エウリーピデース断片 ギリシア悲劇全集(12)

2019年07月31日 23時04分26秒 | 社会・文化・政治・経済

エウリーピデース (著), 伊藤 照夫 (翻訳), 下田 立行 (翻訳), 根本 英世 (翻訳), & 3 その他

内容(「BOOK」データベースより)

本巻はエウリーピデースの悲劇(サテュロス劇を含む)の「断片」の中から、日本語に訳しうると判断した詩行を集めたものである。

「人間にとって立派な友人の励ましほど 苦しみを癒す薬は他にない」

エウリーピデースはアイスキュロスやソポクレースに比して、その先取の精神によって評価される反面、カタルシスの不足に難があるとする意見も少なくないようです。しかし、カタルシスとは受け手(観客あるいは読者)の自己投入が報いられるか否かに関連することであり、芸術作品の内的世界が持つ強度とは必ずしも比例せず、それをもって芸術作品に評価を下すのは軽率であるように思われます。
芸術作品と自身の間に需給関係、あるいは主従関係ばかりを成そうとするならば、カタルシスの受容、そしてそれによる受け手自身の浄化こそが芸術作品の評価軸となるのでしょう。

そういった評価軸に基づくならば、アイスキュロスやソポクレースの作品は高く評価され、エウリーピデースの作品は良質なカタルシスを欠いているとしていささか低い評価がなされるのかもしれません。

しかし、奔出した限りにおいてのカタルシスばかりが、芸術の評価基準であるべきなのでしょうか。

それはすでに想像のなかにカタルシスの瞬間を設け、ひたすらにそれを待ち設けるという意味で受動的でありつつ、自身が芸術作品を規定するという驕った態度とも言えるでしょう。

しかし、望むことなく、大きく開いた自身を芸術作品に委ねてみれば、カタルシスとして奔出する以前の、いわば孕まれたカタルシスが、言葉や旋律や色彩のうちに胎動しているのが伝わってきます。

その刻々の胎動は静的なようで動的で、奔出したところで経験されるカタルシスと変わらず私たちを魅惑して止みません。
このような視点でエウリーピデースの作品を評価するならば、擬似体験としての感動、共感には欠けてはいても、時と場、個を超えた心身における共振によって評価されてしかるべきでしょう。

自由を持て余して世界に葬られようとしている生が、神々に規定されてなお朗々たる生と共振し得る、それは芸術作品こそがもたらし得る功徳あるいは救済なのかもしれません。

本全集は本文には懇切な脚注が、各作品の後には古伝梗概が、巻末には作品ごとの詳細な解説が付されており、美麗な装丁と相まって、長期の保存、愛読に耐え得るものとなっています。

高価なため購入を控えていらっしゃる方もいるかもしれませんが、美しい書物を手元に持ち続けるのも読書家ならではの愉楽でしょう。



私にとっての宗教

2019年07月31日 22時46分15秒 | 社会・文化・政治・経済

マハトマ・ガンディー (著), 竹内 啓二 (翻訳)

マハトマ ガンディー (著), 浦田 広朗 (翻訳), 鈴木 康之 (翻訳), 竹内 啓二 (翻訳), 2 その他

 

商品の説明

「あなたの信仰する宗教は何ですか?」ある宣教師が質問した。
すると、ガンジーは、彼の部屋のなかで休んでいる二人の病人の方を見ながら、「あの方々に奉仕することが、私の宗教です」(実践における宗教)と答えた。

 内容(「BOOK」データベースより)

インドの「偉大な魂」ガンディーの〈宗教〉に関する著述と講演記録を集大成。

内容(「MARC」データベースより)

ガンディーはヒンドゥー教を篤く信仰しながらも、経典に固執するわけでもなく、伝統を盲目的、無批判に受け入れるわけでもなく、常に良心と理性をもって宗教にあたった。インドの偉大な魂、ガンディーの宗教に関する著述と講演記録を集大成した1冊。

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「民衆の苦悩の現実から目をそらせる宗教は、死にかかった宗教だ!」米国の公民権の指導者キング牧師の言葉

