人獣共通感染症を根絶は無理?
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【AFP=時事】国連(UN)は、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)により、世界の児童労働者数が20年ぶりに増加し、数百万人の子どもが労働を強いられる恐れがあると警鐘を鳴らしている。 【写真】熱湯かけられ、傷口に唐辛子…児童労働の悪夢 ミャンマー 国連機関の国際労働機関(ILO)と国連児童基金(ユニセフ、UNICEF)が12日に発表した共同報告書によると、児童労働者数は2000年以降、9400万人減少。
しかし新型コロナウイルスのパンデミックにより、「状況が後退する現実的なリスク」があり、同ウイルスが招いた危機を受け、貧困層が著しく増加する可能性が高いと警告している。
世界銀行(World Bank)は、極度の貧困層は今年だけで最大6000万人増加する恐れがあるとしている。
ILOのガイ・ライダー(Guy Ryder)事務局長は、「パンデミックが世帯収入を直撃しており、援助がなければ、多くの家庭が児童労働に頼らざるを得ない」と述べた。 ILOとユニセフの報告書は、貧困率が1%上がるごとに、児童労働の割合も0.7%以上増えるという複数の国の調査結果に基づき、貧困層と児童労働者数の増加の相関関係は明白だと指摘している。
両機関は、新型ウイルス対策による学校閉鎖により、児童労働者数が増加したことを示す証拠が増えていることに言及。現在130か国以上で、10億人以上の児童・生徒が一時的な学校閉鎖の影響を受けており、また学校が再開されても、保護者が学費を払えなくなっている恐れがあるとしている。
同報告書は、学費の免除をはじめとするさまざまな是正措置を提案。同時に各国政府に対しては、社会保障を拡充させ、貧困家庭が手当などをより容易に受け取れるようにすることを求めている。【翻訳編集】 AFPBB News
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福井県の東尋坊から男性を飛び降りさせて殺害したとされる少年らの裁判員裁判が大津地裁で開かれ、検察は懲役10年以上15年以下の不定期刑などを求刑しました。
起訴状などによりますと、19歳の少年2人は去年10月、友人ら5人とともに嶋田友輝さん(当時20)に繰り返し暴行を加えた上、車のトランクに閉じ込め東尋坊に移動。崖の上で「はよ落ちろや」などと言って飛び降りさせ、殺害した罪などに問われています。
16日の裁判で検察側は「残酷極まりない犯行で、死ぬ危険性が高いと認識していたのは明らか」として、少年に懲役10年以上15年以下、もう1人に懲役7年以上12年以下の不定期刑を求刑しました。
一方、弁護側は「暴行に目的や計画性はなく、主犯格の少年にさからえず犯行に加担した」などとして情状酌量を求めました。判決は26日に言い渡されます。
ABCテレビ
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6/16(火) 18:51配信
文春オンライン
逮捕から88日ぶりに、被告人のふたりが顔を合わす日がやってきた。
松永太と緒方純子の初公判が開かれる2002年6月3日、福岡地裁小倉支部の前には、一般傍聴席38席に対して262人の傍聴希望者が並び、傍聴券の抽選が行われた。
【図】北九州監禁連続殺人事件をめぐる人物相関図
2つの監禁致傷罪のみを争う初公判
この裁判で争われるのは、最初の逮捕の原因となった17歳の少女・広田清美さん(仮名)に対する監禁致傷罪と、松永らによる監禁生活から命からがら逃げ出した原武裕子さん(仮名、当時41)への監禁致傷罪という、ふたつの罪についてのみだ。通常ならばこれほど多くの傍聴希望者が集まる審理内容ではない。ひとえに、メディアによって少女の父の死、さらには緒方の親族6名の死亡の可能性が報じられたことによる、世間の興味の高まりがこの数字に表れていた。
幸いにして傍聴券を手にすることができた私は、第204号法廷の傍聴席でふたりの入廷を待つ。周囲を見回すと、作家の佐木隆三さんの姿があった。正面の裁判官席に向かって右側には松永と緒方の弁護団4人が、左側には検察官3人が座る。
