萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第41話 春永act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-04-22 23:38:05 | 陽はまた昇るanother,side story
花笑ふる光、のどけき想い



第41話 春永act.3―another,side story「陽はまた昇る」

花さく木洩陽ふる庭は暖かい。
ゆるやかな時に花ふる庭を、周太は英二の父と佇んでいた。
並んで見上げる梢には、午後の陽光ほころんだ彼岸桜があわい紅を翳してくれる。
この花姿が嬉しい、やさしい万朶の花に周太は微笑んだ。

…咲いてくれたね、ありがとう

もし温かければ午後に花ひらくかもしれない、そう思っていた通り花咲いている。
今日の客人を迎えるよう披いた花が嬉しい、やわらかな香にすこし緊張もとかされていく。
ほっと息吐いた周太に、きれいな低い声が笑いかけてくれた。

「美しい庭ですね、ほんとうに。見事なものだ、」

背の高いカジュアルスーツ姿が、花々に微笑んでいる。
おだやかで静かな笑顔は、やはり息子の英二とよく似てきれいだった。
途惑うような緊張を見つめながら、そっと周太は花篭を抱いて微笑んだ。

「ありがとうございます、」

素直に頭を下げた周太に、英二の父はやさしい眼差しをくれる。
父親と入れ替わるよう英理は「またあとでね」と和室に設けた席へ戻って行った。
ふたりきり、英二の父と佇む庭で花たちは、静かに周太の緊張を見守ってくれる。

…花たち、木たち、どうか支えて?お父さん、お願い…

この庭は父が愛していた場所だった、だから今も父は花木のもと佇んで見守ってくれている。
どうか弱虫で泣き虫の自分でも姿勢を正して、きちんと今ここに立っていられますように。
そんな想いと抱えている篭の花に、切長い目は微笑んで優しい低い声が訊いてくれた。

「花も可愛いですね。この庭は、君が手入れをしているのでしょう?立派なものです、」
「お恥ずかしいです…僕の手入れは、大したことなくて。ただ花や木たちが自分で、きれいになってくれます、」

ゆっくり庭を歩いて案内しながら、花篭と一緒に鼓動を抱いている。
いつもよりすこし早い心音が今の心を如実に聴かせる、この緊張も気恥ずかしい。
いま隣を歩く立派な男性は息子の恋人が男であることを、どう考えているのだろう?

…ほんとうは嫌かもしれない、でも優しいから言わないだけで…

ため息のような考えに哀しくなってしまう。
これは仕方ないこと、何度もそう納得して覚悟してきた。けれど現実にこうして直面すれば、やっぱり不安で怖い。
それでも絶対に逃げたくない、祈るよう覚悟を見つめる周太に、静かな低い声が話しかけた。

「優しい温もり、清らかな奥ゆかしさ、そして佇まいが美しい。なぜ英二が君と、この家を選んだのか。解かったように思います」

声に周太は隣を見あげた。
英二より幾分低いけれど充分に長身の彼は、息子とよく似た笑顔で周太に微笑んだ。

「私も好きです、この場所も、君のことも。英二が羨ましいな、」
「…羨ましい、のですか?」

そっと訊きかえして、周太は彼の目を見つめた。
見つめた切長い目は穏やかに笑んで、きれいな低い声が言ってくれた。

「愛する場所と人を、自分で見つけて選び、守っていく。そういう生き方が出来る息子は、同じ男として眩しいです。
愛するものを守り、自分の仕事と夢に誇りを持って命懸けでも怯まない。心から生きる誇りに笑っている、そんな英二が羨ましい」

きれいな笑顔が率直に英二を認めてくれる。
この真直ぐな想いが嬉しい、素直に周太は微笑んだ。

「英二さんは眩しいです、僕にとっても…英二さんの仕事と夢は、ほんとうに素晴らしい世界だと、僕も思います、」
「そんなふうに、妻にも言ってくれたそうですね?」

やさしい笑顔が周太を見つめて訊いてくれる。
訊かれて、つい数日前のことに気恥ずかしくなりながら周太は頷いた。

「はい、…先日は、生意気なことを申し上げました。恥ずかしいです…でも、僕の本当の気持ちなんです、」
「生意気、そう妻も言っていましたよ?」

可笑しそうに切長い目が微笑んだ。
ほんとうに気恥ずかしい、けれど笑ってくれる温もりにすこし緊張がほどけていく。
ちいさく息吐いた周太に英二の父は、率直に想いを教えてくれた。

「山と救助の世界は素晴らしい、あなたが誇りを持つのに相応しい世界です。だから英二を認めて下さい。
僕のことは認めなくていいんです。でも英二の選んだ世界は否定しないで下さい。そう君が言ってくれたと、妻に聴きました。
聴いて、私は君の気持ちが嬉しかったです。そして君に伝えたくなりました、息子が今のように生きることを、君に感謝します」

こんなこと、言ってもらえるの?
驚いて見上げた周太に、切長い目は温かに笑んでくれる。
息子より幾分渋い、きれいな低い声が穏やかに周太に告げた。

「君に出逢えたから息子は今、誇り高い男として生きられている。そんな息子を私は羨ましく、誇りに想います。
だから君に感謝を伝えたかったんです、そして、お願いしたい。息子を、英二のことを、これからも支えてやってくれますか?」

…本気で、そんなことを言うの?

