑んで封筒ひとつ開いた。

“私の孫になる君へ”

記される言葉、ブルーブラックあざやかな筆跡がやわらかい。
この手紙に祖母がたくしてくれた未来へ、明日から自分は踏み出していく。

「ありがとう、おばあさん…」

呼びかけて見つめる便箋、月あかり白く照らされる。
この手紙を書いたとき、祖母はこの自分を見つめてくれた。
こうして今ここで、祖母が手紙を綴ったこの部屋にいる自分を見つめて。

“私の母校でも一緒に散歩したいわ、大きな図書館がとても素敵なのよ?君のお祖父さんの研究室も案内したいです。”

ほら綴られる祖母の願い、この願いごと明日一緒に叶えよう?
明日だけじゃない、その先もずっと。

「亡くなっても一緒にいてくれてるね…そうでしょう?」

手紙そっと笑いかけて、ブルーブラックの筆跡やわらかい。
この願いこめてくれたひと、そうして自分は護られて今ここにいる。
この祖母が願ってくれたから今ここで生きて、だから明日への道を選べた。

―本当におばあさんのおかげなんだ、きっと…おばあさまが動いてくれたのも、大学に道がついたことも、

祖母が亡くなったのは自分が生まれる遥か前、まだ父も幼かった春。
そうして今この春を迎えて、ここで自分が祖母の手紙をひらいている。
こんなふうに時間はるかに超えて、それでも心ふたつ重なってゆく。

「青木先生と田嶋先生にお返事しないと…明日、」

祖母の母校で明日、道ふたつ選ばなくてはならない。
植物学の道、文学の道、ふたつ示してもらえた世界。

「…おばあさん、本当は僕どっちが向いてるのかな…」

呼びかけて、ブルーブラックの筆跡を見つめる。
この手紙しるしてくれたひと、今、どんなアドバイス応えてくれる?

「田嶋先生はお祖父さんの教え子で、お父さんの大事な友だちなんだ…山ヤさんで、シェイクスピアの夏みたいな人、」

シェイクスピアの夏、永遠の夏。
William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet 18」十四行詩ソネットに綴られる夏。
この詩を祖母は愛していた、父も時折くちずさんだ、そして父の遺作集にも田嶋が掲げてくれた。
そんなひとが守っている研究室は祖父が興した、祖母と祖父が出逢った場所でもある。
そして自分にも、きっと忘れられない場所になる。

「…本も好きなんだ、ワーズワースもロンサールも…でも植物も好きで、約束もいっぱいあるんだ…」

手紙ごし祖母に問いかける、この一通を記してくれたこの窓で。
この窓辺50年前この手紙を書いたひと、その瞳に月は明るかったろうか?
この窓こんなふうに月を見て、その聡明な瞳に今たくさん訊いてみたい、教えてほしい。

「おばあさん…英二と美代さんのこともききたいんだ、僕…」

ほら想い声になる、聴いてほしい、教えてほしい。
ただ恋愛だと聴いてくれるだろうか、同性愛でも女性を想うことも、同じと言うのだろうか?
こんな想い、聴いたら祖母はなんて言うのだろう?

「…自分で考えなくちゃね、僕、」

微笑んで見あげる先、雲駆ける紺青はるか広がる。
ひろやかな夜に月が澄む、あの月あと数時間で沈み陽が昇る。
そうして明日が訪れる、明日がある、その先に生きる時間なにを見つめたい?
僕が永遠の夏と想う、そこは。



