あの人がいたから、今の自分がある。
そのように思える人は、どんな困難にも屈しない。
自身の<原点>に立ち返り、心新たに出発することができる。
恩に報いようと努力する中で、自身の可能性を開いていける。
感謝の人は、向上と成長の人だ。
試練に行き当たった時こそ前進の炎を燃やすことだ。
人は内面を改善するほど社会生活でも活躍‐トルストイ
あの人がいたから、今の自分がある。
そのように思える人は、どんな困難にも屈しない。
自身の<原点>に立ち返り、心新たに出発することができる。
恩に報いようと努力する中で、自身の可能性を開いていける。
感謝の人は、向上と成長の人だ。
試練に行き当たった時こそ前進の炎を燃やすことだ。
人は内面を改善するほど社会生活でも活躍‐トルストイ
情報入手、ネット上回る
2019.2.21 産経新聞
新聞や新聞社の発信する情報に、ネットも含む何らかの形で触れる人が91・2%に上るとする調査結果を、日本新聞協会が20日、明らかにした。種類別の情報入手法では、多くが新聞がネットメディアを上回った。
新聞を毎日読む人は53・6%で、週1回以上が15・9%、月1回以上が4・3%だった。
さらに「月1回未満または何らかの機会に触れる」が17・4%で、この人たちの半数が会員制交流サイト(SNS)に毎日触れると答えた。
情報の種類別に入手方法を尋ねたところ「世の中で起きていることの最新ニュース等」は、ネットニュースが38・2%だったのに対し、新聞が49・3%、テレビが76・3%だった。選挙やお悔やみ、企業や役所の人事など、地域と密接に関わる情報で、新聞の評価が高かった。
調査は昨年11月、全国の15歳以上79歳以下の1200人を対象に訪問形式で実施した。
毎日新聞2019年2月22日 東京朝刊
かつて管理教育の象徴だった公立中学、高校の制服を、性別によらない選択制にする動きが広がる。だが、まだ男女別の制服を課す学校が大半だ。選択の自由を求める生徒にはどんな事情があるのか。各地の選択制導入の経緯とともに探った。
●「心の性」に対応
群馬県高崎市の市立高崎経済大付属高校の校則には、女子の制服としてスカートとスラックスの両方が明記されている。浜野雅樹校長によると、校則が変わったのは約10年前。当時2年生だった飯塚花笑(かしょう)さん(28)=映画監督=が「男子の制服を着たい」と要望したことがきっかけだった。
飯塚さんは性別に違和感があり、スカートが苦痛だった。担任に相談すると、男女共通の体育着を着ることは許されたが、校内で一人だけの「浮いている」状態に耐えきれなくなった。
女子も選べるスラックス 中学校制服、LGBTに配慮
社会
2019/2/4
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性別に関係なく自由に制服を選べる公立中学校が増え始めた。埼玉県新座市立第六中学校は1月、スラックスとスカートを自由に選択できる制度を導入。来年度からは東京都中野区なども同様の仕組みを取り入れる。福岡市は男女共通の制服デザインを検討中。学校現場で「性別と服装の不一致」に悩む子供への配慮が進みつつある。
埼玉県新座市立第六中学校では1月から女子生徒もスラックスを選べるようになった(同中学校提供)
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埼玉県新座市立第六中学校では1月から女子生徒もスラックスを選べるようになった(同中学校提供)
新座市立第六中学校は1月、女子生徒の制服を従来のブレザーとスカートに加え、スラックスを選べるようにした。きっかけは2018年7月の学校指定品検討委員会。保護者から制服について「小学校では女子児童もズボンをはいている。中学校も導入してはどうか」との声が上がった。
学校は同年10月、学区内の小学5~6年生の保護者350人にアンケートを実施。スラックスの導入には350人中195人が賛成した。「どちらでもない」は126人、「反対」は29人で肯定的な意見が半数以上を占め、導入を決めた。
今日は、午前10時30分から、午後4時過ぎで外出していた。
取手ひなまつりは15周年。
午前11時に、取手駅東口芝生広場で、坂東太鼓の演奏で、ひなまつりの雰囲気が盛り上げられた。
太鼓演奏の中ひなパレードがスタートした。
交通規制されいないため、車の渋滞の列が続く。
家人から約束どおりの携帯電話。
3分間の中で3度も携帯電話の着信があったのに、気づかない。
「どこにいるの?!、何度電話を掛けさせるの!」と家人は怒る。
詫びながら、「今、鰻の浦島のテントの傍いいる」と返事をする。
1000円のうな重を買う。それは夕飯にする。
昼はそばにした。
偶然、藤井市長が来ていて、テント販売の蕎麦を食べていた。
蕎麦を我々も食べてから無料の巡回バスに乗るために、取手駅前へ戻る。
ついでに、新六の甘酒サービースを受ける。
取手福祉会館(八坂神社前)からバスに乗る人もいた。
藤代ギャラリー(川口自動車)のひなまつり展示が一番充実している。
だが、バスの9割の人は下車しない。
バスの補助担当女性は、取手福祉会館のみを強調している。
キリンビールで2人下り、白山ギャラリーで5人が下りた。
白山ギャラリーのことも浸透していないようだ。
大半の人は、取手市内をバスにのったままで、肝心なひな展示会場を素通り。
イタリアの『鉛の時代』全体の流れを大きく俯瞰するために、『緊張作戦』に関わる主要な事件、事象を年代順に羅列してみます (Wikipedia Italiano、書籍”Gli Anni fra cane e lupo”を一部 参照しました。イタリアン・ポップアートで一世を風靡したマリオ・スキファーニ、68年の作品)。
この時代には、現在ローマの市政を揺るがす事件、『マフィア・カピターレ』の中心人物、元ネオファシストグループメンバー(Nucrei Armati Rivolutionari=NAR)としても名を馳せる、マッシモ・カルミナーティが主要メンバーとして核をなしたBanda della Magliana(バンダ・デッラ・マリアーナ)と呼ばれるローマ・マフィアも生まれています。このローカル・マフィアは、『鉛の時代』に起こったいくつかの事件の末端に頻繁に名前が現れ(『アルド・モーロ元首相誘拐、殺害事件』など)、国家のシークレット・サービスと連携、急速にローマの裏社会で勢力を持つに至りました。