 



 

 

 

 

 

 


甲陽軍鑑

2019年07月31日 21時44分52秒 | 社会・文化・政治・経済

 
佐藤 正英 (翻訳)

商品の説明

「徳を無くした政(まつりごと)の果ては亡国でござります」

「徳と善政を施すことである、為政とは民の生活を守ることである」

内容(「BOOK」データベースより)

戦国大名武田信玄、勝頼二代にわたる甲州武士の事績、心構え、軍法、合戦などが記された壮大な歴史パノラマ。戦国時代に形成された武士道の集大成ともいわれ、元和以来、武士の間で広く読まれた。

また、講談や歌舞伎狂言などにも翻案され、庶民にも遍く普及し今に伝わっている。

本書は、全二十巻五十九品の中から、その白眉と目される山本勘助の物語、信玄一代記、甲州法度など話題に富む十四品を収録。歴史に関心をもつ読者はもとより、広く現代において、組織の上に立つ者の必読の名著。原文に現代語訳を付す。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

佐藤/正英
1936年生まれ。東京大学文学部倫理学科卒業。東京大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、甲斐国戦国大名である武田氏戦略戦術を記した軍学書である。
起巻、目録、本書20巻23冊[注釈 1]全60、末書2巻。武田信玄勝頼期の合戦記事を中心に、軍法刑法などを記している。

概要

内容は信虎時代の国内統一を背景に領国拡大を行った武田信玄を中心に、武田家や家臣団の逸話や事跡の紹介、軍学などが雑然と構成され、軍学以外にも武田家の儀礼に関する記述などが豊富で、注目される記述も多い。

1582年天正10年)に武田氏は織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡したが、織田信長の死後、徳川家康が甲州を支配するようになり武田遺臣を用いる方針を取ったため、甲州流軍学が盛んになった。

本書は甲州流軍学の聖典とされ、江戸時代には出版されて広く流布し、読み物として親しまれた。『甲陽軍鑑評判』などの解説書や信虎・晴信(信玄)・勝頼の三代期を抽出した片島深淵子『武田三代軍記』なども出版された。江戸期の講談や歌舞伎をはじめ、明治以後の演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画など武田氏を題材とした創作世界にも取り込まれ、現代に至るまで多大な影響力を持っている。

刊本には古写本を底本とした酒井憲二『甲陽軍鑑大成』や明暦年間の流布本を底本とした磯貝正義服部治則校注『甲陽軍鑑』(人物往来社、1965年)などの諸本がある。

成立経緯と史料的評価

『甲陽軍鑑』(以後『軍鑑』と略記)の成立は、『軍鑑』によれば天正3年(1575年)5月から天正5年(1577年)で、天正14年(1586年)5月の日付で終っている。甲陽軍鑑の成立時期は武田家重臣が数多く戦死した長篠の戦いの直前にあたり、『軍鑑』に拠れば信玄・勝頼期の武田家臣である高坂弾正昌信(春日虎綱、以後「虎綱」と記述する)が武田家の行く末を危惧し、虎綱の甥である春日惣次郎・春日家臣大蔵彦十郎らが虎綱の口述を書き継いだという体裁になっており、勝頼や跡部勝資長坂光堅ら勝頼側近に対しての「諫言の書」として献本されたものであるとしている。

虎綱は天正6年に死亡するが、春日惣次郎は武田氏滅亡後、天正13年に亡命先の佐渡島において没するまで執筆を引き継いでいる。翌天正14年にはこの原本を虎綱の部下であった「小幡下野守」が入手し後補と署名を添えているが、この「小幡下野守」は武田氏滅亡後に上杉家に仕えた小幡光盛あるいはその実子であると考えられており、小幡家に伝来した原本が近世に刊行されたものであると考えられている。

さらに、これを武田家の足軽大将であった小幡昌盛の子景憲が入手しさらに手を加えて成立したものと考えられており、『軍鑑』の原本は存在していないが、元和7年の小幡景憲写本本が最古写本として残されている。景憲は『軍鑑』を教典とした甲州流軍学を創始し幕府をはじめとした諸大名家に受け入れられており、この頃には本阿弥光悦ら同時代人も『軍鑑』に触れたことを記している。