台所の窓やわらかな影、薄紅色あわく朝陽ゆらす。
やはり咲いている、微笑んでガラス窓すこし開けた。

「ん…いい香、」

窓すべりこむ風が甘い、深い甘い春が匂う。
ほころんだ山桜きらめく光、なつかしい朝の窓に呼ばれた。

「おはよう、周?」

ことん、スリッパやさしい足音にアルト微笑む。
くつろいだ母の声に笑いかけた。

「おはよう、お母さんは今日お休み?」
「そうよ、出張の振休、」

やわらかなニット姿が笑ってくれる。
その頬すこしだけ昨夜より円やかで、すこしの安堵と汁椀を運んだ。

「お休み久しぶりでしょ?ゆっくりしててね、」
「そうね、のんびりしようかな、」

黒目がちの瞳ほがらかに笑って、食卓に皿ならべてくれる。
ふたり朝食の膳ととのえて、温かな湯気に向かいあった。

「周、おしょうゆ取ってくれる?」
「はい、」
「ありがと、おひたしの青色すごくきれいね?」
「菜花のおひたしだよ、お庭の菜園の、」

何気ない会話と箸はこぶ、出汁やわらかに味噌あまく芳しい。
慕わしい香ならぶ皿、その皿たちも昔馴染みでほっと和らぐ。

「卵焼き、あいかわらずきれいね。うすーく巻いてふんわり、周はほんと上手ね、」
「ん、ありがとう、」

微笑んで応えながら、その皿に懐かしい。
ざっくり素朴やわらかな風合いの白、貫入あわい灰色が卵色と映える。

「ね、お母さん?このお皿、いつも卵焼きをのせてるよね?」
「ん?そういえばそうね、」

箸はこびながら母が応えてくれる。
こんなふう「そういえばそう」なほど馴染みで、そんな器たちの食卓に言われた。

「そういえば周、おばさまから昨日お電話いただいたのだけど、」

何の用だろう?
首ちょっと傾げて、記憶ひとつ弾けた。

「あ、加田さんの下宿?」
「そうそう、昨夜ね、相談するの忘れちゃってたわ、」

頷いてアルト朗らかに笑ってくれる。
その言葉は自分も同じで、首すじ昇る熱と口ひらいた。

「僕こそ忘れちゃってたよ?加田さんご本人から言われてたのに…ごめんなさい、」

家まで訪ねてくれた、そのお蔭で退職届も無事に出せたのに?
こんな忘れんぼう恥ずかしい、申し訳ない想いに母が尋ねた。

「そっか、昨日ここにいらしたのよね?おばさまに聞いたわ、」
「いらしたよ、退職届を出すのにもついてきてくれて…おかげで無事に出せたんだ、」

答えながら首すじ熱くなる、申し訳なくて。
あんなにもお世話になって、そのくせ忘れてしまった罪悪感と口ひらいた。

「加田さんは検察官でね、ひと月前まで人事交流でフランスにいたんだ、だからフランスから帰国した親戚ってことにしてくださいって、」

口実まで話を聞いていた、そのくせ忘れていたなんて?
やっぱりメモきちんとしよう、ひとつ決め事に母が言った。

「おばさまもそう仰ってたわ。私と周だけよりも、他の眼があるほうが安全だろうって。今すぐ何かってことは無いでしょうけど、」
「ん…そうだね、」

肯いて、けれど考えこんでしまう。
大叔母の言うとおりだ、反対する理由はない、けれど。

―お母さん一人にするのは心配だもの、でも…家族じゃない人が住むってどうなるんだろう…、

あらためて考えてしまう、この家に他人が住むなんて?
この自分にできるのだろうか?あまり想像できない予想図、アルト朗らかに笑った。

「おばさまの心配も当然だと思うのよ。お家賃も頂けるそうだし、離れを使ってもらえるのはいいかなって。周はどう思いますか?」

意見を求めてくれる声は明るい。
大叔母の提案に母も賛同している、そこに無理はないのだろう?

「ん…そうだね、」

肯きながら煮物鉢に箸つける。
ころり、新じゃがいも一つ皿のせて、ほろり黄色ほぐれた。

※校正中
(to be continued)
【引用詩文: William Wordsworth「The tables Turned」】

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第86話 建巳 act.13 another,side story「陽はまた昇る」

2020-09-24 07:55:11 | 陽はまた昇るanother,side story
A 5 ou 6 heures du soir 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.13 another,side story「陽はまた昇る」

今日、退職届を出したこと。
その想いのせた食卓、香やわらかな湯気ごし母が訊いた。

「明日を考えるために、周は自分で退職届を出したかったの?」
「ん、自分に責任を持ちたくて、」

答えながら首すじ微かに熱くなる。
あらためて言葉にすると気恥ずかしい、けれど口ひらいた。

「警察官になったことも、退職することも、誰のせいでもなくて僕が選んだことだよ?明日もこれからも僕の責任だから、自分で出したんだ、」

誰かのせいじゃない、たとえ筋書きされた今日までだとしても。
父の死は他殺だった、祖父の死もそうかもしれない、それでも選択に微笑んだ。

「僕が警察官になったのは誰かが作ったレールだとしてもね、他の人の人生じゃなくて、僕が生きた時間でしょう?」
「…ええ、たしかに周太の時間ね、」

やわらかなアルト肯いて、母の瞳ゆっくり瞬く。
考えこんでいる仕草に周太はお盆さしだした。

「お味噌汁のおかわり、する?」
「あ…ええ、お願い、」

黒目がちの瞳が微笑んで、お椀さしだしてくれる手が白い。
もとから母は色白で、けれどこんなに白かったろうか?

