萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

奥津城、掌―side story「陽はまた昇る」

2011-09-29 23:43:06 | 陽はまた昇るside story

あざやかな空の下で




奥津城、掌―side story「陽はまた昇る」

実況見分調書を英二は読み込んでいた。
トラクターと自転車の接触事故の現場から戻ってきたばかり、その調書をチェックしている。

よろけた自転車が、トラクターに掠って転倒した。
トラクターのおじさんも自転車のお爺さんも、揃って怪我は無い。
それでも駐在さんに連絡しようじゃないかと、被害者と加害者は仲良くやってきた。
両方の供述調書をとってから、実況見分調書を作り、皆で実況見分に行った。

「へえこんなふうにやるんだねえ」
「お兄サン若いのに、しっかりしているねえ」

のどやかに言いながら、お爺さん達は笑っていた。
今は、英二が調書をチェックする机の向こうで、御岳駐在所長の岩崎と茶飲み話をしている。

「岩崎さん、ここ来てどのくらいだったかね」
「もうじき、一年ですよ」
「へえ早いなあ。そんなになるかねえ」

岩崎は御岳駐在所の常駐だった。駐在所に隣接された官舎に、妻と3歳になる息子が一緒に住んでいる。
他に御岳駐在所には、登山経験の豊富な国村が配属されている。国村と英二が交替で、岩崎と二人で勤務していた。
国村とは独身寮で話したが、物静かで芯の強そうな、頼もしい雰囲気だった。
山に関わる人たちは、気持の良い人柄が多いなと英二は思う。

「今年はよ、黍の作付けがいいな」
「そろそろ刈取だね」
「また今年も、大福こさえて持ってきてやるよう」

目は細かく調書を確認しながら、口許だけで英二は微笑んだ。
紅葉シーズンを迎えるこれからは、山の事故が増えると聞いた。危険に身を晒すことが増えるだろう。
そう思うと、こんな穏やかな空気はやっぱり嬉しい。
この駐在所の雰囲気は、岩崎の人柄なのだろう。

― 君も笑顔で行くと決めたんなら それを通せばいいじゃないか 
  甘くなんかない 警察官が笑顔でいる事は一番難しい事だ

遠野教官の言葉を、岩崎を見るたびに英二は思い出す。
山岳救助レンジャーに所属していた岩崎は、多くの辛い現実を見てきただろう。それでも岩崎の笑顔は明るい。
自分に必要な事が、きっと岩崎から学べるだろう。
ここに来られて良かったと、まだ一週間程なのに思える。

「宮田、お客さんだよ」

先輩の岩崎に声かけられて、確認の終わった調書をファイルへ納めた。
ほら早くと皆に急かされながら、英二は表に出た。

「こんにちは、宮田のお兄ちゃん」
「おう、秀介。学校の帰りか?」

そうだよと頷きながら、秀介はにこにこ笑っている。
卒配初日の午後、英二は崖で滑落した秀介を背負った。それから毎日、秀介は駐在所へやってくる。
きれいに色づいた稲穂が、秀介の顔の向こうで揺れている。陽射しがやや穏やかになった。
そろそろ巡回の時間だなと思っていると、秀介が口を開いた。

「あのさ、算数ちょっと教えてくれない?」
「またかよ秀介」

英二は笑った。秀介の主な目的は宿題だった。
滑落した後、駐在所で母親の迎えを待っている時、時間潰しにと英二は九九を教えてやった。
それが面白かったらしい、秀介は学校帰りに宿題を持って来るようになった。
日曜は英二が非番だったが、土曜は学校が休みなのに、ちゃんと来ていた。

「いいよ宮田。少し勉強見てやってくれ」

岩崎が笑って促してくれる。
すみませんと頭を下げて、英二は駐在所前の土手に座った。
広がる秋の田から、稲穂の風が吹き上げて心地良い。ああ良い所だなと目を細めた。
秀介も並んで腰かけ、ランドセルから教科書を取り出している。
英二は時計を秀介に見せ、時間を区切った。