また、当時、教会との繋がりをも噂された犯罪組織でもあり、1983年6月に起こった、深い闇に包まれたまま現在も未解決となっているヴァチカン教皇庁職員の15歳の娘、エマニュエーラ・オルランディの失踪事件に、当時のボスであったデ・ペリス(死亡)が深く関わっている、という根強い疑いをも持たれています。高校生の少女のこの失踪は、ヴァチカン、イタリア国家、アンブロゾーリ銀行、各国シークレットサービスが暗躍する、きわめて複雑な二重三重に真相が隠された事件に発展しました。
マッシモ・カルミナーティは、といえば1981年、『ボローニャ駅爆破事件』に使われた爆弾の原料となるT4を所持していたなどの罪状で、SISMI-Servizio Informazioni e Sicurezza Militari(SID 内務諜報局分裂後に形成された軍部諜報局)の大佐、さらに秘密結社P2のリーチオ・ジェッリとともに起訴されましたが、のちの裁判で『無罪』となっています。さらにP2のメンバーでジャーナリストの『ミーノ・ピコレッリ殺害事件』の実行犯として起訴されながら、これも『無罪』。その後娑婆に舞い戻って、ローマ市政を巻き込んで、裏表の社会を取り仕切るほどの権力者にまでのし上がってもいた。ちなみにこのジャーナリスト殺人事件では元首相ジュリオ・アンドレオッティが起訴され、有罪判決を受けながらも一転、『無罪』となりました。
いずれにしても、この時代に逮捕、起訴された主犯、実行犯と目される当時のネオファシストたち、さらに『赤い旅団』の主要メンバーたちは、たとえ最高裁まで裁判が繰り返されたとしても、現在ではほとんどが出所、小説を書いたり、通常の社会生活を送っているという事実も記しておきたいと思います。
さて、これから少しづつ『鉛の時代』に関するいくつかの事件、または現象をリサーチしていくつもりですが、まずは大きな流れを年代順に追ってみたいと思います。それぞれの事件を扱った多くの書籍、映画、報道番組が存在し、Youtubeではたいていの事件についての映像、TV報道番組、写真がアップされてもいます。
なお、以下の年表では、イタリアの当時の政府、内閣に関する詳細記述を幾分省略しました。さらにこれら以外にもローマ、ミラノ、ボローニャをはじめとするイタリア各地で大規模な政治的武装衝突、マフィアとの連動も指摘される殺人事件、真相が明らかになっていない失踪事件などが多くあることも、付け加えておきたいと思います。
多くの無辜の市民の生命を奪い、若者たちの人生を狂わせた、陰謀と流血、虚栄と野望と絶望が渦巻くイタリアの『鉛の時代』。その物語を現在から俯瞰するうちに、先進国と言われる国々に住むわれわれが、かつて『終戦』を迎えた、というのは、実は幻想なのではないのだろうか、という感覚に陥ります。第二次戦争大戦ののちの冷戦下、朝鮮半島、ヴェトナムなどアジアの国々、南米各国、東欧、中東、そして『ベルリンの壁』崩壊後は中東、アフリカへと戦火の矛先は集中していく。われわれの日常からは遠くとも、爆音と燃え盛る炎は、この地球上から消えたことがありません。
GladioーStay behind( グラディオ作戦ーステイ・ビハインド)のコード名を持つ国際諜報オペレーションを背景に、もはや市民戦争と呼べる騒乱にまで発展した1969年から1984年までの『鉛の時代』と呼ばれるイタリアの15年は、現代のローマの風景からは全く想像できない時代です。確かに現代でも、過去を彷彿とする活発なアンダーグラウンド・カルチャーの分野に、アンタゴニズムの痕跡が残っている。あるいはその時代から脈々と生き延びた地下犯罪組織と政治、経済界の強い絆が、突如として暴露されることもありますが、たとえば市民の日常であるデモが銃撃戦に発展するようなことは、当然のことながら皆無。「すわ!『鉛の時代』の再来か」と、国中がざわめいた2001年のジェノバ、G8サミット・アンチグローバルデモの混乱、警官によるデモ隊銃撃事件以来、「民主主義」の基盤を揺るがすような酷い事故は起こっていません。
先日のこと、日中でも夜の空気を漂わす、薄暗いカエターニ通りを歩いていると、壁に掲げられた「アルド・モーロ元首相」のメモリアルの石版を囲んで、教師と思われる熟年の女性が深刻な表情で事件の顛末を説明している場面に遭遇した。10人あまりの高校生らしい、無邪気な眼差しの少年少女たちは、もはや自分とは遠い世界、「40年も昔の物語じゃないか」という風に、あまり興味をそそられない様子で話を聴いていました。このカエターニ通りは1978年、極左テログループ『赤い旅団』に誘拐されたアルド・モーロ元首相が、ルノー4のトランクで無残に銃殺された姿で見つかった、重い記憶を残す通り。今の高校生たちにとって(わたしも同感ではありますが)ゲームや映画ならともかく、武装による『革命』、テロでイタリアで変革しようだなんて時代錯誤も甚だしく、さっぱり理解できないメンタリティなのでしょう。
『鉛の時代』(年表はこちらから)の15年間、イタリアでは大がかりな無差別テロで多くの市民が犠牲者となり、政治家、警官、司法関係者、資本家、ジャーナリストを狙った衝撃的な殺人事件、あるいは暗殺、自殺が途切れなく続きます。幾度となくクーデター未遂が摘発され、時代の空気に踊らされた学生、労働者たちが武装するまでに荒れ狂い、冷戦下とはいえ、国際諜報、イタリア軍部のシークレット・サービスたちが、極右テロ、極左武装勢力に入り乱れ、陰謀を巡らせる緊張の時代。やがて当時のイタリアにおける最大与党であったキリスト教民主党の党首であり、次期大統領とも目されていたアルド・モーロが極左テログループ『赤い旅団』に誘拐され、55日間に及ぶ監禁ののち殺害される、という、極端にエスカレートした事件が起こるほどの騒乱となる。この『アルド・モーロ事件誘拐、殺害事件』を境にイタリアは大きく変化した、と近代の歴史研究者たちは口を揃えますが、イタリアの何がどのように変わったのでしょうか。だいたい、この『鉛の時代』とは一体なんだったのか。
極左テログループ『赤い旅団』を軸に、東・西各国国際諜報の痕跡、リーチオ・ジェッリをはじめとするフリーメーソン秘密結社ロッジャP2メンバー、イタリア軍部のアンチコミュニスト秘密諜報組織であるSIFER幹部の暗躍が囁かれ、ジュリオ・アンドレオッティ、フランチェスコ・コッシーガという、その後の国政の核を担う政治家たちの権力欲が渦巻く、この『アルド・モーロ元首相誘拐、殺人事件』については、別項でまとめたいと思っているので、ここでは詳細を述べません。