―会社の健康診断はしてるだろうけど…気になる、ね、

考えこむ横顔、ゆるやかに波うつ黒髪きれいに艶めく。
変わらず豊かで、けれど髪かかる頬が細くなった。
気になりながら味噌汁よそい、お椀さしだした。

「ありがとう、お出汁ほんとにいい香ね、」
「ん、菫さんに頂いたの、」

微笑んでテーブルついて、黒目がちの瞳が見つめてくれる。
問いかけるような眼差しに口ひらいた。

「たくさんの人がね、僕に生きろって言ってくれたんだよ、」

生きろ、そう言ってもらえた。
死ぬ瞬間だけを見つめた場所ですら。

「岩田さんも言ってくれたんだ、」

この名前、きっと母には苦い。
それでも告げた真ん中で、黒目がちの瞳ゆっくり瞬いた。

「あのひとが?」
「あのひとだから、言ってくれたんだと思うよ、」

答えて、母の瞳ゆっくり伏せられる。
あの夜、そして十四年前を見つめているのだろう。

『雪崩の巣に送りこんで今度は拳銃ってどういうことよ!黙って死んだ馨さんを踏みにじってんじゃないよこの殺人鬼っ、』

あの夜、雪ふる病院の駐車場で母は叫んだ。
初めて聞いた怒鳴り声、そのまま白い手まっすぐ男の頬を叩いた。
あんなふうに怒りをぶつけた相手の名前に、アルトの声そっと言った。

「…そうね、あのひとだから言ったんだわ、」

やわらかな声、けれど微かにほろ苦い。
まだ赦せない想い燻る、そんな声に続けた。

「英二も生きろって言ってくれたんだ、雪崩に呑まれるときに、」

あの瞬間、あなたが叫んだ。
だから今日こうして決められる、想いそのまま言った。

「生きろって言ってくれたよ、だから英二にも遠慮しないで僕は僕自身で明日を選びたいんだ、」

遠慮、そう声にして鼓動ことんと響く。
こんな言葉にするほど歪だった、響いた自覚に母が訊いた。

「周は、英二くんに遠慮していたの?」
「ん、負い目って言うほうが正しいかもしれない、」

声にして、けれど呼吸おだやかに箸うごく。
ひとくち運んで、ほろ甘い醤油味ちゃんとわかる。

「どうして英二くんに負い目を感じるの?」

訊いてくれる母の声、かすかに低くなる。
どうして?問いかけるトーンに周太は微笑んだ。

「ほんとうに英二のこと想ってるのか、わからない僕だから、」

わからない、もう今は。

「わからないから、負い目を感じるの?」
「だって、ずるいでしょ?」

本音のまま答えながら箸運ぶ、さくり、天ぷら香ばしい。
油あまくほぐれて、ほろ苦い甘さに母が言った。

「周は逢いたくて、英二くんに逢いに行ったのでしょう?好きだから逢いに行ったんじゃないの?」
「逢いたいよ、今も、」

答えて、けれど変化そっと気付いている。
今も逢いたい、あなたに。
それは本音、けれど「明日」その先どうなるのだろう?

