2012年6 月16日 (土曜日)
人生の途次、どのような『色』に染まるかである。
人間は縁など様々ものに影響を受ける存在。
まさに君子危うきに近寄らず
君子危うきに近寄らずとは、学識、教養があり徳がある者は、自分の行動を慎むものだから、危険なところには近づかないということ。
故事ことわざ 格言 座右の銘などは生きる知恵ともなる。
行動の規範でもある。
人の出会いも検証される必要がある。
例えば、夫、愛人、恋人が麻薬常習者であったなら。
あるいは、アルコールやギャンブル依存であったならば、生活は破綻するだろう。
その上、男の理不尽な暴力を伴えば2重苦、3重苦の生活に陥る。
破滅的な人生は、破滅的な人間だけの個人の問題には留まらない。
周囲の人間をも巻き込んでしまうものだ。
芳子の人生の狂いもそのような道を辿って行く。
警察に逮捕された芳子は窃盗罪を、警察官の誘導尋問で認めさせてしまった。
警察が取調べの段階で暴力を振るうこともあるこが、とても信じられなかった。
警察に対する不信感は検察に対する不信感のみならず、裁判所に対する不信感にまで連鎖していく。
「裁判官なら、分かってくれるはず」
芳子は最後の望みを裁判に託していた。
だが、有罪の判決が下ったのだ。
「世の中に『正義』などあるのだろうか?」
芳子は15万円が自分の金だと主張したが、信じてもらえなかった。
芳子が中学を卒業して、定時制高校を卒業するまで働いて貯めた金であった。
それを芳子が働いていた群馬県沼田の郵便局に確認すれば明らかになることであった。
警察は、予断からその確認を怠っていた。
芳子は絶望するとともに、理不尽さを呪った。
初犯であれば執行猶予も付くが、犯行を認めない態度が裏目に出た。
反省しない人間を懲らしめる必要があったのだ。
2012年5 月25日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 10
芳子は警察の取調室で小学校5年生の出来事を突然、脳裏に浮かべた。
芳子は女子生徒の中ではトップの成績であった。
男子生徒の成績トップは片岡勝雄君であり、運動会ではリレーの選手のアンカーを務めて運動会の花型。
貴公子然とした顔立ちで、芳子は密かに憧れを抱いていた。
その片岡の財布がランドセルの中から盗まれたので、教室は騒ぎとなった。
昼休みの時間帯、多くの生徒は校庭で遊んでいて、教室に残っていたのは数人だった。
片岡君は芳子と視線を合わせた瞬間、何を想ったのか芳子の座席の前に足早にやってきた。
「芳子、鞄の中を見させてもらうよ」
芳子はその強引な態度に唖然として言葉を失った。
そして、片岡君に対する憧れの気持ちがいっぺんに萎えていくのを覚えた。
「ひぇー!ぼろっちい、鞄!」
鞄は近所の人から芳子の母親が貰い受けた古い鞄であり、内側にはかなりの綻びがあった。
「片岡君は、こんな男の子だったのだ」
芳子は屈辱に堪えた。
「オイ! 芳子、何を考えているのだ!」
刑事は机を平手でバシッと叩いた。
脇に立っている若い警官は、冷笑を浮かべていた。
「15万円は、お前が盗んだのだろう」
「いいえ、私のお金です」
「 オイ、コラ、ふざけるな素直に白状しろよ。煩わすな!」
芳子は刑事から机越しに足の脛を蹴られた。
「お前、いい女だな」若い警官は、脇から芳子の顔を覗き込むようにして繁々と見た。
「余計なこと言うな!」
年配の刑事は若い警官を叱りつけた。
警察署では、「何でもありかもしれない」芳子は警察不信に陥った。
昭和36年、まだ戦前の警察権力の残滓が残っているように思われた。
2012年5 月24日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 9
人生の途上、何が起こるか分からない。
考え方によっては、それは定めかもしれない。
自分の命は今日、一日かもしれない。
幸運もあれば、悲運もあるのが人生。
芳子は眠れぬ夜、自分は何処へ向かうのかを想った。
東京教育大学の教授である大野源太郎家でのお手伝いの仕事は単調に流れていた。
隣の部屋では、源太郎の娘の江梨子が眠っていた。
江梨子は高校の受験勉強をしている。
時々、廊下を隔てて、襖の向かい側から寝ごとが聞こえてきた。
楽しい夢でも見ているのだろう、クスクスと笑い声も聞こえてきた。
自分も同じように寝ごとを言うのだろうか?
寝ごとなど他人には聞かれたくないと芳子は思いながら、布団を引き寄せ顔を覆った。
芳子が渋谷の料理教室に通った日、大野源太郎家に空き巣が入った。
盗られたのは、源太郎の妻伸江の部屋の桐の箪笥に仕舞われていた15万円だった。
昭和36年の15万円は、現在の10倍くらいの価値がある。
警察官が4人来て、他に盗まれたものはないかを綿密に確認した。
不思議と盗まれたものは、現金15万円のみであった。
念のためにと、芳子の部屋も捜索された。
芳子は自分に嫌疑がかけられるはずはないと思いながら、捜索に立ち会った。
そして、芳子の部屋から15万円が出てきたのだ。
その現金は、芳子が中学を卒業してから群馬県の沼田の郵便局で働いて貯めた金だった。
だが、芳子の主張は受け入れられず、その場で窃盗容疑で逮捕されてしまったのだ。
「裏切られた」と病院の小児医師である伸江は怒りを露わにした。
弁解がまるで通用しない状態に陥った。
芳子は手錠をかけられ、白と黒のパトロールカーで警察署に連行された。
警察までの間、道行く人たちが、警官に挟まれて後部座席に座る芳子に好奇の視線を注いだ。
信号でパトカーが停車すると、路上から車内を覗き込む人もいた。
その屈辱に芳子は、地獄に突き落とされる思いがした。
2012年4 月27日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 8
江梨子の部屋から、「川は流れる」が聞こえてきた。
歌っているのは沖縄出身の歌手・仲宗根美樹である。
その歌を聞きながら芳子は沼田の利根川の流れを想った。
病葉(わくらば)という表現がとても斬新に聞こえた。
病葉は病気や虫のために変色した葉。
特に、夏の青葉の中にまじって、赤や黄色に色づいている葉である。
わくら葉のしんぼうづよくはなかりけり 小林一茶
病葉や大地に何の病ある 高浜虚子
「川は流れる」
病葉を 今日も浮かべて
街の谷 川は流れる
ささやかな 望み破れて
哀しみに 染まる瞳に
たそがれの 水のまぶしさ
江梨子は繰り返し聞いていた。
錆ついた 夢の数々
ある人は 心冷たく
ある人は 好きで別れて
