萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第35話 閃光act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-01 22:49:02 | 陽はまた昇るanother,side story
ひとすじの光、




第35話 閃光act.1―another,side story「陽はまた昇る」

目覚めて最初に見たのは枕元のクライマーウォッチだった。
デジタル表示は4:38を示している、そっと時計を掌握りこんで周太はベッドのなか丸くなった。
握った時計を頬寄せると、温もりが感じられるように想えてしまう。
この時計の元の持ち主はいま、起きているのだろうか?きれいな笑顔が懐かしい、ふっと唇から想いが素直にこぼれ落ちた。

「…えいじ、…あいたい…」

言葉と一緒に涙がこぼれて文字盤が濡れていく。そっとシャツの袖で時計を拭うと文字盤を周太は見つめた。
このクライマーウォッチは英二が警察学校時代に買って、大切に使っていたものだった。
学校時代の山岳訓練から英二は山岳レスキューの道を考え始めた、そして心が定まったとき、この腕時計を嵌めた。
登山で必要な機能が搭載されたクライマーウォッチに早く馴れて、山岳救助隊の現場に立ちたい。
そんな覚悟と夢と、努力を見つめた時計。
そして立った英二の現場、奥多摩を管轄する青梅警察署は警視庁管内で最も厳しい。
山の危険ポイントでの遭難救助、自殺遺体の収容など覚悟無しには出来ない任務たち。
ほんとうに命懸けで泥と血に塗れる英二の「時」をこの時計は3ヶ月間ほど見つめた。

覚悟と夢、努力そして命懸けの姿を見つめた英二の時計。
英二の大切な時間を刻んだ時計だからこそ、自分がほしくて。英二の大切な時間を独り占めに見つめたくて、ねだった。
そして代わりに自分が贈ったクライマーウォッチを英二に嵌めてもらった。
きっと時計を見るたびに英二は贈り主を想い出してくれる、そうしたらこの先の英二の時間全ても自分のものになる。
そんな独占したい想いから時計を交換してほしかった。

けれど、冬富士の雪崩が全ての「時」を変えてしまった。
あの雪崩が契機に決った青梅署の鑑識実験、それに参加した周太は14年前の記憶が全て戻った。
そして見つめたものは14年前の雪の森で生まれた「初恋」だった。
その初恋の相手こそが、英二を廻って嫉妬した相手の国村だった。

美しくて大きな体と能力も豊かな国村に、自分は嫉妬していた。
大らかな優しさが温かで、機微をつかんだ軽妙な会話もできる、そんな国村は大好きな友達だった。
けれど英二をアンザイレンパートナーに選んで共に最高峰へ登っていける、そんな国村が羨ましかった。
きれいな英二と並ぶとよく似合う、そんな容貌も雰囲気も羨ましくて。大好きな友人なのに嫉妬の対象だった。
そんな国村が自分の「初恋」の相手だった。

「…光一、」

ため息のように名前がこぼれていく。
ふと気がつくと耳にはイヤホンがセットされたままだった、なにげなく周太はIpodのスイッチを入れた。
かちり、ちいさなスイッチ音が入る。
まず聞こえてくるごく小さな、かすかなノイズは光一の気配の音。
そして、やわらかなピアノの音と透明なテノールが旋律を奏で始めていく。

 …
 季節は色を変えて幾度廻ろうとも 
 この気持ちは枯れない花のように 君を想う
 …
 微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
 降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い…

無理にねだって録音してもらった、光一の声とピアノ。
この音たちが告げてくれる14年間ずっと待ち続け信じてくれた想いたち。
光一の告白に最初は途惑った。
けれど記憶と想いが甦るなかで想いは募り、抑えられた記憶と時が急激に水嵩を増した。
そして嫉妬の対象だったひとは、愛するひとの素顔になって微笑んだ。

そうして甦った初恋のために、すこしだけ英二に待ってほしかった。すこし時間がほしかった。
英二を愛している気持は変わらない、けれど「初恋」の時もまた息を吹き返していく。
自分はひとつの身しかない、それなのに2人を愛してしまう。
そんな矛盾を抱え込んだ心を体ごと、すこし休ませる時間がほしかった。
けれど英二は待ってくれなくて、そして体ごと心が引き裂かれてしまった。

「…こわか、った、…」

ぽつり涙が想いと一緒にこぼれて、クライマーウォッチのベルトを濡らしていく。
待ってほしかった、だから止めてとお願いをした。けれど聴いてもらえなかった。
愛している相手だったからこそ、無理矢理に犯された恐怖は未だに消えてくれない。
あのとき、気がついた光一が一晩ずっと傍にいてくれた。四駆を走らせて美しい雪山の光景を周太に贈ってくれた。
そして翌朝には英二を諌めてくれた。そんな光一の大らかな優しさと温もりが嬉しかった。
そうして諌められた英二は気がついてくれた。心から謝って、償いを願って、そして周太に「無償の愛」と自由を贈ってくれた。

―…周太の一番じゃなくても良い。
  ただ周太のものでいたい、だからね、周太?俺のこと好きにしていいよ…
  俺は周太が望むなら傍にいる。だからね、周太。安心していい、どうか自由に人を好きになってほしい…
  たくさんの人と向き合ってほしい…大切なひとを見つけてほしい。そしてもっと幸せに笑ってほしいんだ…
  もし俺と結婚しても周太の心はずっと自由だ…大切なひとを想う心は、ずっと大切にして…そして幸せな笑顔を俺に見せて?
  …周太、俺の心を愛してくれて。本当に、ありがとう…幸せだよ?