しかし強調したいのは、その時代を生きた市民たちは、メディアが流し続ける政府、軍部の公式発表を少しも疑うことなく、『スターリニズム』を狂信する、邪悪なテログループ『赤い旅団』の思い上がった単独犯だ、と長きに渡って信じていたということです。いや、ひょっとしたら、いまだにそのオフィシャルな情報を信じる人が、イタリアには多く存在する可能性もある。実際、過去の事件の経緯が真実でも虚構でも、目の前の生活の方がよほど大切なわたしたちは、自分には関係のない話だと、あまり関心を寄せない傾向があります。
真っ赤な五芒星のシンボルフラッグ、誘拐写真と公開脅迫文、『アルド・モーロ事件』をきっかけに、突然凶悪になった『赤い旅団』の、資本家、司法関係者、ジャーナリストとターゲットを定め、とどまることなく続く誘拐と銃撃、そして殺戮。また、裁判での、メンバーたちの太々しい態度が繰り返し報道もされ、『赤い旅団』は狂気のテロ集団、というイメージが、今でも人々の脳裏にくっきりと焼きついている。
その時代、他の極左グループに属して、政治活動をした経験のある年代の人々は一様に「Brigatisti(赤い旅団メンバー)を支持するなんてとんでもない。言っておくけど、自分は全く関係ないからね。われわれは平和的(?)な運動をしていたんだから。だいたい武装などありえないじゃないか」と顔色を変えて断言し、『赤い旅団』を肯定する人物には、まず、なかなか会うことがありません。それでもたとえば、人気作家エンリ・ディ・ルカなどは、潔く『赤い旅団』のメンバーをCompagno–仲間、と呼んで、病死した『赤い旅団』のメンバーにオマージュを捧げている。時代を共有し、事情をよく知る人々の中には、肯定はしなくとも、断罪もしない人々がちらほら存在します。
この、そもそも武闘派で、過激ではあっても殺人を犯したことがなかった『赤い旅団』のイメージを、『革命』の赤から『血塗れ』の赤に塗り替えたのが『アルド・モーロ事件』でした。その事件の裏に渦巻いたと推測される陰謀に迫る多くの書籍、ドキュメンタリー、名作映画が発表されていますが、その中には『赤い旅団』単独説をあっさりと覆した、事件当時の『赤い旅団』メンバー取り調べ主任であった検事、イタリアの司法界の重鎮(さらに元上院議員)でもあるFerdinando Inposimato(フェルディナンド・インポジマート)も含まれている。
ベストセラー『イタリアを変えた55日』の著者であるインポジマートは、「自らが検事主任としてテロリストたちのインタビューに直接関わったのち30年の間、『赤い旅団』の背後には『赤い旅団』しかいない、と陰謀説を一笑に伏していたが、事件に関するシークレット・サービス、ロッジャP2の動きに浮上するあらゆる疑問を裏打ちする証拠、証言を掴むうちに、単独説は間違いであった、と確信を抱いた。『赤い旅団』は確かに陰謀に使われた」とはっきり語っています。さらに言うならば、『赤い旅団』のテロリストたち自身も、自分たちの置かれている状況を充分に把握できないまま、イデオロギーに憑依され、虚栄と野心、『ブルジョア打倒!プロレタリアート革命!』と欲動に突き動かされたメンバーもいたのではないか、と思える状況も垣間見える。
グラディオ–ステイビハインドと、その時代背景をもう一度見直さなければならないのではないか、と考えたのは、このBrigate Rosseー『赤い旅団』に関する書籍を何冊か読んでいた時です。フィアットなど当時イタリアの経済を牽引していた大工場での派手な爆弾騒ぎや、資本家、司法関係者の誘拐(75年までの『赤い旅団』による誘拐の被害者はすべて釈放)ののち、75年以降、彼らが急激に常軌を逸し、みるみるうちに凶悪な殺人集団に変遷を遂げる過程に不自然さを抱いたのがきっかけでした。また、創立メンバーのインタビュー、事件を扱った書籍や映画、ドキュメンタリーを調べるうちに、この時代のイタリア極左活動に関わった若者たちのメンタリティは、戦中戦後まで遡らなければ理解できない、とも改めて気づいた。
畢竟、『鉛の時代』のイタリアの動乱には、ファシスト政権崩壊に向けて半島沿岸に上陸した戦勝国、米国軍の、欧州におけるソ連侵攻を地政学的に防衛するためのオペレーション–のちのグラディオのみならず、戦前戦中と、完全武装でファシスト政権に立ち向かったパルチザンのレジスタンス運動の大きな影響があることも否めないのではないかと思います。つまりレジスタンスを繰り広げたパルチザンは、武装に走った極左勢力の青年たちの 、祖父であり、父であり、モデルでもある、ということです。また、パルチザングループの大部分を構成していたのは、米国の仇敵『ソ連』、マルクス・レーニン主義に忠誠を誓った共産党員、共産党支持者たちでもありました。イタリアは、その共産主義者たちの勢力があまりに強大だったために、米英露で『ヤルタ会談』が開催された瞬間から始まった、『冷戦』という途切れない戦争シナリオに、戦後も巻き込まれていった、というわけです。
『鉛の時代』に起こったひとつひとつの事件を巡るアーカイブは膨大です。司法関係者、政治家、ジャーナリスト、元テロリストたちの回顧録、告発インタビュー、元CIAエージェントの告白など、関連書籍も星の数ほどある。つい先ごろも百科事典ほどの厚みのある『赤い旅団』という3人の学者によるリサーチが出版されたばかりです。このように「これでもか、これでもか」と関連書籍が次々に出版、再版されるため、果たしてどの説が真実なのか、どの見解が的を得ているか、逡巡して絶望的な気持ちにもなることもあります。しかし同時に、この時代が現代のイタリアにとって、どれほど大切な物語を孕んでいるか、ということをも再認識しています。
『鉛の時代』の幕開けとなった『フォンターナ広場爆破事件』(I、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ)直後の1970年、そのオペレーションの存在を暴露、弁護士エドアルド・ディ・ジョバンニ、ジャーナリスト、マルコ・ジリーニらの共著、当時は匿名で出版され、多くの左翼系の若者たちのバイブルとなった有名な書籍『La Strage di stato (国家による殺戮)』。完全な筋書きではないとはいえ、巷間ではすでに密かに語られていた、CIA-イタリア軍部による極秘オペレーションの内容が、時の首相ジュリオ・アンドレオッティが送った政府議会への書類で公に明らかにされたのは、「ベルリンの壁」崩壊後、1990年、10月17日(この書類は、随所検閲が入り加筆訂正され、「正式」なものが公表されたのは10月24日)のことです。
また、翌年にはオペレーションに関わったオフィシャルな622名のグラディエーター(文字通り、諜報として極秘のオペレーションを実施した戦士たち)のリストも公開されています。