人の世の 塵にまみれて
なお生きる 水をみつめて
嘆くまい 明日は明るく
芳子の耳に歌詞は浸み込むようであった。
「芳子さん 『川は流れる』はいい歌でしょ。この間、お友だちと新宿のライブハウスのアシベで聞いたの。そしたら突然、お店が停電になってマイクが使えなくなったのに、仲宗根美樹がそのまま歌ったの。
ロウソクの灯りが燈されてね。素敵だったな」
芳子の部屋へやってきた江梨子は瞳をうっとりさせた。
思春期の少女の心情を揺り動かす調べであった。
「江梨子さんは、恋をしているの?」
「恋? あれは恋といえたのかな」
江梨子は肩をすくめた。
そして性の体験を躊躇うことなく話した。
「あれは、痛いだけで、ちっともよくなかった」
14歳の江梨子は、まさに都会の少女であった。
当時の世相としては、青少年愚連隊が横行し、犯罪を重ねていた。
また、東京の浅草、上野など、東京下町をうろつく少年少女の間に、睡眠薬を飲んで酔っぱらう遊びが流行した。
昭和35年の夏あたりからはやりだしたもので、睡眠薬を飲むとファッとした気分になり、少年少女たちを虜にしていた。
なかには薬の量を競争し、たくさん飲んだのを自慢しあったりもした。
浅草では倒れ、2日間も意識不明だった少女(15)は、自殺をはかったと思われていたが実は、睡眠薬遊びで薬を飲みすぎたものとわかった。
ふつうコーヒーで2錠ほど飲むと、酒に酔ったのとまったく同じ気分になった。
10錠、20錠と飲むと目がドロッとして、ろれつが回らなくなり、フラフラする。
この状態を「らりっている」と呼ぶ新語まで生れた。
裕福な家庭の少年、少女までが放任主義から不良行為に走っていた。
芳子は21歳であり、世代間の大きな落差を感じていた。
2012年4 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 7
今日、女性が働きながら子育てをすることが一般的になってきたが、昭和36年のころはまだ少数派であった。
芳子は、小児科医として病院で働いている大野夫人の伸江のような女性の生き方を目指したいと思いはじめていた。
また、東京教育大学の教授である大野源太郎の教養の幅広さに感嘆していた。
書斎の掃除をしながら、洋書を含めて多くの蔵書に目を奪われた。
旧制の高等学校の学生たちは戦前社会のエリート層である。
旧制高等学校は、社会のエリート揺籃の場として機能したとされる。
教養主義的な伝統のなかで、道徳、倫理学、歴史学、地理学、哲学、心理学、論理学、哲学概論、経済学、法制学、数学、自然科学、などを学んできた。
また、語学は国語漢文、英語、独語も学んだ。
文学的教養も身につけており、議論好きなエリート集団であった。
なお、大野源太郎の父親は、帝国大学医学部を出た医師で宮内庁病院に勤めていたが、昭和19年に亡くなっている。
大野夫人の部屋には、大野源太郎の父が遺した医学専門書があった。
大野家の息子は二人で、24歳の長男の信一は大学の経済学部を卒業し、東京・大手町の銀行に勤務していた。
また、次男の隆司は大学法学部の3年生で司法試験を目指し勉強をしていた。
芳子は息子たちとはほとんど会話を交わしたことがなかった。
息子たちの部屋の掃除をしていると、常に息子たちは黙って部屋を出て行った。
そして、娘の江利子は芳子の隣の部屋に居たので、自分の方から部屋へ入ってきた。
「芳子さん、部屋に入っていい?」
廊下か襖越し声をかける。
「どうぞ」と芳子は向かえ入れた。
「芳子さんは学校の勉強ができたそうね。お父さんから聞いたわ」
江利子は畳の上の座布団にきちんと座って、「勉強教えてください」と言う。
「私がですか? 私にはお嬢さんを教えるほどの学力がありません」
芳子は正直な気持ちを吐露した。
「だめなのね? 残念だな」
江利子は無理強いしないので、あっさりした性格のようであった。
江利子はしばらく黙っていたが、何を思ったのか真剣な顔で言った。
「芳子さん、性生活の知恵 読んだ?」
1960年(昭和35年)に「性生活の知恵」は発刊されると本の題名も影響したのだろう大ベストセラーになった。
だが、男から強姦されことがある芳子には、見向きもしたくない本である。
性生活についての話題が開放的ではなかった時代、この「性生活の知恵」という本は核家族になりがちだった都会の夫婦にとって性生活について指南してくれるありがたい指南書の役割を果たしていたようだ。
内容は、著者が医師であったこともあり、いたってまじめなものであった。
2012年4 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 6
<徹の手紙>
芳子さんの先日の手紙を読み、図書館で東條英機について調べてみました。
東條英機は、天皇陛下の信任がとれも篤かった人物のようでした。
天皇陛下はアメリカとの戦争を何とか回避しようとしていたので、東條英機もその意に沿うように考えていたのですが、その流れを止められなかった。
僕も芳子さんも父親を戦争で亡くして、戦争を遂行した人たちには、良い感情を抱いていませんね。
でも、戦争責任は、軍隊の偉い人たちや政治家たちだけの責任なのかどうか、よくわからない。
新聞社や文化人とされた人たちや小説家だって戦争に協力していますよね。
歌人の斎藤茂吉だってその1人ですよね。
芳子さんが偶然、東條英機の奥さんを見かけたことを手紙に書いたので驚きました。
僕にとってそれが大きな刺激となり、図書館で色々調べてみました。
東京へ行くことがあったら、東條山へ是非行ってみたいです。
それから、芳子さんが住んでいる用賀から多摩川方面へ行くと、岡本太郎のお母さんの岡本かな子の生家があるようです。
追伸
芳子さんは、東京・渋谷の料理学校へ通っているそうですね。
ですが、芳子さん沼田一番の美人ですから、「誘惑」されないかと心配です。
徹
<芳子の手紙>
徹さん、私は美人ですか?
母は「女は美しいことが器量じゃないよ。女は心が大切だよ」と言ってました。
先日、用賀から桜丘方面へ、犬の散歩へ行っていた時に、テレビ映画の撮影をしていました。
私はテレビ局の人に呼びとめられ、「エキストラになってほしい」と突然言われたのです。
私は断ったのですが、名刺を渡されて「局に是非訪ねて来てほしい」と言われました。
それから、料理学校の校長がフランスから戻ってきたのですが、テレビの料理番組を依頼されていて、私をアシスタント使いたいと言っています。
断っているのですが、断れ切れない感じもしています。
徹さん私はどうしたらいいの?