「逢いたいよ、でもね…それが本当に好きなのか、恋愛感情なのかわからないんだ、」

自分でもわからない「明日」が。
あいまいで、けれど無視できないまま声にした。

「英二に言われたんだ、僕が警察を辞めるなら英二に守られる必要もない、傍にいる必要はないって、」

もう周太は警察を辞めるんだ、もう俺に守られる必要もないだろ?
俺の傍にいる必要はないんだ、同性愛なんかに巻きこんで悪かった。

そんなふうに奥多摩の雪の森、あなたは僕に言った。
あのブナの梢ひろがる雪の底、だからこそ忘れられない。

「そばにいる必要ないって、同性愛なんかに巻きこんで悪かったって言われたんだ…なんかに、って、」

あんなふうに言われたこと、そっと心臓つぶれてゆく。
あれは優しさか気遣いか、本音なのか、分からないままでも事実は変わらない。

「英二が僕を守ってくれて傍にいてくれたのは事実だよ、だから僕が英二を好きになったと言われたら反論できない、それに、」

声にして心臓つぶれていく、わからない、けれど痛む。
この痛みはどこから来る?探すしながら押し出した。

「警察官で明日がない僕が英二を好きになったのも事実だから、だから警察官を辞めた僕が、同じ気持ちのままでいられるか解らない、」

明日がない、だからその一瞬あなたの隣にいたかった。
その一瞬に続く時間を考えられなかった自分、そのまま言った。

「そういう無責任な僕に、英二が大事なこと話してくれないのも当り前なんだ。明日を考えない僕を信頼できるわけないもの、」

不誠実だったのは、嘘つきだったのは、僕だ。
そうして今あなたへの想いすら解らない。

『ダイスキな恋人に再会しましたって幸せオーラ、なーんも見えないんだよね周太。ただただシンドソウに見えるんだけど?』

幼馴染に言われた言葉、あの真直ぐな瞳の声。
なにひとつ反論はない。

「それに美代さんとは僕ずっと植物や大学の話で、いっぱい未来の話してるんだ、だから美代さんもきちんと話してくれるんだと思う、」

あの女の子とは話している、明日のこと。
あの友人も同じだ。

「賢弥もね、大学で仲良くなった友だちなんだけど、一緒に研究しようって約束してるんだ、大事な未来を相談してるから信頼しあえてる、」

共同研究のパートナー、それは大事な未来の共犯者。
そんなふう積みあげた時間と信頼と、あなたは違いすぎてしまう。

「だけど英二としてる明日の話は北岳草の話だけなんだ、これも僕の気管支喘息だと叶うかわからないでしょう?」

明日の話、それを出来ないままでいる。
そうして気づいた想い決めた今を微笑んだ。

「だから最初から始めたいんだ、全部、」

なにも解らない、それでも始められる。
見つめる今と明日のはざま、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「全部、明日から始めるの?」
「ん、」

肯いて、ほろ甘く辛く醤油が香る。
なつかしい記憶の香くゆる食卓、願いごと口にした。

「明日、大学の臨時職員の契約をお願いしてみます。働きながら大学院の受験勉強させてください、」

自分が選んだ場所、そこから全て始めたい。
そうして踏み出す想いに母が笑った。

「はい、やってみなさいな?勉強と仕事の両立は大変だろうけど、」

笑って、箸そっと持ち直してくれる。
温かな食事の席、感謝に箸とりながらも尋ねた。

「お母さんは英二の進路のこと、おばあさまから聞いてる?」

あのひとが選ぶはずだった道、その理由。
そこから始めたい明日に母が肯いた。

「おばさまのご主人が検察官だったことは聞いたわ、英二くんの司法試験のことも、」

首席合格、それが本来あなたの矜持だった。
だからこそ気づいた理由に口ひらいた。

「検察の理念って、お母さんは聞いたことある?」
「どんなの?」

やわらかなアルトが尋ねてくれる。
その問いに今日、読んだ一文そのままなぞった。

「自己の名誉や評価を目的として行動することを潔しとせず、時としてこれが傷つくことをもおそれない胆力が必要である。」

“検察の理念”
そのタイトルに綴られる文章は、あなたと似ている。
そうして肚に落ちていく記憶と時間に微笑んだ。

「英二そのままでしょう?こういう譲らない正義感から、僕のことも見ないふり出来なかったと思う…恋愛感情よりも、ね、」

なぜ、あなたは長野あの場所にいたのか?
あの雪崩の底まで救いに来てくれた、その理由はただ感情だけじゃない。

「正義感が強くて、真直ぐで手段も選ばないんだ、だから…僕を一番近くで守るために、僕と恋愛してくれたのかもしれない、」

だから僕が言うことも聞かない、恋愛は手段だから。
それくらい正義感が至上の人、だからこそ惹かれて見つめてしまった。
そうして辿りついた想いとご明日に微笑んだ。

「だから英二と始まるのは、明日からって思うんだ…正義感とは関係ないところで、ただの僕で、」

父のこと、警察のこと、何もないなら?
ただ自分だけなら、ただここで生きる自分だけなら何を想うだろう?

『ダイスキな恋人に再会しましたって幸せオーラ、なーんも見えないんだよね周太。ただただシンドソウに見えるんだけど?』

ただの自分は「シンドソウ」に見えるだろうか、あなたに会えたなら。
あの女の子に、あの友人に、恩師に、どんな自分が見えるのだろう?
それは誰もに、なにもかも全てに、どんな自分を見るだろう?

「ただの周太なのね、明日から、それとも今もかしら?」

やわらかなアルトが微笑んで、母の瞳に自分が映る。
ランプやわらかなオレンジの燈、ゆれる温もりに笑いかけた。

「ん、もう今からだね、」

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

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第86話 建巳 act.12 another,side story「陽はまた昇る」

2020-09-18 10:50:10 | 陽はまた昇るanother,side story
A 5 ou 6 heures du soir 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.12 another,side story「陽はまた昇る」

僕の結婚は、望まれる?