言われたことに周太は、ひとつ瞬いた。
この立派な男性は大切な息子を、自分に託そうと言っている。
けれど、自分の立場を自分は解かっている。そっと周太は訊いてみた。

「ありがとうございます、お気持ちはとても、嬉しいです…でも、後悔されませんか?」
「後悔、どうして?」

綺麗な低い声がやさしく訊いてくれる。
訊いてくれる眼差しに、ずっと見つめている哀しい想いを抱いて周太は頷いた。

「僕は男です、英二さんと同じ男性です。普通の結婚は出来ません、子供も産めません…世間的にも、認められ難いです。
そちらのように立派なご家庭には、僕は恥ずかしい相手のはずです。そんな相手に、大切な息子さんを、よろしいんですか?」

言っている自分の言葉に、自分で心が抉られる。
どれも自分で解かって納得してきたこと、けれど言葉にすれば心を刺す。
心が痛い苦しい、でもこの痛みこそ自分が選んだ立場の現実だと知っている。
この痛みを解っていて自分も選んだ、英二の想いを受入れて愛することを選んで、後悔していない。

…それでも、痛い…でも、愛しているから逃げない

唯ひとり唯ひとつの想いは、枯れない花。
大切な初恋が甦っても、この想いこそが色濃くあざやいだ。
この身を犯され誇りを砕かれても構わない、愛されるなら何をされてもいい、何でも出来る。

…だって英二、言ってくれた…意識が戻って、ふたりきりになって、抱き締めて、

『俺だけのものでいてほしい、他の誰にも、ふれさせないで』

ずっとこの言葉を聴きたかった、あの綺麗な低い声で告げてほしかった。
奇跡のように助かった命に微笑んで、きれいな笑顔は真直ぐ瞳を見つめて言ってくれた。
もう、あの言葉を聴けたから、どんなに辛くても幸せだと自分は微笑める。
だからこそ尚更に現実が痛い、
それでも想いを守るためなら痛くても構わない。
だからこそ、愛するひとの父には現実を告げておきたい。この自分が英二の傍にいる社会的リスクも、知って考えてほしい。
そんな想いに見つめた先で、きれいな切長い目は穏やかに微笑んだ。

「あの英二が誰かを愛するなんて、きっと他に無いでしょう。私に似て、なかなか気難しい男ですから。
もし君に出逢わなければ英二は、ずっと独り身で恋愛を玩具にしたでしょう。普通に結婚しても、気持ちが無く破綻するだけです。
息子の性格は私に似ています、だから私には解るんですよ。英二にとっての幸福は、君と一緒にしか見つけられない。違いますか?」

…わかってくれている、

ぽとん、涙がひとしずく周太の瞳からこぼれ落ちた。
頬つたう温もりに微笑んで、素直に周太は頷いた。

「僕の幸せも、英二さんの隣でしか、見つけられません…他の場所は、ありません、」

心からの想いが、花びらふる風にとけていく。
風揺れる梢の花々が、ゆるやかに揺れて花びらを贈ってくれる。
やさしい花の励ますような気配に微笑んで、周太は正直な想いを言った。

「たくさん、ご迷惑をおかけすると思います。でも、どうか、英二さんの傍にいさせてください…よろしくお願いします、」

きれいに礼をして周太は頭を下げた。
その肩に長い指の掌が置かれて、優しく体を起こしてくれる。
ふれる肩の掌が温かい、温もりに心すこしほぐれた周太に英二の父は言ってくれた。

「こちらこそ、迷惑を掛けます。もう今回だけでも、随分と迷惑も心配もかけて。すまないと思っています、
でも、息子が真直ぐ生きられるのはきっと、君が傍にいてくれるお蔭です。どうか傍にいてやってください、お願いします、」

こんなふうに言ってもらえるなんて、考えたことも無かった。
罵られて当たり前、頬を叩かれるのが当然なのだと思っていた。けれど愛するひとに似た人は違っていた。
この人がいるから、愛するひとは生まれた。この想いが心からの実感に温かい、温もり素直に微笑んで周太は頷いた。

「はい、傍にいます。精一杯、支えます…ずっと、」

もう、この言葉を口にしてしまった。
この約束を愛するひとの父親に告げた、もう自分は決して逃げてはいけない。
ずっと重ねた覚悟に今あらためて微笑んで、周太は素直に頭を下げた。

「英二さんに逢えて、本当に幸せです…心から感謝します、ありがとうございます」

心からの感謝の想いに、周太はきれいに笑った。
笑った視界には、きれいな切長い目は穏やかに微笑んで、ふる春の陽光と花々に佇んでいた。



川崎駅まで送りに行く英二と父娘を見送ると、周太は母と名残の湯で一服点てた。
仏壇に古萩の茶碗を供えて、心からの感謝に父を想い、祖父たちに掌を合わせる。
きっと父と一緒に祖父たちも、点法する周太の掌に手を添えてくれていた。
この温もりに微笑んで、ゆっくり合掌をといた周太に母がねだってくれた。

「周、お母さんにも、お願いできるかな?」

このおねだりは嬉しい、素直に頷いて周太は薄茶を点てた。
そのまま自分にも一服点てて、掌に茶碗抱くひと時を母と寛いだ。
ゆるりと頂く茶が清々しい、ほっと息吐いた周太に母は微笑んだ。