芳子
2012年4 月19日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 5
岩戸景気は、1958年(昭和33年)7月~1961年(昭和36年)12月まで42か月間続いた高度経済成長時代の好景気である。
岩戸景気では、三種の神器は洗濯機・冷蔵庫・掃除機であった。
戦後の食糧難は続くものの、ようやく復興の兆しが見え始めていた。
昭和33年(1958)に、厚生省による国民栄養調査で4人に1人は栄養欠陥であると発表、昭和30年代の課題は「日本人の体位向上」とも言われた。
この年には栄養士と調理師の資格が制定された。
また、テレビに料理番組が登場し、色々なレシピ、材料、調味料をそろえたセットの数々が大評判となった。
欧米の料理も紹介され、テレビを見る日本の主婦たちの、ちょっとした「夢」であり、「あこがれ」を反映した番組となった。
「こんな料理をつくってみたい」「こんなめずらしい食材があるのか」「聞いたことのない料理だわ」。
主婦たちはそんなことを思いながら番組やテキストをじっと見ていたのである。
幸い35年はお米が空前の大豊作で、戦後、ようやく"腹いっぱい"お米が食べられるようになる。
それまでは、白米に麦が混ざっていた。
あるいはご飯に雑穀類を混ぜて炊きそれを食べていた。
すでに自動電気炊飯器が発売されていて、米の豊作を機に段々と普及していく。
「芳子さん、料理学校へ行きなさい。お金の心配はいりませんから」
ある夜、台所で芳子が米をといでいる時、大野夫人の伸江から言われた。
「私は病院の小児医師としてこれまで歩んできて、3人の子育てもしてきたのよ。毎日が診療に追うわれるばかりの生活のなかで、お料理を学ぶ機会がなかったのよ。ですから芳子さんお願いね」
伸江は両手を合わせるような仕草をした。
「奥様分かりました。私でよければ料理学校へ行かせていただきます」
料理を習わしていただけるのだから、ありがたいことだった。
芳子は率直な気持ちで伸江の申し出に応じた。
結局、芳子は用賀から渋谷の料理学校へ通学することとなった。
1週間に1回6か月の家庭コースであった。
芳子は基礎から学ぶことができた。
ごはんの炊き方、汁だしの取り方。
味噌汁、とろろ昆布汁、野菜の切り方、魚のおろし方。
魚の照り焼き、鯵フライ、かれいの唐揚げ、いわしの香煮。
じゃがいもコロッケ、サラダ、 肉じゃが、豚汁、オムレツ、天丼、かつ丼、春キャベツの香り漬け、いり豆腐、れんこんつみれ汁、筑前煮、 ドーナッツなど。
それらが、大野邸の食卓に並び、家族たちを喜ばせた。
2012年4 月18日 (水曜日)
創作欄 芳子の青春 4
芳子は、就職先を世話してくれた恩師の辻村玲子にも手紙を書いた。
<芳子の手紙>
辻村玲子先生、新学期を迎え如何お過ごしでしょうか?
就職先をお世話いただき、先生には感謝しても感謝しきれません。
上京し早くも10日間が経過しましたが、沼田もそろそろ桜が咲く季節になりましたね。
高校1年の時に先生と夜桜を見に行ったことが思い出されます。
先生は大学を卒業したばかりで、母校に先生として赴任されて来られたのですが、先生というより私たち学生たちには優しいお姉さんのように想われました。
先生は、生徒たちに「視野を広げなさい」と言っていましたね。
母は、「沼田市内で職を見つけなさい」と言っていたのですが、私はいずれは沼田に戻ることがあったとしても、1度は外の世界を見てからと思っていたのです。
ですから、先生からお手伝いさんのお仕事を紹介された時は、「このチャンスを絶対に逃すまい」と思ったのです。
母は、「お前にとって花嫁修業になるかしら? お手伝いの仕事もいわね」と背中を押してくれました。
先生は、「お手伝いの仕事に留まらず、自分がやりたいことを見つけなさい。自立した女性の生き方が必要な時代になります」と言われました。
私はあの時の先生の助言を肝に銘じて励みに頑張りたいと思っています。
何卒 今後ともご教示ください。
小金井芳子
芳子は手紙をポストに投函してから、犬の散歩へ行く。
神学院の木立に隣接して、西側に通称「東條山」があった。
芳子は高校の受験勉強をしているお嬢さんの江梨子から、「東條山は、戦犯の東條英機の屋敷があるところなの」と教えられた。
芳子の父は戦死している。
戦争を遂行した責任者の一人が東條英機であったことから、敵愾心も湧いてきた。
芳子はメスの柴犬のハナコを連れ、東條山へ足を踏み入れた。
その日は、日曜日で大野太郎教授宅は午前8時であったが、みんながまだ寝ていた。
普段は午前5時起きの芳子も午前7時まで寝ていた。
東條山に足を踏み入れながら、芳子は人の気配を感じていた。
木立の間を見回す。
すると大きな欅の木を背に、ロングスカートの女性が立ち、神父服を着た長身の男性が女性を抱き寄せていた。
それはまるで映画の中の光景のように映じた。
女性は上目遣いになり、身を寄せながら自ら激しく男性の唇を求めていた。
芳子は見ていけないことを見た感情となり、山を駆け下りた。
犬のハナコは思わぬ方向転換に、戸惑いながら首輪を振って抵抗するように立ちあがった。
それから3日後、芳子はハナコの散歩で再び東條山へ行った。
東條英機は昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で死刑判決を受け、同年12月23日午前零時1分、東京都豊島区にあった巣鴨プリズンで絞首刑となった。
享年65歳。
昭和36年、もし東條英機が生きていれば78歳である。
芳子は好奇心から東條英機の屋敷の様子を窺った。
東條邸は何時もひっそりしていたがその日は、洗濯物を庭先で干している和服姿の人がいた。
東條英機夫人のかつ子さんであったかもしれない。
芳子は何か切ない感情が込み上げてきた。
浄土真宗の信仰が深かったとされる東條英機の未亡人かつ子さんのことを芳子は後年知った。
2012年4 月16日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 3
渋谷駅で降りた芳子は、玉電(東急玉川電車)に乗り換えた。
緑色の2両編成の小さな車体は路面をガタゴトと音を立て走っていた。
電車が坂を上り、そして下って行く光景を見て、芳子は東京の街は起伏が多い土地柄だ思った。
玉電の窓から見える光景は、意外と緑の木立も多かった。
用賀停留所に降り立った時、芳子はようやく辿りついたのだと胸をなでおろした.
