Of moral evil and of good,
kenshi―周太24歳4月
第86話 建巳 act.24 another,side story「陽はまた昇る」
ほんの少し前、あなたはいた。
この新宿の街、同じ店で食事して、同じ道を歩いている。
けれど、それでも違う時間。
「周太、さっき買った雑誌また貸すからな?」
バリトン軽やかに笑ってくれる、親しい、けれど「違う」声。
それでも温かな笑顔に微笑んだ。
「ん、ありがとう…賢弥にも僕の貸すよ?」
「やった、ありがと。あっちのコーナーも見るだろ?」
チタンフレームの眼鏡ごし、明朗な瞳くったくない。
明るい敏い友だちと歩く書店、ならんだ雑誌に書籍に息つける。
インク新たな渋い甘い匂い、すこし古い懐かしい紙の香、ずっと親しんだ本の空気。
書架ごと本選ぶ気配も懐かしくて寛げる、たとえば今、あなたのこと考えていても。
―英二もよく来てたよね、この本屋さん…一緒にも来たもの、
ほら?あの窓辺の書棚にあなたといた。
あのとき自分の手は届かなくて、あなたがとってくれた一冊。
『どの本?』
きれいな低い声が訊いてくれた、本を渡してくれた長い指した手。
白皙なめらかに筋張って美しかった、あの手は今、山の傷跡いくつ刻まれたのだろう?
―あのころは湯原って呼んでくれてたね…僕も宮田って呼んで、
湯原、原書で読むんだ。
そんなふう呼びかけながら手渡してくれた、あの本は今、屋根裏部屋の書棚にある。
きっともう手放せない。
「おーい?しゅーうた、」
ぽん、スーツごし肩ひとつ敲かれて瞳ひとつ瞬く。
視界すぐチタンフレーム映して、眼鏡ごし友だちが笑った。
「あんまりボンヤリしてると心配されんぞ?さっきから店員さんが見てんだよ、」
「え、」
言われた視界の端、制服のエプロンかけた女性がこちら見ている。
気がついて恥ずかしくて、もう首すじ熱い。
「ぼく…すごく変なひとになってたよね?ごめんなさい、」
どれくらい立ち尽くしていたのだろう?
こんなこと恥ずかしい、きっと賢弥も困ったろう?
ただ申し訳なくて頭下げて、けれど友だちは笑ってくれた。
「そんなに変でもないよ?どれにするかなーって迷ってるようにも見えるしさ、」
そんなに「変じゃない」こんなふう言葉でも受けとめられて、そっと温かい。
こういうところ好きだな?素直な想い微笑んで、一冊のペーパーバックに手を伸ばした。
「これ買ってくね、」
「ワーズワースだ、田嶋先生も好きだよな、」
闊達な瞳すぐ明るんで、陽気な向学心が弾みだす。
その眼ざしに嬉しくて、心そのまま笑いかけた。
「僕の父も大好きだったんだ、」
ワーズワースの一冊は、父は遺してくれた。
William Wordsworth
自然を謳ったイギリスの詩人、その世界を父は愛した。
そうして英文学の世界に進学して、けれど選べなかった学問の道。
それでも捨てられなくて口遊んでいた聲は、きれいで、澄んで温かだった。
「邦題だと『発想の転換』っていう詩があってね、たまに口遊んでたりしてたんだ。研究書もあって、」
なぞる記憶のまま声にして、父の時間が懐かしい。
もう還らない時間と声、それでも友だちが訊いてくれた。
「これも貸してくれる?周太が読み終わってから、ゆっくりでいいからさ、」
ほら?理解しようとしてくれる。
この想いも知識も知ろうとして、その明朗な瞳に微笑んだ。
「ん、いいよ、」
「ありがと、」
眼鏡の瞳ほがらかに笑ってくれる。
スーツとブルゾンの肩ならべて歩いて、会計カウンターすぐバリトンが笑った。
「やっぱ俺も同じの買おうかな?在庫あるか訊いてみるよ、」
はずんだ声が闊達に笑ってくれる。
その言葉なんだか嬉しくて、笑いかけた一冊に言われた。
「あら?また出たのね、」
会計カウンターごし、エプロン姿が首すこし傾げている。
その言葉につい訊き返した。
「え?」
「あ、すみません。その本さっきも売れたばかりなんです、」
微笑んで、お会計しますねとレジスター打ってくれる。
示された金額をトレーに差しだすと、まとめ髪きれいな笑顔に訊かれた。
