思考の整理学

2020年08月11日 08時07分03秒 | 社会・文化・政治・経済
思考の整理学 (ちくま文庫)
 
 
大学生協文庫年間ランキング2年連続1位! 2018年1月~2019年12月 (大学生協事業連合調べ)

歴代の東大生・京大生が根強く支持する異例のベスト&ロングセラー!
刊行から34年で124刷・253万部突破!

「もっと若い時に読んでいれば……」
そう思わずにはいられませんでした。
――松本大介さん

自分の頭で考え、自力で飛翔するためのヒントが詰まった学術エッセイ。

アイディアが軽やかに離陸し、思考がのびのびと大空を駆けるには?
自らの体験に即し、独自の思考のエッセンスを明快に開陳する、恰好の入門書。
考えることの楽しさを満喫させてくれる一冊。

2008 年に東大(本郷書籍部)・京大生協の書籍販売ランキングで1 位を獲得して以来、12年間の間にともに7度の売上1 位を獲得。
「東大・京大で一番読まれた本」として知名度を高め、新たな読者を増やし続けています。

■なぜ東大生が根強く支持するのか? 東大生の感想……外山滋比古講演会「思考の整理学を語る」より
・今の時代に必要なのは、情報を手に入れることよりも「捨てる」ことなのだ。
・他分野との接触、混在が新しい思考法を生み出すという考えがとても新鮮に思えた。
・大学やその先で求められている「学び」に対する姿勢が、少し分かった気がする。
・知識に偏った勉強をしてきたからこそ、それじゃいけないんだ、と思いを新たにした。
・考えがまとまらない時、くよくよするのがいちばんいけない。
・メモをとり、整理する癖がつきました!
・根底にある理念は自ら学べ、という点だと感じた。
・高校生の時は意味が良く分からなかったけれど、大学に入って文章を書くようになり、先生の仰っていたことの重要性が良く分かった。
・今の自分を肯定して考えることの楽しさを教えてくれます。
・時を経ても変わらない価値がある。
・この本を読んでいないなんて、人生の半分を損している。
 

出版社より

歴代 東大生 京大生 根強く支持 異例 ベスト&ロングセラー 刊行から34年 122刷 245万部突破 東京大学 京都大学
 
東大・京大で一番読まれた本 刊行から34年 122刷 245万部 アイディアが軽やかに離陸し、思考がのびのびと大空を駆けるには 自らの体験に即し 独自の思考のエッセンスを明快に開陳する 恰好の入門書
AI時代にこそ輝きを増す 時代を超えたバイブル 先生と教科書に引っ張ってもらうグライダー型 エンジンを積んで自分の頭で考え 自力で飛びまわれる飛行機型の人間こそ これからの時代には必要 外山 滋比古

〈依存〉のための知識より、〈自立〉のための知識を求めよ!

その言葉は、従来の枠組に留まるか否かを迷う今の我々にこそ響く。

ーー宮台真司(東京大学文学部卒)

醗酵、触媒、メタ化、セレンディピティ、拡散と収斂。

みんな理系用語。文系と理系を鮮やかに橋渡しした名著。

でも朝食は抜かなくてよいと思う。

ーー福岡伸一(京都大学農学部卒)

もっと若い時に読んでいれば そう思わずにはいられませんでした 松本大介 さわや 最短距離 指針 思考の整理学 さわや書店

ロングセラーのひみつ

『思考の整理学』は1983年「ちくまセミナー」というシリーズの1冊として刊行された本で、その後1986年に文庫化しました。もともと2007年までの21年間で16万部のロングセラーとなっていましたが、2007年に岩手県盛岡市のさわや書店で、店員だった松本大介さんが記した「もっと若いときに読んでいれば……」 という書店店頭のPOPをきっかけに再び注目を集め、2008年の東大(本郷書籍部)・京大生協の書籍販売ランキングで1位を獲得したことから、“東大・京大で1番読まれた本”のフレーズが生まれました。

2009年には累計発行部数が100万部を突破。2016年には30年目にして200万部を突破し、まさに時代を超えて読み継がれる異例のベスト&ロングセラーとなっています。大学生協文庫年間ランキングでは2018年、2019年と2年連続での1位を獲得しています。(大学生協事業連合調べ)

 
外山 滋比古 とやま しげひこ

外山滋比古(とやま・しげひこ)

1923年生まれ。文学博士、評論家、エッセイスト。東京文理科大学英文科卒業。『英語青年』編集長を経て、東京教育大学、お茶の水女子大学などで教鞭を執る。専攻の英文学に始まり、テクスト、レトリック、エディターシップ、思考、日本語論の分野で、独創的な仕事を続けている。著書に『思考の整理学』『ことわざの論理』『「読み」の整理学』『知的生活習慣』『伝達の整理学』(筑摩書房)など多数。

 
 
 
ネタバレ作者が亡くなったと聞き、有名だしそろそろ読もうかと思い、図書館で予約。
「東大・京大で一番読まれた本」というキャッチコピーで有名なので眼から鱗の思考術が載っているのかと思っていましたが割と当たり前のことが書いてありました。
東大、京大に入る人なら勉強する過程ですでに気付いていそうな気もするけど、むしろこの本がきっかけでこの考え方が広まったんだろうか?
朝考える、アイデアはとにかく書き溜める、見返して整理する。当たり前じゃんと思えるけど実践はできてないのでやらないとな。特に書いて忘れちゃうのは身に覚えあり。
 
 
 
確かに言葉遣いがやや古い。しかし、一つのテーマが数ページでまとめられており、内容も非常に分かりやすいため読みやすい。ハウツー本ではないと書かれているものの、著者の考えや実践方法を結構具体的に書いてくれているので参考になる。読む前から自分の体験で学んでいたこともあるし、書いてあることは割とシンプルで理解は出来るが、「考える」と言うことは一朝一夕で身に付くものではないのでこれから自分でどう考えていくか。忘れた頃に定期的に読み返したい。
 
 
 
「学校はグライダー教育だ!」と学校という学ぶための7割くらい(主観)のところにダメ出ししていたことが印象的だった。グライダーは飛べるようにしてもらう人が必要で自分では飛べないので社会に出たら何もできないんだなぁと感じた。  又、思考の整理に一番重要なことは、「忘れる」ということなのだと知った。自分も本当に不必要なものは忘れたいと思った。 これらを何十年前に言っていたことだと知ったらこの外山 滋比古さんはとてつもない人物だと思った。
 