東京・世田谷区用賀町は、まだ畑が多く残っており、丘の斜面では土地の造成が進んでいた。
用賀は江戸時代以前、大山街道の宿場町であり、眞福寺の門前町であった。
畑の間には小川が流れており長閑な感じがした。
芳子が働く、大学の教授宅は緑の木立に囲まれた神学院の南側にあった。
神学院の北側は桜丘であり、武蔵野台地の南端部に位置する
用賀地内には複数の湧水があり、旧品川用水の吸水の跡を源に、中町を経由し水は等々力渓谷を流れていた。
この渓谷には多量の湧水がみられ、世田谷区野毛付近で丸子川(六郷用水)と交差し、世田谷区堤で多摩川に合流する。
この日は休みであったので、大野源太郎教授宅には家族全員が居た。
大野は芳子の高校の教師であった辻村玲子の恩師である。
大野は居間に和服姿でくつろいでいて、新聞を卓に置きパイプをふかしていた。
大野は白髪頭であるが、まだ52歳であった。
「君のことは、辻村君から聞いているよ、君は数学ができるそうだね」
芳子は数学がそれほど得意でなかったので戸惑った。
お茶を運んで来た大野夫人の伸江は48歳で、病院に勤務する小児科医であった。
和服姿で割烹着を着ていた。
「あなたは、料理はどうなの」
伸江は手伝いの芳子に期待をしていたので確認をした。
芳子はお手伝いとして働くので、母には料理を習ってきたが所詮は群馬県の田舎料理である。
「何とかできると思います」
芳子は控えめに答えたが、次の日に伸江から早速、「あなたの料理はダメ、味付けが塩辛いわ」と指摘さてしまった。
芳子は前途多難だと心細くなった。
そして、その夜に徹に手紙を書いた。
<芳子の手紙>
今、東京の世田谷区用賀の仕事先の部屋でこの手紙を書いています。
私の仕事は詳しくは話さなかったけれど、お手伝いの仕事です。
旦那様は大学の先生で、奥様は病院の小児科のお医者さんです。
家族は旦那様のお母さん、息子さん2人、そして娘さん1人の家族構成です。
大きな母屋があり、私は庭の外れの離れの部屋に住んでいます。
隣の部屋には高校の受験を控えている娘さんが居ます。
私の部屋は4畳半でこじんまりしていて、気持ちが落ち着ける部屋です。
部屋の小さな机に置かれたスタンドの下でこの手紙を書いています。
庭には大きな桜の木が5本もあり、今が満開でとても綺麗です。
沼田公園の御殿桜を徹さんと観たことが、昨日のように思い出されます。
朝は日課の犬の散歩があります。
柴犬でハナコと呼ばれたメスの犬です。
朝は5時起きなの、近況は次の手紙に書きます。
徹さんのお手紙を心待ちにしています。
芳子
2012年4 月13日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 2
芳子は故郷の山々を脳裏に焼き付けるように車窓のガラスに額を当てて眺めていた。
群馬県の最北端側から見てきた山波が裏側とすれば、汽車が走行するにつれて山波は表側の姿を表していく。
子持山、十二ケ岳、小野子山、赤城山、榛名山、妙義山などであり、渋川駅を過ぎると徐々に山並みは遠去かっていった。
そして汽車が高崎駅を過ぎると関東平野が広がっていった。
岩本駅を午前7時過ぎに乗った汽車が上野駅に着いた時には、12時を回っていた。
「うえ~の~ うえ~の~ うえ~の~」
駅のホームのスピーカーから流れる独特の抑揚のついた場内放送を聞きながら、芳子は東京にやってきたことを実感した。
人波に押し流されるようにホームを歩きながら、メモ用紙を手にして乗り換えるホームを探した。
昭和30年代、上野駅周辺には家出少女を目敏く探し出し、口車に乗せて騙して何処かへ連れていく男たちがたむろしていた。
実際、そんな男たちの一人に芳子は声をかけられた。
「ねいちゃん、行くところあるのかい?」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると相手は親しみを込めて微笑んでいる。
30代か40代の年齢と思われ、黒い長シャツの胸を肌けており、細いズボンを穿き得体のしれない雰囲気を醸している。
「人と待ち合わせをしています」
芳子は毅然とした態度で言う。
「そうかい。どこから来たの」
相手はまとわり着こうとしている様子だ。
芳子は黙って足早に歩き出した。
だが、初めて来た上野駅であり、男から見抜かれていた。
「何処で、待ち合わせているんだい。案内してやるよ」
男は芳子の脇に並んで着いてくる。
「重そうなボストンバックだね。持ってやろうか」
「結構です。急ぎますから、失礼!」
芳子は走り出した。
背後で男が舌打ちをしていた。
「東京は昼間なのに油断がならない」
芳子は階段を駈け上がった。
芳子の様子見ている女性が居て、階段の中ごろで声をかけられた。
「ああいう、男たちには関わらない方がいいわ。ボストンバックを奪う男もいるんだから」
相手を見ると芳子の母親と同世代の女性であった。
芳子はホット胸をなでおろした。
「東京、初めてなのね?」
ボストンバックを下げ、地味な濃紺のスーツ姿の芳子は、如何にも都会慣れしていない様相であった。
「東京の世田谷区用賀へ行くのですが、渋谷駅は何番線でしょうか?」
芳子はメモを見ながら相手にたずねた。
「私は目黒まで行くので、方角が同じね」
女性は芳子に微笑みかけると先に立ってキビキビとした足取りで歩き出した。
芳子は高校の数学の教師の辻村玲子から就職先を世話された。
辻村玲子の大学の恩師である大学教授宅のお手伝いとして雇われたのだ。
メモ用紙には、用賀駅からの地図も記されていた。
芳子はお手伝いをしながら、看護婦(当時)を目指すことにしていた。
ところで、昭和36年当時、国鉄の初乗りは10円、私鉄は15円であった。
2012年4 月12日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 1
小金井芳子が上京する日、母と妹たちが上越線の岩本駅まで見送りに来た。
夫を戦争で亡くした母は戦後、苦労をして5人の子どもたちを育ててきた。
芳子の2人の兄は中学を出ると家を出た。
1人の兄は、戦死した父親の弟に呼ばれて神奈川県の横須賀に働きに出た。
叔父の魚屋で働いて、「将来は自分の店を持ちたい」と手紙に書いて寄こした。
もう一人の兄は、埼玉県の桶川にある精密機械の工場で働いていた。
岩本駅舎は小さく、何の変哲のない寂しい感じのする駅の佇まいだった。
この駅は昭和61年から無人駅となっている。
利根川が東側に流れていて、西側は東京電力の水力発電所になっている。
沼田市岩本町は子持山の麓の町であり、山と川に挟まれ細長く南北に広がって土地である。
南東方面は赤城山の麓につながっている。
徹とは前日、沼田城址公園で会って別れを告げていた。
徹は別れ際に、「後で読んでください」と白い封筒を芳子に手渡した。
「体に気をつけるんだよ。何か困ったことがあったら手紙に書いて送ってきてね」
母はそれだけ言うとハンカチで目頭を押さえた。
妹たちは2人は「東京に遊びに行ってもいい」と目を輝かせていた。
別れの悲しさを感じていないようであり、芳子は2人の妹を胸に抱き寄せ頭を優しく撫でた。
母は戦後、再婚したが夫は昭和27年、出稼ぎ先の群馬県高崎の建設工事現場の事故で亡くなってしまった。
母と義父の間に生まれた妹は、12歳と13歳になっていた。
蒸気汽車は故郷の駅に余韻を残すように汽笛を鳴らした。
妹たちがホームを駆けながら追ってきた。
母はホームの中ほどに立ち止まって、白いハンカチを振っていた。
ゆっくりと汽車がホームを走行していく。
芳子は汽車のデッキに佇み3人の姿が見えるまで見送った。
涙がとめどなく頬を伝わってきた。
客車内の4人がけ席は空いていたので、脇にボストンバックを置く。
そして芳子は徹に昨日渡された封筒をボストンバックから取り出した。
<徹の手紙>
芳子さんの旅立ちに同行できなく、とても残念です。
逢える日が、なるべく早く訪れることを念じています。
「東京へ出て受験勉強をしたい」と父に相談したら、「沼田で勉強しろ」と義父に反対されて上京できなくなったことは、先日、芳子さんに告げましたが、自分にも義父を説得できるだけの具体的な計画がありませんでした。
まずは、大学に合格することです。
頑張ります。
落ち着いたら手紙をください。
手紙を心待ちにしています。
お元気で!