グラディオは戦後、CIA、NATOが『脅威』とする共産勢力の侵攻から欧州各国を防御するため、極秘中の極秘としてオーガナイズされた各国シークレット・サービスによるClandestino( クランデスティーノ– 非合法、地下活動)オペレーション。イタリアにおけるグラディオ、「ステイビハインド(後方につけ)」は、CIA、イタリア軍部「アンチコミュニスト」諜報秘密組織SIFARの合意のもとでプロジェクトされ、のち国防情報庁SID、SISMIと共同で進行していきます。グラディオの正式な由来は、1951年に実施されたパリの会議での、「米国主導の反共産主義のための地下組織と計画」国際秘密合意とされますが、共産党勢力がきわめて強かったイタリアにおいては、戦後間もない時期から、すでにこのオペレーションの兆候が見られます。
しかし、イタリアという国は、わたしにとっていつまでたっても謎深い国です。通常は公表されることはないであろうシークレット・サービスの地下活動の機能と構成(詳細は述べられないまま)を、冷戦後とはいえ、その中枢にいた首相自ら公表するという行為は、歴史上、稀な例ではないのか。また、公表をもって「脅威から国を守るためには仕方がなかった」と、国家が絡む殺戮事件の数々を決定的に正当化したアンドレオッティの行為も、ある意味、複雑な倫理体系を持つイタリアらしい、老獪でしたたか、「われわれのせいじゃないですよ」という、あてつけがましい正直さを感じます。
いずれにしても、国を混乱に陥れ、大勢の人々の生命を奪い、運命を狂わせた、まさに『神』のごとき全能のオペレーションのもと、数々の大型無差別テロ事件の実行犯とみなされる極右テロリストグループ、SIFAR、SID、SISMIのシークレット・サービス、CIAエージェント、P2メンバー、政治家の誰ひとり、『有罪』判決を受けていない。カトリックの「あの世」で用意された『最後の審判』では地獄へ堕ちたかもしれませんが、現実世界の司法は彼らの罪を裁いていません。
さらに、あれこれ資料を読んでいくうちに、この関係者たちは、『米国との同盟の重要性』、『反共産主義』という米国への忠誠、政治信念からのやむをえない行動、というよりは、実際のところは個人の悲願達成、あるいは政治生命、権力の確立、既得権益のためにグラディオを利用した面もあるような印象を受けます。また、この時代の極左のテログループの動きが、ターゲットを定めた政治テロが主であったことと比較するなら、国家が絡むグラディオに忠誠を誓った極右テログループのそのほとんどが、無辜の市民を巻き込む無差別テロを実行している。あらゆるテロ行為は唾棄すべき、許しがたい犯罪ですが、この有り様にイタリアの極左、極右テロの性格が表れているかもしれません。そして政治の『正義』はいつも、その時代の権力側にある。
『鉛の時代」のあらゆる事件、あらゆる政治グループの背後には、とても人間業とは思えない、周到に張り巡らされたInfiltrati (諜報潜入)があります。その潜入者たちが暗躍し、司令に従って冤罪を演出、陰謀を張り巡らし、騙し、裏切り、対立するグループの憎悪を煽り立てた。またテロ組織への資金、武器の供給(CIA、NATOだけでなく、KGBをはじめ、東欧諸国のシークレット・サービスも参入し)ルートの確立をも幇助しています。
しかしこのような、複雑怪奇に構成されたステイビハインドというオペレーションは、そもそもどのような状況から生まれ、発展したのか。そこでここから、元イタリア共産党(PCi)議員で、アルド・モーロ事件、ロッジャP2、アンチマフィアの国会議員捜査委員会のメンバーでもあったSergio Flamigni (セルジォ・フラミンニ)編、KAOS出版、Dossier Gladio (グラディオ・ドキュメント、2012年)、またイタリア国営放送Raiの歴史番組、主要紙の記事を参考に、探っていきたいと思います。
なお、このステイビハインドは、1943年、米国軍上陸とともに、CIAが当時収監されていたシチリア出身のNYマフィアのボス、ラッキー・ルチアーノをイタリアに逆輸入、ボスの親戚縁者であるシチリアのマフィアを使った地域のコントロールをはじめたあたりから、片鱗を見せはじめる。そもそもマフィア組織の価値観は共産主義者とは折り合いがつかず、CIAは『鉛の時代』においても、マフィアのその特徴を利用したかったのではないか、と推論するジャーナリストも存在します。
イタリアは日本と同様、第二次世界大戦の敗戦国ですが、日本と大きく異なるのは、ファシズムに敵対しレジスタンスを繰り広げていたパルチザンが存在し、彼らにとって敗戦は『自由』を勝ちとった勝利の瞬間でもあった、ということでしょう。また、ムッソリーニ政権の侵攻に、激しいゲリラ戦を繰り広げたパルチザンのほとんどは共産党員、マルクス・レーニン主義の革命支持者でもあり、米国は、この国民の『英雄』でもあるパルチザンのレジスタンスを背景に持つ共産党の、国内政治における影響力の増大、選挙での躍進を何より恐れていた。当然ではありますが、ゲリラ戦を繰り広げていたパルチザンの武器は、ソ連、あるいは東欧諸国から供給されていたはずです。
イタリアでは戦後まもなく、サヴォイア家による「専制君主政治」か、「共和制」かを巡る、イタリア初の国民投票が行われ、その国民投票で共和制支持が54.3%の票を獲得して勝利。現在のイタリア共和国が誕生するのは1946年のことです。なお、パルチザンには共産党員だけでなく、サヴォイア家による専制君主政支持、カトリック支持が少数ながら存在し、特に共産主義支持と君主政支持のパルチザングループはレジスタンスの間も激しく反目していました。また、共産党パルチザンにとって敗戦ののち国民投票で勝ち取った「共和制」は勝利であっても、君主政支持のパルチザンにとっては、大きな敗北でもあった。そしてこの、両極端のパルチザンの反目と憎悪が、のちのステイビハインドに大きく反映されていくことになります。
というのも、70年代に、未遂に終わったとはいえ、クーデターを企て取り調べを受けたエドガルド・ソーニョをはじめとする君主政支持、アンチコミュニストのパルチザンたちが、軍部の諜報秘密組織SIFARをはじめとする、ステイビハインドの中枢を担う重要なポストについていたからです。したがって『鉛の時代』の心理的な対立は、レジスタンス時代から脈々と続いたパルチザングループの反目、幾度となく企てられたクーデター未遂は、君主政支持の悲願に端を発するという経緯もある。このエドガルド・ソーニョという人物は、『赤い旅団』の初期中核メンバーが「何故ここに、こんな人物が、と不思議に思った」という人物と深く連帯する、オペレーションの随所に名前が挙がる要注意人物です。