 
ネタバレ数々な自己啓発本やハウツー本を読めば読む程に本書の書かれている内容が如何に収斂された行動なのかが分かり、重みを強く感じる。例)朝に重要なタスクをやる&楽観的(暗喩:朝に誘惑や邪魔が入りにくいや意志力が高い状態)、リーンゲインズ(1日に8~10時間以内だけ食事)、アイディアや考えは寝かせる、朝と夜では考えが違う、とにかく書きまくる(≒エクスプレッシブライティング)、ピグマリオン効果、三上(電車や車、枕上、トイレ)・三中(無我夢中、散歩中、入浴)etc…本書の原理原則を守り、習慣化していくかがポイントとなる。
 
 
 
«東大・京大で1番読まれた本»で話題になって、ずっと気になってた。 『人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。 私は前者だなぁ( °꒫° ) エンジン搭載できるように成長せねば。 この本が書かれたのが1983年。 その頃と比べると、ネットなどで情報が簡単に手に入る現在。 余計に”思考の整理”が必要になってくるんじゃないかな。
 
 
 
本書は誰かの受け売りではなく、自分の頭で考える楽しみを教えてくれる。アイデアの素材探しや拡散法、収斂のさせ方が詳しくまとめられている。 人間は朝のほうが頭がすっきりしていて楽天的。また空腹時のほうが能率的なので、仕事や思索は朝飯前に片付けること。猛獣の訓練も空腹の時に限るのだと…笑。 思考には熟成が必要で、思い付いたアイデアは寝かせておくこと。見つめる間は煮えない…そして煮詰まったら、翌朝に繰り越すこと。思考の整理には良い意味で諦めや割り切りが大事なのかも…
 
 
 
986年時点でグライダー人間を養成する教育機関のヤバさを指摘していたにもかかわらず、2005~2017に受けた義務教育は完全にグライダー人間を養成するためのものだった。変わってないぞジャパン!という印象を持った。グライダーの他には、醱酵、とにかく書いてみる、拡散と収斂が面白かった。
 
 
 
「人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分で物事を発明、発見するのが後者である。先生と教科書にひっぱられて勉強する、グライダー人間。現実にはグライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるでなし、という”優秀な”人間が沢山いることもたしかで、そういう人も”翔べる”という評価を受けているのである。しかし「ひとつ飛んでみろ」などと言われては困ってしまうのだ。現代社会ではグライダー兼飛行機のような人間とならなければならない」p15 …”優等生”の私は、100%グライダー人間だ。
 
 
 
若いうちに読むべき本」と高校生の時に先生から薦められたが、あまり理解できなかった。それから10年くらいたった今、再読すると府に落ちる内容が豊富に書かれていた。書かれている文章は読みづらいがシンプルな内容である。この本が30年以上前に書かれたことに驚いている。
 
 
 
なぜ、自分の好みすら分からない 鈍感な人間が量産されるのか 本を読んで、ものは知っているが ただ、それだけ という人間ができるのは 自分の責任において、本当に面白いものと いっときの興味との区分けの労を惜しむから だそうだ その労をたすける技術が書かれているが 思考整理の本質は、人間を厳密にすること 価値観の形成にある そのための抽象化であり、忘却である 価値観がしっかりしていないと 大切なものを忘れ つまらないものを覚えていることになる
 
 
 
ひとつが5,6ページのエッセイ集だけど、全ての話に繋がりがある。知識の貯め方やそれを発想までに持っていく経路、その経路の整備の仕方など脳みその使い方をたっぷり教えてもらえる。今では頷きやすい話も多いが、30年前では割と刺激的だったのだろうか。人間(の脳)の役割が知識の倉庫から思考の工場へ変化していく、という話だが、外山さんの手帖の使い方やノート作り、つんどく法を聞いてしまうと、基盤となる知識量は多いに越したことはないなあと、身の引き締まる思いになる。つんどく法はやってみたいな。
 
 
 
エッセイのようでさらっと読めるのに、言っていることは的を射ている。日常でよくある出来事を例に挙げていることで、あぁ、そういうことだったのか、確かにと納得することができた。30年以上前に書かれた本であるのに、既にコンピューターの出現により人間は考え更に次のステップに進むべきという内容が書いてあった。全然最近の出来事ではないのだなと思った。多くの人が同じようなことに気づき、こうするべきだと言っているはずなのに、まだまだ自分たちは手探りで生きているんだなと感じた。難しい課題、でもだからこそ頑張り甲斐があるのかな
 
 
 
外山先生の本を続けて読了。こちらの方が、コンパクトかつ網羅的にテーマがまとまっていると思う(だから、多く読まれているのだろう)。初読の時や先生の他の著作で「忘れること(発酵させること)」の大切さは頭に残っていた。再読時には「第一次的現実」が印象的であった。第一次的現実にもとづく思考、知的活動に注目する必要がある、という記述には目が開かされた。また、「社会人も、ものを考えようとすると、たちまち、行動の世界から逃避して本の中へもぐり込む」というのは私にとって耳が痛い限りだ…。汗のにおいのする思考を意識したい。
 
 
 
1日のうち、思考を整理するための時間をどれほど持てているだろう。思いを巡らせる余裕のある時間をもつために、わざわざ努力をしている。トイレや寝る前、ほんとに昔に比べると思案するための時間がとれない、逆を言えば、いつでもどこでも自分の外と繋がりが持てる環境である。教育はお節介というけれど、今は度が過ぎているような気がする。未知とのぶつかりを楽しむことごできているであろうか。
 
 
 
 
読みやすくて面白かった。「考えることとは何か」について筆者の経験をもとにしながら、筆者と一緒に探索の旅行(散歩)に出かけた気分。発刊は古いと思うけど、ワーキングメモリを空けておくとか?、最近のビジネス書で言われそう事に近いニュアンスがチラホラ顔を出して、本質に迫っているのではないか。「ひとつでは多すぎる」が心にグッと来た。
 
 
 
この本の重要なテーマのひとつに、具体的な知識や経験を抽象的、普遍的なものに整理していくことの必要性がある。30年以上前に書かれた本なのに議論している問題が現代と変わっていないのは、筆者に先見の明があるだけでなく、日頃からこれを実践していて社会の根本的な問題について理解していたからであろう。 大学生の身としては、レポートや論文の書き方のヒントが載っていたので参考になった。
 
 
 