何卒ご自愛ください。
徹
人生の途次、どのような『色』に染まるかである。
人間は縁など様々ものに影響を受ける存在。
まさに君子危うきに近寄らず
君子危うきに近寄らずとは、学識、教養があり徳がある者は、自分の行動を慎むものだから、危険なところには近づかないということ。
故事ことわざ 格言 座右の銘などは生きる知恵ともなる。
行動の規範でもある。
人の出会いも検証される必要がある。
例えば、夫、愛人、恋人が麻薬常習者であったなら。
あるいは、アルコールやギャンブル依存であったならば、生活は破綻するだろう。
その上、男の理不尽な暴力を伴えば2重苦、3重苦の生活に陥る。
破滅的な人生は、破滅的な人間だけの個人の問題には留まらない。
周囲の人間をも巻き込んでしまうものだ。
芳子の人生の狂いもそのような道を辿って行く。
警察に逮捕された芳子は窃盗罪を、警察官の誘導尋問で認めさせてしまった。
警察が取調べの段階で暴力を振るうこともあるこが、とても信じられなかった。
警察に対する不信感は検察に対する不信感のみならず、裁判所に対する不信感にまで連鎖していく。
「裁判官なら、分かってくれるはず」
芳子は最後の望みを裁判に託していた。
だが、有罪の判決が下ったのだ。
「世の中に『正義』などあるのだろうか?」
芳子は15万円が自分の金だと主張したが、信じてもらえなかった。
芳子が中学を卒業して、定時制高校を卒業するまで働いて貯めた金であった。
それを芳子が働いていた群馬県沼田の郵便局に確認すれば明らかになることであった。
警察は、予断からその確認を怠っていた。
芳子は絶望するとともに、理不尽さを呪った。
初犯であれば執行猶予も付くが、犯行を認めない態度が裏目に出た。
反省しない人間を懲らしめる必要があったのだ。
2012年5 月25日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 10
芳子は警察の取調室で小学校5年生の出来事を突然、脳裏に浮かべた。
芳子は女子生徒の中ではトップの成績であった。
男子生徒の成績トップは片岡勝雄君であり、運動会ではリレーの選手のアンカーを務めて運動会の花型。
貴公子然とした顔立ちで、芳子は密かに憧れを抱いていた。
その片岡の財布がランドセルの中から盗まれたので、教室は騒ぎとなった。
昼休みの時間帯、多くの生徒は校庭で遊んでいて、教室に残っていたのは数人だった。
片岡君は芳子と視線を合わせた瞬間、何を想ったのか芳子の座席の前に足早にやってきた。
「芳子、鞄の中を見させてもらうよ」
芳子はその強引な態度に唖然として言葉を失った。
そして、片岡君に対する憧れの気持ちがいっぺんに萎えていくのを覚えた。
「ひぇー!ぼろっちい、鞄!」
鞄は近所の人から芳子の母親が貰い受けた古い鞄であり、内側にはかなりの綻びがあった。
「片岡君は、こんな男の子だったのだ」
芳子は屈辱に堪えた。
「オイ! 芳子、何を考えているのだ!」
刑事は机を平手でバシッと叩いた。
脇に立っている若い警官は、冷笑を浮かべていた。
「15万円は、お前が盗んだのだろう」
「いいえ、私のお金です」
「 オイ、コラ、ふざけるな素直に白状しろよ。煩わすな!」
芳子は刑事から机越しに足の脛を蹴られた。
「お前、いい女だな」若い警官は、脇から芳子の顔を覗き込むようにして繁々と見た。
「余計なこと言うな!」
年配の刑事は若い警官を叱りつけた。
警察署では、「何でもありかもしれない」芳子は警察不信に陥った。
昭和36年、まだ戦前の警察権力の残滓が残っているように思われた。
2012年5 月24日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 9
人生の途上、何が起こるか分からない。
考え方によっては、それは定めかもしれない。
自分の命は今日、一日かもしれない。
幸運もあれば、悲運もあるのが人生。
芳子は眠れぬ夜、自分は何処へ向かうのかを想った。
東京教育大学の教授である大野源太郎家でのお手伝いの仕事は単調に流れていた。
隣の部屋では、源太郎の娘の江梨子が眠っていた。
江梨子は高校の受験勉強をしている。
時々、廊下を隔てて、襖の向かい側から寝ごとが聞こえてきた。
楽しい夢でも見ているのだろう、クスクスと笑い声も聞こえてきた。
自分も同じように寝ごとを言うのだろうか?
寝ごとなど他人には聞かれたくないと芳子は思いながら、布団を引き寄せ顔を覆った。
芳子が渋谷の料理教室に通った日、大野源太郎家に空き巣が入った。
盗られたのは、源太郎の妻伸江の部屋の桐の箪笥に仕舞われていた15万円だった。
昭和36年の15万円は、現在の10倍くらいの価値がある。
警察官が4人来て、他に盗まれたものはないかを綿密に確認した。
不思議と盗まれたものは、現金15万円のみであった。
念のためにと、芳子の部屋も捜索された。
芳子は自分に嫌疑がかけられるはずはないと思いながら、捜索に立ち会った。
そして、芳子の部屋から15万円が出てきたのだ。
その現金は、芳子が中学を卒業してから群馬県の沼田の郵便局で働いて貯めた金だった。
だが、芳子の主張は受け入れられず、その場で窃盗容疑で逮捕されてしまったのだ。
「裏切られた」と病院の小児医師である伸江は怒りを露わにした。
弁解がまるで通用しない状態に陥った。
芳子は手錠をかけられ、白と黒のパトロールカーで警察署に連行された。
警察までの間、道行く人たちが、警官に挟まれて後部座席に座る芳子に好奇の視線を注いだ。
信号でパトカーが停車すると、路上から車内を覗き込む人もいた。
その屈辱に芳子は、地獄に突き落とされる思いがした。
2012年4 月27日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 8
江梨子の部屋から、「川は流れる」が聞こえてきた。
歌っているのは沖縄出身の歌手・仲宗根美樹である。
その歌を聞きながら芳子は沼田の利根川の流れを想った。
病葉(わくらば)という表現がとても斬新に聞こえた。
病葉は病気や虫のために変色した葉。
特に、夏の青葉の中にまじって、赤や黄色に色づいている葉である。
わくら葉のしんぼうづよくはなかりけり 小林一茶
病葉や大地に何の病ある 高浜虚子
「川は流れる」
病葉を 今日も浮かべて
街の谷 川は流れる
ささやかな 望み破れて
哀しみに 染まる瞳に
たそがれの 水のまぶしさ
江梨子は繰り返し聞いていた。
錆ついた 夢の数々
ある人は 心冷たく
ある人は 好きで別れて