「15分だけだぞ」
「うん、」

嬉しそうに頷いて、秀介は教科書とノートを開いた。
これから毎日、こうして勉強に来るのかなと思った時、警察学校の寮が懐かしくなった。
自分も毎日、湯原の部屋へ教本とノートを携えた。
勉強も勿論大事だったけれど、それ以上に湯原の隣は居心地良くて、嬉しくて毎日通った。
本当にもう、あの隣ばかり自分は見ている。
今日の湯原は週休のはずだ、今頃どうしているのだろう。


なんとか15分で終わらせて、英二は巡回パトロールへ出た。
秀介は自転車の横にくっついて、歩いている。自分の家の近くまで一緒に行くのだろう。
歩きながらも、ここは?と教科書を見せてくる。
昨日月曜も英二は週休だったから、今日と合わせて3日分の質問を持ってきたらしい。

「秀介は勉強好きなのか」
「うん、ちゃんと解るまでやりたい」

疑問をそのままに出来ない性質らしい。
名前もそうだが、性質まで湯原を思い出させる。幼い頃の湯原の笑顔を、秀介に重ねてしまう。
湯原は、決して楽ではない生き方をしている。
この横を歩いている「しゅう」には、普通の幸せな生き方をして欲しいと思ってしまう。

「あ、美紀だ」

秀介が嬉しそうな声を上げた。
小さな指が差す方を見ると、秀介と同じ年格好の女の子が川縁の土手に立っている。
おーいと秀介が呼んでも気付かずに、なにやら土手を覗き込んでいた。
赤いランドセルが、小さい肩にはまだ重そうに見える。
バランスを崩しそうで危ない、英二は自転車を土手へと向けた。

「美、」

秀介が呼びかけようとした瞬間、赤いランドセルが大きく傾いだ。

水音と、水柱が跳ね上がった。



英二の目の前で、女の子が笑っている。
スカートに泥が付いたが、美紀は怪我もなく濡れもしなかった。
美紀が立っていた場所はえぐれ、あるはずの土手石が無い。今頃は、谷川の底に沈んでいるのだろう。

放り出された自転車が、車輪をくるくる回しながらひっくり返っている。

間一髪だった。
土手を滑りかけた瞬間、英二の長い指の手は、赤いランドセルの肩と小さな掌を掴んでいた。
尻もちついた美紀を抱きかかえ、安全な場所でおろす。
良かった。大きなため息が、胸をせり上がって吐かれた。

「お兄ちゃんありがとう」

かわいい笑顔で英二を見上げている。
やれやれと英二は笑った。

「ここは危ないから、端を歩いちゃいけない所だろ?」

学校でも言われている場所だった。
けれど美紀は悪びれずに、土手の斜面に咲く花を指さした。

「あれ、摘みたかったの」

あわい紫色の花が、ゆらゆら風に咲いている。女の子が好きそうな、かわいい花だった。
立ちあがり、英二は腕を伸ばして摘んでやった。

「危ない所は絶対、歩いちゃ駄目だ。約束を守れるならあげる」
「うん、もう行かない」

嬉しそうに手を伸ばした美紀に、花を渡してやった。
約束だぞと微笑んだ英二を、ちょっと驚いたように美紀が見上げた。

「お兄ちゃん、きれいね」
「え、」

意外な言葉に、英二はすこし目を見開いた。秀介も美紀を見つめている。
見上げる美紀の頬が、すこし赤らんだ。

「なんかね、笑った顔すごくきれい」
「そっか、」

ありがとうと英二は笑った。
この事を湯原に言ったら、なんて言われるだろう。
今夜は何時に電話が出来るだろうと、考えながら自転車を起こした。


ふたりを送って巡回を続ける。
暮れ初めた山里は、淡い紫色の靄がかって霞む。
秋の夕は早まわしに暮れる、自転車のライトを点けた。

―彼誰時

かはたれどき。湯原が読んでいた本に、載っていた言葉。あの時は珍しく日本語訳が付いていた。
すこし離れた場所にいる人の、顔が解り難くなる程度の夕暮だと言っていた。
ちょうど今自分を言うのだろうか、確かに遠目が利き難い。
英二は目を細めて、山林の奥を眺めた。

木々の奥に、白っぽいものが見える。
自転車を止め英二は、持っていた懐中電灯のスイッチを入れた。
林道に入ると、夜の気配が濃くなる。それでも白っぽいものは見えていた。