「情報のメタ化」の章が、知的生産についての理論としても、具体的な方法論としても有益。そのほかの章は、連想的な書き方で、繋がりがあまり論理的でない。また、具体的な話を出した後で、その解釈をしているところが多くあるが、解釈に同意できない部分もあった。/近年大学入試でも小論文などを出すところも増えた、という記述があり、小論文のない時代もあったのかと驚いた。/とはいえ、グライダー型の勉強と飛行機型の知的活動の違いを述べているのは重要。
 
 
 
 
去年くらいに購入してから途中でよむのをやめていたがまた読みはじめ最後まで読みきった。 ノートの書き方などは実践する気になれなかったが、考え方で勉強になることが多かった。概念的に書かれているので何度か読むとまた違った発見がありそう。 冒頭の朝飯前の話、後半の既知と未知についての話は面白かった。読書は既知の事実が書かれているものを読むのは簡単で頭に入りやすいが、全く知らない情報が書かれている本を読むのは解釈が必要となるため難しい、でも後者が大事だと書かれていた。
 
 
 
タイトル通りのハウツー本…ではなく、考えることの重要性を学べる本でした。 30年以上前の本ですが、現代にも通用する内容でした。 小見出しのネーミングセンスが謎です(笑) ただ、読み解いていくと意味が理解できるのもおもしろかったです。 一周で理解し切れていない気がするので、また読み返します。
 
 
 
 
再読。人生のヒントをくれる本。 数年前の僕が流し読みしたであろう箇所が、今の僕にとって重要なヒントになっていた。 「人生やりきった。」と思えるその日まで、僕は何度も外山滋比古先生の元を訪ねるだろう。この本を介して。
 
 
 
グライダー人間は自分で飛べない。創造的な飛行機人間を目指す。見つめるナベは煮えない。寝かせること。価値観がしっかりしていないと、大切なものを忘れ、つまらない物を覚えていることに。気心知れていて縁の薄い事をしている人と集まって、現実離れした話をする。セレンディピティの着想可能に。
 
 
 
 
「考えることができる人」とはどういう人なのだろうか。学校で良い成績を取る人か。本書では「学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間は作らない。」と喝破している。確かに近年の教育はとても創造性を生み出すとは言えないものであった。自分で何をしたらいいのかわからない「グライダー人間」が横行している。ぜひ本書を読み、考えるとはどういうことなのかを理解してほしい。考えるときに「1つだけでは多すぎる」と言うことも忘れてはならない。科学技術が発展し従来よりも純粋に考える力を発揮するのは難しくなっているであろう。
 
 
 
 
古いけど、良書。30年以上も前の本だとは思えないのは、考え方の本質について書いてあるからだろう。 この本を読んで、生後9ヶ月になる我が子を飛行機型思考に育てるためにはどうしたらいいのだろうかと考えた。本書の考えに則れば、まず、たくさんの第一時的現実を体験させ、汗のにおいのする思考を育てる。本人の興味を育み、知識の点と点を繋げられるようにする。全否定せず、褒めて伸ばす(ピグマリオン効果)。親の敷いた道のとおりに子は育たないと分かってはいるが、それでもいつか自力で空を飛べるような人になってほしいと願う。
 
 
 
ネタバレ 知識の忘却とふとしたときの発想についていくつかの章で書かれていたのが印象的だった。  知識はその多くが忘却され、それにより自分に印象深かった情報が元情報の純化という形で現出するというものだが、これはパターンで物事の優劣を決めるAIとは違い人間の主観的な脳があるからこそできることだと思った。自分らしさというものが忘却によって具現されるのかなとも考えた。  問題を頭の中で寝かせておくとふとしたときに解決するというのは私にも経験がある。解決に焦らず様々なことをして周辺視野を使って答えを探していこうと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コロナはただの風邪」平塚正幸 クラスターデモ行い批判殺到

2020年08月11日 06時41分09秒 | 事件・事故

8/10(月) 19:50配信
女性自身

国民主権党党首の平塚正幸氏(38)が8月9日、東京都渋谷でマスク無着用の「クラスターデモ」を実施。新型コロナウイルス対策への抗議活動で、今回が10回目だという。

平塚氏は、TwitterとYouTubeで世論の反応を拡散し続けている

ネットでは「クラスターフェス」とも呼ばれ、トレンド入りするほど波紋が広がっている。

厚生労働省は5月に「新しい生活様式」を提言。「人との間隔を空ける」「人との間隔が取れない場合は、症状がなくてもマスクを着用」といった予防策を呼びかけている。

いっぽう平塚氏は「コロナはただの風邪」とし、「マスクやソーシャルディスタンスは不要」などと主張。7月実施された東京都都知事選に出馬したが、得票数は8997票に留まった。

さらに平塚氏は8日、デモが終わった後に山手線を一周することをYouTubeで事前告知。

これまでも支持者たちがマスク無着用で電車に乗っていたことから、「自分もやりたい」と着想したという。平塚氏は「マスクしている奴らを孤立させてやろう!」「マスクは奴隷がつけるもの」などと発言していた。

10日放送の『あさチャン!』(TBS系)では、この「クラスターデモ」を特集。番組の取材に対して、平塚氏は「自由な生活が脅かされる危機感のもと始めた」と動機を語っていた。

デモ終了後、「ノーマスク・山手線」と題した動画をYouTubeにアップ。「公安委員会の皆さん、今から乗ります!」と宣言し、マスク無着用で仲間たちと車内に乗り込む様子を披露した。

■「ノーマスク・山手線」動画は11万回以上再生も非難殺到

動画は11万回以上再生されているが、6500件もの低評価を記録(10日18時現在)。平塚氏の行動に、辛辣な声が殺到している。

《クラスターフェスって初めて知った時マジで驚いた、自由の権利を一方的に主張して公共の場で自分のみならず周りの人にも迷惑かけるとかテロじゃん普通に》
《クラスターフェスかなんか知らんが、公共機関をジャックしようとしたり関係ない人を巻き込まないで欲しいな》
《ノーマスクで山手線一周とか嫌がらせとしか感じないんだけど、医療従事者がこの中で感染した人の対応するって思うと泣けてくる》

「アメリカでは、『コロナパーティー』に参加した男性が感染して死亡しました。死ぬ間際に、参加したことを悔いていたそうです。厚労省でも、飛沫感染と接触感染でうつると警鐘を鳴らしています。また平塚氏がデモを行うことを危惧し、営業時間を短縮した店もあったそうです」(全国紙記者)