「緊張したね、周?でも、喜んでいただけて、良かったね?」
「ん、…喜んでくださった、かな?」

萌黄色の茶を眺めながら、すこし頬が熱くなる。
つい羞んでいる周太に母は、嬉しそうに笑ってくれた。

「とても喜んでいらしたわ、ふたりとも。お姉さんも楽しんでいらしたけどね?お父さまにお母さん、とても褒められたのよ、」
「…ん、そうなの?」

なんて言ってくれたのだろう?
頬赤らめたまま首傾げた周太に、母は教えてくれた。

「とても上品で、きれいな息子さんですね。優しい心が現れた、良いお茶でした。そんなふうに仰ってくださったの。
だから、お母さんは遠慮なく自慢しました。主人に似て上品できれいな自慢の息子です、そう言ってお母さん、えばっちゃったわ」

黒目がちの瞳を愉快に笑ませて明るく言ってくれる。
そんなふうに堂々と息子を誇ってくれる想いが嬉しい、母への感謝が心に温かい。
けれど、さすがに恥ずかしくて頬から額まで熱が昇ってしまう。

「はずかしいな、…でも、ありがとう、お母さん、」
「ほんとうのこと、言っただけよ?」

やさしい母の笑顔が誇らしげに明るい。
こんな顔が見られて良かった、嬉しい想いに微笑みながら周太は母に詫びた。

「ね、お母さん?本当は今日って、午後から仕事の予定だったよね?でも午前中に変えてくれて…ごめんね、」
「あら、そんなこと大丈夫よ?仕事が終われば良いんだし、予定より早く出来て良かったのよ。さてと、」

きれいに微笑んで茶碗を手に立つと、母は水屋へと運んでくれた。
周太も自分の茶碗を手に付いて行くと、きれいに茶碗を清めてくれながら母は悪戯っ子に微笑んだ。

「お母さん、これから2泊3日の旅に出るからね?」
「え、」

意外な母の発言に驚いて周太は訊きかえした。
また母はどこかに行ってしまう?寂しさに見つめた先できれいに母は微笑んだ。

「いつものお友達とね、骨休めの湯治に行くの。英二くんが家に居てくれて、ちょうど周もお休みでしょう?
こんな機会もなかなか無いから、遊びに行かせてほしいのよ?お彼岸のお墓参りまでには帰ってくるから、許してくれる?」

母の言う通り、数日を続けて留守番がいる機会は貴重だろう。
きっと母は英二が気兼ねなく過ごせるよう気遣ってもくれている、それが解かるだけに断れない。
それでも大好きな母と過ごせると思って帰ってきたから、寂しい気持ちがすこし拗ねた言葉になった。

「でも、お母さんにスイートピー、せっかく買ってきたのに、」
「嬉しかったわ、お花。ありがとうね、周?だからさっき、ほら、」

微笑んで母はポケットから携帯電話を出してくれる。
開かれた画面を見ると、可憐な花の姿がきれいに映っていた。

「あのスイートピーだね?」
「そうよ、嬉しかったからね、すぐ撮っておいたの。お友達に、うんと自慢させて貰うね?」

こんなふうに母は、いつも周太の想いを受けとめてくれる。
この母の子で自分は幸せだな?いつもこんな時は母への感謝が温かい。
いまは素直に送りだして、母が愉しい時間を過ごせるようにしよう。そんな想いに周太は微笑んだ。

「ん、自慢してきて?…気をつけて行ってきてね、お彼岸のお昼は、一緒に食べてね?」
「うん、楽しみにしてるね、」

そんな会話に笑いあってから、母は旅行鞄を持って玄関先に立った。
周太も草履ばきで庭におりると、ふたり花を楽しみながら門まで一緒に歩いていく。
ふるい門の前でふりかえると、母は彼岸桜の梢に目を細め微笑んだ。

「今年もまた、この花が咲いたね?…もう14年。あのときは、お父さんも一緒にこうして見たね?」
「…あ、」

14年前の今頃に、父と母とこの桜を見ながら茶を点てた。
あのときの幸せな記憶がゆるやかに、心を温めて蘇えっていく。

「あのときも…桜餅、だった?」
「そうね、桜餅でお茶を点てたね?それからココアを飲んで、」

楽しい記憶の甘い香がやさしい、幸せな父の笑顔が懐かしい。
ふっと瞳に昇った熱が素直にこぼれて、周太は母に笑いかけた。

「ね、お母さん?…今日も、お父さんは一緒にお点法、してくれたよね、」
「ええ、きっと一緒だったわ。嬉しいね?」

そう言って笑った母の笑顔は、薄紅の花翳にきれいだった。

茶釜を水屋に下げて炉を閉じると、門の軋む音が立った。
きっとそう。そんな予想に微笑んで、玄関ホールへと扉を開く。
かつんかつん、石畳踏むソールの音が嬉しい。嬉しい想いに草履を履いて三和土に降りた。
そして玄関扉の鍵ひらかれる音に、周太は開く扉を見あげた。

「周太、」

きれいな笑顔が扉から現れて、すこし驚いて微笑んでくれる。
この笑顔が幸せで、そっと周太は抱きついた。

「おかえりなさい、英二、…待ってたよ?」

抱きついた懐の、深い森おもわす香が慕わしい。
頬ふれる愛するひとの香が幸せで、この温もりがもう懐かしい。
ほんの数時間だけ、この胸から離れていた。それなのに今もう懐かしくて寂しかったと思わされる。
何時の間に自分はこんなにも、寂しがりになったのだろう?そう見上げた先で幸せな笑顔が咲いてくれた。