最初に入廷してきたのは緒方だった。白地に花柄のブラウスとデニムのスカートという出で立ちの彼女は、廷内に入ると無表情のまま傍聴席に向かって一礼をした。真ん中で分けられた肩までのやや茶色がかった髪に、血色の悪さを感じさせる色白の肌。疲れが見える神妙な表情だ。唇の脇の左頬にある、長さ1cmほどのえぐられたような傷痕が目に入る。
続いて黒い半そでTシャツに紺色のジャージズボン姿の松永が、緊張した面持ちで一礼しながら入廷した。その際、彼は緒方に目を向けたが、彼女は前を向いたままで視線を返すことはなかった。直毛で密度の濃い黒髪は短く切り揃えられ、色白の肌でまつ毛が長いその顔は、歌舞伎役者のように整っている。
人定質問・起訴状朗読での態度は
やがて3人の裁判官が姿を現して開廷すると、まずは「人定質問」が行われた。証言台での松永は、指先を伸ばした直立の姿勢で、大きなはっきりとした声で言う。
「松永太といいます。昭和36年4月28日生まれです」
裁判長から住所を尋ねられると「不定です」、職業を尋ねられると「無職です」と答えた。
続く緒方は、松永とは対照的に小さくか細い声で名前と生年月日を口にする。住所について「不定です」と答えた彼女は、裁判長から「不定ですか?」と確認され、「はい」とだけ答えた。
その後、起訴状朗読となった際、検察官は被害者名について、17歳の少女だけでなく41歳の女性についても「社会の影響を考えると、氏名朗読は控えさせていただきたい」と訴え、「氏名朗読自体が被害者の負担となる」と主張した。しかし裁判長は17歳少女に関しては「とくに異論はない」としたものの、41歳女性については「被害者名等すべて朗読するように」と訴えを退けた。
起訴状を検察官が読み上げるなか、松永は鼻の下や額の汗を拭うなど落ち着きのない様子だったが、緒方は両手をひざの上で組み、体を動かすことはほとんどなかった。
弁護側は罪状認否留保を主張
続いて罪状認否に入る直前に、弁護側から証拠開示がまったくなされていないとの指摘が上がる。それに対して検察側は、現在までは第一事件(17歳少女の事件)に関してのみで、第二事件(41歳女性の事件)については、両被告を同女に対する詐欺、強盗容疑で再逮捕しており、捜査中のため証拠開示できなかったとし、「6月上旬から中旬までには開示します」と説明した。
その発言を受けて弁護側は言う。
「第一事件では起訴状で(少女の父親殺害を窺わせる)余計な記述がある。そのため罪状認否は留保したい。第二事件の被害者の調書は見ていない。それを見たうえで最終的な認否を行いたい」
第一事件の起訴状には、まだ事件化されていない清美さんの父・広田由紀夫さん(仮名)が殺害されたことに触れた、〈あんたがお父さんを殺した〉や〈今度逃げたらお父さんのところに連れていく〉との文言が含まれていた。そのことを理由に、弁護側はこの場での認否を留保したのである。
裁判長から認否の留保について問われ、松永は「はい」と声を上げ、緒方は黙って頷いた。
松永は弁護団に向かって表情を変えずに一礼
そこで裁判長は、次回の第2回公判は7月31日の午後3時から4時半までの予定で、今日と同じ第204号法廷で行われることを確認すると、閉廷を告げた。時間にしてわずか24分の、短い公判だった。
退廷時、松永は弁護団に向かって表情を変えずに一礼して無言で出ていった。一方、緒方は歩み寄った2人の弁護士に笑顔で対応し、一言二言なにかを話して姿を消した。それは法廷で見せた彼女の唯一の笑顔だった。
初公判から4日後の6月7日、福岡地検小倉支部は松永と緒方を、原武裕子さんに対する詐欺・強盗罪で起訴した。公訴事実は以下の通りである。
原武裕子さんに対する詐欺・強盗罪の公訴事実
〈被告人両名は
第1(*詐欺罪) 事実上夫婦同然の関係にあったものであるが、原武裕子(当時35年)から婚姻名下に金員を詐取しようと企て、共謀の上、被告人松永が、平成7年8月ころから、福岡県北九州市内において、同女に対し、村上博幸と称する独身者で、京都大学を卒業し、今は××塾(予備校名)の講師として月収は100万円であるが、将来は学者や小説家も目指しているなどと、その氏名及び経歴等を詐称し、同8年1月ころには、同市内において、真実は婚姻する意思がないのにあるかのように装い、同女に対し、「結婚して下さい。一緒に住もう。子供さんの面倒はきちんと見ますから。」などと申し向けて婚姻を申し込み、同女をして同被告人との婚姻を決意させて交際を続け、同年7月20日ころには、同市内において、同女に対し、被告人緒方を同松永の実姉である「森田」と偽って同女に引き合わせた上