『軍鑑』は、近世には武家のみならず庶民の間でも流布する一方、江戸時代から合戦の誤りなどが指摘されていた。肥前平戸藩主の松浦鎮信の著で、元禄9年(1696年)頃の成立の『武功雑記』によると、山本勘介の子供が学のある僧となり、父の事跡を虎綱の作と偽り『甲陽軍鑑』と名付けた創作と断じている。

湯浅常山の『常山紀談』にも、「『甲陽軍鑑』虚妄多き事」と記述されている。

明治時代以降は実証主義歴史学が主流となり、実証性が重視される近代歴史学においては『太平記』『太閤記』などの編纂物と同様に、基礎的事実や年紀の誤りから歴史研究の史料としての価値が否定され、景憲が虎綱の名を借りて偽作したものであると見なされるようになった。

代表的な論文は、1891年(明治24年)には田中義成「甲陽軍鑑考」『史学会雑誌』(14号、史学雑誌)である。この論文において、文書や記録資料との比較から大きな誤りが多いと指摘し、甲陽軍鑑は高坂弾正(春日虎綱)の著作ではなく江戸初期に小幡景憲が武田遺臣の取材をもとに記した記録物語であるとした。

戦後の実証的武田氏研究においても、文書や『高白斎記(甲陽日記)』『勝山記』ら他の記録資料や対照からも誤りが多いことが指摘されていた


 
 

阪神が惜敗 2試合連続サヨナラならず

2019年07月31日 21時39分59秒 | 野球

 「阪神2-3中日」(31日、甲子園球場)

 阪神が中日に惜敗を喫した。2日連続のサヨナラ勝利とはならなかった。7月は9勝12敗1分け。2カ月連続の負け越しとなった。

 九回2死から粘りを見せた。マルテが4番手の岡田から右線へ安打。糸原が中前へポテンヒットで一、三塁。二盗で二、三塁として打席には梅野。前夜の再現を待つファンは大歓声を送ったが、空振り三振に仕留められゲームセットとなった。

 最後まで拙攻が響いた。中日の先発19歳の2年目右腕・山本の前に三回まで無安打。四回に先頭の近本が四球を選び、1死後に盗塁を決めると、この日38歳の誕生日を迎えた糸井が右前にはじき返す適時打で、1点をかえした。糸井は誕生日に高打率を誇っており、去年までの成績は30打数10安打。これまではホームラン、打点もなかったが3年ぶりの誕生日ヒットで初打点もたたき出した。

 しかし、先発の青柳がピリッとしない。6回10安打3失点で降板し、要所で踏ん張れず主導権を握られた。初回はアルモンテの適時打で先制を許し、四回は3連打で追加点を奪われた。1点ビハインドの六回は1死から代打・藤井に初球を捉えられ、中前適時打で大きな1点を献上。今季7敗目を喫した。

 青柳は攻撃でも、1点を追う五回に1死一、二塁から犠打を試みるも失敗。痛恨の併殺に倒れて、流れを引き寄せることはできなかった。七回に梅野の犠飛で1点差とするも、その後は中日の継投の前に得点を奪うことはできなかった。

 カード勝ち越しはあすに持ち越し。今季初登板初先発する藤浪を援護するためにも、打線の奮起が不可欠となりそうだ。

 
【関連記事】

灯をともす言葉

2019年07月31日 12時15分37秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
 昨日そうしたから今日もそうする。

ひとがそうしたから、自分もそうする。

それはらくかもしれないが、それでは生きてゆく甲斐がないのである。

 