問いかけた食卓、醤油あまやかに湯気くゆる。
甘辛い香やわらかなテーブル、母の瞳ゆっくり瞬いた。

「周、その結婚っていうのは…」

やわらかなアルトが自分を呼んで、黒目がちの瞳が見つめてくれる。
途切れてしまった問いかけに周太は続けた。

「ん、女のひととする結婚だよ。男と女で夫婦になって家庭をつくる結婚、」

女性と結婚して、家庭をつくる。
このことは前にも母と話した、でも今あらためて聴きたい。

「お母さんは、僕に結婚してほしい?」

問いかけて見つめる真ん中、母の瞳が見つめ返す。
その真摯な眼ざしが訊いてくれた。

「周太、おばさまに何か言われたの?英二くんのこと、」
「ん、言われたよ?」

素直に認めて微笑んで、母の瞳かすかに大きくなる。
その唇ひらきかけて、けれど周太は続けた。

「でもね、おばあさまに言われたからってわけじゃないよ?僕自身が考えたことなんだ、」

ずっと、ずっと考えてきたこと。
その始まりの時間ただ素直に声にした。

「おかあさん、僕はね、明日があるって思ってなかったんだ、」

明日があるなんて、思っていなかった。
それが誠実ではなかった自覚に口ひらいた。

「警察官になって、お父さんを追いかけることに人生を懸けるつもりだったんだ、だから同じように殉職すると思ってた、」

こんな告白、きっと母は苦しい。
けれど同じだった瞳を見つめて、ありのまま声にした。

「僕は死ぬから、だから今この時だけ幸せならいいって思ってたんだ。だから英二と一緒にいたんだ、」

死ぬから未来なんてない、そんな考えは自暴自棄だ。
そして誠実じゃない。

「明日なんかどうでもいいって思いながら一緒にいるなんて、相手の明日もどうでもいいってことでしょう?僕は英二に無責任だったんだ、」

本当には考えていなかった、自分は。
そんな等身大そのまま声になる。

「お父さんはお母さんに言ったよね、警察官だから明日がわからないけど、今この瞬間あなたを精一杯に幸せにするって。でも僕は違う、」

ほろ苦い口もと、けれど心そっと根を下ろす。
違うと認めて、声にして、こんな自分のままを告げた。

「明日なんてないから結婚も、将来のことも本当には考えてなかったんだ。ただ無責任なだけ、」

ただ無責任だった、自分は。
それでも愛しているなんて言えるのだろうか?その過ごしてしまった時間の涯、そっと訊かれた。

「どうして周太は、そんなふうに考えるようになったの?」

どうして?
問いかけてくる瞳が自分を映す、この眼ざしにも僕は無責任だった。
だからもう今からは遠慮なく言ってほしい、向きあいたい願いに口ひらいた。

「新宿の交番にいた時、道端で亡くなった人がいたんだ、」

声にして記憶また疼きだす。
新宿のガード下、死にゆく男の声。

『救急車を呼んで警官を抱き起した、そのはずみ、そのボタンが外れて、俺の左掌に』

告げられた事実、その声に消えてゆく命。
最期にふり絞ってくれた声「そのボタン」は誰のものだったのか?

『警官、は…名前を呟いた。そして息が、止まった、』

最後の声ふりしぼる瞳、あの眼が見つめてくれた命の最期。
その眼が尽きる瞬間に自分がいた。

「いつも見かける人だったんだけど、巡回の時に倒れててね…僕が看とったんだ、」

父の死に関わってしまった男、その命尽きる瞬間に自分がいた。
そして還ってきた父のボタン、父たどる鍵をくれた命、その亡き骸は今どこに眠るのだろう?

「道端で亡くなったひとは行旅死亡人っていうんだ、誰もひきとりに来なければ…一定期間のあとに火葬されて、自治体の無縁納骨堂に、ね、」

父の最期にいたひとは、父を知らないひと。
それでも最期を看てくれたひと、あのひとは家族がいたろうか?

「家族がいないとそうなっちゃうんだ、身元が分からないままだと…」

あのひとは家族がいたろうか、もしいたなら彼の最期をどう受けとめる?
それとも「無縁」だったろうか?

「そうね…お母さんもそういう方のことは聞いているわ、」

おだやかなアルト微笑んで、黒目がちの瞳うなずいてくれる。
今座る食卓ふたり、やさしい湯気ごし尋ねた。

「お母さんに親戚はいないんでしょう?」
「そうよ、お母さんの両親は兄弟を早くに亡くしてるからね?お母さんもひとりっ子だし、」

黒髪やわらかに肯いてくれる、その笑顔が記憶より細い。
こんなに儚げにだったろうか?