国民主権党の公式サイトは現在、閲覧できない状態だ(10日18時現在)。いっぽう平塚氏は、TwitterとYouTubeで世論の反応を拡散し続けている。

平塚氏は10日に投稿した動画で「こういう状況だからこそ、やらなければいけないことは公開討論大会」と断言。続けて「我々の主張に対して物申したい人がいるなら、ぜひ連絡してきてください」と呼びかけている。

 

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「シノギ」は焼肉店…勢力衰退で先細りするも、身近に潜む暴力団

2020年08月11日 06時27分14秒 | 社会・文化・政治・経済

8/10(月) 20:30配信
産経新聞

 焼肉店で借金のカタに知人男性を無償で働かせたとして、大阪府警は6月、強要容疑で、特定抗争指定暴力団山口組系幹部の男ら4人を逮捕した。

幹部らは暴力団と関係ないように装いながら、店を「シノギ」(資金獲得活動)にしていた。取り締まりが年々厳しくなる一方、暴力団は社会情勢に合わせ、巧妙にシノギを確保している。

身近に反社会的勢力の危険が潜んでいることが改めて明らかになった。

【グラフ】「シノギ」等で摘発された暴力団構成員の推移

 ■普通の焼肉店が

 事件の舞台となった焼肉店は、大阪府内の雑居ビルに入店。イラストが付いた看板を掲げ、ほかの飲食店と並んで営業していた。

 山口組系幹部の男(64)=強要容疑で逮捕=が実質的な経営者だったが、堂々と営業できたのは、一般人の30代男性の名前が不動産契約の名義人として使われていたからだ。

 この男性は、平成30年12月ごろ、幹部の男らから「焼肉屋の名義人になれ」と迫られた。約2年前、地元の祭りで知り合った男の配下組員から野球賭博に誘われ参加。負けが続き、法外な利息も付いた借金はいつの間にか百万円を超えていた。

 男の要求を断れなかった男性は、不動産会社との賃貸借契約で名義人になったばかりか、約1年間、昼間は本職、夜は焼肉店で働かされた。時給は形式上は1200円だったが、借金の返済分として全て取り上げられていたという。

 ■強まる取り締まり

 暴力団が資金を獲得する手段は、多岐にわたる。警察庁は、暴力団の主要な資金獲得活動を「伝統的資金獲得犯罪」と規定。

覚醒剤▽恐喝▽賭博▽競馬や競艇などの公営競技で違法に賭けをするノミ行為等-の4つに分類している。

 このほかにも、繁華街で店を開く経営者らに用心棒代を要求したり、商品を無理やり買わせたりして、暴力団の立場を悪用しながらさまざまな手段で金を巻き上げてきた。

 しかし、25人が死亡した山口組と一和会による「山一抗争」(昭和59~平成元年)をはじめとする抗争事件が相次いだため、平成4年、暴力団対策法が施行。各都道府県も暴力団排除条例を制定した。

 暴力団対策法では、組員が金品の要求をした場合、恐喝や脅迫の刑事罰に問えなくても、公安委員会や警察が中止命令などの行政命令を出せるようになった。

また、条例では組員が銀行口座の開設や不動産契約ができなくなり、社会活動が大きく制限された。

 こうした取り組みで、3年に約6万4千人いた組員は、令和元年には約1万4千人に激減。伝統的資金獲得犯罪に絡んで摘発された組員らの数も、この10年間でほぼ半減した。

 ■特殊詐欺に深く関与

 ただ、暴力団にとってシノギは生命線。獲得した資金で活動拠点を全国各地に確保し、高額な拳銃などの武器を調達して勢力を拡大してきた。

 金を集められる組員の影響力は大きく、組織の統合や分裂の鍵を握ることもある。そのため、社会の変化に合わせ、巧みに資金を獲得する方法をひねり出している。

 中でも、多額の現金が動いている可能性があるのが、年間約315億円の被害が出ている特殊詐欺への関与だ。

 警視庁などは平成30年、山口組系幹部が特殊詐欺事件に関与したとして、組員ら7人を逮捕。上納金が流れたとみて、神戸市の山口組総本部を家宅捜索した。

 警察庁によると、昨年1年間で特殊詐欺事件に関与したとして2861人を摘発。このうち約2割にあたる521人が組員だった。

 ただ、これは氷山の一角にすぎない。特殊詐欺事件の摘発は、使い捨てとなる現金受け取り役「受け子」や被害者に電話をかける「かけ子」が中心で、組織的背景の実態解明まで至りにくいのが実情だ。

 捜査幹部は「組員が減っても、今でも暴力団は力を持っている。シノギが今後も巧妙化する可能性があり、動きを注視していく必要がある」と警戒を強めている。

 

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永瀬拓矢叡王、初防衛&九段昇段に王手!番勝負の合計手数記録も38年ぶりに更新「1232手」に/将棋・叡王戦七番勝負

2020年08月11日 06時20分30秒 | 社会・文化・政治・経済

配信

将棋の叡王戦七番勝負第7局が8月10日に東京都渋谷区の将棋会館で行われ、永瀬拓矢叡王(王座、27)が豊島将之竜王・名人(30)に91手で勝利、シリーズ成績を3勝2敗2持将棋1千日手として、初防衛に王手をかけた。永瀬叡王は防衛を果たせばタイトル3期となり、九段昇段の条件も満たす。
千日手1回、持将棋2回、200手超が3局と、「とにかく長い叡王戦」となっていた今シリーズだが、勝った方がタイトルに王手をかける重要な一局は、永瀬叡王のものだった。
先手番から相掛かりを採用し、積極的な仕掛けを見せると中盤からペースを握り、その後も隙きなく着々とリードを拡大。最終盤には、豊島竜王・名人から捨て身の反撃を受けるも、しっかりと蓄えていた持ち時間も有効に使い、落ち着いて対応。逆転を許すことなく、そのまま押し切る快勝だった。
 これまでタイトルをかけた番勝負で最も合計手数が多かったのは1982年、第40期名人戦の中原誠名人と加藤一二三十段の戦いで、千日手2回、持将棋1回、都合10局による1230手だったが、この日の91手で合計1232手となり、記録を38年ぶりに塗り替えた。  
今回のシリーズは千日手、持将棋が相次いだことから、第7局が行われる前に、第8局・第9局に関する特別ルールも発表された。第8局、第9局に千日手・持将棋が成立した場合は、その時間に関わらず指し直し・次局が行われる。持将棋の場合は「引き分け」扱いのため、本来であれば持ち時間をフルの状態から始めるが、今回に限り千日手のように持ち時間を引き継ぐ(少ない方の持時間を1時間とし、加えた時間を相手にも加算する)。
 