「死ぬまで<修羅の巷のまっただなか>でのたうちまわる」と思い定め、信念のペンを振るい続けた。

内容紹介

やがて こころの底ふかく沈んで
いつか あなたの暮し方を変えてしまう----

「美」について、「この国」について、「私たちの暮し」について、「戦争」について…… 

「暮しの手帖」初代名物編集長の、今こそ読み継がれるべき人生を照らす言葉集。

人の真似は、
よくても、悪くても
したくないと思うほどの、
こころの潔癖さが、ほしいと思います。
それは、勇気かも知れません。
それなら勇気が、ほしいと思います。(本文より)

内容(「BOOK」データベースより)

美、世の中、戦争、おしゃれ、政治…「暮しの手帖」初代名物編集長の、人生を照らす言葉集。

著者について

1911年兵庫県生れ。昭和を代表する編集者、グラフィックデザイナー、ジャーナリストであり、最盛期は100万部を誇った生活雑誌「暮しの手帖」の創刊者。生涯にわたり編集長を務めた。1978年没。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

花森/安治
1911年神戸市生れ。東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。佐野繁次郎のすすめで、在学中から伊東胡蝶園(のちパピリオ)宣伝部で働く。戦時中は大政翼賛会宣伝部で国策宣伝の仕事を担う。46年、大橋鎮子と共に衣裳研究所(のち暮しの手帖社)を設立し、雑誌「スタイルブック」を創刊。

48年、「美しい暮しの手帖」(のち「暮しの手帖」に改題)を創刊し、取材執筆から誌面のデザイン、表紙装釘にいたるまでを自ら手がけ、生涯にわたり編集長を務めた。72年、『一銭五厘の旗』で読売文学賞を受賞。78年逝去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 
 
 

著者について

1911年兵庫県生れ。昭和を代表する編集者、グラフィックデザイナー、ジャーナリストであり、最盛期は100万部を誇った生活雑誌「暮しの手帖」の創刊者。生涯にわたり編集長を務めた。1978年没。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

花森/安治
1911年神戸市生れ。東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。佐野繁次郎のすすめで、在学中から伊東胡蝶園(のちパピリオ)宣伝部で働く。戦時中は大政翼賛会宣伝部で国策宣伝の仕事を担う。46年、大橋鎮子と共に衣裳研究所(のち暮しの手帖社)を設立し、雑誌「スタイルブック」を創刊。48年、「美しい暮しの手帖」(のち「暮しの手帖」に改題)を創刊し、取材執筆から誌面のデザイン、表紙装釘にいたるまでを自ら手がけ、生涯にわたり編集長を務めた。72年、『一銭五厘の旗』で読売文学賞を受賞。78年逝去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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何事も自分らしく

2019年07月31日 11時35分44秒 | 社会・文化・政治・経済

▼心から信じることで強く生きていける。

▼自分自身の可能性。

▼自分の使命は大きい。
だから絶対に自分の可能性を疑ってはいけない。

▼人は本を多く読めば、多く考えるようになる。

▼子どもの一人一人が希望の光だ。

▼失敗を恐れず、何事も自分らしく。

▼何があっても、明るく強く生き抜く。

▼「他人に勝つ」ことより「今までの自分に勝つ。

▼諦めないで、努力を続けることが大切だ。



レイチェル・カーソンの感性の森

2019年07月31日 11時06分31秒 | 社会・文化・政治・経済

「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない

世界中の子供に、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー』を授けて欲しい

※センス・オブ・ワンダー…神秘や不思議さに目を見張る感性

もう一つの道は、あまり『人も行かない』が、この分かれ道を行く時こそ、私たちの住んでいるこの地球を守れる、最後の唯一のチャンスがあると言えよう


レイチェル・カーソンの言葉

レイチェル・ルイーズ・カーソンRachel Louise Carson1907年5月27日 - 1964年4月14日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州に生まれ、1960年代環境問題を告発した生物学者

アメリカ内務省魚類野生生物局の水産生物学者として自然科学を研究した。

農薬で利用されている化学物質の危険性を取り上げた著書『沈黙の春』(Silent Spring)は、アメリカにおいて半年間で50万部も売り上げ、後のアースディや1972年の国連人間環境会議のきっかけとなり、人類史上において、環境問題そのものに人々の目を向けさせ、環境保護運動の始まりとなった。