いつも独り占めしたがって隣の席にすら拘っていた英二。
いつも守ってくれた、その分だけ英二は束縛したがって「俺だけの隣」といつも言っていた。
そんなふうに英二は寂しがり屋で、そして「無償の愛」に飢えていた。
だから自分こそが英二の帰る場所になって無償の愛を与えたいと願っていた。

  『Le dernier amour du prince Genghi』 邦題は「源氏の君の最後の恋」

フランスの短編集『Nouvelles orientales』に綴じられた一篇の恋愛小説。
あの物語で無償の愛を捧げていく花散里のように、自分も英二に尽くして寄添いたいと願っていた。
けれど気がつけば、英二が周太に「無償の愛」を捧げてくれていた。
そして気づかされてしまう、結局いつも自分は英二にばかり負担を懸けている。

いつも英二はそうなってしまう。
13年前の殉職事件から続いた冷たい孤独から救ってくれたのも英二だった、そして父の想いに気づかせてくれた。
こうして英二が救ってくれなかったら光一と再会することも出来なかった、そして光一の事も救ってくれる。
そしてまた今も英二は周太の初恋を守ろうとしてくれている、ただ「無償の愛」で何も求めないで。

光一が英二を諌めてくれた日の夜、新宿まで2人で送ってくれた。
あのときはまだ英二への恐怖と怒りが残っていて、どこか心に壁が蟠っていた。
けれどあれから1ヶ月の時を経て想いは濾過されている。

ひとり、離れて見つめる時間。
ながれる時の静謐と心の声を独り見つめて、自分の声と向き合った。

光一と英二、ふたりから離れ、美代とも離れ、ひとり向き合った。
毎日の電話とメールで心だけを繋いで3人と交していく想いの繋ぎ合い。
それぞれ3人と一対一で向き合いながら、相手への想いと求めたい気持ちを見つめて。
そのなかで、叫びだしていく想いが、1つあった。

「…あいたい、いま、…えいじ、」

いま逢っても何が言えるのかも分からない、ただ英二に逢いたい。
いま英二は償いの為にと恋人の立場を退いてしまった。
けれど本当に償いするべきは自分じゃないのだろうか?

あの警察学校で英二は自分と出逢ってしまった、そして恋し愛して、守る決意をしてくれた。
そのために英二は普通の幸せを捨ててしまった、そして家族すら捨てて、分籍までしようとしている。
こんなにすべてを懸けて英二は自分を愛そうとしてくれる。

それなのに自分は甦った初恋から動けない、もうこの恋を手放せなくなってしまった。
それなら英二を自由にしてあげたらいい。けれど英二はもう想い定めて周太を守ることしか考えていない。
実直で一途な英二、決めたら決して動かないことを知っている。
だからもう、このままでいるしかない。

そして自分はこんなふうに英二が離れて行かないことが、本当は心から嬉しくて仕方ない。
ずっと変わらず傍で守り続けて愛してくれる、そんな英二に甘えたくて仕方ない。
なにも返せない、この体を繋げることすら今は出来ない、それなのに英二を手放したくはない。
光一のことも拒めない、声を聴きたい、もう二度と忘れたくはない。
けれど光一を想う美代を苦しめるかもしれない、美代は大好きな友達なのに。

ほんとうに身勝手なのは誰だろう?

「…っ、…うっ…」

涙と一緒に嗚咽がこみあげてしまう。
ベッドの中で丸くなったままクライマーウォッチに涙がこぼれていく。
こんなふうに苦しむと自分で最初からわかっている。なんども覚悟して、それでも涙は止まらない。
それでも。嗚咽の涙から周太は母の言葉を見つめていた。

―…周の名前はね、『まんべんなく学んで心の大きなひとになるように』って意味でしょう?
 その通りに3人ときちんと向き合って、たくさん一緒に笑って泣いてね、大きな心に成れたら
 きっと3人を大切に出来る。そうして周が心の大きなひとに成ってくれたらね、きっと、お父さんも喜んでくれる
 そしてね、きっと英二くんも喜ぶと思うわ…周太を大好きっていう英二くんの真心を、信じて周太は正直に自由に生きなさい

どうして、英二?
どうしていつも、こんなに優しいの?
こんなに自分は身勝手、そういつも責めたくなってしまう。
こんなふうに自分で自分を受入れられない、それなのに英二は受け入れてくれる。
そして今も、受け入れてほしい。

この今、今日を思うと心が重くなる。
今日は警視庁拳銃射撃競技大会の日、きっと今日この大会の結果で進路は定まっていく。
この進路の行く末が本当は怖い、けれど逃げることは出来ない。そんなせめぎ合いが怖くて不安にさせられる。
今すぐ声を聴きたい、そして大丈夫だと言ってほしい。この不安ごと受け入れてほしい。

ipodのイヤホンを外して周太は携帯電話に掌を伸ばした。
そっと携帯を開いて着信履歴を呼び出す、1つ前に表示される履歴から電話を繋げた。
2コールのちいさな緊張を見つめると、ふっと穏やかな空気がいつものように繋がった。