奥多摩の山は、自殺志願者が大勢やってくる。
卒配先を決める時にも調べ、着任挨拶の研修でも聞いた。
登山道が整備されて山に入りやすく、都心からも近い為だろうか。疲れた人間が決意と一緒に迷い込む。
傾斜の急な暗い道を歩きながら、英二はそっと覚悟をした。

ライトを向けた先に、黒髪と蒼白の顔が照らしだされた。
その足許は、地面から離れている。



無線の連絡で、岩崎がミニパトカーで駆けつけた。青梅署刑事課からも派遣され、現場検証と収容が始まる。
状況撮影が終わると、梢から降ろされた遺体は毛布を掛けられた。

「宮田、出来るか」

岩崎に体温計を渡された。
警察官は「死体見分」遺体の直腸温度を計り、死後経過時間の確認をしなくてはならない。
凍死者や自殺死体等に関しては、公衆衛生、身元確認といった行政目的のために、警察官は行政検視を行う。
いわゆる死体見分を行い、死体見分調書を作成する。
奥多摩地域の配属なら、避けられない実務だった。

「はい、」

英二は短く答え、遺体に向き合った。
瞑目して合掌する。死者に対する礼は失してはいけない。
目を開けると、毛布から蒼白な掌が出ていた。命の気配が無い白さが、胸を刺す。
掌には、封筒が一つ握られていた。

毛布を捲ると、人の死の凄まじさが露わになった。
異臭が英二の顔面を打つ。
遺体は筋肉弛緩が始まっていた。全身の穴から、透明な血と内容物が流れ出る。
命終わることの、生々しい現実が横たわっていた。

それでも触れなくてはいけない。
警察官として生きると選んだ時から、覚悟はしていた。それでも息を呑まれる。
共に見分を行う刑事が、大丈夫かと声をかけてくれた。
小さく頷いて英二は、異臭の中に手を動かした。



死体見分調書を作成し終わって、英二はほっと息を吐いた。
青梅署に戻って、これを刑事課で確認してもらわなくてはいけない。
今は何時なのだろう。時計を見ようと顔を上げると、岩崎の妻が立っていた。

「おにぎり作ってみたのだけど」

食べられるかなと微笑んで、皿を示してくれた。岩崎から話を聴いて、支度してくれたようだった。
不意に姉を思い出した。湯原の事を家族に告げた夜、姉もこんな風に来てくれた。
胸元は何かが詰まっているけれど、英二は微笑んで受取った。

「いただきます」

掌に取ると温かい。
ひとくち齧ると、塩味と白胡麻だけのシンプルな味が口に優しい。
食べ始めると、きちんと腹に納まっていく。自分は結構図太いのだなと、英二は思った。
温かいお茶を手渡してくれながら、岩崎の妻が口を開いた。

「宮田さんは、強い人なんですね」
「そんなこと、無いです」

最後の一個を呑みこんで、英二は茶を啜った。
本当にそんなことは無いと思う。いつも湯原の強さが、眩しくて羨ましい。
微笑んで、彼女は続けた。

「初めての見分は、主人は食事できなかったそうです」

あの岩崎がと意外だった。
考え込んでいると、彼女は机を片付けながら、英二に笑いかけてくれた。

「宮田さん、お皿受取る時。微笑んでくれたわ」

だからね強い人だと思ったのよ。言いながら茶を注いでくれた。
今もちゃんと微笑んでいるのか。英二は自分で意外で、少し嬉しかった。

父の殉職に向きあっても、遠野教官の被弾を前にしても。
どんな時も湯原の隣は、穏やかでいる。
少しは近付けたのかなと、英二は嬉しかった。


青梅署に戻って書類を提出する。
岩崎は一緒に行くと言ってくれたが、英二は大丈夫だと微笑んで御岳駐在所を出た。
手続きを済ませ廊下を歩いていると、白衣を着た初老の男に声を掛けられた。
宮田くんだったねと笑いかけて、男は名乗った。