没後1980年に、当時のアメリカ合衆国大統領であったジミー・カーターから大統領自由勲章の授与を受けた。

 『沈黙の春』の執筆中に宣告を受け病と戦いながらの執筆活動で、1964年4月14日に癌により死去。生涯独身だったが、1957年に肺炎で亡くなった姪マージョリーの息子ロジャーを養子にしている。

カーソンは特にアメリカの保守層から批判を受けているが、特に標的となったのがDDT禁止問題である。

この問題については1980年代にレーガン、ブッシュ(父)と続いた共和党政権時代から政治学者チャールズ・ルービン(Charles Rubin)らによって継続的にカーソンへの批判がなされてきたが、2000年代に入ると「カーソンがDDTの禁止を主張しなければ何百万人ものマラリア患者が死なずに済んだ」という論法で、カーソン個人がそれらの死について責任を負うべきであるという批判がなされている。

しかし、実際にはカーソンはマラリア予防目的であればDDT使用禁止を主張していない。

カーソンが実際に主張したことは、農薬利用などマラリア予防以外の目的でのDDTの利用を禁止することにより、マラリア蚊がDDT耐性を持つのを遅らせるべきだという内容だった。

一方で安価な殺虫剤であるDDTは途上国では田畑での農薬として使用され、最近までほとんど減少しなかった。このため猛禽類や水棲生物の減少による生態系破壊はそのままで、DDTに耐性を持つ蚊の増加をふやす結果となっている。

 

 
 
 
 

 

 

 

 

阪神・矢野監督 劇勝も「モヤモヤがずっと…」拙守連発 リーグワースト83失策…

2019年07月31日 10時35分01秒 | 野球

7/31(水) 9:00配信 デイリースポーツ

サヨナラとなる2ランを放ったソラーテ(中央)を迎える矢野監督ら阪神ナイン
 「阪神7-6中日」(30日、甲子園球場)

 結果オーライでは済ませられなかった。逆転サヨナラ勝ちにも、ガッツポーズはどこか控え目。阪神・矢野燿大監督は喜びを表現するよりも、反省の弁を並べた。

「ミスが多すぎたんで。モヤモヤがずっとあって。監督として、勝ったことは思い切り喜びたいけど『これで喜んでいいのかな…』という自分と、両方いるような感じ」

 無理もない。序盤からミスが連発した。初回1死一、三塁。中日・ビシエドの三ゴロを処理した大山が二塁へ送球。イージーゲッツーと思われたが、糸原が捕球後に握り損ねて、併殺を奪えず。失策は記録されなかったが、拙守で先制を許した。

 六回もソラーテの失策が失点に絡んだ。1点リードの八回1死は、遠藤のマウンド付近への飛球を、この回から三塁に入った糸原が落球してしまう。主将は直後に逆転を許した責任を痛感。試合後は気持ちの切り替えを問われると「まあ…」と話すにとどめた。

 今季ワーストタイの1試合4失策で、チームはリーグワーストの83失策。6失点ながら投手の自責点は2。守備の破綻が投手に負担を掛けるケースが目立つ。

 矢野監督は「頭が痛いというか。今年は本当にこういうミスで負ける試合が多かった。個人個人やチームとしても、プロとしてどうあるべきかを考えないとあかん」。勝利後の会見とは思えない険しい表情が、悩みの深さを物語っていた。

 


友への手紙 女性革命家・ローザ・ルクセンブルク

2019年07月31日 06時37分20秒 | 社会・文化・政治・経済

ローザ・ルクセンブルク (著), 伊藤 成彦 (翻訳)

ポーランド出身で度重なる投獄にも屈せず、信念を貫いた女性革命家。

「歴史はまさに私どもの手中にあると確信しています」

ドイツ帝国に沈黙させられた革命家の手紙。

1871年3月5日 - 1919年1月15日ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。ミハイル・トゥガン=バラノフスキールドルフ・ヒルファーディングの不比例説に対してカール・カウツキーとともに消費制限説で対峙し、ミハウ・カレツキに影響を与えた。