「おはよう、周太」

きれいな低い声が笑いかけてくれる。
大好きな声がうれしい、さっきまで泣いていたのに微笑んでしまう。
気恥ずかしいけれど嬉しくて周太はそっと唇を開いた。

「ん、おはよう、英二…起きていたの?」
「うん、音楽聴いていた。周太、ちゃんと眠れた?」
「ん、…昨夜は電話のあと、すぐ寝たから…国村と、すこし電話したけれど」

眠れたのかと体の気遣いをしてくれる、その声も気配もやさしい。
うれしいなと思いながら周太は言葉を続けた。

「明日は勝ちに行くからね、って言われて…負けず嫌いだから、俺にもね、手加減無しだって。だからね、俺こそ頑張るって言って」
「お互いに負けず嫌い同士だもんな?お互いに磨きあえる、良い関係だと思うよ?」

穏かな声が可笑しそうにしながら聴いてくれる。
こんなふうに安らかな包容力が英二は豊かになった、前ならきっと嫉妬して大変だったろう。
冬富士の雪崩が発端になった「あの日」からひと月もたっていない、けれど英二は大きくなった。
こんなふうに成長できる心の器に見惚れてしまう、今の英二はどんな顔をしているのだろう?
暫く逢っていない懐かしい顔を想いながら周太は、ふと光一の気懸りを口にした。

「それでね、国村はね、『ちょっと驚くだろうけど、気にしないでね』って言うんだ…何かするのかな?って思うんだけど」
「そうだね、周太。あいつのことだからね?何もしないで終わったらさ、逆に心配したくなるかもな」

拳銃が大嫌いで射撃の本部特練はもっと大嫌い、そう光一は言っていた。
きっと悪戯好きな光一にとって今日の大会は恰好のターゲットだろう、何もせず終わらせるとも思えない。
いったいどうするつもりなのだろう?考えながら周太は続けた。

「ん、…青梅署の人たち困るよ?って言ったんだけど『それも込みで俺を出場させるんだろうしね、』って…そうなの?」
「そんな時の為にね、俺が付き添いで行くことになってるから。まあ、仕方ないのかな、」

卒配5ヶ月の新人が5年目の先輩に「付添」ってブレーキ役をする。
あまり普通はないことだろう、ちょっと可笑しいのと感心なのとに周太は微笑んだ。

「そう…頼られてるんだね、英二…俺もね、英二をすごく頼ってるから、青梅署の人たちの気持ち、分かるな」
「うれしいよ、周太。もっと甘えてよ?そのために俺はいるんだからさ、」

ほら、甘えさせてくれる。
言われたら嬉しくて甘えないではいられない、けれど自分に甘える資格なんてあるの?
なんども考え込むメビウスリンクから周太はため息と一緒に言った。

「ん、…今もね、甘えてるよ?…こんな朝早くに電話して、ごめんね?」
「うれしいよ、俺を想い出して声を聴かせてくれてさ」

こんなに英二は優しい。
この優しさを信じて甘えて自由に生きればいい、そう母は言ってくれる。
ほんとうに自分にそれが許される?そんな疑問のはざまにいても、もう唇は優しさに開かれてしまう。
想い誘われるまま周太は素直に話した。

「ん、…俺、不安で…今日がどうなるのか、って…自分で選んだことなのに」
「大丈夫、周太。今日も俺は近くで見ているよ。国村も周太を守りたくて、その為にも今日は出場する。だから気楽にしてよ?」
「ん。ありがとう…」

今日も近くで見ている。
ほんとうに英二はいつもそう、きっと昨日も巡廻のとき御岳山頂から新宿を見てくれた。
そしてきっと御岳にも咲くあの白い花、周太の誕生花『雪山』に想いを寄せて、一日の無事を祈ってくれた。
もういまの英二は「恋人」から退いてしまった、だから何も言わない。
けれどきっと英二の「優しい約束」は今までとなにも変わっていない、必ず約束を守ってくれる人だから。

…逢いたい、

逢いたい、いますぐに。
そして大丈夫と笑いかけてほしい、きれいな笑顔を見せてほしい。
他のひととの初恋を見つめながら図々しいと解っている、けれど願ってしまう心に嘘がつけない。
わがままと解っている、けれど今お願いさせて?ひとつ呼吸して周太は言った。

「我儘だけど、でも。お願い英二、隣にいて?俺を支えていて、」

やさしい微笑の気配が電話越しに伝わってくる。
そしてきれいな低い声が言ってくれた。

「今日の結果次第でこの先なにが起きても、俺は必ず周太の隣にいる」

ほら、やっぱり「約束」守ってくれる。けれど前と少し違う距離に寂しさも感じてしまう。
ちいさなため息を吐きかけたとき、言葉の続きが聞こえた。

「国村も同じこと言ってくれたろ?」
「ん、昨夜も言ってくれた…」

やっぱり光一を気にしてくれる。
光一は英二にとっても大切なアンザイレンパートナー、誰より信頼する相手。
だからこうして言ってくれると解っている。
それだけに、そんな大切な相手と自分が想いを繋いでいることへの罪悪感が哀しい。
そして、そんなに大切な絆で結びあう英二と光一を一緒に巻き込んでしまう危険が哀しい。

「でも…俺の我儘で、ふたりを巻き込むのが怖いんだ…」

ふたりが自分を忘れてくれたらいい、今更そんな願いも持ってしまう。
ふたりが自分を忘れて、ただ最高峰踏破の夢に生きて、輝くべき場所で笑っていてほしい。
けれどもう自分がどんなに逃げても、英二も光一も離してはくれない。
きっと今日も自分が気づかぬところで守られてしまうだろう。
もう覚悟を決めるしかない、素直に頷きながら周太はまたひとつ覚悟を呑みこんだ。