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生涯編集者 月刊「創」奮戦記

2020年08月11日 03時09分57秒 | 社会・文化・政治・経済

篠田 博之 (著)

月刊『創』の編集長が、創出版を興して今年で30年になるのを機に、映画『ザ・コーヴ』上映中止事件など言論・表現をめぐる様々な事件や宮崎勤死刑囚や林眞須美死刑囚、女優・三田佳子さんの二男や田代まさしさんの薬物事件など、関わって来た事件や様々な経緯をまとめた一冊。

宮崎勤死刑囚の面会時の様子や、林眞須美死刑囚に、判決公判に着ていく真紅の勝負服を頼まれたことなど、他では知ることのできない話が満載されている。

篠田/博之
1951年茨城県生まれ。1980年より『創』編集に関わる。81年同誌編集長。現在は創出版代表も兼務。本業のほかに東京新聞に毎週「週刊誌を読む」連載。同コラムは北海道新聞、中国新聞、大分合同新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長、また東京経済大学大学院講師、日本エディタースクール講師なども務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

1980年代の後半、『創』を読んでいた。熱心な読者とは言えなかったが、その独特なスタンスと掲載された内容に驚きを覚えることも少なくなかった。
本書は、30年以上にわたってメディア批評誌『創』の編集長を務める著者が、『創』の歴史や自らが関わってきた事件や裏話などをまとめたものである。

冒頭では、メディア批評誌となる前の『創』やその前身であった『構造』、当時の総合雑誌の状況について簡潔にまとめられている。
『創』はメディア批評誌だが、単なるメディアの批評以上に、社会的に話題となった事件の加害者の近縁者、加害者とされた人、刑事被告人、加害者と直接接触して、その“生”の声を掲載してきたことが大きな特色である。本書では、そのやり取りの中で著者が知り得た彼らの素顔や裁判などの間の心の揺れなどが明らかにされている。
また、マルチ商法、皇室関連、映画『ザ・コーヴ』上映問題などに関連して、暴力団・右翼などから様々な攻撃を受けているが、それらについても詳述されている。
ただ、全体で約240ページしかないので、個々の事件に関して突っ込んだ記述は望めない。詳しく知りたい場合、それぞれのテーマで出されている単行本などを読むしかないようだ。

この30年を振り返ることがメインであるが、その過程で表現・報道の自由に対する考え方なども述べられている。また、最終章では、現在の雑誌ジャーナリズムの状況の分析と苦言が書かれている。
その考えの全てに賛成するわけではないが、暴力や圧力に屈することなく、表現・報道の「自由」を守るという、真の「ジャーナリスト」としての姿勢には、敬意を表さずにはいられない。

 

「皇室タブーと右翼の攻撃」「コミック規制反対の闘い」をはじめとした雑誌「創」が扱ってきた数々の事件と編集人・篠田博之の取り組みを振り返る内容。創刊30周年の記念出版だそうだ。各事件に関する単行本も同社から発行されているので、やや目録的な要素もあるのだが第1章と最終章を読むだけでも価値があると思う。
 内容的には各事件を取材するのはもちろん、ときには対立する取材対象者を仲裁し、ときに擁護し、保護、支援したりもする。仕事とはいえ、よくもこんな面倒くさそうな件に関わり、手厚く対応できると思う。制作や編集に関わったことがある人ならわかると思うが、この仕事はリサーチや調整に加えて交渉や対話、説得や妥協などを粘り強く繰り返すことが要求される。もちろん安易にショートカットできることもあるが、それは当然結果(仕上がった番組や本)に現れるから、おのずと良い編集者の地味な仕事量は多くなる。そしてその意味で篠田氏は圧倒的に地味な仕事をたくさんやっている編集者だ。本書を読むとそのことがよくわかる。

 ジャーナリズムの重要な仕事である「権力や体制の監視」は各種マスメディア(とくに紙媒体)が商業的に疲弊している現在、非情に難しい作業になった。これはあらゆるメディアで語られていることだが、その状況の中にあってそれでもジャーナルを推し進める媒体は非情に少ない。もちろんジャーナルが利益を生まないからだ。出版社が一定の利益をあげている時代は「使命」として赤字のジャーナリズムを存続させることはできたが、どの出版社も経営が厳しい今、使命より企業的優先順位が大切にされるのは仕方が無いようにも思う。
 今は不本意ながらリタイアしてしまったが、20年以上雑誌メディアの端っこにいた人間として、雑誌「創」を買い支えねばいけないと勝手に思っている。とくに最終章を読んで「創」をいかにして存続させているかを知り、篠田博之の中に“男”を感じとってしまった今、その思いは強くなる一方だ。篠田氏がどんな家庭で育ち、どんな扶養の義務を負っているかはわからない。例えば彼のやっていることを「守るべき家族のいない独身者のキレイごと」と失笑することは簡単だ。しかし、それで良いのか? 仮に自分が気楽な独身者であったとして彼のようなことができるか? そんな簡単なことではないと思う。
 自分が成し得なかった雑誌の編集者としての生き様が見えるからこそ、オレはこの「キレイごと」に体当たりで挑んでいる著者を羨望の眼差しで見上げるのだ。


生涯編集者  原田 奈翁雄 (著)

2020年08月11日 03時03分14秒 | 社会・文化・政治・経済

身も心も天皇に捧げた軍国少年が、1945年8月15日の玉音放送を聞いて敗戦を受け入れられず、マッカーサーを刺し殺すことを決意、仲間と「殉皇菊水党」を結成。
その後、「大東亜戦争」の欺瞞、戦争の真実を知るにつれて、深刻なアイデンティティー・クライシスに陥った。


サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約が締結された五二年に筑摩書房に入社、自身の人間回復を重ね合わせるように書籍・雑誌を編集してきた。


78年筑摩書房退社後、80年径書房を創業、「昭和天皇に戦争責任がある」と議会で発言した本島等・長崎市長に届いた七三〇〇通の手紙を収録した書籍を出版。径書房退社後も季刊誌『ひとりから』を創刊した。