「だからね、顕子おばさまに会えて嬉しいのよ?家族よって大切にしてくれて幸せよ。菫さんのことも大好きなの、」

朗らかな笑顔ほころばす、その瞳が前より明るい。
ほんとうに幸せなのだ、そんな母に微笑んだ。

「僕も大好きだよ、ふたりのこと、」
「うん、」

肯いて笑ってくれる、ほら明るいきれいな笑顔。
けれど、どこか透けるような肌に泣きたくなる。
だからこそ今、告げたくて続けた。

「でもね、おばあさまと菫さんはご高齢だから、このままだとまた、僕たちだけになるね?」

新宿で斃れた男のこと、他人事じゃない。
家族がいない独りぼっちの最期は。

「そうね、」

やわらかに黒目がちの瞳が微笑む、その眼差ざし温かい。
もうとっくに解っている、覚悟している、そんな瞳に口ひらいた。

「ふたりだけのままだと、道端の人と同じになるかもしれないなって思ったんだ、」

家族がいなければ同じ道だ、けれど自分ならまだいい。
この自分も母もいつか訪れる死に消える、でも順番なんて本当はわからない。
そのとき遺されるほうの隣、誰がいてくれるのだろう?

そして、あなたの隣にも。

「そういうの僕は寂しいくて哀しいんだ、だから大事にしたいんだ、」

遺されるほうの隣、誰もいないのは寂しい、哀しい。
そんなところへ誰も追いこんでしまいたくなくて微笑んだ。

「お母さんのこと大事にしたいんだ、英二のことも。だから僕は明日をちゃんと考えたくて、自分で退職届を出したんだ、」

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

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第86話 建巳 act.11 another,side story「陽はまた昇る」

2020-09-17 10:06:00 | 陽はまた昇るanother,side story
A 5 ou 6 heures du soir 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.11 another,side story「陽はまた昇る」

甘辛い、醤油なつかしい香。
あたたかな湯気、それから母の笑顔。

「おいしい、やっぱり周のごはんがいちばんね?」

黒目がちの瞳きらきら笑ってくれる、その額はえぎわ銀色ひとすじ。
こんなふう心労かけて、それでも変わらない幸せに微笑んだ。

「ありがとう…僕も、うちのごはんが好きだよ、」

おいしい、母との食卓は。
こんなふう母子ふたり食事すること、幸せだ。

―寂しいときもあったのに、ほっとする…ね、

母子ふたりきり、それが寂しかった。
でも寂しさは父がいなかったからだ、消えた空気が虚ろすぎて。

『帰ったらお花見しよう…約束だよ?』

約束だよ、そう言って笑ってくれた。
あの声も笑顔も忘れられない、十年とっくに過ぎた今も。
このダイニングも椅子そのままで、そんな食卓に醤油あまやかに温かい。

「独活のきんぴら、今日もすごく上手ね、」

やわらかなアルトが笑ってくれる、その声に湯気ほろ甘く香り高い。
自分も箸はこんで、胡麻油こうばしい甘辛さに微笑んだ。

「ん…」

懐かしい味ふわり広がる。
この味たどる想いに母が言った。

「本当においしいわ、お父さんの味そっくりね、」

言葉ひとつ、鼓動そっと響く。
母も同じだ、ふたり向きあう食卓に微笑んだ。

「よかった…お父さんの味にしたかったんだ、」

父は料理が好きだった。

『周、今日は何が食べたい?』

休みの日いつも訊いてくれた、そうして台所で一緒に笑った。
エプロン姿も似合った父、器用な手いつも包丁が綺麗だった。

「どれもおいしいわ、この季節のお父さんの得意料理ばかりね、」

やわらかなアルトが笑って、黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
この笑顔を父も見ているだろうか?ほろ甘い食卓に口を開いた。

「お母さん、僕、お墓参りに行ってきたんだ…退職届を出した帰りに、」

聴いてほしかった。
もう返事はもらえない、それでも話したかった願い微笑んだ。

「お父さんに報告ちゃんとしたかったんだ、おじいさんにも、おばあさんにも…みんなに聴いてほしくて、」

今、食卓はふたりきり。
けれど本当は二人じゃなかった、そんな想いに母が微笑んだ。

「そうね、ちゃんと家族には話したいわね、よかったね?」

黒目がちの瞳やわらかに肯いて、やさしい唇ほころばす。
こんなふう肯定してくれる家族に、温かで周太は笑った。

「ん、話せてよかったよ…」

笑いかけて母も笑ってくれる。
その頬すこし細くなった、それだけ心配かけた痛み疼く。

「お母さん、いっぱい食べてね?」

ほら声になる、だって肩も細くなった。
ニットやわらかなライン、けれど記憶より痩せたひとは綺麗に笑った。

「うん、いっぱい食べるわ。おかわりちょうだい?」

笑って茶碗を差し出してくれる。
受けとって、その細くなった手に軋んだ。

―おかあさん痩せた…いつのまに、

母と二人、ゆっくり顔を見る時間ずっと無かった。
その間いつから痩せたのだろう、なぜ?