「それでも今更もう止められない…ふたりを巻き込むのに、それなのに…英二、ほんとうにごめんなさい…」
「謝る必要なんかないよ、周太。お父さんの想いを全部きちんと見つめよう?」

告げた想いの向こう側で、やさしい微笑みの気配が生まれる。
微笑んだ温かい空気に、きれいな低い声が穏やかに言ってくれた。

「それはね、俺自身が知りたいことでもあるよ。俺は周太のお父さんが好きなんだ、だから知りたいんだよ、真実の姿も想いも」

父の想いをすべて見つめる。
それは危険な道へと入り込むこと、そう解っている。
それでも英二は言ってくれる、英二自身の望みだと言って一緒に見つめようと微笑んでくれる。

どうか気にしないで?ほんとうに自分が望んでやることだから。
だから一緒に見つめさせてほしい、隣にいることを受入れていてほしい。
そんな想いたちが電話越しに告げられてくる。きっといま電話の向こうは明るく大らかな、きれいな笑顔が咲いている。

こんなに優しくされたら、やっぱり離れることなんか出来ない。
逢いたい、今すぐ逢いたい。あの笑顔で「大丈夫」と言ってほしい。

こんな自分は狡い、それでも逢いたい気持ちは誤魔化せない。
体のことは怖い、光一のことを想っている。けれど英二に逢いたい、抱きしめられたい。
そして電話の向こうで咲いている笑顔を、目の前で見つめて甘えたい。
今日、目の前では逢えないかもしれない、けれど同じ会場で見つめてもらえる。それだけでも嬉しい。
それだけでも安心が出来る、すこし周太は笑った。

「ん、ありがとう。俺ね、今日も真直ぐに的を見つめてくるね、」
「きっと大丈夫だよ、周太。会場ではあまり話せないかもしれないけど、ちゃんと見ているから」

今日は署対抗の競技大会になる、だから別の署だと話す機会も少ないだろう。
しかも自分が所属する新宿署は第4方面で、第9方面になる英二と光一の青梅署とは観覧場所も遠いだろう。
それでも見ていてくれる、それだけでも安心出来る。ささやかでも幸せな想いに周太は微笑んだ。

「ん、見てて?たまにはね、俺の警察官らしいとこもね、見てほしいから」
「警察官の周太、いいね?可愛い子がストイックなのは色っぽいしね?」

どうしてこんなことばかりいうのかな?
昨夜は光一にも似たようなことを言われた、ほんとどうして2人ともこうなの?
もう首筋が熱くなってくる、そっと首筋にふれながら周太は訴えた。

「…それくにむらにもいわれたんだけどそういうこといわれると、ほんときょうへんにきんちょうするから…」
「仕方ないよ、周太?ふたりとも周太の色っぽいとこ大好きだからね、楽しみにしとくよ」

大好きなんて言われたら、うれしい。
こんなことでも自分はうれしくなる、そして思い知らされる。
もう英二への想いは枯れることなんか出来ない、だからこそ「今」が苦しい。
こんなに想ってしまう、けれど体を繋ぐことが今は怖い、そのことが苦しくて哀しい。
あのときの温もりも幸せも知っている、でも今はまだ心に整理がつけられない。応えられない想いがもどかしい。
それでも電話で心を繋げられる今、この時が嬉しい。微笑んで周太は答えた。

「ん、…喜んでもらうのは嬉しい…でも、あまり注目しすぎて、緊張させないで?…あぶないから、ね?」
「うん、気を付けるよ、」

笑いあいながら話していくうち心が落着いていく。
こんなふうに勇気をくれる英二が好きだと、また想わされてしまう。
そして昨夜も電話で繋いだ光一の想いにも心が響く自分がいる。

今日は警視庁拳銃射撃競技大会。
あの分岐点になった威嚇発砲のとき以来、初めて英二と光一と顔を合わせる。
光一とはライバルのひとりとして。
英二とは恋人ではない自分としての再会になる。
この「初めて」に逢った瞬間に自分はなにを想うのだろう?

「周太、お父さんもきっと、見ているよ?だから安心して今日はいたらいい」
「ん、ありがとう…じゃあ、またね、英二」

電話で繋いだ笑顔へと笑いかけて周太は電話を切った。
時間はまだ5:40とクライマーウォッチは示してくれる、まだ時間にはだいぶ余裕がある。
ほんとうは声、もっと聴きたかった。
けれど今の自分には、英二の時間を独り占めすることは狡いと想ってしまう。
そっと閉じた携帯とクライマーウォッチを握りしめて、周太はベッドから起き上がった。

デスクライトを点けて席に座る。
抽斗を開けると丁寧に一冊の採集帳を周太は取り出した。
ゆっくりページを捲って、赤と白の冬から春の花々のところで手をとめる。
ほんの1ヶ月ほど前に作り上げた押花たち。この花々へこめられる想いに微笑んで、ひとつずつの花言葉を周太は見つめた。
そしてこの花言葉をまとめあげた “メッセージ” が心にこみ上げ微笑んだ。

“あなただけが、自分の真実も想いも知っている
そんなあなただから、心から尊敬し友情を想い真剣に愛してしまった
この純粋な情熱のまま、あなただけが欲しい。あなたの愛を信じたい。
純粋で美しい瞳のあなたに相応しいのは自分だけ、どうか変わらぬ愛と純潔の約束を交わしてほしい
毎夜に愛し吐息を交して、どうか毎朝に花嫁として、あなたを見つめたい
だから約束する「あなたを愛していると最高峰から永遠に告げていく」すべてに負けない心を信じてほしい“

この赤と白の花たちは英二の求婚と婚約のラヴレター、年明けに周太へ贈ってくれた。
実直な情熱が一途で真摯に率直な想いと誇り高らかな意志があふれる言葉たち。
こんなふうに言われて「Yes」と応えないひとなんているだろうか?
そして今の自分は、なんて応えたいだろう?