人の世の 塵にまみれて
なお生きる 水をみつめて
嘆くまい 明日は明るく
芳子の耳に歌詞は浸み込むようであった。
「芳子さん 『川は流れる』はいい歌でしょ。この間、お友だちと新宿のライブハウスのアシベで聞いたの。そしたら突然、お店が停電になってマイクが使えなくなったのに、仲宗根美樹がそのまま歌ったの。
ロウソクの灯りが燈されてね。素敵だったな」
芳子の部屋へやってきた江梨子は瞳をうっとりさせた。
思春期の少女の心情を揺り動かす調べであった。
「江梨子さんは、恋をしているの?」
「恋? あれは恋といえたのかな」
江梨子は肩をすくめた。
そして性の体験を躊躇うことなく話した。
「あれは、痛いだけで、ちっともよくなかった」
14歳の江梨子は、まさに都会の少女であった。
当時の世相としては、青少年愚連隊が横行し、犯罪を重ねていた。
また、東京の浅草、上野など、東京下町をうろつく少年少女の間に、睡眠薬を飲んで酔っぱらう遊びが流行した。
昭和35年の夏あたりからはやりだしたもので、睡眠薬を飲むとファッとした気分になり、少年少女たちを虜にしていた。
なかには薬の量を競争し、たくさん飲んだのを自慢しあったりもした。
浅草では倒れ、2日間も意識不明だった少女(15)は、自殺をはかったと思われていたが実は、睡眠薬遊びで薬を飲みすぎたものとわかった。
ふつうコーヒーで2錠ほど飲むと、酒に酔ったのとまったく同じ気分になった。
10錠、20錠と飲むと目がドロッとして、ろれつが回らなくなり、フラフラする。
この状態を「らりっている」と呼ぶ新語まで生れた。
裕福な家庭の少年、少女までが放任主義から不良行為に走っていた。
芳子は21歳であり、世代間の大きな落差を感じていた。
2012年4 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 7
今日、女性が働きながら子育てをすることが一般的になってきたが、昭和36年のころはまだ少数派であった。
芳子は、小児科医として病院で働いている大野夫人の伸江のような女性の生き方を目指したいと思いはじめていた。
また、東京教育大学の教授である大野源太郎の教養の幅広さに感嘆していた。
書斎の掃除をしながら、洋書を含めて多くの蔵書に目を奪われた。
旧制の高等学校の学生たちは戦前社会のエリート層である。
旧制高等学校は、社会のエリート揺籃の場として機能したとされる。
教養主義的な伝統のなかで、道徳、倫理学、歴史学、地理学、哲学、心理学、論理学、哲学概論、経済学、法制学、数学、自然科学、などを学んできた。
また、語学は国語漢文、英語、独語も学んだ。
文学的教養も身につけており、議論好きなエリート集団であった。
なお、大野源太郎の父親は、帝国大学医学部を出た医師で宮内庁病院に勤めていたが、昭和19年に亡くなっている。
大野夫人の部屋には、大野源太郎の父が遺した医学専門書があった。
大野家の息子は二人で、24歳の長男の信一は大学の経済学部を卒業し、東京・大手町の銀行に勤務していた。
また、次男の隆司は大学法学部の3年生で司法試験を目指し勉強をしていた。
芳子は息子たちとはほとんど会話を交わしたことがなかった。
息子たちの部屋の掃除をしていると、常に息子たちは黙って部屋を出て行った。
そして、娘の江利子は芳子の隣の部屋に居たので、自分の方から部屋へ入ってきた。
「芳子さん、部屋に入っていい?」
廊下か襖越し声をかける。
「どうぞ」と芳子は向かえ入れた。
「芳子さんは学校の勉強ができたそうね。お父さんから聞いたわ」
江利子は畳の上の座布団にきちんと座って、「勉強教えてください」と言う。
「私がですか? 私にはお嬢さんを教えるほどの学力がありません」
芳子は正直な気持ちを吐露した。
「だめなのね? 残念だな」
江利子は無理強いしないので、あっさりした性格のようであった。
江利子はしばらく黙っていたが、何を思ったのか真剣な顔で言った。
「芳子さん、性生活の知恵 読んだ?」
1960年(昭和35年)に「性生活の知恵」は発刊されると本の題名も影響したのだろう大ベストセラーになった。
だが、男から強姦されことがある芳子には、見向きもしたくない本である。
性生活についての話題が開放的ではなかった時代、この「性生活の知恵」という本は核家族になりがちだった都会の夫婦にとって性生活について指南してくれるありがたい指南書の役割を果たしていたようだ。
内容は、著者が医師であったこともあり、いたってまじめなものであった。
2012年4 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 6
<徹の手紙>
芳子さんの先日の手紙を読み、図書館で東條英機について調べてみました。
東條英機は、天皇陛下の信任がとれも篤かった人物のようでした。
天皇陛下はアメリカとの戦争を何とか回避しようとしていたので、東條英機もその意に沿うように考えていたのですが、その流れを止められなかった。
僕も芳子さんも父親を戦争で亡くして、戦争を遂行した人たちには、良い感情を抱いていませんね。
でも、戦争責任は、軍隊の偉い人たちや政治家たちだけの責任なのかどうか、よくわからない。
新聞社や文化人とされた人たちや小説家だって戦争に協力していますよね。
歌人の斎藤茂吉だってその1人ですよね。
芳子さんが偶然、東條英機の奥さんを見かけたことを手紙に書いたので驚きました。
僕にとってそれが大きな刺激となり、図書館で色々調べてみました。
東京へ行くことがあったら、東條山へ是非行ってみたいです。
それから、芳子さんが住んでいる用賀から多摩川方面へ行くと、岡本太郎のお母さんの岡本かな子の生家があるようです。
追伸
芳子さんは、東京・渋谷の料理学校へ通っているそうですね。
ですが、芳子さん沼田一番の美人ですから、「誘惑」されないかと心配です。
徹
<芳子の手紙>
徹さん、私は美人ですか?
母は「女は美しいことが器量じゃないよ。女は心が大切だよ」と言ってました。
先日、用賀から桜丘方面へ、犬の散歩へ行っていた時に、テレビ映画の撮影をしていました。
私はテレビ局の人に呼びとめられ、「エキストラになってほしい」と突然言われたのです。
私は断ったのですが、名刺を渡されて「局に是非訪ねて来てほしい」と言われました。
それから、料理学校の校長がフランスから戻ってきたのですが、テレビの料理番組を依頼されていて、私をアシスタント使いたいと言っています。
断っているのですが、断れ切れない感じもしています。
徹さん私はどうしたらいいの?