「周太、ただいま。逢いたくて、急いで帰ってきたよ?」

綺麗な低い声が微笑んで、やさしい唇がキスでふれてくれる。
ふれる唇のやわらかな想い受けとめながら、安堵と幸福に周太は微笑んだ。
ふれるだけの優しいキスから、ゆっくり離れると切長い目が瞳のぞきこんで笑ってくれた。

「周太、オレンジのケーキを買ってきたんだ。今夜のデザートになるかな、」

きれいな白い箱を示して笑ってくれる。
この箱は、ちいさい頃から好きな洋菓子店のもの。この心遣いが嬉しくて周太はきれいに笑った。

「ん、ありがとう…このお店、覚えててくれたんだ?」
「うん、同じ名前だな?って思ってさ、覗いてみたら同じケーキがあったから、」

話しながら靴を脱いで、一緒にリビングへと入って行く。
ブラックミリタリーコートを脱ぎながら、周太に笑いかけて英二は訊いてくれた。

「お母さん、もう出掛けたんだ?」
「ん、さっき…英二は、知っていた?お母さん、旅行に行くって、」

昨日の母は休日だった。
きっと話もゆっくり出来ただろう、すこし首傾げた周太に英二は教えてくれた。

「うん、昨日から楽しみにしていたんだ、お母さん。でも、周太に怒られるかな?って心配してたよ、」
「…あ、そんなこと、言ってたんだ?…恥ずかしいな、」
「恥ずかしくないよ、周太?それだけ周太が、お母さんを大切にしているからだろ?」

やっぱり母はお見通し。いつもながら聡明な母の理解が嬉しいけれど、気恥ずかしい。
こんな親離れできない子供っぽい息子を、母は困っているかもしれない?
この想いからも、きちんと3日間を親離れして暮らしたい。
小さな覚悟に微笑んで周太は、愛するひとに笑いかけた。

「ありがとう、英二。…英二のこともね、すごく大切だよ?母と比べられない位に、」

きれいな笑顔が華やいで、真直ぐ周太を見つめてくれる。
長い腕が淡青の肩をくるんで抱きよせて、きれいな切長い目が周太に微笑んだ。

「うれしいよ、周太?…俺はね、いちばん周太が大切だ、なによりもね、」

言葉を告げながら頼もしい腕に力こめられる。
衣を透かす温もりが幸せで嬉しくて、けれど気恥ずかしい。
気恥ずかしさに襟元すぎて熱昇るのを感じながら、そっと周太は微笑んだ。

「ん、…いちばん、うれしいな?俺もね、…恋して、愛しているのは…英二だけだよ?」
「ありがとう、嬉しいな…そして困るよ、周太」

困ったような綺麗な笑顔が、そっと近寄せられてくる。
素直に上向けたままの頬に吐息がふれる、そして静かに唇があまやかな温もりにふさがれた。
ふれるキスが温かい、やさしい想いと熱がこぼれ贈られる。
黄昏しのばせる陽がふるリビングで、幸せなキスに周太は微笑んだ。

「ね、英二?夕飯、何時にする?…なにが食べたいとか、あるかな?献立次第で、買物、行くけど、」
「そうだな、今夜はゆっくり一緒に酒を飲みたいな。それに合うもの、ってお願いできる?」
「ん、できるよ?…お酒は、なに飲む?それに合わせて、献立考えるけど、」

英二だとビールと日本酒かな?
いつものパターンを考えながら見つめた先で、きれいな笑顔が応えてくれた。

「たまには周太、ワインとか飲んでみる?甘めのなら周太でも、飲みやすいと思うけど、」
「ん、英二が選んでくれるんなら、…じゃあ買い物、行った方が良いね?」
「そうだね。でも無理しないでいいから、周太?疲れただろ、今日は、」
「平気、さっき、ひるねしたからだいじょうぶ…だよ?」

ありふれた会話、けれど心が弾んでしまう。
だって今から3日を共に生活できる、ふたりきり2晩を一緒に過ごす。
こんなふうに、本当に2人きり数日を過ごすのは初めてのこと。そう想うと嬉しくて、面映ゆい幸せが温かい。

…この嬉しい気持ちだけ、見つめて。3日を過ごせたらいいな?

この先のことも今は考えないで「今」与えられた幸せに笑っていたい。
この幸せの喜びを見つめていたら、母が離れていく寂しさも超えられそう。
この想い素直に微笑んだ周太に、きれいな笑顔が言ってくれた。

「こんな会話、ほんとうに夫婦みたいだね、周太?」

ほんとうに夫婦みたい。

…恥ずかしい、けど、すごくうれしい

もう、うなじは今、真赤になっているだろう。
いま着物で衿もとから真赤な肌が見えてしまう、その肌に視線が落とされていく。
くれた言葉が幸せで嬉しい、けれど想い露にする肌が気恥ずかしい。
すこし俯いたままでいる周太を、抱きしめて英二が笑ってくれた。