1 同月(7月)29日ころ、同市小倉南区××所在の飲食店××(店名)店内において、被告人松永が、同女に対し、複数の消費者金融会社の名前等を記載したメモを示しながら、「自分は、小説家としてやっていくつもりだ。一緒に住む家を探したり、当面、一緒に生活していくためのお金が必要だから用立ててほしいんだけど。こういうところがあるんだけど。借りて来てほしいんだけど。」などと、さらに、被告人緒方が、同女に対し、「全部、弟に任せとったらええんよ。」などとこもごも言葉巧みに嘘を言い、同女に婚姻生活に必要な資金名目で現金を提供するよう要請し、同女をして同資金は真実被告人松永との婚姻生活に必要な資金であると誤信させ、よって、同月30日ころ、同市小倉北区××所在の××室(公共施設名)において、被告人緒方が、同女から現金150万円の交付を受け
2 同年(平成8年)9月13日ころ、同市小倉北区内において、被告人松永が、同女をして同被告人との婚姻生活を営む新居として同市小倉南区××所在の××(アパート名)20×号室の賃借りを申し込ませた上、同月23日ころ、上記××(店名)店内において、被告人松永が、同女に対し、「小説家としてやっていくので当面の生活資金が足りない。まだお金がいるので借りてくれないか。」などと言葉巧みに嘘を言い、同女を更に誤信させ、よって、同月24日ころ、上記××(店名)店内において、被告人両名が、同女から現金110万円の交付を受け
もって、人を欺いて財物を交付させ
第2(*強盗罪) 同年(平成8年)10月22日ころから、前記××(アパート名)20×号室において、原武裕子及びその二女(当時3歳)らと同居するようになったものであるが、共謀の上、上記女性から金員を強取しようと企て、電気コードの電線に装着した金属製クリップで同女の身体を挟み、差込プラグをコンセントに差し込んで通電させ、激しい電気ショックの状態を起こさせるなどの暴行を繰り返し、また、時には上記3歳の二女に対し前同様に通電させ、あるいは、通電する旨上記女性に告げるなどして恐怖感を増大させ、さらに、別表記載のとおり、同年12月29日ころから同9年3月10日ころまでの間、前後7回にわたり、同所において、同女に対し、前同様に同女の身体に通電させ、あるいは、身体に通電する旨予告するなどの暴行・脅迫を加え、その都度、被告人松永が、同表記載のように、「母親から70万円の金を引き出せ。パソコンを買うお金がいるから貸して欲しいと言え。」などと同女に命令し、その反抗を抑圧して金を要求し、よって、同8年12月30日ころから同9年3月10日ころまでの間、前後7回にわたり、同室ほか4か所において、同女が上記命令に従って調達した現金合計198万9000円を同女から強取したものである。
罪名及び罰条
第1 詐欺 刑法第246条第1項、第60条
第2 強盗 刑法第236条第1項、第60条〉
通電は3歳の娘にも及んでいた
この起訴状の文面から、1995年(平成7年)8月に松永が裕子さんに対して、身分を京都大学出身の塾講師と偽って近づいたことがわかる。その後、緒方を姉と紹介して裕子さんの恋心を利用し、出会いから1年後の96年7月末からカネを騙し取るようになっていた。同年10月には同棲を開始。その1週間後にはすでに通電を伴った暴力を振るっている。通電が彼女にとどまらず、3歳の娘にも及んでいたとの記述が痛ましい。
こうした松永と緒方の暴力による支配が、裕子さんがアパートから逃げ出す1997年3月までの間、約4カ月半にわたって続いていたのである。
小野 一光
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6/16(火) 18:05配信
時事通信
影の総理
京都府の副知事まで務めてから国会議員となり、「影の総理」とまで呼ばれた政治家がいた。ご存じであろう、2018年に92歳で亡くなった野中広務だ。
自民党を離党した小沢一郎らと激しい権力闘争を展開し、「政界の狙撃手」「闘将」の異名を取った。自治相、内閣官房長官、自民党幹事長など要職を歴任。戦後の自民党政治において圧倒的な権勢を誇った田中角栄元首相の系譜を継いだ最後の実力者だった。
地方から叩き上げた、その政治人生を検証し、私は2018年の年末に「『影の総理』と呼ばれた男 野中広務 権力闘争の論理」を上梓した。【日本テレビ政治部デスク 菊池正史】