およそ70年にわたる編集者生活。その原動力は、戦中戦後の悔恨と贖罪にある。
「自らの生を自らの手に」――天皇軍国少年が歩んだ人間回復の道のり。


「伝えたい」という志を今も胸に燃やし続け、時代と格闘する編集者の思想遍歴。

著者について

1927年、東京で生まれた。45年の日本敗戦までは完全な軍国天皇少年として、敗戦後は敵将マッカーサーを狙うテロリストとして生きてきた。
そのような自分から抜け出す苦闘がその後の生涯であった。
52年、筑摩書房に入社、78年筑摩倒産、退社。80年、径(こみち)書房創業、95年退社。
99年、季刊誌『ひとりから』を金住典子とふたりで編集刊行、2011年6月からは年2回刊行。
2015年12月、第58号をもって同誌終刊。

著書:『終末からの出発』(明治図書)、『絶望を退けるいとなみ』(一茎書房)、『祈りと微笑』(たいまつ社)、
『本のひらく径』(日本エディタースクール出版部)、
『死ぬことしか知らなかったボクたち』(龍野忠久との共著、径書房)、
『どう生きる、日本人』(東方出版)、『この国は道理も道徳も破壊しつくした』(清流出版)
 
 
 

相模原障害者殺傷事件・植松聖死刑囚からの手紙と、早期執行の嫌な予感

2020年08月11日 02時55分40秒 | 事件・事故

 

2020年6月下旬の植松聖死刑囚からの手紙

 死刑が確定した相模原障害者殺傷事件・植松聖死刑囚から6月下旬にも封書が届いた。彼が東京拘置所に移送されてから3通目になる。手紙は届くけれど、内容は限定的なものだ。私が彼に金銭の差し入れをした礼状で、その目的に限定して死刑確定者から手紙を発信することが認められているのは大阪拘置所なども同様だ。

 ただ、あくまでも本人が裁判所に申請し、そのつど判断を得ることになっているようだ。だから手紙と言っても自由に何でも書けるわけではない。「お身体を何卒ご自愛下さいませ」と私の健康を気遣う一文は含まれているが、差し入れへの礼状という目的に沿った内容しか発信は認められない。

 何回やり取りしてもそれだけでは定例的な文章で、植松死刑囚がいまどういう状況でどういう心境なのかという、知りたいことはわからない。だから、当然、それを乗り越えるべき、いろいろな試みをしている最中だ。

連続幼女殺害事件・宮崎勤元死刑囚とは特別接見が認められたが

 私は2006年、埼玉連続幼女殺害事件の宮崎勤元死刑囚に死刑が確定した直後、特別に接見を許可されて何回か面会をしている。その2006年は、旧監獄法が改正され、死刑囚や懲役刑服役者などの処遇が大幅に改善された時期だった。しかも、私は死刑確定まで宮崎死刑囚とは12年にわたって密に交流しており、そのことは拘置所当局も把握していた。だから、特別に接見が許可されたのだと思う。

 ちなみに私は、宮崎元死刑囚の50万円弱の財産も預かり、彼の銀行口座を作って管理していた。なぜそうしたかというと、宮崎元死刑囚から毎月、相当量の本の差し入れ要請リストが届き、私が預かったお金から購入して送っていたからだ。本のリストのほとんどはマンガだったが、既刊本は大半が絶版・品切れだった。マンガのほかに彼は、自分の事件関係の本や精神鑑定や刑事弁護の本などを購入していた。ただ、マンガ以外はどの程度きちんと読んでいたか定かでない。

 特別接見許可が拘置所から出て、私が接見に行った時、宮崎元死刑囚は本当に喜び、全く無表情だったいつもと違って口元をほころばせた。

 しかし、その後、死刑確定者の処遇は制限が厳しくなり、家族と弁護人以外の「知人」については、一度広がった弾力的運用の道が再び閉ざされていった。

 だから今回は、当時と状況がかなり違う。2006年当時は私だけでなく、死刑囚と接見できることになった人たちがたくさんいた。それが再び制限が厳しくなって、例えば私は、奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚についても大阪拘置所で接見許可がおりなかった。

 昨年、寝屋川事件の山田浩二被告が控訴取り下げで一時期、死刑確定者になってしまった時は、以前から接見していたキリスト教関係者だけが接見を許可された。

漫画も連載中断。背景に処遇の厳格な運用が

 さてそういう事例を幾つも見てきて、大体事情は知っているつもりだが、植松死刑囚との接見は、上記の礼状以外、いまだに認められていない。彼が横浜拘置支所にいた頃は頻繁に接見をしていたが、そういう記録もどれだけ東京拘置所に渡っているか定かではない。

 

 「知人」枠での接見希望は植松死刑囚を通じて東京拘置所に申請されているはずだが、それがすぐには実現しないと思った私は、6月19日、弁護士と一緒に東京拘置所を訪れた。もちろん接見するのは弁護士で、私は待合室で待機するつもりだった。

 これまで弁護士であれば、本人が承諾すれば死刑確定者にも接見できる事例があったからだ。というか、そのへんは拘置所側の裁量なのだが、弁護士が接見を希望し、本人が応じれば、接見が許可されることが通例だったように思う。

 しかし、残念ながらその時は不許可になった。約1時間待たされたから、拘置所側もいろいろ検討したのだろう。接見申し込みが植松死刑囚本人に伝わる前に、拘置所側の判断で不許可になってしまったのだった。

 ちょっとこれは予想外で、思った以上に現状が厳しいことを実感せざるをえなかった。

 後で確認したら、植松死刑囚の連載漫画を掲載している『実話ナックルズ』も予想に反して接見許可が得られず、原稿の受け渡しも不許可になったという。最新号から、連載は突然、休載になってしまった。

 死刑囚の処遇は、全国一律で基本的には決められているのだが、細かい点については拘置所長の裁量によると言われる。今のところ、植松死刑囚については、あまり柔軟な対応が期待できないのが現状のようだ。もちろん今後も粘り強く交渉は続けるつもりだが。

控訴取り下げでの死刑確定は早期執行に影響も

 そういう状況のなかで、少し気になるのが、死刑執行まであとどのくらい時間的猶予があるかということだ。いまだに植松死刑囚との接見にこだわっているのは、1~3月に行われた裁判がほとんど事件の本質的な解明になっておらず、あの凄惨な事件がいったい何だったのか、本質は何だったのか、明らかになっていないことが多いからだ。