「はにかんでるんだ、周太?ほんと可愛いな、俺の花嫁さんは…困るよ、」

最後の言葉はつぶやくように、うなじへのキスに零された。
ただでさえ熱い首筋にまた熱が昇ってしまう、恥ずかしくて熱くて周太は訴えた。

「あの、英二…あんまりまっかになるとこまるから…かいものいけなくなるから…ね?」
「周太、俺の方がいま、困ってるから…可愛すぎるよ、周太、」

首筋にキスふれたまま、ふわり体が抱き上げられた。
さらり袖がひるがえる、袴姿を抱き上げたままソファに座って幸せに英二が微笑んだ。

「着物、本当に似合うね、周太?きれいで可愛い、…父さんにも言われたよ、俺、」
「お父さんに?…」
「うん、きれいな人だな、大事にしろよ。そう言ってくれたよ?近々、ぜひ飲みに行こうだってさ、」
「ん、そうなの?…はずかしいな、」

相槌を打ちながらも、ようやく首筋から離れたキスの跡が気になってしまう。
それに膝に抱えられたまま話しているのも気恥ずかしい、なんだか色々と困ってしまう。
けれど、幸せそうな笑顔に瞳覗きこまれて、あんまり幸せそうな様子に何も言えない。
頬まで熱を感じながらも、今こうして寄せてくれる英二の想いに周太はただ微笑んだ。



買物から戻ると、庭に薄暮が降りていた。
ショールカラーコートの短い裾が夕風に靡いて、頬ふれる冷気に夜の訪れが降ってくる。
買物を詰めたエコバッグを持ったまま、やさしい薄紫の闇そまる庭にふたり佇んだ。

「夕暮れの桜も、きれいだな…幻想的、っていうのかな、」

綺麗な低い声が夜風にとけていく。
見あげる彼岸桜の薄紅が、あわい薄墨ふる色にどこか光っている。
いつも夜の桜を見るたびに、不思議に感じていたことを英二も感じてくれる。
こんな一緒が嬉しいな?嬉しさに周太は微笑んだ。

「ん、かみさまの木だな、って感じがする…桜って、不思議な木だね?」

―…山桜のドリアード、

ふっと透明なテノールが心響いて、周太は山桜の木を見た。
まだ花蕾のひらかない木は大らかに夕闇の空を抱いている、この木にふれる記憶と想いに小さなため息を吐いた。
この山桜の木と同じように、奥多摩の森深くに佇む不思議な山桜の巨樹。
あの樹の精が周太の真実の姿、そう光一は信じて「山桜のドリアード」と秘密の名前をくれた。
あの名前に籠る「山の秘密」が自分の初恋、それを心から大切に想っている。それでも自分は今、隣に立つ人の懐を選んでいたい。

…ごめんなさい、光一

あなたが好き、初めてそう告げた9歳の想いは今も生きている。
この初恋は生涯の宝物の1つ、この恋の相手である光一は心から大切なひと。
けれど、いつも見つめて抱きしめられたい相手は、この今も隣に佇んでくれる唯ひとりしかいない。
今日の朝のように、体を捧げて愛されたいと願うのは、このひとしか自分にはいない。このことを光一に告げた。
けれど、とっくに心は決まっていると光一に告げられた。
あの誓約のような言葉たちは、この今も山桜を透かして浮び出す。

―…君を愛している、君の笑顔が見れるなら何だってするよ?だから、君から離れろと言う願いだけは聴かない
 もう忘れられたくない。たとえ独占め出来ないと解っていても、俺はもう君から離れない。あの14年間の孤独は繰り返さない

この言葉の通りに、光一は英二のアンザイレンパートナーとして傍にいる。
いちばんの友人として私的に、警視庁山岳会のエースとセカンドとして公的に、自他ともに認められるパートナー。
こんなふうに周太と全く違う方法で、光一は英二のパートナーとして堂々と社会的にも認められた立場を手に入れた。
そんな光一は英二を心から大切に想っている。
たぶん周太に寄せる想いと同じくらい強い想いに英二を見ているだろう。
今回の救助もほんとうは、雪崩の多発帯に踏みこんでいく危険なものだった。
それでも光一は迷わず英二の為に危険を駆けぬけ救い出して、周到な手回しに英二の立場まで守り抜いている。
そうして英二を支え守りながら光一は、周太のことも大切にしようとしてくれる。

英二の母と向き合ったときも、周太の頬を叩こうとした手を掴んでくれた。
英二が昏睡状態の夜も、何度も起きては付添を交替しようと言ってくれた。
英二の精密検査を待つ不安な時間も、美しい雪の梅林を見せて和ませようとしてくれた。
そして谷川岳の英二の写真をくれて「こういう貌の男は簡単に死なないよ?」と笑って励ましてくれた。

こんなふうに。いつも光一は英二の隣で周太を守ってくれる。ときおり転がされて困ってしまう事もあるけれど。
そんなふうに一途な光一の想いは、正直に嬉しい、けれど応えられない想いと英二への想いに哀しくなる。
それでも自分には選択権は欠片も無い、たとえ拒んでも光一が離れるわけではないと思い知らされた。
だから自分も覚悟していくだけ、想いと一緒に周太は山桜に微笑んだ。

…正直に、話して、行動するだけ。遠慮も嘘も通用なんかしない、ただ正直に、この想いと心のままにあればいい

だから今こうして自分は、求め愛する想いのまま英二の隣にいる。
そして今日は英二の父に、正直な想いのまま約束をした。この約束は「絶対の約束」になるだろう。
この約束に想うまま正直に周太は、隣の端正な唇にそっとキスでふれた。