日本テレビ政治部の記者として私が担当したのは1994年から1年余り。しかし、その魅力に引き付けられ、2003年に野中が政界を引退した後も、たびたび、事務所を訪ねては取材を続けた。
野中は、1925(大正14)年生まれ。敗戦の直前に19歳で陸軍に召集され、高知で本土防衛に当たった。社会が軍国主義一色に染まっていくことの恐怖、そして戦争の悲惨さを実感として知る最後の世代だった。
私が、この書で伝えたかったことは、戦争を知る世代を失うことの危うさだ。
野中も、戦前は軍国青年だった。召集令状が来ることを一日千秋の思いで待ち続けたという。多くの人々が緒戦の勝ち戦に熱狂し、反対意見を「非国民」と叫んでかき消した。軍部が権力を握り続け、軍国主義教育が徹底され、市井の人々までがその片棒を担いだ。揚げ句の果てに敗戦。300万人が犠牲となり、人心は荒廃した。
野中は世の中が「一色に染まる」ことの怖さを知った。自らも軍国主義に染まったことに苦しんだ。そして戦争責任者を憎んだ。戦時中首相を務めた東条英機の暗殺も試みた。実際に、そのために上京したとみられる仲間を1人失った。後にその死を知った野中は、こう語っている。
「これは今、心残りですよ。知っておればね、私も宮城前で腹切ったんじゃないですかね」
復員後、野中は民主主義を学び、広げようと青年団活動に没頭した。そして弱冠26歳で、生まれ故郷である京都は園部町(現南丹市)の町議に当選し、長きにわたる政治家人生をスタートさせた。
「一色には染めさせない」
任期満了に伴う京都府知事選挙で、山田啓二氏(右端)の初当選を喜ぶ自民党の野中広務元幹事長(中央)と麻生太郎政調会長(左端)ら=2002年4月【時事通信社】
「守るべきは平和であり、反戦であり、国民を中産階級にすること」
これが野中の保守政治の信念だった。野中には腰から脚にかけて大きな傷がある。軍隊時代のものだ。
「戦争の傷は俺の体に染み込んでいる。理屈じゃない。絶対に戦争はさせない」
野中は親しい記者にこう語っていた。
だからこそ、戦前のように一色に染まってしまう可能性をはらむ民族性と、一色に染めようとする権力を警戒し、徹底的に闘うことを心に誓った。
野中にとっての保守政治とは、軍国主義に染まった日本を否定することだった。軍備増強よりも経済を優先し、戦争の傷跡を修復しながら協調外交に徹するという、新たな政治理念を守りぬくことだった。戦前の日本に対する「新たな保守」の始まりだった。この「新たな保守」は、弱者を救済し、富を等しく分配し、平等な「中産階級」を構築しようとするリベラリズムと共存したという点で、「リベラル保守」とも言えよう。それは戦前、「お国のため」と言って切り捨てられた、個々人の人権、人々のささやかな幸せを、国の内外で何よりも大切にする政治だった。
しかし、戦後になっても、「一色に染める」残滓は存在した。村々の古き因習、そして企業戦士を支配する組織の論理にも根強くはびこったままだった。そして野中は、その残滓を、まず、当時の共産党に見いだした。
戦後の食糧難、社会的不安、それに反発する国民運動を背景に、反権力としての影響力を強めていた共産党だが、野中は、その組織運営は画一的で独善的、排他的だと批判した。「反権力に潜む権力」の本質を警戒した。実際に共産党が支配したソ連や中国は、高級官僚にリーダーシップと富が集中する不平等な社会だった。共産主義を世界に敷衍しようとする行動が、諸外国との新たな紛争を生んでいた。
当時の京都は、共産党を支持基盤とした蜷川虎三府政の全盛期だった。1950年から7期28年にわたって府知事として君臨した蜷川に、役所の幹部らが忖度し、多くの市町村長らが忠誠を求められたという。実際に、蜷川が5選を目指す府知事選の時、東京に出張して「洞ケ峠を決め込む(有利な方に付く)」と報じられた野中に対しても、府の総務部長が「すぐに戻って身の証しを立ててほしい」と命じたという。
「公選で選ばれた町長に、役人が何を言うか!」
野中は激怒した。それまで、疑問を抱きつつも蜷川と友好な関係を維持し、従ってきた野中だが、これを機に蜷川府政と決別し、共産党との闘いを繰り広げることとなった。この頃を、次のように振り返っている。
「京都府という革新府政、京都府という地方自治はあるけれど、京都府に隷属するかどうかによって市町村の自治が決められている。京都の市町村には地方自治など存在しないという感じがした。こういう京都府政を続けさせることはいけない」