“ オーニソガラムMt.フジ ”

この求婚の花たちのひとつ、日本の最高峰を冠した白い花。英二の夢と誇りを表すため選ばれた花。
この最高峰で起きた雪崩が、自分と英二と光一の、想いと運命の分岐点だった。
この花言葉は「純粋」その言葉に光一の想いと面影が重なってしまう。
ただ一度の出逢いを信じて、14年間を待ち続けてくれた純粋無垢な恋と愛。
その約束の場所で光一は「生きている花束」を贈って想いを告げてくれた。
あの約束の山桜は雪と氷をまとって太陽の光に輝いていた。
あの約束の場所で、山に咲く「光の花」を贈って光一は14年の時を超えて恋と愛を贈ってくれた。

英二が贈ってくれた「求婚」の赤と白の花たち。
光一が贈ってくれた「求愛」の光輝く雪の花。

どちらの花も想いも美しくて幸せで。
どちらも大切に受け留めて壊したくはない、自分にしか受けとめられないのなら。
よく似て対照的なふたりは「決めたら動かない」ことはそっくりで。
だから自分が拒んでも無駄なこと、他を選ぶつもりが欠片も無いふたりだから。

「…ん、みつめよう、…一生かけてでも、ね」

どんなに罪の意識に泣いたとしても逃げられない。
ただ素直に受けとめて出来る限りの幸せを作っていく、そんな道を選べたら良い。
同じ時を過ごすなら、泣いているより笑っていたい。
だから、ふたりの為に幸せを作れる方法を自分は考えて行けばいい。
そして美代に対してもただ、自分の素直な友情を示して笑顔にしていきたい。

―…きっと君はね、繊細で優しい分だけ悩んでしまうだろうね?
 そうして心の成長痛を経験できます。たくさん悩んで心が痛んだ分、きっと君は大きな心に成長できる。
 そうやって君はね、大きな心の人になれるはずだよ。それは素晴らしいことです、少しもずるいことじゃない。
 そして大きな心になった君が今度は沢山の心を受けとめて、勇気を贈ることが出来るようになる。

吉村医師の贈ってくれた「心の成長痛」と「勇気を贈る」可能性。
あかるい希望と光が見える吉村医師の言葉だった。
あの通りにきっと自分は出来るだろう、だって今も心が痛んだから。
きっと、できるはず。
ちいさくてもまた1つ、確信と勇気を見つめて周太は微笑んだ。



新宿署の先輩たちと一緒に術科センターのゲートをくぐる。
選手控室に入ると他管轄や本庁の選手達がだいぶ集まっていた。
警視庁内での大会だから、同期や機動隊時代の知人と多く会える機会にもなる。
同行の先輩達も知人や友人に声を掛けられて談笑を楽しみ始めた。
まだ卒配期間の周太の場合、もちろん同期は出場していない。今日は留守番組がほとんどだろう。
それでも11月の全国警察大会で一緒に警視庁代表で出場した先輩が声を掛けてくれた。

「やっぱり湯原は出場したな?きっと会えると思っていたよ」
「青木さんこそ、きっと出場されると思っていました。優勝候補とお伺いしています、」
「湯原こそ優勝候補じゃないか。ただな、CPには今回ちょっと伝説のヤツがでるらしいぞ」

本庁刑事部だという青木は、すこし声を低めて笑った。
きっとこの「伝説のヤツ」は光一の事だろう、前にも周太は特練の合間に指導員から聴かされている。
本部特練でもある青木だから光一が本部特練選抜されたエピソードを知っていて不思議はない。
たぶんそうかな?予想しながら見ていると青木が口を開いた。

「俺が本部特練に選抜されたときにな、まだ警察学校の訓練生だった男が一緒に選抜されたんだ。
しかもその男は高卒任官だったから、まだ18、9でな。最初の訓練の時に先輩たちの、やっかみに遭っちゃったんだ。
それで怒ったらしくて、その男はな。とんでもない離れ業をやってみせたんだよ。そのお蔭で、特練から外されたんだ…お、」

話しの途中で青木は言葉を途切れさせた。
どうしたのかなと首を傾げた周太に「特練の先輩が来ちゃったよ、」と小声で告げて苦笑気味に微笑んだ。
きっと聴かれたら不愉快にさせる、もうこの話は打ち切りとなって青木は先輩へと挨拶に向かった。
ひとりになって周太は窓際へと佇んだ。
見上げる空にすこし心がほぐれてくれる、今日はよく晴れて冬晴れの青が美しい。
きっと奥多摩も晴れているだろう。そろそろ青梅署のメンバーも着くかな?思ったとき控室の空気が変わった。

