利根輪太郎は宮田虎之助の気持ちが十分理解できた。
父親に強く反対され、競輪選手になることを断念した。
幼児のころから宮田は父親から虐待されてきた。
心が優しく、身長が150cmに満たない小柄な母親は、身長182cm、体重100㌔の巨体である父親からしばしば乱暴を受けていたのだ。
酒を飲むと不機嫌になるので、6人の兄弟、姉妹は部屋の隅で身を潜めるようにしていた。
「この餓鬼が!」長男の虎之助は父親と視線を合せただけで、理由もなく殴られていた。
虎之助は母親に似て、小柄であったが足だけは速かったので、運動会では何時も注目される存在であった。
昭和8年生まれの虎之助の世代の若者たちの大半は東京志向であった。
当時の取手町には、まだ宿場町の名残がった。
取手に1950年(昭和25年)2月に競輪場できた。
競輪競技を初めて見た17歳になる虎之助は競輪選手に憧れた。
取手中学の同級生の一人が翌年、競輪選手になった。
虎之助は取手第二高等学校へ進学していたが、学業に身が入らなくなる。
「親父、どうかな俺、高校をやめて競輪選手になりたいんだ」
虎之助は恐る恐る父親に聞いてみた。
日本酒を飲んでいた父親は鬼の形相となった。
「なに!高校をやめる!バカたれ!」酒が入っていたトックリを虎之助の頭に向かって投げつけた。
そのトックリは虎之助の眉間を掠め、柱に当たり砕け散った。
「このやろう、競輪選手だと!」フラフラと立ち上がった父親が挑みかかってきた。
高校生になった虎之助は身長162㎝で、体重56㌔、小柄である。
剣道をやっていたが素手であり、巨漢の父親に簡単に馬乗りにされ顔や頭をしたたか殴られた。
そして、虎之助は2度と競輪選手になることを口外しなくなった。
高校を卒業した虎之助は父親の後を継いで農業をするつもりもなかった。
小作農であった宮田家は息子に後をつがせるほど耕作地は広くはなかったのだ。
父親の幸吉は5年後、酒を飲みながら炬燵で亡くなった。
「お父さん、布団で寝なよ。風邪ひくよ」と母親の絹が声をかけたが、トックリを握ったままの姿勢でうつ伏せになっていたのだ。
父親の死さえ願っていた虎之助であったが、父親に死なれると心に空洞ができたような淋しい気持ちとなった。
父親を何かの形で見返そうと思っていたのだが、それを果たせなかったのだ。
虎之助は町工場、不動産屋、納豆屋、植木屋、仏壇屋など知人、友人の縁を頼って職を転々としていた。
東京でタクシーの運転手を3年。
虎之助は利根輪太郎と知り合ったころは、地元取手でタクシーの運転手をしていた。
取手競輪の歴史★「宗教とは―万人に理解できる哲学である」トルストイ
★幸福は、他のどこでもない、自身の胸中にある。
★本当の幸福とは何か。
価値ある人生とはなにか。
★宗教は、理想の高みに向かって、誰もが自分らしく進んでいくことができる、“人生の羅針盤”である。
★「自分の生命の中に、どんな苦難にも負けない仏界がある」
★「信念の人」「努力の人」「忍耐の人」指針を行動の原動力とする。
★日々の活動、生活、人間関係など直面する、具体的な課題への指針を提示する。