1978年、野中が立役者となって自民党の林田悠紀夫知事を誕生させ、長期にわたった蜷川府政を幕引きに追い込んだ。その後、林田府政で副知事を1期務め、1983年、57歳という年齢で国政へ進出した。
「子どものような大人の時代」
衆院本会議場で、自民党の野中広務元幹事長(左)と言葉を交わす小泉純一郎首相=2001年11月【時事通信社】
国政進出後も、野中は「強力な権力」と闘い続けた。1990年代は、剛腕と呼ばれ小選挙区導入の改革を断行した小沢一郎と、そして2000年代に入ってからは、劇場型政治で「抵抗勢力」を殲滅し、自衛隊の海外派遣などを実現した小泉純一郎と激しく対立した。
小沢も小泉も、戦後保守が大切にした調整文化を否定した。時間がかかる妥協や根回しを嫌い、敵と味方を峻別して二極対立を演出し、多数決を振りかざして、たとえ1票の勝利であっても勝ちは勝ちだと強力なリーダーシップをわがものにした。小沢は途中で失敗したが、刺激的な劇場の演出に成功した小泉は、高い支持率を維持しながら「1強」状態をつくり上げた。
「政治家が立派な理念を掲げても、それで国民が本当に幸せになるかどうか分からない」
こう野中は常々語っていた。これこそが、戦争によって300万国民の命を犠牲にして学んだ教訓だった。
実際に、小沢が導入した小選挙区制は、目的だった政権交代可能な二大政党制とは程遠い状況を招いている。執行部に何も考えず従う政治家のチルドレン化を急激に進めていることも確かだ。また小泉の市場至上主義は、格差拡大につながったと批判され、郵政民営化はいまだ評価が分かれるところだ。ことほどさように強いリーダーの判断は、危うく、曖昧な部分があるということだ。
こと戦争につながる問題は、失敗が許されない。だからこそ、リーダーの決断だけに委ねていいはずがないのだ。
今、振り返れば、この2人との野中の闘いは、単なる権力闘争の枠を超え、まさに、国が「一色に染まる」ことへの警鐘であり、絶対にそうはさせないという政治家としての覚悟だったと、私は考えている。
今は「安倍1強」と呼ばれる時代となった。役人は忖度し、財務省では森友問題について安倍の関与につながる公文書の改ざんまで行われた。政府の方針に沈黙する議員も増え、活発な党内議論すら聞こえてこない。
つらくても議論をして、反対意見もある程度吸収しながら落としどころを調整するという「大人の政治」は、すっかり衰退してしまった。敵に悪態をつき、やじり倒し、妥協することのない「子ども」のような振る舞いが、「強さ」として評価される時代になった。そして、強い米国には言われるままに追随し、韓国には強気に出て留飲を下げるような、「子どものような大人」が増えてきた。
「“叩き上げ”の弱点」
記者会見で今期限りでの政界引退を表明する自民党橋本派の野中広務元幹事長=2003年9月【時事通信社】
なぜ、こうも簡単に、野中が守り続けた「リベラル保守」の理念は影響力を失ったのか。深みのある「大人の政治」は崩壊しつつあるのか。
悲惨な戦争の記憶が薄れたことだけが原因なのだろうか。いや、それだけではあるまい。やはり、「リベラル保守」を継承するリーダーが育っていないということも大きな理由だろう。そして、これは野中が唯一、置き去りにしてしまった仕事だ。
残念ながら崇高な理念も、それだけでは呪文と変わらない。権力と結び付いてこそ人々を動かし、時代の精神となり得る。野中は、弱者のために強くなければならないことを知っていた。弱者と共に歩むだけでは、弱者を救えないことを知るリアリストだった。だからこそ、強力な権力を求めて権謀術数を繰り広げ、政敵を執拗に攻撃したのだ。
しかし、野中は、その政治を引き継ぐ、次のリーダー、実力者を育てることがなかった。野中の意思を引き継いで、「子どものような大人」たちを叱り飛ばす後継者を育てなかったのだ。
なぜなのか。野中を長年支えたあるスタッフが私にこう話したことがある。
「野中は苦労してきたからこそ、思いやりがあり、親身になってわれわれの相談にも乗ってくれた。しかし、人を心から信頼することはなかった。これは叩き上げの性だと思う。苦労して得た価値観は、だれも実感できないし、共有できないと思ってしまうから、すべて自分がやらなくては気がすまなくなってしまう」