「もしかして今、ワーズワースが流行ってるのかしら?ドラマやマンガから流行ったりするでしょう?」
「いえ…僕はそういうのではないのですけど、」
答えながら財布をしまう隣、友だちが検索システムに指なぞらせる。
その横顔ふり向いて書店員に尋ねた。
「俺も流行りだから注文するわけじゃないんですけど、さっきも若い人が買ったんですか?」
「そうなんです、あなた達より少し年上かもしれないけど、三十にはなってないんじゃないかしら?」
答えながらペーパーバックすこし見て、すぐ紙袋に入れてくれる。
どこか弾んだ仕草と言葉に、明朗なバリトンが訊いた。
「そんなに憶えているなんて、印象的な人だったんですね、」
「それがね、すっごくイケメンだったのよ?」
声はずんで応えてくれる、その言葉につい笑ってしまう。
なんだか楽しいな?そんな視線つい見合わせながら、友だちが言った。
「ああ、そういう?」
「女性店員には心の癒しなんですよ、」
仕方ないでしょうと店員も笑って、包んだ紙袋を手渡してくれる。
受けとる隣、人懐っこい笑顔が尋ねた。
「そんなにカッコイイひとだったんですか?」
「それはもう、とにかくキレイだったのよ。顔もスタイルも抜群なんだけど、それだけじゃないっていうか?」
楽しげに笑って教えてくれる、その言葉そっと鼓動ふれていく。
かすかな予兆とペーパーバック抱きしめる前、彼女は言った。
「端整って言葉あるでしょう?姿勢というか、オーラみたいなものから惹きこまれてしまって。カリスマっていうのかしら?」
そんなひと、僕は知っている。
なにより同じ本、この詩人のペーパーバック買うのなら?
「あの…そのひと、髪が濃い茶色でしたか?」
ほら?唇もう尋ねてしまう。
あわく鼓動ふるえる先、書店員が肯いた。
「そうです、もしかしてお知り合い?」
「かもしれないです、」
肯定する鼓動ゆるやかに強くなる。
あなたは来たのだろうか、今日ここに?
―ラーメン屋さんにも来たんだもの、ここも不思議じゃない…ね、
同じ店で食事して、同じ店で同じ本を買う。
それでも違う時間ゆく先、書店員が口ひらいた。
「あのね、彼、なんか泣いてたみたいだったのよ?」
どうして?
「え…?」
泣いていた、あなたが?
解らなくて見つめた真中、まとめ髪すこし傾け微笑んだ。
「おせっかい申し訳ありません、でも、あんまり静かに綺麗に泣いていたからスタッフで話していたんです。どうしたのかなって、」
心配していた、そんな瞳が見つめてくれる。
ただ言葉そのまま受けとめて、頭そっと下げた。
「ご心配かけてすみません、あの、ありがとうございます、」
紙袋ひとつ抱きしめて、書架はざま歩きだす。
エスカレーター降りて一歩、友だちが尋ねた。
「周太、ラーメン屋のオヤジさんが言ってたヒト?」
訊いてくれる眼ざし真直ぐに温かい。
この声には逸らしたくなくて、ありのまま肯いた。
「そうかもしれない、」
「そっか、」
ただ微笑んで明朗な瞳が歩きだす。
ふたり並んで歩く街角の道、かすかな香あわく深く花びら舞った。
「お、御苑の桜かな?」
朗らかな声が花びら舞う、その横顔やわらかに明るい。
チタンフレーム光る午後の陽ざし、闊達な瞳が周太に笑った。
「周太、俺たちは自由だろ?」
明るいバリトン笑って、ぽん、肩そっと敲かれる。
スーツ越し掌ひとつ大らかに温かで、そのままの笑顔ほころんだ。
「やりたいこと言いたいこと、お互い隠さないでいこうよ?でなきゃ研究パートナーも破綻しちまうって、」
バリトンほがらかに告げてくれる、その瞳まっすぐ明るく温かい。
その大きな掌ぽん、この肩そっと敲いて笑ってくれた。
「だから今も自由にしろよ、俺も自由にするし?」
チタンフレームごし、真直ぐな瞳からり笑ってくれる。
この声そのまま肯いて周太は笑った。
「ありがとう賢弥、あの、明日またね?」
「おう、また明日な、」
大らかな笑顔ほころんで、日焼すこやかな目もと明るい。
この友だちと明日また会える、微笑んで周太は駆けだした。
(to be continued)
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