さて、グラディオがグラディオの名を持つ以前、戦後まもないメーデーの日にシチリアで起こった事件は、注目すべき『鉛の時代』の予兆と呼べるかもしれません。その事件が起こったのは、「ナチファシズム同様、市民から自由を奪う全体主義の共産党勢力が強くなった国には米国が介入する権利を持つ」というトルーマン・ドクトリンが宣言された1947年(事実上の冷戦宣言)のことです。
シチリアののどかな農村地帯、ポルテッラ・デッラ・ジネストラの人々は、長い戦争がようやく終わり、ファシズムからも解放され、誰もが華やいだ気分でメーデーを迎えていた。共産党を支持する、その村の農民たちは家族とともに大挙して広場に集まり、メーデーを祝うフェスタに興じていました。ところが突如、そこに集まった人々を標的に、広場のすぐ裏にある丘の上から激しい銃撃が開始され、その銃撃で11人が死亡、57人が重軽傷を負うという大惨事が起こった。
当時、犯人は地域の札付きのチンピラ、マフィアグループと断定されましたが、のちの調査で、軍部でなければ所有できない武器が銃撃に使われたことが判明、犯行にファシスト、軍関係者が関わっていた可能性が浮上しています。CIAがNYから連れてきたマフィアのボス、ラッキー・ルチアーノの采配で、シチリアのマフィアたちが地域を管理しはじめた時代の出来事です。市民レベルでは長い期間、調査が行われたにも関わらず、当局の捜査は早々に打ち切られ、迷宮入りになっています。うがった見方をすれば、ジネストラの銃撃は、イタリア共産党、共産党支持者への「見せしめ」だったのかもしれません。
ドキュメンタリー映画『獄友』。
登場するのは、いわれなき無実の罪、"冤罪"を訴えながらも、殺人犯として人生の大半を獄中で過ごしてきた人たちだ。
「冤罪を背負うって、本当に辛い。でもそこから解放された喜びを少しでも多くの仲間に伝えたい」。そう話す桜井昌司さん(71)も、茨城県利根町で大工の男性が殺害された「布川事件」(1967年)の冤罪で人生を奪われた一人だ。
事件当時、有力な手がかりを掴めず捜査が難航したことから、警察は現場付近の前科者などを対象にアリバイを追及。そして目をつけたのが、不良だった桜井さん(当時20歳)と杉山卓男さん(当時21歳)だった。警察は"アリバイがはっきりしない"として、2人を別件の窃盗容疑などで逮捕した。
「確かに当時の私は悪かった。同級生のズボンを質屋に入れて逮捕された。仕事も真面目にしていなかった。事件の3日くらい前に会社を辞めてしまっていたのに、おふくろには仕事していると嘘を言っていたから、警察の聞き込みに"親方の家に泊まった"と言っちゃった。それで一気に犯人だとされたのだと思う。取り調べでは窃盗のことはほとんど聞かれず、ずっと強盗殺人のことばかだった」。
強引な取り調べも受けた。「お兄さんのところに行っていた」という桜井さんの主張に対し、警察は「お前のお兄さんは来ていないと言っている」と嘘をついたのだという。
「"いや、お前のアリバイは違う。嘘だ"と言われて、黙っているしかない。すると"桜井、言い訳を考えてるな。黙っていてもどうしようもねえんだ。お上にも自信があるんだ。素直に認めろ、人生やり直せ"と。精神的に殴られ続ける痛みに耐えられなくなると、人は"やった"と言ってしまう。警察が嘘を言うとは思わないし、自分が間違っていたと思ってしまった」。
■"共犯者"の存在が心の支えに
強制された"嘘の自白"が証拠とされ、2人は強盗殺人の罪で再逮捕される。「杉山の自白が桜井の犯行を証明して、桜井の自白が杉山の犯行を証明するんだから、本人の自白だけで裁判をするのではないと裁判官は言っていた」。
それでも裁判の中で無実が証明されると思っていたという桜井さんだったが、11年後の1978年7月、最高裁は出した結論は「無期懲役」だった。「目の前が暗くなった。暑い日だったらしいんだけど、自分にとっては寒い一日だったとしか覚えていない」。
それでも懸命に生きようと心に決めた。「刑務所にいようと社会にいようと同じだ。今日は一日しかないという人生観、思いで生きようと思った」。行動に制限がつきまとう日々の中で、心の支えになったのは、"共犯者"の杉山さんだった。
「殴り合ったこともあるが、それでも再審を戦うことを諦めなかったのは、お互いの無実を知っていたから。自分の無実を知っている人がいるという安心感があったのは他の冤罪の方と違う」。
1983年、獄中から再審請求を行った。約10年間にわたる審理の末、請求は棄却。それでも諦めなかった桜井さんは、仮釈放後の2001年に2度目の再審請求を行う。すると一転、2005年に再審開始が決定したのだった。
再審のきっかけの一つが、検察側が新証拠として提出した自白の録音テープだった。
当初は存在自体が否定され、事件から35年ぶりに表に出てきたテープには不自然な痕跡があり、桜井さんとのやりとりが編集されていたことが分かった。「"ちゃんと殺しをしたと言えや"と取調官に言われたことを思い出す。調書通りに喋りなさいというだけだった」。
裁判では有力な証拠とされた自白の信頼性が根本から揺らぐことになり、2011年5月、事件から44年を経て2人はついに無罪を勝ち取った。
■「警察・検察は冤罪を減らす努力をしていない」
判決直後、「証拠隠しのせいで裁判官が誤った判決を出したということにも触れてもらいたかったが、全然触れなかった。謝罪は私はいらないと前から言っているが、それは不満だった」と話した杉山さんは2015年に69歳で亡くなった。
妻の恵子さんと平穏な生活を送っている桜井さんは、「やっぱり俺と杉山でないとわからない思いがある。ある意味、兄弟とか、そんなものよりもっとすごい。好きとか嫌いじゃない、俺たちは」。
そして今、同じ境遇で無実の罪を訴える人たちを支援する活動を行っている。「真面目な警察官の方もたくさんいらっしゃるが、警察組織は腐っている。逮捕状を取ったら、その容疑者が100%犯人だと確信し、否認しても信じない。証拠を捏造したり、嘘を言ったりした警察官を裁くこともしなければいけない。検察庁に至っては桜井・杉山の自白は確かに間違ったが、最初にやったと言ったのが真実だと言い始めている。腐っている。冤罪をなくしたいと願っている我々から見て、何も前進していないように見える」と憤った。
■元裁判官「司法制度の問題点を改めなければならない」