「嘱託警察医の吉村です」

死体見分の時、立会いの医師がいた事を思い出した。
現場が暗かった事もあるが、顔を見る余裕が英二には無かった。
失礼を謝ると、吉村医師は微笑んだ。

「ちょっと休憩、つきあってくれませんか」

帰る前にコーヒー1本飲むのが楽しみでと、ロビーを指さした。
はいと微笑んで、英二は一緒に歩き出した。

自販機で買うと、英二にも1本渡してくれた。礼を言って受取る掌に、熱さが沁みた。
新宿の公園で、湯原がくれた缶コーヒーの温かさが懐かしい。ふっと英二の胸が温かくなった。
ひとくち飲んで、ほっと息をつく。
吉村医師も口をつけながら、英二に微笑んだ。

「ご覧になったのは、初めてでしたか」
「はい、」

そうでしょうねと吉村は頷いた。

「私は嘱託警察医として、十年になります。その間、たくさんの遺体に出会いました」

たくさんの死と向き合ってきた人なのだと、英二は思った。
それでも吉村は、穏やかに微笑んでいる。
静かに吉村が口を開いた。

「今日の方は、良いお顔です」
「…良い顔?」

自殺自体が苦しいと英二は思う。自分から死ぬなんて辛すぎる。
そして今日、現実に見た縊死自殺の姿は、辛いものだった。
なぜ、良いと言えるのだろう。英二は吉村の顔を見た。

「今日の方は、定型的縊死でした。一気に苦しむことなく、亡くなっています」

コーヒーを啜って、吉村は続けた。

「縊死の場合、紐の跡があります。
 それが左右同じに顎の下側を通り、耳たぶ下から首の後ろへと深い皮膚の溝が見て取れる事。
 そして足が地面についていなかった事。
 このような状態を、定型的縊死と呼んでいます。この場合、苦しみも無く表情も良いのです」

要点をまとめて話してくれる。
納得出来る話し方が、ありがたかった。こんな時は、論理的に頭を整理されると、落着きやすい。
それでもまだ、死の醜悪な一面を目の当たりにしたという思いが強い。
英二は口を開いた。

「吉村先生は、気持悪くは無いのですか」
「私も最初は、気持ち悪かったですよ」

同じなのだなと、すこし英二は安心できた。
吉村は微笑んで続けた。

「けれど多く見るうちに、このような死に方を選んだ人の気持ちが、少し解るなと思うようになりました。
 ご遺体を同情の気持ちで見られるようになっていました。そして、気持ち悪さは無くなっていきました」

同情の気持ち。
遺体は40代女性のものだった。掌には遺書らしきものを握っていた。
決意しての死だった事が、それだけでも解る。なぜ彼女は死ななくてはいけなかったのだろう。
英二の目を真直ぐ見つめ、吉村は言った。

「今は、楽に亡くなった様子が見て取れると、密かに安堵するようにさえなっています」

吉村の目は穏やかで静かだった。

― 知りたいだけ。真実の先に、何があるのか

湯原が言った言葉が、今は解る気がする。
この奥多摩で警察官として立つ事を、自分は選んでここに居る。
吉村医師と同じように、これから多くの死と向き合うのだろう。
その真実の先にあるものと、自分も向き合っていけるだろうか。



寮の自室へ戻ると、22時を過ぎていた。
窓に広がる星空に、きれいに月がかかっている。新宿でも見えているだろうか。
携帯を開くと、メールが1通入っていた。
受信ボックスを開いて、差出人名に英二は微笑んだ。

今日は何度、想い出しただろう。
穏やかなあの隣には、距離は関係ないのかもしれないと思える。

発信履歴を呼び出して、英二は通話ボタンを押した。






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1 コメント

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非公開希望2011093017時さんへ ()
2011-09-30 19:34:51
コメント&アンケートありがとうございます。
コメント以外の件、申し訳ありませんでした。先程掲示板にブログ専用メールアドレスを貼らせて頂きました。

「奥津城」リアルを見留めて頂いて本当に嬉しかったです。普通避けて通る所を描写する事が、受け入れて頂けるのか。かなり冒険で実験でした。
宮田も湯原も成長します。応援きっと喜びます。笑

全話に対して好きとの言葉。感謝です。
最初頃の文章は荒く自分では凹みます、そのうち改訂版書いてみようか考え中です。
湯原視点&家族の話は、自分も好きです。でも今夜UP予定の「奥津城②」は自分ではかなり好きになりそうです。

ご感想&アンケート本当にありがとうございました。またメールからでもお寄せ下さると嬉しいです!
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