「…周太?」

ほら、不意打ち驚いたでしょう?
でも嬉しいでしょう、こんな不意打ちは?
そんな想いに微笑んだ先で、幸せな笑顔が華やいでくれる。

「キス、嬉しいよ?おいで、」

長い腕が花のした惹きよせてくれる。
そうして今度は周太の唇に、やさしいキスが贈られた。



早めに夕食の支度を整えて、ゆっくり楽しむ食卓にふたり差向いに座った。
英二が選んだ甘めの白ワインには、こういう味が合うかな?そう考えながら献立を組んである。
いくらか食事に箸をつけた後、英二は冷やしたボトルから器用にコルクを抜いてくれた。
グラスに注がれる酒は透明で、ごくあわい薄萌黄が温かな灯ときれいに揺れていく。
きれいだな?そう見つめていると長い指が、グラスを周太の食膳に置いてくれた。

「周太、ワインは飲んだことある?」
「ん、母が飲むときにね、お相伴したことはあるよ?…少しだけど、」

母が飲むのは辛口の白が多くて、甘い酒なら飲める程度の周太には「大人の味だな」という印象がある。
ああいうものを自然に飲んで微笑んでいる母は、息子の目から見ても素敵だなと想えてしまう。

…お父さんも、そう想うでしょ?

心に父へ問いかけながら周太は、ワイングラスを覗きこんだ。
透明な酒からは爽やかな香が華やかに薫ってくる。この香は知っているな?
どこかにある記憶の香に首傾げこむ周太に、きれいな低い声が教えてくれた。

「マスカットで作った酒だよ、香が良いだろ?」
「…あ、そうか、マスカット…」

納得に微笑んで、グラスに口をつけてみる。
ふわり、あまく華やかな香がひろがって周太は微笑んだ。

「ん、おいしいな…これだったら、飲めそうだよ?ありがとう、英二」
「気に入ってくれたんだ、周太。良かった、」

嬉しそうに笑って英二もグラスに口付けてくれる。
薄萌黄の光ゆれるグラスには、白く長い指が綺麗にしっくり馴染んで美しい。
ダイニング照らす和やかなランプの許、生まれながらの育ち良さが端正な貌に華やいでいる。

…こういうの王子さまみたいっていうのかな?

クリスタルグラスが様になる婚約者に、ぼうっと周太は見惚れた。
いつもの日本酒やビールとは違う雰囲気にすこし途惑う、華やかな雰囲気の酒だからだろうか?

…こういう感じ、英二は似あうな、とても…

今日初めて会った英二の父も、英二の姉の英理も、華やいだ雰囲気が似あう。
そして吉村医師の病院で会った英二の母は、とても華美が似合うひとだった。
そういう家庭の人と自分は、婚約をしている。

…ほんとうにだいじょうぶかな?

すこし心配になって周太は、グラスの酒に考え込んだ。
自分は古風に育てられて華美な世界を知らない、だから不安にもなってしまう。
けれどよく考えたら、目の前に座っている自分の婚約者は「華麗」を絵に描いたような美貌でいる。
そのことに今更改めて気がついて、自分の迂闊さが恥ずかしい。
でも、こんなにまで英二は警察学校時代、華やいだ雰囲気だったろうか?

…あ、髪が伸びたから、かな?

学校時代は短く刈り上げて、前髪もこんなに長くなかった。
けれど今の英二は自然な感じに短く切って、前髪は長めになっている。
そして光一も同じように警察官らしさは保ちながら適度に長めにカットしてある。
どうしても山ヤは寒冷地に行くことが多い、だから防寒もあって髪もそんなに短くしないと聴いた。

…救助隊の人たちも、皆さん、こんな感じだもんね?あ、でも藤岡は短いな?

同期の藤岡も山岳救助隊員だけれど、地域の柔道指導も担当している。
そのために髪を短く切ってあるのだろうな?
こんなふうに恋人の髪型を考え込んでいたら、きれいな低い声が気がついてくれた。

「ね、周太?さっきから黙っているけれど、大丈夫?酔っぱらってない?」
「あ、…ん、大丈夫だよ、ごめんね?」

ずっと自分が黙り込んでいたことに気がついて、周太は頬まで熱くなった。
こんなふうに1つのことに集中すると周囲を忘れてしまう、この癖はこんな時に特に恥ずかしい。
申し訳なさと恥ずかしさに困っていると、英二が笑いかけてくれた。

「謝らないで?周太。俺の前ではリラックスして、自然にしていてほしいよ?だから考え事も好きなだけ、自由にしてよ?」

やさしい英二、いつもこんなふうに受けとめてくれる。
この丸ごとの受容れが嬉しくて、全てを委ねても安心できてしまう。
やさしい気遣いが嬉しい、けれど申し訳なさに周太は素直に謝った。

「ありがとう、英二。でも、悪いよ?こんな、黙っちゃうのは…ね?」
「いいんだよ、周太。ほんとに無理はしないでほしいよ?」

ほんとうに良いんだよ?
そう目でも言ってくれながら、きれいな低い声が幸せそうに告げてくれた。

「だってね周太、いつか夫婦になるんだよ?そうしたら、毎日ずっと一緒にいるんだ。
その時に無理したら、お互いに疲れちゃうだろ?だから今から練習だと思って、リラックスしてほしいよ。自由にして?」

こんなふうに言われたら幸せだと想う。
ほんとうに幸せで、この嬉しい感謝の気持ちを英二に伝えたい。
どうしたら正直な想いを一番喜んでもらえるように伝えられる?
すこし考えて、周太は微笑んで席を立った。

「周太、どうしたの?」

切長い目が見上げて微笑みかけてくれる。
こんな食事中に立つなんて本当は行儀が悪い、けれど今この想いを伝えたい。
やさしい微笑が嬉しい、嬉しいまま周太は大好きな目を覗きこんだ。

「ありがとう、英二、」

きれいに微笑んで周太は、大好きな人にキスをした。

…きっと、幸せになれるね?