 6月に、裁判での詳しい証言などをまとめた本『パンドラの箱は閉じられたのか』(創出版刊)を刊行し、今までに比べれば相当、事件の本質に迫ったつもりだが、この本にも「相模原障害者殺傷事件は終わっていない」と副題をつけたように、真相が解明されていないことはかなりたくさんある。このままだと、この社会は、あの凄惨な事件からほとんど何も教訓化せず、何の対応もできないままになってしまう。それではいけないという思いがあるからだ。

 

 知らない人も多いのだが、死刑確定者は、法律上は半年以内に刑が執行されることになっている。ただその法律は厳格に守られておらず、何十年も拘置所で過ごしている死刑囚もいる。なぜかといえば、死刑囚の場合、刑を執行してしまえば二度と元に戻すことはできない、それだけ重たい刑罰だからだ。帝銀事件の平沢元死刑囚のようにどう考えても冤罪としか思えない人もいて、どの法務大臣も執行命令書にサインできず、高齢化して病死したケースもある。死刑執行というのはそれだけ重たい事柄なのだ。

 しかし、比較的執行が早いのは、死刑囚自ら控訴を取り下げて死刑を確定させた場合だ。これまで一番早かったのは付属池田小事件の宅間守元死刑囚で、確定から執行まで1年だった。宅間死刑囚は、控訴を取り下げたばかりか、早期執行を望んで法務省に要請を行うなどしており、それが執行を早めたのは明らかだ。 

 私が取材で関わった死刑囚で言えば、土浦無差別殺傷事件の金川真大元死刑囚も、自ら控訴取り下げを行い、早期執行を望んだが、死刑確定が2010年1月、執行は2013年2月21日だった。その日は同時に3人の死刑が執行されたのだが、金川元死刑囚のほかに私が関わった奈良女児殺害事件の小林薫元死刑囚も含まれていた。2人とも控訴取り下げを行ったことは共通していた。自ら望んで死刑台へのボタンを押したという事情は、やはり執行にあたって考慮の対象になっているのは間違いないと思う。

 現在、日本の死刑確定者は100人を超えており、死刑判決も死刑執行も多くなっている。私が関わった死刑囚で言えば、宮崎勤元死刑囚も、確定が2006年2月で執行が2008年6月と早かった。宮崎元死刑囚は判決に納得しておらず、当時、再審を考えて弁護士にせっせと依頼の手紙を書いていたから、その矢先の早期執行には、多くの人が驚いた。

 これについては当時の鳩山邦夫元法相(故人)がテレビで自ら事情を説明していた。自分が法相になって死刑執行のペースを早めようと考えた時、見せられた資料で知っている名前が宮崎だったというのだ。死刑執行早期化を考えた法務大臣の目にたまたま宮崎元死刑囚は入ってしまったのだった。

 そんなふうに死刑執行のタイミングについては、いろいろな事情が影を落とす。執行に多くの人が異を唱えず、しかも本人が自ら控訴を取り下げているという意味では、植松死刑囚の執行も早い時期になると思われる。

 植松死刑囚も、いつ執行されるかわからない状態だ。私のもとにはいまだに、相模原事件はまだ解明されておらず、このまま真相が闇に葬られてしまってはいけないという声が、精神科医や専門家から寄せられている。

 この間、特別接見を試みて拘置所側が示した原則的な対応を見て、ちょっと気になる印象を得た。オウム幹部らの一斉執行の例でもわかるように、社会的注目を浴びた事案については、いろいろな政治的判断が影を落とす。植松死刑囚について法律を厳格に運用しようという意思が働けば、執行は一般に思われている以上に早いかもしれない。

  

事件の本質はまだ解明されていない

 相模原事件についての一番大きな疑問は、なぜ植松死刑囚が障害者支援という職業に就きながらあのような考えに至り、凶悪な犯行に踏み切ったのかということだ。刑事責任能力については裁判で決着がつけられてしまったが、刑事責任能力の有無と、彼が何らかの病気になっていたのではないかというのは少し別のことだ。

 2016年7月の事件へ向けて、半年ほどの間に、植松死刑囚が、日本滅亡を認識し、自分が救世主になるという思いに取りつかれていったこと、その自分が救世主だという思い込みも、イルミナティカードから自分が察知したというように、論理の飛躍が否めない。 

 前述した『パンドラの箱は閉じられたのか』では、裁判が始まって以降、頻繁に植松死刑囚に接見した記録も書かれているのだが、最後、植松死刑囚は、面会する人全員に、6月に首都圏は壊滅するから少しでも地方に逃れたほうがいいと何度も忠告していた。壁が崩れていく幻覚も見た、と言っていた。控訴を取り下げた理由には、どうせ刑の執行を待たずに自分は東京や横浜の壊滅に巻き込まれるというのも挙げられていた。

 そうした妄想的観念が、死刑確定で誰にも会わず独居房に隔離されるという生活の中で進行していくことは明らかだ。死刑確定者の接見を制限する理由として、法律には、確定者の心情の安定を図るためとされているのだが、知人にも会えずに拘禁状態に置かれることのほうがよほど心情の安定を阻害するのは明らかだろう。死刑確定直前、植松死刑囚も接見できる状態が続くことを望んでいたし、私を含めた接見希望申請を2人ないし3人提出しているはずだ。

 心情の安定というのであれば、接見希望者に会えるような環境を作った方が彼の心情の安定に役立つのは明らかだと思う。

 だから植松死刑囚と再び接見できるようになれるよう、いろいろな試みを続けたいと思う。

 控訴取り下げで自ら死刑を確定させてしまうという事例がどういうことを意味しているのかについては、7月18日(土)13時半から、死刑反対運動で知られる安田好弘弁護士らと議論する集会を行う予定だ。主催は「フォーラム90」で、コロナ対策で入場者を100人以下に限定し、それ以外の方にはウェブで配信も行うという。同じく控訴取り下げを行った寝屋川事件とともに、こんなふうに死刑が確定していくことの意味を考えてみようという趣旨だ。ぜひ参加いただきたい。詳細は下記から。

http://forum90.net/event/archives/32

相模原事件・寝屋川事件から 頻発する上訴取下げを考える

 また相模原事件については7月24日(金)19時からロフトプラスワンのオンラインの集会を開催する。こちらはウェブ配信だけだが、主な出演者は新宿のロフトプラスワンに集まり、無観客配信を行う。出演は『こんな夜更けにバナナかよ』作者の渡辺一史さんや、作家の雨宮処凛さんらだが、今問題になりつつある障害者施設のあり方にも踏み込むつもりで、この間、その調査を行ってきた専門家にも加わってもらう。詳細は下記をご覧いただきたい。