芳子
2012年4 月19日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 5
岩戸景気は、1958年(昭和33年)7月~1961年(昭和36年)12月まで42か月間続いた高度経済成長時代の好景気である。
岩戸景気では、三種の神器は洗濯機・冷蔵庫・掃除機であった。
戦後の食糧難は続くものの、ようやく復興の兆しが見え始めていた。
昭和33年(1958)に、厚生省による国民栄養調査で4人に1人は栄養欠陥であると発表、昭和30年代の課題は「日本人の体位向上」とも言われた。
この年には栄養士と調理師の資格が制定された。
また、テレビに料理番組が登場し、色々なレシピ、材料、調味料をそろえたセットの数々が大評判となった。
欧米の料理も紹介され、テレビを見る日本の主婦たちの、ちょっとした「夢」であり、「あこがれ」を反映した番組となった。
「こんな料理をつくってみたい」「こんなめずらしい食材があるのか」「聞いたことのない料理だわ」。
主婦たちはそんなことを思いながら番組やテキストをじっと見ていたのである。
幸い35年はお米が空前の大豊作で、戦後、ようやく"腹いっぱい"お米が食べられるようになる。
それまでは、白米に麦が混ざっていた。
あるいはご飯に雑穀類を混ぜて炊きそれを食べていた。
すでに自動電気炊飯器が発売されていて、米の豊作を機に段々と普及していく。
「芳子さん、料理学校へ行きなさい。お金の心配はいりませんから」
ある夜、台所で芳子が米をといでいる時、大野夫人の伸江から言われた。
「私は病院の小児医師としてこれまで歩んできて、3人の子育てもしてきたのよ。毎日が診療に追うわれるばかりの生活のなかで、お料理を学ぶ機会がなかったのよ。ですから芳子さんお願いね」
伸江は両手を合わせるような仕草をした。
「奥様分かりました。私でよければ料理学校へ行かせていただきます」
料理を習わしていただけるのだから、ありがたいことだった。
芳子は率直な気持ちで伸江の申し出に応じた。
結局、芳子は用賀から渋谷の料理学校へ通学することとなった。
1週間に1回6か月の家庭コースであった。
芳子は基礎から学ぶことができた。
ごはんの炊き方、汁だしの取り方。
味噌汁、とろろ昆布汁、野菜の切り方、魚のおろし方。
魚の照り焼き、鯵フライ、かれいの唐揚げ、いわしの香煮。
じゃがいもコロッケ、サラダ、 肉じゃが、豚汁、オムレツ、天丼、かつ丼、春キャベツの香り漬け、いり豆腐、れんこんつみれ汁、筑前煮、 ドーナッツなど。
それらが、大野邸の食卓に並び、家族たちを喜ばせた。
2012年4 月18日 (水曜日)
創作欄 芳子の青春 4
芳子は、就職先を世話してくれた恩師の辻村玲子にも手紙を書いた。
<芳子の手紙>
辻村玲子先生、新学期を迎え如何お過ごしでしょうか?
就職先をお世話いただき、先生には感謝しても感謝しきれません。
上京し早くも10日間が経過しましたが、沼田もそろそろ桜が咲く季節になりましたね。
高校1年の時に先生と夜桜を見に行ったことが思い出されます。
先生は大学を卒業したばかりで、母校に先生として赴任されて来られたのですが、先生というより私たち学生たちには優しいお姉さんのように想われました。
先生は、生徒たちに「視野を広げなさい」と言っていましたね。
母は、「沼田市内で職を見つけなさい」と言っていたのですが、私はいずれは沼田に戻ることがあったとしても、1度は外の世界を見てからと思っていたのです。
ですから、先生からお手伝いさんのお仕事を紹介された時は、「このチャンスを絶対に逃すまい」と思ったのです。
母は、「お前にとって花嫁修業になるかしら? お手伝いの仕事もいわね」と背中を押してくれました。
先生は、「お手伝いの仕事に留まらず、自分がやりたいことを見つけなさい。自立した女性の生き方が必要な時代になります」と言われました。
私はあの時の先生の助言を肝に銘じて励みに頑張りたいと思っています。
何卒 今後ともご教示ください。
小金井芳子
芳子は手紙をポストに投函してから、犬の散歩へ行く。
神学院の木立に隣接して、西側に通称「東條山」があった。
芳子は高校の受験勉強をしているお嬢さんの江梨子から、「東條山は、戦犯の東條英機の屋敷があるところなの」と教えられた。
芳子の父は戦死している。
戦争を遂行した責任者の一人が東條英機であったことから、敵愾心も湧いてきた。
芳子はメスの柴犬のハナコを連れ、東條山へ足を踏み入れた。
その日は、日曜日で大野太郎教授宅は午前8時であったが、みんながまだ寝ていた。
普段は午前5時起きの芳子も午前7時まで寝ていた。
東條山に足を踏み入れながら、芳子は人の気配を感じていた。
木立の間を見回す。
すると大きな欅の木を背に、ロングスカートの女性が立ち、神父服を着た長身の男性が女性を抱き寄せていた。
それはまるで映画の中の光景のように映じた。
女性は上目遣いになり、身を寄せながら自ら激しく男性の唇を求めていた。
芳子は見ていけないことを見た感情となり、山を駆け下りた。
犬のハナコは思わぬ方向転換に、戸惑いながら首輪を振って抵抗するように立ちあがった。
それから3日後、芳子はハナコの散歩で再び東條山へ行った。
東條英機は昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で死刑判決を受け、同年12月23日午前零時1分、東京都豊島区にあった巣鴨プリズンで絞首刑となった。
享年65歳。
昭和36年、もし東條英機が生きていれば78歳である。
芳子は好奇心から東條英機の屋敷の様子を窺った。
東條邸は何時もひっそりしていたがその日は、洗濯物を庭先で干している和服姿の人がいた。
東條英機夫人のかつ子さんであったかもしれない。
芳子は何か切ない感情が込み上げてきた。
浄土真宗の信仰が深かったとされる東條英機の未亡人かつ子さんのことを芳子は後年知った。
2012年4 月16日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 3
渋谷駅で降りた芳子は、玉電(東急玉川電車)に乗り換えた。
緑色の2両編成の小さな車体は路面をガタゴトと音を立て走っていた。
電車が坂を上り、そして下って行く光景を見て、芳子は東京の街は起伏が多い土地柄だ思った。
玉電の窓から見える光景は、意外と緑の木立も多かった。
用賀停留所に降り立った時、芳子はようやく辿りついたのだと胸をなでおろした.
