狂気すれすれのところにいた歌人 石川啄木

2017年08月07日 12時49分47秒 | 沼田利根の言いたい放題
石川啄木論中村稔著
三浦雅士さん評

狂気すれすれのところにいた歌人。
「啄木ほど誤解されている文学者は稀だろうと私は考えている。私自身、必要に迫られて啄木を読み直す機会をもつまで、彼を誤解していたと思われる」というのだ。
啄木といえば青春を感傷的に歌った歌人と思われているが、違う。
啄木の人生に置いてみると「人生の辛酸を体験してきた成人の読者の鑑賞にたえる作品」であることがわかると著者は言う。
作品のいくつかは、啄木が「狂気とすれすれのところにいた」ことを示すが、そこにこそ真の魅力があるのだ、と。
萩原朔太郎は折口信夫、中原中也にも影響を与えた作品もある。
だが、啄木には狂気の極点での笑いがあるが、朔太郎、折口、中也にはない。
おそらく「人生の辛酸」の程度が違うのだ。
啄木に向けた友人たちに書簡はじめ、妹・光子、宮崎郁雨、金田一京助らの回想、岩城之徳(日本大学)に文学的伝記などは辛辣である。
「啄木は金銭感覚に乏しく、贅沢であり、見栄をはるのが好きであった」とあるが、そいう啄木の生涯が容赦ない筆致で描かれてゆく。
1904年、父が渋民村の宝徳寺の住職を宗費滞納で罷免されたことが啄木の人生を変えたとされるが、主因は前々年の啄木東京滞在時の身をわきまえぬ浪費にあったとした考えられないよいう。
借金に借金を重ねる生き方が確定してしまったのである。
この年、満19歳で結婚。
代用教員になるが翌年、さらに翌1907年には函館移住。
職を求め北海道を転々とした後に上京し、毎日新聞に勤務するのが1909年。
1912年、26歳で死去。
等身大の生々しい啄木の姿は悽愴として胸を打つ。
「狂気とすれすれのところにいた」のは当然だった。
だが、熟慮すれば、狂気すれすれこそ人間の姿。日常茶飯の姿である。
啄木は考える契機に満ちていると思われる。

岩城之徳助教授(日本大学)が、金田一京助さんに挑んだような日本近代文学会の席上。
「岩城先生の態度は金田一さんに対して非礼だな。出よう」先輩の天才・鈴木さんが憤然と席を立った。
2人は二度と日本近代文学会へ顔を出さなくなった。
沼田利根21歳の時であった。
先輩の天才・鈴木さんも沼田自身も「狂気すれすれ」のところにた。