彼女はポーランド王国社会民主党の理論家であり、のちにドイツ社会民主党ドイツ独立社会民主党(ドイツ社会民主党左派)に関わるようになった。

機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設、1919年1月にはベルリンでドイツ革命に続いて1月蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコール(義勇軍、Freicorps)との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。

死後、多くのマルクス主義者社会主義者のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに、革命の象徴的存在とされている。後にその思想はルクセンブルク主義とも呼ばれる。

Rosa Luxemburg.jpg

友へのいたわり、読書のこと、自然の移り変わりの描写。それが監獄で書かれたものとは思えないほどに瑞々しい。美しい。

しかし、長きに渡る獄中生活は、もともと病弱だった彼女を病み衰えさせ、黒髪を白髪に変えてしまったという。それだけに、これら美しい手紙の束が、どれほどの精神力から産み出されたものであるか、と思う。


ナガサキ核戦争後の人生

2019年07月31日 05時36分08秒 | 社会・文化・政治・経済

ナガサキ―核戦争後の人生

サザード,スーザン【著】〈Southard,Susan〉/宇治川 康江【訳】

内容説明

<原爆投下は正しかった>という日本に対する怒りや憎しみが根強いアメリカ社会。
高校時代に日本に留学した著者は1986年、原爆被害者の谷口稜曄(すみてる)さんの米国での講演の通訳を務めた。
講演後、谷口さんに質問sい、被爆体験とその後の苦悩を知った。

 

 
被爆により大やけどを負った谷口稜曄を撮影した報道写真(1946年1月撮影)

1929年(昭和4年)1月26日、福岡県糟屋郡志賀島村で谷口家の三人目の子供として生まれる。

「光が届かない場所を隅々まで照らす」という意味を込めて、稜曄と名付けられた。翌年母が亡くなり、父は一人満州に渡り南満州鉄道(満鉄)に就職。稜曄を含む三人の子供は長崎市の母方の実家に預けられる。

1943年(昭和18年)、淵国民学校(高等科)を卒業し、本博多郵便局)で働き始める。

1945年(昭和20年)8月9日、16歳のとき自転車に乗って郵便物を配達中、爆心地から1.8km地点の長崎市東北郷(現:長崎市住吉町)で被爆。

原爆の爆風で自転車は大破し、激しい熱線により背中と左腕に大火傷を負う。そのまま徒歩で200mほど先の三菱重工長崎兵器製作所住吉トンネル工場へ避難し、機械油で体を拭いてもらうなど簡単な手当てを受け、近くの山へ避難する。

2晩過ごした後、道ノ尾駅から救援列車に乗せられ諫早へ赴くも、諌早国民学校の救護所では満足な治療が受けられず、2日後に長与の遠縁の親戚の家に運ばれ静養。9月10日頃、治療のため、勤め先の本博多郵便局近くの新興善国民学校に開設されていた救護病院に運ばれる。

11月、大村の海軍病院(現在、独立行政法人国立病院機構長崎医療センター)へ移送され、3年7か月後やっと退院する。

1949年3月20日に退院する。しかし、その後もたびたび皮膚の移植手術等の治療を受ける。戦後、原爆によって被害を受けた自らの体験をもとに、核兵器廃絶のための活動を続けた。

2012年8月8日ハリー・S・トルーマンの孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルと面会した際に、谷口は服を脱ぎ、被爆で背中などに負ったやけどの痕を見せた。

ダニエルは「この星に住む全ての人が見るべきだ」と述べ、核兵器廃絶の決意をあらためて示した。

谷口は「原爆を投下したのは戦争を早く終わらせるためだったと聞いている。広島の後、なぜ長崎にも落としたのかが疑問」と話し、「被爆の事実を知ってほしい」との思いから服を脱いだ。面会後、ダニエルは「心が破れるような思いをした」と述べた。

2017年8月30日 十二指腸乳頭部がんにより長崎市で死去。享年88歳。

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10代の若者だった「語り部」たちのあの日―原子雲真下の「同日同刻」から苦難とともに生きのびた「長い戦後」まで。