著書『絶望の裁判所』などを通じて司法の内幕を告発し続けてきた元裁判官の瀬木比呂志氏は「日本の裁判の特徴として、自白を非常に重視する。自白が出ると、脆弱な証拠でも認めてしまうという傾向はあると思う」と話す。
再審請求が認められ、そして冤罪と認められるまでには長い時間と高いハードルが待ち受けている。
瀬木氏は「日本は組織の縛りが強いので、それなりに良心を持っていても組織に押されてしまう。裁判官でも自分の良心に従っている人がどれだけいるのか。とくに刑事の裁判官は、とにかく自分の裁判所や検察の非を認めるということをなかなかしたがらないし、検察が言うことが正しいという考え方が強い。
再審についても、明白な新証拠が出てきたとか、真犯人が出てきたとか、そういう場合には認めるが、そうでなければ審理自体を開かない。ちゃんとした裁判官は"証拠を出しなさい"と強く言うが、それがなければ検察が出さないということがある。
個人の善意や良心に頼るのではなく、証拠は全部出すという制度を作らないと、どうしても小出しになってしまう。世間一般とは隔絶した世界で、制度自体も非常に密室的でピラミッド型。もっと裁判官の任用・昇進や異動を中立的な委員会にさせればぐっと変わってくる」と説明。
「冤罪は日本だけの問題ではなく、どの国でもある。冤罪というのは、刑事司法の病。絶対にあるので、どれくらい少なくできるかということと、起こらないようなシステムをいかに作るかということしかない。
取り調べを全部カメラで可視化するだけでも本当に変わる。また、起訴されても第一回公判期日が来るまでは自白をしていないと出してもらえない日本の特殊な"人質司法"の問題もある」と指摘した。
(AbemaTV/『AbemaPrime』より)
2/22(金) 10:23配信
菅義偉官房長官は20日の記者会見で、首相官邸が東京新聞記者の質問権を制限するような要請を官邸記者クラブに出した問題に関し、官邸側が東京新聞に「記者が国民の代表とする根拠を示せ」と要求していたことを明らかにした。
東京新聞は20日付の朝刊で一連の問題を検証する記事を掲載。2017年の秋以降、官邸側から「事実に基づかない質問は厳に慎んでほしい」など9件の質問が文書であったと報じた。
記事によると、昨年6月の記者会見で、記者が森友学園に関し、財務省と近畿財務局の協議について「メモがあるかどうかの調査をしていただきたい」と聞くと、官邸側は「記者会見は官房長官に要請できる場と考えるか」と文書で質問。東京新聞が「記者は国民の代表として質問に臨んでいる」と主張すると、官邸側は「国民の代表とは選挙で選ばれた国会議員。貴社は民間企業であり、会見に出る記者は貴社内の人事で定められている」との反論があったという。
菅氏は20日の会見で、検証記事に関し「個人的には違和感を覚えるところもある」と指摘。具体的に問われると「コメントは控えたいが、東京新聞側はよくお分かりになっているのではないか」と述べた。
官邸側の対応について、田島泰彦・元上智大教授(メディア法)は「権力が一方的な考え方を押しつけてきており、本末転倒だ。記者は市民が共有すべき事柄を、市民に成り代わって取材し伝えている。
広い意味で、知る権利に応える国民の代表である」と指摘した。
西日本新聞社
“20人に1人”に起こる「せん妄」の予防法
2/22(金) 17:01配信 AbemaTIMES
「乳首をなめられた」訴えられた医師に無罪判決、“20人に1人”に起こる「せん妄」の予防法
男性医師に無罪判決
手術後の女性の胸をなめたとして医師が訴えられた裁判で、女性が「せん妄」状態だったとして医師に無罪判決が言い渡された。誰にでも起きる可能性があるせん妄とは。
「100日以上、警察もしくは拘置所で身体を拘束され、社会的な信用を失い、職を失い、大変な思いをしました」
男性医師は2016年、都内の病院で乳がんの手術をした30代の女性患者に対し、全身麻酔の影響で意識が朦朧としているなか胸をなめるなどした罪に問われていた。
しかし、東京地裁は20日、男性に無罪判決を言い渡した。
「乳首をなめられた」訴えられた医師に無罪判決、“20人に1人”に起こる「せん妄」の予防法
弁護側は「犯行は不可能」と主張
裁判で争われたのは、被害を訴えた女性の証言の信用性とDNA型鑑定の結果をどうみるか。
女性は手術後、医師と2人きりになった時に乳首をなめられ、医師は自慰行為に及んでいたと訴えていた。
一方の弁護側は、当時4人部屋は満床で、看護師も出入りしており、カーテンのすぐそばには女性の家族もいたことから犯行は不可能と主張。判決では、女性がせん妄の状態、つまり麻酔から覚める際に性的な幻覚を体験していた可能性もあるとして、その証言の信用性に疑問があるとした。
「乳首をなめられた」訴えられた医師に無罪判決、“20人に1人”に起こる「せん妄」の予防法
「せん妄」とは
そもそも、せん妄とはどのようなものなのか。せん妄を研究する国立がん研究センターの小川朝生医師は次のように話す。
「入院中の2割から3割に出現する精神症状。幻視・幻覚・妄想というのも(せん妄のうちの)3割から5割くらいで出る。乳腺に関する手術は術後のせん妄に関する調査があり、比較的(せん妄の)割合が高いという印象。手術後の痛みが強い、コントロールが難しいとせん妄を悪化、長引かせることが知られている」
「乳首をなめられた」訴えられた医師に無罪判決、“20人に1人”に起こる「せん妄」の予防法
せん妄発症は“20人に1人”の調査結果も
イギリスの麻酔雑誌に掲載された論文によると、1359例の成人患者(15~99歳)を対象に行った調査で、せん妄を発症したのは64例(4.7%)。統計学的にせん妄の危険因子となるのは(1)術前のベンゾジアゼピン(麻酔)投与、(2)乳房手術、(3)腹部手術、(4)長時間手術で、年齢的な有意差はないという。
しかし、女性はせん妄状態ではなかったと主張。判決について、男性医師の代理人・趙誠峰弁護士は「両方が被害者」との見方を示す。
「彼女が体験したせん妄下の出来事は麻酔の副作用かもしれないが、(彼女は)医学的なせん妄の被害者。一方で被告人になった外科医の方は、自分がやっていないことで身体拘束・刑事訴追されるという冤罪の被害者と考えていた。
彼女がウソつきだとか、わざとウソをついているとは全く考えていない。せん妄下で、彼女の中ではまさに現実に体験したことを話していると思った。今回のようなケースは海外でも報告されている」
「乳首をなめられた」訴えられた医師に無罪判決、“20人に1人”に起こる「せん妄」の予防法
東京保険医協会も訴え