「この白魚のかき揚げ最高ね、さくさくほっくり美味しい。ワインあけちゃおうかしら?」

ほら?元気に食べてくれている。
幸せそうな口もと昔のまま、額ふんわり明るい、病に傷む空気もない。
けれど肌ふっと透けるようで、そして痩せた。

―葉山のお家でもごはん、しっかり食べてたはずなのに…おばあさまも菫さんも何も言ってなかったけど、

飯櫃くゆる甘い香、しゃもじ動かしながら考えめぐる。
しばらく世話になった大叔母の家、そこで母はリラックスして笑っていた。
だからこそ心配で、くゆる湯気ごし尋ねた。

「お母さんは、菫さんのごはんは好みだった?」

こんな質問、変かな?
けれど気になるまま茶碗と差しだして、母が微笑んだ。

「ありがとう、菫さんのごはん?」
「うん、おばあさまと菫さんと…ごはんお世話になってたから、」

肯いて箸とりながら、母の目そっと見つめる。
黒目がちの瞳もこちら見て、そのまま笑ってくれた。

「すごくおいしかったわ、おばさまのお料理もおいしくて。でも周のご飯がいちばん好きよ?」

あなたがいちばん、そんな眼ざし笑ってくれる。
言われて気づいて、熱ふわり首すじ染めた。

「…あ、僕そうじゃなくて…」

首すじ熱が昇る、ほら頬まで熱い。
だって子供じみた質問になってしまった、恥ずかしさに母が微笑んだ。

「菫さんはたしかにプロよ?おばさまもベテランだもの。だけど私は、周太の味がいちばん好きなの。」

ああほら、やっぱり「いちばん好き」を言われたいのだと思われている。
思わせてしまう自分が気恥ずかしくて、ただ箸うごかした。

―やっぱり子どもっぽいんだ僕…もう24歳なのに、

大学も出て、警察官になって。
そして退職も経験した、それでも子ども扱いさせてしまう。
こんな自分だから、あなたに甘えているだけなのかもしれない?

―お父さんに似てるって思ったんだ、僕…英二のこと、

今座るダイニングテーブル、あなたが座った笑顔に想った。
本開く姿にも想ってしまった、そして、山登るあの背中に父を見た。

―ファザコンな自覚あるもの僕…だから、似ててなおさら、

大叔母の息子の息子、そんなことは知らなかった。
それでも父を重ねて、それくらい似ている。

『あれは他人の空似とは違う、馨さんと表情が似すぎているんだ。英語の発音までそっくりで、』

父の友人でザイルパートナー、そんなひとも似ていると言う。
そして自分は惹かれて惹かれて、今この食卓にも追いかける。

『うまいよ、周太、』

このダイニング、切長い瞳が笑ってくれた。
白皙の笑顔ほころんで、ダークブラウンの髪がランプに艶めいた。
端整な唇すこやかに箸はこんで、あの低いきれいな声が笑っていた、ここで。

『英二って呼んだけど、私のことは呼ばなかったよ?私が看病してるとき湯原くん、何度も英二って』

怪我に病に熱うなされて、そのさ中も呼んだ名前。
看病してくれたのは大好きな女の子、それなのに呼んだのは男性の名前。
それだけ想っている、逢いたい、あなたに逢いたい、けれど本当に正しい?

『その男と本気でケリつけんと失礼じゃねえ?周太の気持ちはどっちつかずだろ、』

友達が言ってくれたことは率直、自分そのままだ。

『異性愛者は信頼できるって命題は“偽”だろ?ソレと同じに同性愛だからってコト無いな思うわけ、単純に・周太だから偏見を挟まないってダケ、』

異性愛、同性愛、偏見。
そんなふう友達は言ってくれた、偽らない言葉だと自分でもわかる。
そういう相手だから信頼できる、ともに学ぶ道を選ぼうと決めた、だからこそ分からなくなる。
そういう相手に言われた「だから偏見を挟まない」それは相手次第で変わる可能性だ。