結婚する前から「正直に無理せず一緒にいよう、」と言ってくれるひと。
こんな人とならきっと、心から幸せを見つけられるはず。
幸せに素直な想いのまま微笑んで、周太は気持ちを口にした。

「英二のおかげでね、幸せだよ?…ありがとう、」

告げて微笑んで、気恥ずかしさが頬染めていく。
こんな気恥ずかしさも幸せだな?そんな想いの真ん中で、きれいな笑顔がひとつ華やいだ。

「周太、俺こそ幸せだよ?君の隣では、たくさん幸せが見つけられるんだ、俺は。…おいで、」

やさしく掌をとって惹きこんで、肩を抱いてくれる。
そして今度は英二から、やさしい幸せなキスが周太に贈られた。

英二が風呂から上がると、周太は包帯を巻かせてもらった。
一昨日、吉村医師の長男である雅人先生から「あと3日は包帯で保護」と言われている。
だから明後日の朝まで、額と左足首に包帯を施すのを周太にさせてほしいと申し出た。
こうだよね?と頭の中のテキストを眺めながら処置していく周太に、英二は嬉しそうに微笑んだ。

「周太、すごく上手だね?あのテキスト、何回か読んだんだろ、」
「ん、そう…きちんと覚えたかったから、ね?」

気恥ずかしいな?つい羞みながら周太は頷いた。
周太が何度も読んだ救急法のテキストは、英二に選んでもらったものになる。
いつも山岳レスキューの現場に立つ英二の世界をすこしでも知りたい、そんな動機で最初は読み始めた。
そして周太は気がついた。父がいた危険な軌跡に立つときは、この知識が心身両面の無事を保つために、きっと役立つ。
だから尚更に一生懸命に読みこんで、今は文章も図も頭にきちんと取りこまれている。

…絶対に、無事に終えるんだ、お父さんの軌跡を追うことを…そして約束を叶えたい、絶対に

父が立っていた世界で最も怖い「精神破綻」という事実。
たしかに大切で誰かが担わなくてはならない任務が父の世界、けれど任務の重さと罪悪感に心病む人も多い。
もとより警察官の死亡原因には上位に「自殺」、その大部分がこの任務が原因かもしれない?
この現実を知ったとき、本当は怖かった。
“ほんとうの素顔は泣き虫で弱虫の自分に耐えられるのか?”
この疑問と恐ろしい未来予想が怖かった、けれど今はもう大丈夫だと信じられる。

…きっとね、この知識が役に立つ…英二の世界を一緒に見つめている、そう想えるから、大丈夫

どこに自分が立とうとも。
英二が生きるレスキューの世界を共に抱いて立てるなら、きっと希望を見つめて生きられる。
そう信じているから今はもう、前よりは怖くない。
それに今だって、こうして愛するひとの為に役立てられる。この喜びが温かい。

「ありがとう、周太。綺麗に出来てる、周太もレスキューになれるね?」
「プロの人に、恥ずかしいな?…でも、ありがとう。自信つくよ?」

ほら、褒められて嬉しい。
この嬉しい気持ちをずっと忘れない、そうしたら辛い現場でも希望の記憶は温かく心癒してくれるから。
この希望をくれる大好きなひとが愛おしい、この幸せに心から周太は微笑んだ。

「テラスから、桜見る?…彼岸桜の夜も、きれいだから、」
「楽しそうだな、いいね。だったら周太、先に風呂を済ませておいで?そのほうが、ゆっくり出来るから、」

やさしい笑顔が提案してくれる。
その提案に気恥ずかしさを感じながらも、素直に周太は頷いた。

「ん、そうさせてもらうね?…あ、ワイン冷えてるから、テラスに運ぶね、」

酒の強い英二は2本ワインを買ってある。
この2本目がまだ半分ほど残っているから、花見の酒にいいだろうな?
そう考えてリビングから台所に行きかけた周太を、そっと英二は抱きとめてくれた。

「ありがとう、自分でするから大丈夫だよ?それより周太、早く風呂を済ませておいで?」
「でも、悪いから…」

英二の左足首を見ながら周太は遠慮がちに言った。
もう整復された脱臼は問題なく回復している、けれどまだ包帯を巻いて大事をとりたい時でいる。
なるべく負担をかけたくないな、そう想って見上げた英二の貌がすこし頬赤らめ笑ってくれた。

「だって周太、今夜も白い浴衣、着てくれるんだろ?あの姿、好きなんだ。早く見せてほしいから、さ」

言いながら白皙の頬が桜いろに染まっている。
こんなふうに顔を赤らめることは、以前の英二には無かった。
けれど2月の奥多摩鉄道の夜から時おり、こんな貌を見せてくれる。
この顔がなんだか自分には嬉しい、気恥ずかしさと一緒に周太は素直に笑いかけた。