また、東京都の医師の団体・東京保険医協会は「患者さんの診療や手術をした後にこんなことに巻き込まれるかもしれない、いつ警察に逮捕されるかということになれば、医療をやっていられますか」と訴えた。
裁判のもう1つの争点は、女性の胸から男性医師のDNAが検出されたことに関する評価だ。検察側は男性医師が女性の胸をなめた証拠としていたが、判決では、会話の際に飛んだ唾液が付着した可能性や触診の際に付着した可能性もあるとした。
「乳首をなめられた」訴えられた医師に無罪判決、“20人に1人”に起こる「せん妄」の予防法
女性側は検察に控訴するよう訴え
この判決について、女性側の弁護士は「なめられた部分は証拠だから、気持ち悪いけど証拠だからと被害者がずっととっておいた部分を調べてもらったらDNAが出た。これが客観的証拠」「こんなに細部も荒いというか雑というか、誤った認定を見たことがなくて、心の底から驚いている」と主張。女性側は検察に控訴するよう訴えている。
小川医師によれば、せん妄は痛みをコントロールすることや症状を知ることで予防につながるという。
過去に首を骨折しアメリカで大手術を受けたというアーサー・ホーランド牧師は「麻酔を打つ時に、副作用のみならずいろいろな説明を受けた。手術が終わったら目が覚めて、僕はすごく気持ちが良かったという経験があるが、せん妄に関する知識がない人がほとんどだと思う。知識が広がるべきだし、医者側の説明も必要だと思う」と述べた。
(AbemaTV/『けやきヒルズ』より)
事実その一「共産党はドイツで憲法違反」、その二「共産主義で失われた人命は五〇〇〇
万人超」、その三「トップの任期は制限なし」、その四「いまも目指す天皇制廃止」…
党員三〇万人、国と地方合わせて約二八〇〇人の議員を擁する巨大組織の本質を見誤って
はいけない。
史的唯物論などの独自理論から組織、歴代書記長、資金、綱領まで、共産主
義と日本共産党を知るうえで必要な基礎知識。危険性と問題点を露わにする。
(目次)
はじめに
第一章 共産主義とは、独裁政治である
1 共産主義を拒否した欧米
2 共産党非合法化を拒否した吉田茂
3 日本共産党と野党の反比例関係
第二章 そもそも共産主義とはどういうものか
1 共産主義の基本
2 マルクスのどこが間違っていたか
3 民主集中制は独裁国家への道
4 日本共産党の民主集中制
5 「細胞」は独裁国家への道
6 「中央委員会」は中央集権型
第三章 日本共産党の歴史
1 戦前の日本共産党
2 戦後占領下での発展と平和革命路線
3 五一年綱領の暴力革命論と五〇年問題
4 敵の出方論と自主自立への道
5 ソ連・中国二つの干渉攻撃との闘い
6 二〇〇四年綱領の時代と「共産党は除く」との闘い
7 党員数と機関紙読者数の変遷
第四章 革命家たちの物語
1 徳田球一の物語
2 宮本顕治の物語
3 不破哲三の物語
第五章 二〇〇四年綱領を読む
1 「一 戦前の日本社会と日本共産党」
2 「二 現在の日本社会の特質」
3 「三 世界情勢――二〇世紀から二一世紀へ」
4 「四 民主主義革命と民主連合政府」
5 「五 社会主義・共産主義の社会をめざして」
第六章 闘う民主主義への道
1 ドイツではなぜ共産党は違憲なのか
2 山本勝市の『マルクシズムを中心として』を読む
3 民主主義を守るために
おわりに 参考文献
党員三〇万人、国と地方合わせて約二八〇〇人の議員を擁する巨大組織の本質を見誤ってはいけない。
史的唯物論などの独自理論から組織、歴代書記長、資金、綱領まで、共産主義と日本共産党を知るうえで必要な基礎知識。危険性と問題点を露わにする。
福冨/健一ふくとみ・けんいち
一九五四(昭和二十九)年栃木県生まれ。近現代史研究家。東京理科大学卒業。民社党政策
審議会部長、民主党政務調査会部長、自由民主党政務調査会部長代理等を歴任。著書に
『共産主義の誤謬 保守政党人からの警鐘』『重光葵 連合軍に最も恐れられた男』などがある。
2/19(火)
日本は稀有な国
「安倍一強」を許しているのは野党があまりにだらしないから、というのは衆目の一致するところ。特に旧・民主党への世間の風当たりは強い。くっついたり離れたりを繰り返していて、何だかよくわからないからだ。
一方で、共産党に対しては一定の評価をする向きもいる。とにもかくにも一貫性はある、ぶれていない、というあたりが代表的な声だろうか。根強い支持層を持ち、現在でも衆議院に12名、参議院に14名もの議員を擁している。
彼らの情報収集能力や国会での質問力には侮れないものがある。
もっとも、このように議会で共産党が活動している国は、実は先進国では稀有であることは意外と知られていない。
欧米ではほとんどの国で、共産党は国会に議席を持っておらず、それどころか活動を禁じられている国すらあるというのだ。
近現代史研究家の福冨健一氏の新著『日本共産党の正体』から知られざる共産党の実情を見てみよう(以下、出典を記していない引用は同書より)。
「1954年8月22日、『ニューヨーク・タイムズ』は、共産党を非合法化している国を調査しています。
同紙によると非合法化の程度は様々ですが、非合法化している国は、アメリカ、スペイン、韓国など約40カ国にも及んでいます。
違法ではないが制限している国は、西ドイツなど多数あります。
象徴的な事例として、西ドイツの例を見てみましょう。憲法であるドイツ基本法は、
第21条第1項 政党は、国民の政治的意思形成に協力する。その設立は自由である。……
第2項 政党で、その目的または党員の行動が自由で民主的な基本秩序を侵害もしくは除去し、または、ドイツ連邦共和国の存立を危くすることを目指すものは違憲である。……
と規定しています。
基本法は、第1項で政党の設立の自由を保障しています。
そのため、ナチスやソ連共産党のように、自由と民主主義を破壊する全体主義の政党、独裁政治を招く政党が誕生する危険があります。そこで第2項で『政党の設立の自由』の例外として、自由や民主主義を壊す政党、ドイツを危険にさらす政党の設立は認めません、憲法違反ですよ、としたのです」
そしてこの「憲法違反」の対象となったのが、ドイツ共産党だった。ドイツの憲法裁判所は「マルクス・レーニン主義を掲げていること」「政党の方針が自由・民主主義を破壊しようという意図があること」から「犯罪行為がないとしても憲法違反の政党である」という判断を下したのである。
こうした厳しい見解は、街中に共産党候補者のポスターがベタベタと貼ってあるのが日常の光景となっている日本人には違和感があるかもしれない。