12年の歳月をかけ書きあげられたノンフィクション。被爆者の側に徹底的に寄り添った本書の姿勢は、2015年に刊行されるや「原爆投下不可避」論の根強いアメリカ国内で議論を呼び起こした。

目次

プロローグ
第1章 集束
第2章 爆発点
第3章 残り火
第4章 被爆
第5章 動かぬ時
第6章 浮揚
第7章 新たなる人生
第8章 忘却に抗して
第9章 がまん

著者等紹介

サザード,スーザン[サザード,スーザン] [Southard,Susan]
アメリカのノンフィクション作家。アンティオーク大学LA校で修士号取得。

「ニューヨーク・タイムズ」「ロサンゼルス・タイムズ」「ポリティコ」などに寄稿し、アリゾナ州立大学、ジョージア大学でノンフィクション講座を受け持つ。2015年に刊行されたデビュー作Nagasaki:Life After Nuclear War(『ナガサキ―核戦争後の人生』)によりデイトン文学平和賞、J・アンソニー・ルーカス書籍賞受賞。また「エコノミスト」「ワシントン・ポスト」「カーカス・レビュー」の年間ベストブックに選出され、21人目となる「長崎平和特派員」に認定される

宇治川康江[ウジガワヤスエ] 
1957年生まれ。葛飾野高等学校卒業後、NHK国際研究室(通訳コース)で学ぶ。

あおぞら銀行、花王、みずほ銀行ほかで日英翻訳業務に携わり、現在はフリーランスの翻訳家。「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

出版社内容情報

「人類の歴史において核兵器の攻撃とその後の惨状を生き抜いてきた唯一の人々である被爆者。人生の終わりの時期に差しかかっている彼らの記憶のなかには私たちの心を奮い立たせるような、核戦争による長期の破滅的影響についての明白な事実が刻まれている」
郵便局の配達員、路面電車の運転士あるいは軍需工場に駆り出されるごくふつうの10代の若者だった「語り部」たちのあの日――1945年8月9日、原子雲下の「同日同刻」から苦難とともに生きのびた「長い戦後」まで。

「赤い背中の少年」ほか5人の主要登場人物とその家族、関係者への聞き書きにくわえ、他の多くの被爆者や治療に携わった医師たちが残した証言、アメリカ軍兵士・司令官の手記、戦略爆撃調査団報告をはじめ占領軍検閲政策、原爆傷害調査委員会をめぐる公文書資料などにあたりながら、12年の歳月をかけ書きあげられたノンフィクション。

被爆者の側に徹底的に寄り添った本書の姿勢は、2015年に刊行されるや「原爆投下不可避」論の根強いアメリカ国内で議論を呼び起こした。
「スーザン・サザードはジョン・ハーシーが広島のためにした以上のことを長崎でおこなった。本書は綿密で情熱的、思いやりに満ちたこのうえない歴史書だ」(ジョン・ダワー)

 

 


ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる⼦どもたち

2019年07月31日 05時15分24秒 | 社会・文化・政治・経済

おおたとしまさ  (著)

商品の説明

内容紹介

まずは子どもの人権を尊重する。
子どもの人生はコントロールできないのだと理解すること。
親が手を出して成績が伸びるケースはほとんどない。
子どもはプレッシャーではなく、安心感を与えている時にパフォーマンスを発揮する。
我慢して見守り、成績に関係なく親が自分を大切に思ってくれていると実感させる方がいい。

☆朝日新聞朝刊・教育面(7/23)に、「教育虐待」に関する著者インタビューが掲載
☆TBS系「ビビット」(7/9)で「教育虐待」が特集され、著者がVTR出演! 
☆フジテレビ系「バイキング」(6/26)で、本書掲載の事例が紹介されました。


社会問題化しつつある「教育虐待」の実態に教育ジャーナリストが迫る! 