「ありがとう、…じゃあ、おふろ、行ってくるね?」
「うん、今日は緊張して疲れただろうから、ゆっくり温まっておいで、」

やさしく笑って桜いろの貌が送りだしてくれた。
きっと英二は今日の対面での緊張を気遣って、すこしでも早く疲れをとらせようと想ってくれている。
こういう細やかな優しさが嬉しい。

…ありがとう、英二…こういうところ、すごく好きで…

この想いにどうしたら自分は応えられる?
優しい婚約者の想いを感謝しながら周太は、ゆるりと湯の時間を過ごした。
白と青い模様のタイルが美しい浴室はゆったりと造られて、のんびり湯を楽しむのにちょうどいい。
髪から全身を洗って湯に浸かると、ほっと今日の緊張がほぐれて湯へと消えていく。
のんびりした気持ちにふと見た肌が、湯を透かしても赤い花があざやいでいる。

「まだ、消えていない…」

つぶやいた言葉に首筋が熱くなっていく。
この赤い花の名残が気恥ずかしい、この肌に浮かぶ花模様を刻んだ唇が想われてしまう。
この10時間ほど前、遅い朝の時間にくるまれた香と温もりが肌からうかびだす。

―…くびすじには痕をつけないから、キスさせて?

切ない声と視線に絡み取られるまま、素直に自分は頷いた。
午後には英二の父と姉を迎える茶を点てる、そのため袴姿になるから衿もとが気になってしまう。
そんな心配があったけれど、英二の気遣いをこめた優しい求めに応えたかった。

「うれしかった、な?」

やさしい婚約者の想いが嬉しい、だから尚更に応えたくて明るい光にも肌をさらしてしまった。
でもやっぱり、はしたなかったかな?お客様を迎える前だったのに?
そんな心配を今更に想って湯のなか、ひとり周太は顔を赤らめた。

「…奥ゆかしい、って英二のお父さんは言ってくれたのに、ね?」

そんな印象を持ってもらえて嬉しい、けれど本当はこんなだったことが恥ずかしい。
それでも、温かな腕にくるまれて懐にあまえた真昼の夢は、幸せだった。
だからどうしても、あの時間に身も心も委ねたことを後悔できない。

…夜も、きっと、

そっと心に想って周太は吐息をこぼした。
きっとそうなるだろう、そんな確信がずっともう、茶の席ですら感じている。
袴姿で点法する周太を見てくれる英二の眼差しが、いつもどおり穏やかで、けれど熱が強かった。
この熱は今朝、ミモザの花房の下で迎えてくれた時からずっと、切長い目に切ない。

「…どうしたの、かな…英二?…」

求められて嬉しい、けれど不思議で考えてしまう。
そんな不思議を想いながら周太は、静かに湯から上がった。
きれいに体を拭って、洗面室にもある姿見の前に立ち浴衣を着つけていく。
白い衣をはおる肌は桜のよう熱って、赤い花の痕もあわく浮んでしまう。この肌が面映ゆい。
首筋に熱のぼせながら、きちんと白い衿元をつめて着ると淡い藤色の兵児帯を締めた。

「きれいに、着れたかな?」

姿見に微笑んで周太は洗面室の扉を開いた。
おだやかな静謐が廊下を夜にくるんでいる、スリッパの音静かに歩いて和室の扉に立った。
把手に掌を掛けようとして、不意に扉が開いて長身のシャツ姿が現れた。

「やっぱり周太だった、」

嬉しそうに微笑んで、やさしく抱きしめてくれる。
突然のことに驚きながら周太は、幸せな笑顔を見上げた。

「どうしたの、英二?…足音、聴こえたの?」
「うん、静かだったけれど聞えた…すごく綺麗だ、周太」

ホールの灯に照らされる姿を、切長い目が見つめてくれる。
前のときは紫紺の兵児帯だったから、今夜は藤色を締めてみた。
どちらのほうが好みかな?褒め言葉に頬赤らめながら周太は訊いてみた。

「ありがとう、…ね、このあいだと帯の色、替えたんだけど…どちらが好き?」

質問に考えるよう、すこし首傾げてくれる。
けれどすぐ微笑んで、きれいな低い声が言ってくれた。

「今夜の藤色の方が、俺は好きだな。あわい色が似あうね、周太は」
「ほんと?…よかった、」

気に入ってもらえて嬉しい。
前結びした帯をすこし直しながら、嬉しい気持ちに羞んで周太は微笑んだ。
そんな周太を覗きこんで、優しいキスでふれて英二は切ない目で笑ってくれた。

「きれいだ、周太は…おいで、」

掌をとって、和室と続き間のテラスへと連れて行ってくれる。
大きな洋窓の前に据えた籐椅子に座ると、グラスにワインを注いでくれた。

「湯上りだと酔いが回りやすいから、ゆっくり飲んで?」
「ん、ありがとう…気をつけるね、」

素直にグラスへと口つけて、ひとくち飲むとほっと寛ぎが心ほどいてくれる。
テラスのフロアーランプだけ灯した、おだやかな空間は静かな夜がやさしい。
冷たいグラスと眺めた庭は、月明かりに咲く薄紅の花と高潔に白い花姿が美しかった。

「白木蓮も、きれい…」

白木蓮は、この愛するひとの面影映して見つめる花。
真白に高雅な花の姿は華やかでも潔くて、すらり高い樹形は強靭でも優美に佇んでいる。
やっぱり似ている、そして愛しい花木だと微笑んでしまう。
心から愛しい花の夜に、周太は微笑んだ。




(to be continued)

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