「ひさしぶり、湯原。活動服姿もイイね、」

きれいなテノールの声が部屋を透って周太は振り向いた。
ふり向いた先から底抜けに明るい目が笑いかけてくれる。
いつも通りの明るい空気に周太は微笑んだ。

「お久しぶりです、国村さん。いま着いたんですか?」
「うん、後藤副隊長と山井さんと、あと宮田と一緒にね」

光一の活動服姿を周太は初めて見た。
細身でも筋肉質で均整のとれた体躯、秀でた長身には制服姿がよく似合っている。
いつも農業青年スタイルか登山ウェア、ラフな私服姿ばかりだから、あらたまった姿の光一は新鮮だった。
文学青年風の上品な風貌と濃紺の制服は映えて凛々しい、なんだか見惚れてしまうな?
そう見つめている先で光一はいつものように飄々と笑った。
 
「で、やっぱり警官モードなんだね?」
「はい、これも公務ですから、」

いまは警察官として光一の前にいる。
光一は同じ年だけれど高卒任官で4年先輩な上に階級も2つ上になる、敬語で話すことが当然だった。
目の前に立っている光一の肩越しに後藤副隊長と山井が笑ってくれる、きれいに頭を下げて周太も微笑み返した。

「あとね、刑事課の澤野さんも出るんだ。別のパトカーで来るからさ、でもすぐに着くと思うよ」
「はい、」

頷きながら軽い緊張がやっぱり昇ってきてしまう。
光一は周太と同じセンター・ファイア・ピストルに出場する。優勝を廻るライバル、それが今日の光一だった。
この大好きな初恋の相手が今日のライバル、そして今日の結果に自分の進路が掛っている。
今日の結果で父の軌跡を追えるかどうか決っていく。この進路の行方の「鍵」が今日の勝敗。
この「鍵」になる勝敗の相手が光一だという現実が、どこか重たくて苦しい。

光一の記憶を消したのは父を殉職させた「拳銃」。
光一が14年前の雪の森を甦えらせたのも、周太が向けた「拳銃」の銃口の前だった。
そしていま自分の運命が決まる「拳銃」競技大会に、「鍵」のライバルとして光一が立っている。
こんな銃を廻っていく光一との運命は、何を指し示すのだろう?
どこか息苦しくて思わず逸らした視界に、ふと警戒するような視線を見つけて周太は首を傾げこんだ。

「うん?どうした、湯原、」
「あ、…なんか、こっち見てる人がいて」

周太の答えに光一は窓ガラスを透かし越して背後の様子を見た。
そして悪戯っ子の目になると周太に教えてくれた。

「たぶんね、本部特練のヤツかな?ま、この場に来ればさ、会うことは予想していたけどね」
「警察学校の時の、話の?」

たぶんそうだろうなとは予想してはいる、けれど改めて聴くとその光一が体験した軋轢が哀しい。
警察組織では射撃の特練、しかも本部特練に選ばれることはステータスという考えもある。
けれど「射撃の名手の警察官」の本当の意味を知ったら、そんな事は言えないだろう。
これから始まる大会もそんな意味が潜んでいる、ため息吐きかけた周太に国村は唇の端をあげて見せた。

「そんな顔する必要はないね、湯原。これもさ、俺のお愉しみのひとつだからね?」
「お愉しみ?」

やっぱり光一は何かするつもりなのだろうか?
訊きかえした周太に飄々と笑って光一は言った。

「それこそね、見てのお愉しみだよ?で、湯原。宮田はね、いま外でのんびりしているはずだよ。会うなら今のうちじゃないの?」
「…会ってきて、いいの?」

光一の提案に思わず素に戻されてしまう。
そんな周太に細い目が温かく笑んで言ってくれた。

「当たり前だろ?俺はね、君の笑顔が好きだよ。だから、君の望みは叶えてあげたい。さ、行きな?場所はきっとわかるんだろ?」

英二がこの術科センターで寛ぎに行くとしたら?
きっと、あの場所にいてくれる?きれいに微笑んで周太は頷いた。

「ん、ありがとう…じゃあ、行ってきます」
「うん、気をつけて行くんだよ?じゃ、また後でね」

からり笑ってくれる光一に微笑み返すと周太は控室の扉を開けた。
急いで階段を降りて戸外へと出る。ふっと頬冷やす乾いた風のなか周太は構内を歩き出した。
きっとあの場所にいてくれる?そんな予感を抱いて周太は奥まった方へと歩いて行く。
いまも光一と話せて嬉しかった、けれど英二に今逢いたい。こんな自分は狡いと自責も起きる、けれど逢いたい気持ちを叶えたい。
きっとここを曲がったら。そんな想いで植込みの木の角を入ると長身のスーツ姿が佇んでいた。

「…えいじ、」

見つめた想いの先に、壁に凭れて空を見ている英二が佇んでいる。
声にゆっくり振向くときれいに笑って英二は頷いてくれた。

「うん?どうした、周太、」

大好きな声が名前を呼んでくれた。
変わらない穏やかで、きれいな低い、大好きな声。この声を聴きたかった、逢いたかった。
ほんとうに逢いたかった、心せりあげられて周太は背中を押されるよう抱きついた。

「…英二!」

濃紺の制帽が地面に落ちて転がった。
飛び込んで受けとめてくれる胸は、広やかで温かい。泣き出しそうな心が名前を呼んだ。

「英二、ここに居てくれた…英二、」

こんなに自分は逢いたかった。
しがみついた温もりにまた思い知らされてしまう、やっぱり自分はこのひとが欲しい。
いま左腕で時を刻むクライマーウォッチをねだって手に入れたように、このひとの温もりも心も欲しい。
この温もりに逢いたかった、逢えた今が嬉しい。うれしくて解けた心から雪崩のように不安も恐怖も素直に震えになっていく。
どうかこの震えごと抱きしめてほしい、そんな願いが解るかのように長い腕がやわらかく肩を抱きしめてくれた。