しかしながら、海外では共産主義への見方は極めて厳しい。国際政治学者のズビグネフ・ブレジンスキーは「20世紀における人類の共産主義との遭遇ほど、無意味で大きな犠牲を引き起こしたものはなかった」と述べている(『大いなる失敗』)。
「ブレジンスキーによると、ソ連で殺戮された人の数は、革命期処刑者100万人、革命後処刑者200万人、貴族資本家等100万人、富農階級500万人、強制移住死亡者1千万人、粛清された共産主義者100万人、中国や東欧で失われた人命を加算すれば5千万人を下らないとのことです。
同様にユン・チアンとジョン・ハリデイは『マオ』で、『毛沢東は、7千万有余という数の国民を平時において死に追いやった』、ステファヌ・クルトワとニコラ・ヴェルトは『共産主義黒書』で『ソ連2千万人、中国6500万人』が粛清・殺戮されたと述べています」
こうしたことから共産主義への警戒感を持つ国が多いのである。
「現在、共産主義の国は、中国、キューバ、北朝鮮、ベトナム、ラオスの5カ国のみです。主要先進国で共産党が国会で議席を持っている国は日本とフランスのみで、しかも『モスクワの長女』と呼ばれたフランス共産党は、イタリア共産党が共産党の党名を捨て左翼民主党に変えたように、共産党の党名変更さえ議論し衰亡の危機にあります」
日本共産党の党員は今でも30万人以上。「野党共闘」が実現すれば、勢力をさらに拡大する可能性もある。
同党は、ことあるごとに現政権に対して「戦前」「ファシズム」といった言葉を持ち出して批判をするのだが、実際には日本は世界でも数少ない共産党に寛容な国だと言えそうなのだ。
デイリー新潮編集部
2/22(金)
TOKYO MX
東京・東久留米市の踏切で、市内に住む都立高校3年の男子生徒が電車にひかれて死亡しました。
電車の運転士は男子生徒が遮断器をくぐって線路に入ってきたと話していて、警視庁は自殺とみて調べています。
2月21日の午後11時10分ごろ、西武池袋線・ひばりケ丘ー東久留米駅間の踏切で、東久留米市に住む都立高校3年の男子生徒(18)が列車にひかれて死亡しました。
男子生徒は遮断器をくぐって踏切内に入ったということで、近くの住民が事故の直前、踏切近くに立つ少年の姿を目撃していたということです。
通報した男性は「近くに住む人が『会社帰り、男の人が立っていた』と話していた。近所の人以外も車で通ることはあるが、歩行者はあまり通らない」と証言しました。
男子生徒は17日の午後7時ごろ、「ちょっと行ってくる」と自宅を出たまま、行方が分からなくなっていましたが、家族から捜索願は出ていませんでした。踏切の
すぐそばにある公園に男子生徒が乗っていた自転車が残されていました。
警視庁によりますと、遺書はまだ見つかっておらず、男子生徒の家族は「学校やアルバイト先でもいじめられている様子はなかった」と話しているということです。
3月は東京都の自殺対策強化月間です。期間中は「自殺のサインに気付き、専門の窓口につなぐ門番」=「ゲートキーパー」の養成講座などが都内各所で開かれます。詳しくは、東京都福祉保健局の自殺総合対策担当に問い合わせるか、インターネットで「ここナビ」と検索してください。
家族以外でも、悩んでいる人の思いに気付いて受け止めることが他人の命を救うことにつながります。この機会にぜひ、理解を深めてください。
■東京都福祉保健局・自殺総合対策担当 電話:03-5320-4310
2/22(金) 21:02配信
東京・足立区の住宅の敷地から、およそ500人分の人の骨が見つかっていたことが分かった。
この場所で一体、何があったのか。
【画像】ゴミだらけ…人骨の保管場所
事件の発端は、2018年11月、この住宅で男性が死亡しているのが見つかったこと。
男性は、病死と確認されたが、その敷地内から大量の人骨が見つかったのだ。
現在は警視庁の捜査員が、数日がかりで回収して敷地内にはないとのことだが、近所の人によると「数十年前からいくつも置かれていた」といい、中には、埋まった状態のものもあったという骨。
実は、ここには以前、病死した男性の親族が営む標本業の会社があり、この会社で販売されていた標本の人骨は「先代がインドから輸入したもの」で、医学部の研究などに使用されていたという。
当時、この会社から標本を買ったことがあるという大学教授に取材した。
――人骨の輸入というのは…?
標本を買ったことのある大学教授:
(昔は)普通なことなんじゃないでしょうか。一般的ですね。頭蓋骨は上顎と下顎で上下そろってるもので30万くらいですかね。
2階に上がっていくと標本がたくさん置いてあって「どれにいたしましょうか」と選んでいた。最近はもう売れないんじゃないですかね、研究資料が発達してますし。
病死した男性の親族は今も別の場所で骨格標本会社を営んでおり、FNNの取材に対し「捨てたわけではなく放置してしまっただけ」と語った。
骨格標本会社社長:
何個も持っていたわけじゃないけど倉庫を整理してて、入らなくなったので外にカバーをかけて置いておいた。(目的は)標本です。できるだけ人目につかないところに置いておいたはずなんですけどね…
――捨てたわけではない?
骨格標本会社社長:
それはない。捨てるものではない。保管中で放置してしまったという感じですね。
警視庁は、大量の人骨が放置された経緯などを詳しく調べている。
(「プライムニュース イブニング」2月22日放送より)
プライムニュースイブニング
「何かをする際に話し合って決める」これが「政治」です。
「みんなで話し合ってルールを決めること。」学校や仕事ルールでも、話し合いという方式で決めるなら、それはすべて政治になる。
いったい政治家は何をしているのでしょうか?
政治家は国民の安心・安全に暮らせる街をつくり、そのために法律を作っています。実はその法律は毎日作らているというのはあまり知られていません。
政治家は国民が安心・安全に生活が出来るように法を作っていくのですが、雇用を生み出す施策や法改正なども国会で行っています。
例えば箱物行政といって野球選手やサッカー選手などのスポーツ選手が利用する競技場やプール、国民が訪れる美術館や博物館・劇場・庁舎・学校・公民館・博物館・運動施設などの公共施設建物のことを指します。
この箱物を作るために雇用を生み出す施策や法改正をしていくということもひとつ政治家の役目になります。
例えば箱物行政といって野球選手やサッカー選手などのスポーツ選手が利用する競技場やプール、国民が訪れる美術館や博物館・劇場・庁舎・学校・公民館・博物館・運動施設などの公共施設建物のことを指します。
この箱物を作るために雇用を生み出す施策や法改正をしていくということもひとつ政治家の役目になります。