いま、社会問題になりつつある「教育虐待」。
子どもの限度を超えて勉強や習い事をさせるなど、親が過干渉し、結果が悪いと暴力につながることもある。
「あなたのため」という言葉を武器に追いつめる親と、
「生きづらさ」を感じて自分らしく生きられなくなった子どもを、
教育ジャーナリストが取材し、その実態に迫る。

【目次】
第1章 「あなたのため」という呪い
第2章 第一志望に合格しても癒えぬ傷
第3章 摂食障害や万引きというSOS
第4章 シェルターに来るのは女子が圧倒的多数
第5章 スパルタ教育での“成功"は美談か
第6章 理性の皮を被った感情の暴走
第7章 最凶の教育虐待を生む2つの機能不全
第8章 結局のところ、親は無力でいい

※本書は2015年に毎日新聞出版から発売した『追いつめる親』に大幅な加筆修正を加えたものです。

内容(「BOOK」データベースより)

「教育虐待」とは、「あなたのため」という大義名分のもとに親が子に行ういきすぎた「しつけ」や「教育」のこと。

どこまでの厳しさは許されてどこからが教育虐待なのか、教育虐待を受けて育つとどうなるのか…。気鋭の教育ジャーナリストが壮絶な現場に迫りその闇を照らす「救済の書」。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

おおた/としまさ
教育ジャーナリスト。1973年東京生まれ。麻布中学・高校卒業、東京外国語大学英米語学科中退、上智大学英語学科卒業。リクルートから独立後、数々の育児・教育誌の監修・企画・執筆を担当し、現在は主に書籍執筆や新聞・雑誌・web媒体への寄稿を行う。メディア出演や講演活動も多数。心理カウセラーの資格、中高教員免許をもち、私立小学校での教員経験もある。著書は50冊以上。教育や育児の現場を丹念に取材し、斬新な切り口で考察する筆致に定評がある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



阪神ソラーテ劇的HR 監督は興奮

2019年07月31日 05時03分58秒 | 野球

阪神・矢野監督、ソラーテの逆転サヨナラ弾に「何が起こったか分からない」 一問一答

 (セ・リーグ、阪神7x-6中日、15回戦、中日10勝5敗、30日、甲子園)阪神は中日戦で、九回に劇的な逆転サヨナラ勝ち。試合後のインタビューで、矢野燿大監督は新助っ人のソラーテの逆転サヨナラ弾に「何が起こったか分からない」と興奮を抑えられなかった。

9回、サヨナラ2点本塁打を放った阪神・ソラーテ

 --すごいゲームだった

 「何て言えばいいんですかね。ちょっと分からないですね」

 --とにかくソラーテが印象に残った

 「最後ね。ああいうところで打ってくれるのはね。そういうとこに期待して来てもらった選手なんで。ほんとに。試合の中で、流れを変えるようなことをしてくれる選手なんで。まさかね…。打ってくれ、とは思いましたけど。ほんとに良く打ってくれました」

 --ホームで言葉をかけていたが、どんな言葉を

 「言葉が通じないんでね(笑)僕もセンキュー、センキュー、って言ってただけですけど。ちょっと何が起こったかか分からないような感じでした」

 --近本も守備を含め、ゲームの流れを変えた

 「そうですね。ただ、きょうも(チームで)ミスが多すぎたんで。そういうモヤモヤがずっとあって。ほんとに監督として、勝ったのは思い切り喜びたいんですけど。これで喜んでいいのかな…という自分と。両方いるような感じですね」

 --ソラーテの守備について評価は

 「こちらも見えない部分がありながら使ってるリスクというか。それはもう僕の責任なんで。そこは今後も見ていきながら、していかないといけないと思いますけど。きょうはすべてを取り返すようなことをしてくれてるんでね。これから考えます」

 --リリーフ陣の踏ん張りも要所であった

 「そうですね。本当に野手が足を引っ張っていく中で、その後を食い止めてくれたことが結果こうなっていると思いますし…。複雑なところですね」

 --明日以降へ向けて

 「打線は本当にいい形でヒットが出だしているので。そういうところでまずどう守るかというところもありますし、チーム全体で課題を克服していけるようにがんばります」