「どうした、周太?不安になっちゃったかな、」
「…英二、…えいじ、今あいたかった…だから、ここに来て…前のとき、ここにいたから、」

やっぱり抱きしめてくれる、そして穏やかな声が温かい。
うれしさと安心に見上げた先で、きれいな笑顔が周太を見つめてくれた。

「うれしいな、周太?俺で良かったらね、好きなだけしがみついてほしいよ?」

やさしい英二のきれいな笑顔、この笑顔が大好きだった。
そしていま見せてくれる笑顔は、1月に別れた時よりも深く大らかに温かい。
また英二の笑顔は、きれいになった。
こんな笑顔を見たら離れられない、けれど自分にそんなことを言う資格があるのだろうか?
笑顔に逢えた喜びと自責の哀しみを見つめて、周太は素直な想いを口にした。

「ん、…ごめんね、こんなの、ずるい俺…でも、英二にあいたかった、」
「ずるくない、周太。俺は嬉しいんだからさ?誰が何と言っても関係ない、俺が幸せならいいだろ?遠慮しないで周太、甘えてよ」

ずるくない、そう言ってくれる。
自分ですら受け入れ難い「今」の自分、それすら包んで受けとめてくれる。
受けとめられ受け入れられる安心が温かい、温かさに震えがすこしずつ治まっていく。
安らぎに微笑んで素直に周太は想うままを言葉にした。

「英二…甘えさせて?聴いて、英二?…俺、ほんとうは怖い。
それでも自分で選んだこと、だから逃げたくない、でも怖い…自分でもわからない。それに、それに俺…どうしよう、」

すべて自分で選んだこと。
それでも怖い、父の軌跡を辿る道へ進むことに潜む危険が怖い。その危険に英二も光一も巻き込むことが怖い。
この危険な道を辿って父の想いを見つめるため、その目的のため自分はここまで来た。
けれど目的の「鍵」になる今日の勝敗を競う相手が「危険に巻きこむ相手」のひとりだなんて?

「今日の一番のライバルが好きなひと、だなんて…こんなの、わからない」

これは運命の皮肉?それとも希望へのひとすじの光?
もう何だか、解らない。
緊張と不安と途惑ばかりに呑まれそうな本音が吐息になってこぼれてしまう。
そんな周太の瞳に、大らかな温かい笑顔がきれいに映りこんでくれた。

「周太、まわりも相手も関係ないよ?」

きれいな低い、おだやかな声がやさしい。
やわらかなトーンに心がほぐれていく、ほっと息つくよう周太は小さく訊いた。

「…関係、ないかな?」

素直なまま困惑を呟いた周太に、やさしい幸せな笑顔が頷いてくれる。
まだすこし震えてしまう活動服の背を、ポン、とやわらかに叩いて英二は微笑んだ。

「うん、だって周太?周太はね、お父さんの為にここに立っている」

ポン、…ポン、
やわらかに長い指の掌からおくられる、やさしい穏やかな感触。
しずかな鼓動によく似た感触が、安らいだ温もりをそっと心へと送りこんでくれる。
幼い日に父がこうしてくれた、甦っていく懐かしい温もりに微笑んで周太は、きれいな低い声を聴いていた。

「お父さんの想いと真実を見つめるため、お父さんが立っていた場所に立つんだろ?
きっとこの大会にお父さんも立っていた、それだけ見つめていればいい。周太が後悔しないように真直ぐ見つめたら、それでいい」

「後悔しないように…お父さんを見つめて…」

きっと父もこの大会で「優勝候補」を背負って立っていた。
この「優勝」が尚更に自分を危険へ曳きこんでいく道だと知りながら、それでも真直ぐ父は立っていた。
この時と同じ時を父も生きていた、だから今この時を見つめられたなら、父の想いがまたひとつ見つけられる。

自分は、「父の想い」を見つめるために、ここまで来た。
だからいまこの時にこそ、父の想いを重ねて見つめたら、それでいい。
それでいいよね?真直ぐな想いに英二を見つめて周太は微笑んだ。

「ん、…そうだね、英二?俺、頑張ってくる…父の姿と、的をね、真直ぐ見つめてくる。そして父の想いを追いかけてみせる」

そうだね、一緒に追いかけよう?そんなふうに切長い目が告げて微笑んでくれる。
ほら、また、英二は自分と一緒にいようと笑ってくれる。危険だと解っているのに微笑んでくれる。
この微笑みがあれば、自分は大丈夫だと信じられてしまう。信じさせてね?甘えと覚悟に周太は笑った。

「全ての想いを見つめて父を理解して受け留める…そして、英二?」

ほんとうは普通の幸せを選べた英二、けれど自分の隣を選んで支えてくれる、そして英二自身の夢も掴んで笑ってくれる。
だからこの危険な道を辿り終えた涯「いつか」には自分が英二の夢を支えたい。
そして英二が輝く姿をいちばん近くで見つめたい。
この想いを今この大会の前にこそ伝えたい、真直ぐに英二を見つめて周太は口を開いた。