確かに「叩き上げ」のリーダーは、全てを自分で仕切ろうとする。かつて、土建会社の社長から首相にまで上り詰め、野中たちを率いた田中角栄も、毎日の陳情から国政の細部まで、全て自分で取り仕切った。秘書たちが「他の人に仕事を振ってくれ」と言うと、「政治家は代理の利かない商売だ。お前たちに任せていたら日が暮れる。人生は、それほど長くはない」と言って怒ったという。
野中は、身内の一人が、後継者になりたいと申し出た際、「やめておけ。おれがいなくなったら苦労する」と言って止めたという。田中が言ったように、「代理の利かない商売」であることを自覚していたのだろう。
そして何よりも、特定の権力者とそのファミリーが権力に執着することを嫌った。権力には世の中を「一色に染めよう」とする衝動が潜む。野中は自らを戒め、その衝動を自制した。
森喜朗内閣で自民党幹事長となり、「影の総理」とも呼ばれていた絶頂の時代、あるインタビューに答えて、野中は、こう述べている。
「私の人生は戦争で死ねんかった付録の人生です。責任の取り方だけは明確にしたいという気持ちがあるんです」
内閣官房長官は1年2カ月、自民党幹事長は8カ月で自ら辞めた。最後は、小泉との権力闘争に敗北し、政界から引退した。
この権力に対する淡白さが、継続性という点であだになったと思われる。戦争の記憶が失われつつある時代となり、それでも爪を立てて野中たちの思いを国民に引き継ごうとする「権力者」がいなくなった。戦後政治を支えた「リベラル保守」の精神が、今、迷走している。(文中敬称略)【時事通信社「地方行政」2019年10月7日号より】
菊池正史(きくち・まさし)日本テレビ政治部デスク。1968年生まれ。慶應義塾大大学院修了後、93年日本テレビ入社、 政治部に配属。旧社会党、自民党などを担当し、2005年から総理官邸クラブキャップ。11年から報道番組プロデューサー等を経て現在は政治部デスク。 「著書に「官房長官を見れば政権の実力がわかる」(PHP研究所)、「安倍晋三『保守』の 正体」(文藝春秋)などがある。
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70代の女性が男にキャッシュカードをだまし取られ、現金1400万円の被害。男は女性の前でカードの一部をハサミで切り、使えなくなったように見せかけていました。 今年2月、小牧市に住む70代の女性の自宅に、警察官を名乗る男から「銀行の偉い人が口座情報を横流ししている。カードを止めに行きます」などと電話がありました。 女性は、自宅を訪れた警察官を名乗る別の男にキャッシュカード2枚を手渡し、その後、女性の銀行口座から現金1400万円が引き出されました。 男はカードを受け取る際、ハサミでおよそ1センチの切り込みを入れ、「カードは使えなくなった」などと説明していましたが、実際には磁気部分が切られておらず、カードは使える状態だったということです。 愛知県警は、カードを切り被害者を安心させる悪質な手口だとして、注意を呼びかけています。
東海テレビ
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今ではドラッグストアの店頭でも見かけるようになったマスクですが、品薄の頃から、東京・新大久保エリアでは在庫が豊富にありました。韓流ショップが立ち並ぶその土地柄、独自の中国ルートでマスクを仕入れられていたわけです。
私はこれまで何度か新大久保を視察してきました。4月半ばまでは、50枚入りマスクの価格は3000~3500円でした。ところが6月に入ってからは、1400円程度にまで値下げしていました。韓流エリアとは別の通称「イスラム横丁」では、900円で売られているマスクも。
多くの場合、こうした店で販売されているマスクは、日本の品質基準を満たしていなかったり、日本衛生材料工業連合会の「全国マスク工業会会員マーク」がついていなかったりします。品質が担保できないとなると、大手のドラッグストア等に仕入れてもらえない。結果、行き場を失ったマスクは新大久保の韓流ショップや、個人経営の店といった、普段はマスクを扱わない店に流れていたのです。
ところが、そうした店でも、もうマスクは売れません。品質基準を満たした“きちんとしたマスク”がドラッグストアに入荷されるようになってきましたし、布マスクを着用する習慣も定着してきたためです(アベノマスクを付けている人あまり見ません。私自身は結構使っているのですが……)。買い溜めたマスクがたくさん、というご家庭もあるでしょう。
値段が10分の1に…