『男の愛人は邪魔な立場になったんだ宮田は。いわゆる権力者だ、その後継者として宮田は鷲田になった、』

権力者、後継者、そんな言葉の意味くらい自分だって解かる。
けれど上司で先輩でパートナーだった人は、敢えて現実を言ってくれた。

―伊達さんが言うとおりなんだ…賢弥が僕だからって言ってくれるように、

あの先輩は心配してくれている、あの友達も。
それほど今この現実は「邪魔」にされるほど、男が男を想うなんて一般的には「無い」ことだ。

“けれど、冷たい偏見で見られる事も知っている。ゲイと知られて、全てを否定された事もありました”

勤務していた交番の管轄、新宿のかたすみ座りこんでいたサラリーマン。
彼の貌は蒼白い絶望、それでも立ちあがって彼は言った。

『もういいやと思えました、』

もういいや、そう言った片頬は自嘲に笑っていた。
そうして彼が歩きだし、言ったこと。

『もうこれで他の男を探します、』

あれは諦め、それとも希望?
そんな問答こうして蘇るのは、それだけ迷う自分。
あの夜あの背中、同性の恋人を求めて得られず街へ戻った背中は他人事じゃない。

―僕も由希さんの前で泣いたもの…英二も泣くのかな、

あなたは泣くのだろうか?
あの切長い美しい眼は、誰かを想う涙あふれるだろうか?

今、あなたは誰を想ってるの?
そこに自分はいるの?

「周?」

呼ばれた名前に戻される、
瞬きひとつ、見つめた食卓に周太は微笑んだ。

「ん…?」
「考えごと、どうしたの?」

やわらかなアルトが訊いて、鼓動そっと敲かれる。
ずっと考えていたこと声にしていいのだろうか?

「うん…」

あのひとのこと、彼女のこと、これからのこと。
話したい事あふれている、その全てに母の本音を聴きたい。
想い、ひとつめに口ひらいた。

「英二が僕に、この家に関わるのは、正義感なのかもしれないって。」

鷲田英二、それが今のあなたの本名。
その事実を教えてくれなかったのは、なぜ?

『いわゆる権力者だ、その後継者として宮田は鷲田になった、』

告げたのは任務の上司でパートナーだった。
告げられた最初の想いは「なぜ?」どうして他の声で聞かなくちゃならないの?

「英二はね、何も僕に言ってくれないんだ。本当に大切なことは、」

どうして話してくれない、いつも。
そんなあなたは別世界の人になってしまった、そういう名前をあなたは選んだ。
ほんとうは追いかけたい、でも怖い、もう変わってしまった名前に怯えてしまう。

「話してほしいよね、周は、」

やわらかな声が微笑んでくれる。
やさしい相槌は変わらない、生まれた時から知る瞳に周太は告げた。

「本当に大切なことを話さないで、ずっと一緒にはいられないって僕は思うんだ…お父さんがそうだったように、」

父は黙ったまま消えてしまった。
何も言わないで、大切なこと独り胸にかかえて死んだ。

「お父さんは悩んでること言わなかったでしょう?それはお母さんと僕を守るためだったよね、でも…僕もお母さんも苦しいよ、」

ずっと哀しかった、苦しかった、解らなくて。
そうして消えてしまったひとの席を見つめて、続けた。

「お父さんがもし話してくれていたら、お母さんも何かできたかもって思ってきたでしょう?死なせなかったんじゃないかって、」

もし話していたら?
そんなこと何度もきっと考えている、母は。

「お母さんが何かすることは難しいかもしれないよね、でも、おばあさまに相談するって思いついたかもしれないでしょう?」

母なら、きっと提案していた。
それでも出来なかった過去に、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「うん…そうよ、何度も思ってるわ、」
「僕もね、なんども思ってきたよ、」

肯いて見つめて、母の瞳ゆっくり瞬く。
きっと泣きたいだろう、それでも微笑んでくれるひとに言った。

「だから英二にも同じこと思うんだ、話してくれないひとはずっと一緒にはいられないから、」

あなたは嘘つき、秘密だらけだ。
それは僕を守るためだとしても、それでも。

「お父さんは、お母さんと僕を守るために黙ってて、でも話してくれたら、生きて今もそこに座ってたかもしれない…だから英二に苦しいんだ、」

今、見つめてくれる母の隣。
そこに父が座って笑ってくれた、その可能性にあなたの今が哀しい。
だからこそ考え続けた未来へ、呼吸ひとつ、口ひらいた。

「お母さんは、僕に結婚してほしい?」

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

第86話 建巳act.10← →第86話 建巳act.12
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