「俺ね…いつか、英二のために…」

告げかけた想いに英二は微笑んでくれる。
けれど、やさしく英二は周太の言葉を遮ってしまった。

「うん、周太。ありがとう、…ほら、時間だよ?…はい、周太?あーん、して?」

笑いかけながら英二は、スーツの胸ポケットからオレンジ色のパッケージを取り出してくれる。
ひと粒をきれいな長い指にとって、やさしく微笑んで口に入れてくれた。
幼いころから好きな「はちみつオレンジのど飴」この香も甘さも優しい、馴染んだ味に周太は微笑んだ。
素直に口を動かす周太に英二はきれいに笑って促した。

「さ、行こう、周太?ちゃんと近くで見ているよ、」

話しながら地面に落ちている制帽を拾いあげて、そっと埃を払い落としてくれる。
きれいになった制帽を被せてくれながら瞳を覗きこんで英二はきれいに微笑んでくれた。

「声に出さなくても周太を応援している、きちんと見ているから。ね、周太。安心して?」

この「今」を見つめているよ?
きれいな切長い目は真直ぐにそう告げてくれる。
さっき周太が言いかけた言葉と想いを英二は遮ってしまった、けれど見つめてくれる温もりは真摯だった。

「ん、…ありがとう、英二」

素直に頷いて周太は微笑んだ。
一緒に術科センター建屋のゲートをくぐると、お互いの所属の許へとふたり別れた。

「見てるよ、周太?だから安心して、」
「ん。俺、頑張ってくる…見ててね?」

きれいな笑顔をもういちど見つめて周太は、きれいに笑って英二と別れた。
すこし歩いてそっと振向くと、長身の端正な背中が遠ざかっていくのが見える。
すこしだけ背中を見送って軽く頷くと、そのまま周太は踵を返した。
ずっと廊下の奥へ足早に進んでいく、そして突き当りの窓辺に立った。

「…っ、」

ちいさな呼吸1つと一緒に涙がひとつこぼれた。
さっき周太が言いかけた「いつか英二の為に」この言葉を遮った英二の想い。
この英二の想いがただ周太の心を迫り上げて、涙がまたひとつこぼれた。

― 先のことは解らない、ただ『今』を大切に見つめて重ねていこう?

きっとこれが、英二が言いたいこと。
この「今」しか確かなものはない、先の「いつか」がどうなるか解らない。
そんな英二の覚悟と、ただ周太を「今」支え続けようとする温もりが、心を迫り上げてくる。

なんども周太が約束をした「いつか」
約束に願う「この危険が終わる『いつか』には英二の為だけに人生を選ぶ」こと。
この「いつか」の先がもう違ってしまった、「英二の為だけ」ではもう無くなってしまった。
14年前に結んだ「山の秘密」の初恋が甦ってしまった「今」は光一の為にも生きているから。

なんども交わした約束「いつか」を変えたのは周太。
それでも英二は責めないで、ただ周太を受けとめて微笑んでくれる。

ほんとうは、罵られた方が楽。
ほんとうは大嫌いになって離れてくれた方が、楽かもしれない。
こんなに自分に捧げようとする英二を隣に立たせながら、光一との初恋を離せない自分。
たしかに「体」のことで英二は過ちを犯した、けれどこんな自分をここまで許す必要なんてあるの?
ほんとうは嫌われて呆れられて、立ち去られた方が罪悪感は消えていく。
けれど英二はひとつも責めない、嫌わず呆れず、ただ傍にいて微笑んで、さっきも全て受けとめてくれた。

あの冬富士の雪崩前の、無償の愛を求めて束縛する激しい愛を向けていた英二。
まだあれから1ヶ月ほど。それなのに英二は大きな「無償の愛」を抱いて周太を見つめてくれる。
その笑顔は、ほんとうに美しくて温かだった。
この温かさが信じられてしまう、傍にいてほしいと願ってしまう。残酷と知りながら英二の想いを拒めない。
もう拒めない、その素直な想いに周太は涙ひとつと一緒に微笑んだ。

「…英二、愛してる…大好きだよ?」

愛している、心から。
唯ひとりだけ愛している、もうそんなふうに言えなくなってしまった。
それでも真実の想いで愛している、大切にしたい守りたい、幸せに笑わせてあげたい。
だから想う、「必ず隣に帰ってくる」という絶対の約束は、もう枯れることは無い。
だからやっぱり願ってしまう。
自分こそが、英二の帰ってくる居場所になってあげたい。

そんな自分は、さっきも見つめた光一の底抜けに明るい目に恋している。
真直ぐで明るい目、この重苦しくなりがちな心に風を透すような、軽やかな真摯に見つめる眼差しが好き。
これから自分は光一と競わなくてはいけない、けれど光一が競うのは「光一の目的」に対してだと今はわかる。
さっき英二が言ってくれた「お父さんの想いと真実を見つめるため、お父さんが立っていた場所に立つ」ように、
光一も自身の目的を見つめるために、この場所に立つのだろう。
その目的のためには、何より大切に想ってくれる周太への愛も別の事として、潔くこの競いの場に立とうとしている。

そんな潔さと意志の強い純粋無垢、こんな光一が本当に好きだと思う。
どこまでも純粋無垢に誇らかな自由に生きる、その美しい姿を見つめていたい。
そして光一が14年間ずっと願ってくれた、この自分の笑顔をずっと見せてあげたい。

「…ふたりともね、大切で、愛してるよ?」

この身はひとつしかない。
けれど、今日この場でもまた覚悟して、ふたつの愛を見つめて真直ぐに立っていたい。
周太は窓から青空を見つめて、きれいに微笑んだ。



【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】

(to be continued)

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