ここまでマスクが値崩れしてしまうと、「バブル」に乗ろうと新規参入した業者の中には、たいへんな目にあった方もいます。今回、匿名を条件に取材に応じてくれたある業者は「もうマスクには二度と手を出しません」と、次のように証言します。 「もともとネット通販事業を営んでおり、中国からの流通ルートを持っていました。コロナでマスクが不足していると聞き、3月下旬にマスクの輸入をはじめました。仕入れ値は1枚30円ほどで、最初は1枚100~120円で販売するつもりでした。ところが、参入するのが遅すぎたのでしょう。早々に値崩れが起き、やむなく4月に30~35円まで一気に値を下げました。これがゴールデンウィーク明けには25~28円にまで値下げすることになり、今や15~17円で何とか売っています」
当初の予定から、値段が10分の1近くになってしまったわけです。しかも、ビジネスである以上、かかる「コスト」ももちろんあって……。 「ウチの場合、50枚入りの箱で中国から商品が送られてくるのですが、これが結構かさばるんです。現状は、マスクを保管しておくために、大手の物流倉庫を借りていますが、今も倉庫には500万枚ほどの在庫が眠っています。まだ今後も需要はあると思うので、10枚や5枚に小分けして売るつもりです。その作業のために人を雇うので、コストや手間はかかってしまいますけれど」(同) マスクを生産する中国でも、すでにバブルが崩壊しているとの話もあります。1月以降、マスク関連事業に新規参入した中国の業者は数万社と言われ(1万社とも7万社とも。海外報道ベースなので、はっきりとした数字はわからず)、業者の増加に伴いマスクの原材料であるメルトブロー不織布の値段は一時40倍にもなったそうです。
ところが中国でコロナウイルスの感染拡大はおさまり、また先述した“質”を理由に、日本などへの海外輸出は奮いませんでした。結果、メルトブローの値段は落ち着くどころか、モノによっては、コロナ禍前より安くなっているともいわれています。
6月8日、WHOはアフリカでコロナ感染が急増していると警鐘を鳴らしました。まだマスクが浸透していないアフリカで需要が高まる、あるいは日本に第2波が来たりすれば、マスクの値段はふたたび値上がりするかもしれません。もちろん、そんな日が来ないことを祈っています。 渡辺広明(わたなべ・ひろあき) 流通アナリスト。株式会社ローソンに22年間勤務し、店長、スーパーバイザー、バイヤーなどを経験。現在は商品開発・営業・マーケティング・顧問・コンサル業務など幅広く活動中。フジテレビ『FNN Live News α』レギュラーコメンテーター、デイリースポーツ紙にて「最新流通論」を連載中。 週刊新潮WEB取材班編集 2020年6月16日 掲載
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以前、エブリィで下水のなかに含まれる新型コロナウイルスを検出し調べることで、ウイルス感染拡大の兆しをつかもうとする県立大学講師らの研究についてお伝えしましたが、この研究グループがウイルスの検出に成功したと16日に発表しました。感染拡大の第2波を事前に察知する目標へ一歩前進です。
「やっとこの研究の第一歩が…」
富山県立大学の端昭彦講師らのグループがウイルス検出に成功したのは、県内1か所と石川県3か所の合わせて4つの下水処理場から、4月24日以前に採取した下水です。
当時、県内はウイルスの感染拡大がピークに近い時期で、その時期に採取した下水を濃縮してPCR検査にかけた結果、27のサンプルのうち7つから陽性の反応が得られたということです。
端講師は金沢大学と共同でことし3月から処理が行われる前の下水を週に1回程のペースで採取し、便に含まれる新型コロナウイルスを検出する研究を行っています。こうした研究は日本水環境学会の特別チームが全国25の自治体でも行っていますが、この方式で検出に成功したのは全国でも初めてです。
富山県立大学 端昭彦講師「確実に県内でも検出できることが分かった。医療機関から感染者報告数が増加する7~10日前にも検出。まずまずの進捗。ピークで検出だったが第2波も検出したい」 端講師は現在、ウイルス検出された処理場とは別施設である浜黒崎浄化センターでサンプルの採取を続けていて、今月中にデータをまとめたいとしています。
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朝日新聞社