東京・世田谷区用賀町は、まだ畑が多く残っており、丘の斜面では土地の造成が進んでいた。
用賀は江戸時代以前、大山街道の宿場町であり、眞福寺の門前町であった。
畑の間には小川が流れており長閑な感じがした。
芳子が働く、大学の教授宅は緑の木立に囲まれた神学院の南側にあった。
神学院の北側は桜丘であり、武蔵野台地の南端部に位置する
用賀地内には複数の湧水があり、旧品川用水の吸水の跡を源に、中町を経由し水は等々力渓谷を流れていた。
この渓谷には多量の湧水がみられ、世田谷区野毛付近で丸子川(六郷用水)と交差し、世田谷区堤で多摩川に合流する。
この日は休みであったので、大野源太郎教授宅には家族全員が居た。
大野は芳子の高校の教師であった辻村玲子の恩師である。
大野は居間に和服姿でくつろいでいて、新聞を卓に置きパイプをふかしていた。
大野は白髪頭であるが、まだ52歳であった。
「君のことは、辻村君から聞いているよ、君は数学ができるそうだね」
芳子は数学がそれほど得意でなかったので戸惑った。
お茶を運んで来た大野夫人の伸江は48歳で、病院に勤務する小児科医であった。
和服姿で割烹着を着ていた。
「あなたは、料理はどうなの」
伸江は手伝いの芳子に期待をしていたので確認をした。
芳子はお手伝いとして働くので、母には料理を習ってきたが所詮は群馬県の田舎料理である。
「何とかできると思います」
芳子は控えめに答えたが、次の日に伸江から早速、「あなたの料理はダメ、味付けが塩辛いわ」と指摘さてしまった。
芳子は前途多難だと心細くなった。
そして、その夜に徹に手紙を書いた。
<芳子の手紙>
今、東京の世田谷区用賀の仕事先の部屋でこの手紙を書いています。
私の仕事は詳しくは話さなかったけれど、お手伝いの仕事です。
旦那様は大学の先生で、奥様は病院の小児科のお医者さんです。
家族は旦那様のお母さん、息子さん2人、そして娘さん1人の家族構成です。
大きな母屋があり、私は庭の外れの離れの部屋に住んでいます。
隣の部屋には高校の受験を控えている娘さんが居ます。
私の部屋は4畳半でこじんまりしていて、気持ちが落ち着ける部屋です。
部屋の小さな机に置かれたスタンドの下でこの手紙を書いています。
庭には大きな桜の木が5本もあり、今が満開でとても綺麗です。
沼田公園の御殿桜を徹さんと観たことが、昨日のように思い出されます。
朝は日課の犬の散歩があります。
柴犬でハナコと呼ばれたメスの犬です。
朝は5時起きなの、近況は次の手紙に書きます。
徹さんのお手紙を心待ちにしています。
芳子
2012年4 月13日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 2
芳子は故郷の山々を脳裏に焼き付けるように車窓のガラスに額を当てて眺めていた。
群馬県の最北端側から見てきた山波が裏側とすれば、汽車が走行するにつれて山波は表側の姿を表していく。
子持山、十二ケ岳、小野子山、赤城山、榛名山、妙義山などであり、渋川駅を過ぎると徐々に山並みは遠去かっていった。
そして汽車が高崎駅を過ぎると関東平野が広がっていった。
岩本駅を午前7時過ぎに乗った汽車が上野駅に着いた時には、12時を回っていた。
「うえ~の~ うえ~の~ うえ~の~」
駅のホームのスピーカーから流れる独特の抑揚のついた場内放送を聞きながら、芳子は東京にやってきたことを実感した。
人波に押し流されるようにホームを歩きながら、メモ用紙を手にして乗り換えるホームを探した。
昭和30年代、上野駅周辺には家出少女を目敏く探し出し、口車に乗せて騙して何処かへ連れていく男たちがたむろしていた。
実際、そんな男たちの一人に芳子は声をかけられた。
「ねいちゃん、行くところあるのかい?」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると相手は親しみを込めて微笑んでいる。
30代か40代の年齢と思われ、黒い長シャツの胸を肌けており、細いズボンを穿き得体のしれない雰囲気を醸している。
「人と待ち合わせをしています」
芳子は毅然とした態度で言う。
「そうかい。どこから来たの」
相手はまとわり着こうとしている様子だ。
芳子は黙って足早に歩き出した。
だが、初めて来た上野駅であり、男から見抜かれていた。
「何処で、待ち合わせているんだい。案内してやるよ」
男は芳子の脇に並んで着いてくる。
「重そうなボストンバックだね。持ってやろうか」
「結構です。急ぎますから、失礼!」
芳子は走り出した。
背後で男が舌打ちをしていた。
「東京は昼間なのに油断がならない」
芳子は階段を駈け上がった。
芳子の様子見ている女性が居て、階段の中ごろで声をかけられた。
「ああいう、男たちには関わらない方がいいわ。ボストンバックを奪う男もいるんだから」
相手を見ると芳子の母親と同世代の女性であった。
芳子はホット胸をなでおろした。
「東京、初めてなのね?」
ボストンバックを下げ、地味な濃紺のスーツ姿の芳子は、如何にも都会慣れしていない様相であった。
「東京の世田谷区用賀へ行くのですが、渋谷駅は何番線でしょうか?」
芳子はメモを見ながら相手にたずねた。
「私は目黒まで行くので、方角が同じね」
女性は芳子に微笑みかけると先に立ってキビキビとした足取りで歩き出した。
芳子は高校の数学の教師の辻村玲子から就職先を世話された。
辻村玲子の大学の恩師である大学教授宅のお手伝いとして雇われたのだ。
メモ用紙には、用賀駅からの地図も記されていた。
芳子はお手伝いをしながら、看護婦(当時)を目指すことにしていた。
ところで、昭和36年当時、国鉄の初乗りは10円、私鉄は15円であった。
2012年4 月12日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 1
小金井芳子が上京する日、母と妹たちが上越線の岩本駅まで見送りに来た。
夫を戦争で亡くした母は戦後、苦労をして5人の子どもたちを育ててきた。
芳子の2人の兄は中学を出ると家を出た。
1人の兄は、戦死した父親の弟に呼ばれて神奈川県の横須賀に働きに出た。
叔父の魚屋で働いて、「将来は自分の店を持ちたい」と手紙に書いて寄こした。
もう一人の兄は、埼玉県の桶川にある精密機械の工場で働いていた。
岩本駅舎は小さく、何の変哲のない寂しい感じのする駅の佇まいだった。
この駅は昭和61年から無人駅となっている。
利根川が東側に流れていて、西側は東京電力の水力発電所になっている。
沼田市岩本町は子持山の麓の町であり、山と川に挟まれ細長く南北に広がって土地である。
南東方面は赤城山の麓につながっている。
徹とは前日、沼田城址公園で会って別れを告げていた。
徹は別れ際に、「後で読んでください」と白い封筒を芳子に手渡した。
「体に気をつけるんだよ。何か困ったことがあったら手紙に書いて送ってきてね」
母はそれだけ言うとハンカチで目頭を押さえた。
妹たちは2人は「東京に遊びに行ってもいい」と目を輝かせていた。
別れの悲しさを感じていないようであり、芳子は2人の妹を胸に抱き寄せ頭を優しく撫でた。
母は戦後、再婚したが夫は昭和27年、出稼ぎ先の群馬県高崎の建設工事現場の事故で亡くなってしまった。
母と義父の間に生まれた妹は、12歳と13歳になっていた。
蒸気汽車は故郷の駅に余韻を残すように汽笛を鳴らした。
妹たちがホームを駆けながら追ってきた。
母はホームの中ほどに立ち止まって、白いハンカチを振っていた。
ゆっくりと汽車がホームを走行していく。
芳子は汽車のデッキに佇み3人の姿が見えるまで見送った。
涙がとめどなく頬を伝わってきた。
客車内の4人がけ席は空いていたので、脇にボストンバックを置く。
そして芳子は徹に昨日渡された封筒をボストンバックから取り出した。
<徹の手紙>
芳子さんの旅立ちに同行できなく、とても残念です。
逢える日が、なるべく早く訪れることを念じています。
「東京へ出て受験勉強をしたい」と父に相談したら、「沼田で勉強しろ」と義父に反対されて上京できなくなったことは、先日、芳子さんに告げましたが、自分にも義父を説得できるだけの具体的な計画がありませんでした。
まずは、大学に合格することです。
頑張ります。
落ち着いたら手紙をください。
手紙を心待ちにしています。
お元気で!
何卒ご自愛ください。
徹