https://www.loft-prj.co.jp/schedule/plusone/149059

≪配信版≫相模原障害者殺傷事件の真相に迫る~「パンドラの箱は閉じられたのか」出版イベント~

 さらに相模原事件の起きた7月26日にも集会が開催される。

 この機会にぜひ多くの人に一緒に考え、議論してほしいと思う。

 前述した『パンドラの箱は閉じられたのか』の内容も最後に紹介しよう。下記を参照いただきたい。

https://www.tsukuru.co.jp/gekkan/2020/06/post-4.html


23年前の集団レイプ事件被害者が語った性暴力被害女性の衝撃の座談会

2020年08月11日 02時49分27秒 | 事件・事故

篠田博之 | 月刊『創』編集長
8/7(金) 17:06

8月7日発売の月刊『創』(つくる)9月号に「性暴力被害女性の衝撃の座談会」という記事を掲載した。性暴力の被害にあった女性3人の鼎談だ。

いまだに心の傷が癒えていないために事件を語るたびにすすり泣きが漏れるという壮絶な座談会だった。
 『創』は大きな事件の様々な当事者の手記を掲載してきたのがひとつの特徴だが、もうひとつそれを10年20年と長期にわたってフォローし続けることが多いのも特徴かもしれない。担当者が3年ごとに異動する新聞・テレビにはできないことだ。
 1997年に起きた集団レイプ事件のA子さんのケースも、『創』では何度か取り上げてきた。

性暴力は「魂も犯す」と言われるように、被害者が事件後、長年にわたって苦しめられることが多い。被害が、その人の人生を大きく変えてしまうのだ。
 もともとその事件を取り上げたのは、加害者とされた男子学生が次々と逮捕され、連日、ワイドショーや週刊誌が大報道を展開した後、その報道の検証も含めて大きな特集を組んだ1998年だった。

逮捕された男性たちにも何人も話を聞いたし、被害女性にも直接話を聞いた。

事件から12年後に被害女性から連絡が
 そしてその12年後の2011年にA子さんが、突然連絡してきたことで、この事件はもうひとつ別の意味を持った。
 その経緯については以前、ヤフーニュース雑誌に公開して大きな反響を呼んだが、今回、改めて公開することにした。今回、この問題に初めて接する人は、その過去の記録から読んだ方がわかりやすいかもしれない。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c7e3b1ecc890018d4361ada27f59eefecc32c193
大きな反響を呼んだ集団レイプ被害女性闘病記

 この事件は後に『さよなら渓谷』という小説に素材として使われ映画化もされたのだが、その物語のモチーフは集団レイプ事件の被害者と加害者の微妙な関係、だった。

実際にA子さんが12年後に接触を試みた元交際相手男性は、事件現場にはおらず、逮捕されたのは冤罪だったと主張していた。

彼女はずっとその男性が好きで忘れられないのだが、一方で、集団レイプ事件はこの男性もグルになって起こされたのではないかという疑いも持っていた。   
 その屈折した思いに苦しめられてきた彼女は、自分を襲うPTSD(心的外傷後ストレス障害)を克服するために、その男性に会って、真相を確かめたいと考えたのだった。

当時、彼女は精神科への入退院を繰り返していた状態で、とても自分でそんな冒険を犯すことはできず、結局、私が代わって男性に接触した。事件後の取材で私はその男性に会っていたし、その男性には好印象を感じていたからだ。
 実際のその後の経緯については、ヤフーニュース雑誌にあげた前出の記事を読んでほしい。

きっかけは被害女性の回復の様子を知ったこと
 今回、『創』で性暴力被害者の座談会を行うことになったのは、昨年秋に久々にA子さんと会って話したのがきっかけだ。事件当時は19歳だった彼女が今は子どももいて少しずつ新たな人生を歩み出していた。2011年に再会した時には、いまでも死にそうな状態だったが、20年を経て、彼女は自力で回復への道を歩いていた。
 子どもたちの写真をうれしそうに見せてくれた彼女と話す中で、他の性暴力被害女性と一度話してみようかということになった。

実はA子さんの闘病日記などがあまりに衝撃的だったために、それを読んだ多くの女性から問い合わせがあった。今回、座談会に参加いただいたB子さんもC子さんも、そうだった。

 B子さんもC子さんも『創』に自らの体験を手記に書き、その語もやりとりを続けてきた女性だ。でも今回、改めて驚いたのはB子さんの話だった。彼女は『創』に手記も書いたし、そのほかにも私は話を聞いていたのだが、今回改めて詳細を聞いて驚いた。
 彼女の事件が起きた当時社会問題になっていた女子高生コンクリート詰め殺人事件によく似た経緯なのだが、一歩間違えば同じような事態になっていた可能性が高い。驚いたというのは、それほど凶悪な事件が、当時は性暴力が親告罪で、被害届けが出されないまま、事件にもならないで終わってしまったことだ。
 2017年の刑法改正で被害者の親告がなくても立件が可能になるなど性犯罪をめぐって大きな変化はなされたものの、集団強姦罪が廃止されてしまったことへのB子さんの思いなど考えさせられた。
 C子さんは『創』2019年8月号に手記を書き、しかも自分の覚悟を示すために実名でそれを掲載した。学生時代からマスコミ志望で本誌を読んでいたという彼女がマスコミ界に入って取材の過程で再び性被害にあうという体験も悲惨なものだ。
 壮絶な3人の女性の話はぜひ『創』最新号の全文を読んでいただきたいが、ここでその一部を紹介しておこう。

集団レイプ事件から23年経た今の生活は…
《――きょうは性暴力被害者の3人に集まっていただきましたが、A子さんの集団レイプ事件が起きたのは1997年だからもう23年になります。
 A子さんは事件後ずっとPTSDに襲われ、精神科で入院を含む治療を続ける時期が続いたわけですが、今どういう生活をしているかという話からお願いできますか?
A 私は、現在3度目の結婚をしており、最初の夫と2番目の夫の間には子どもがいます。子どもは2人とも東京の実家の親に預かってもらっています。私は、今はコロナのこともあるのですが、もともと人混みに出られないし、病院に行くにも1人で電車にも乗れない状況です。今の夫は、事件のことも知ったうえで理解してくれているし、私の心と身体のことを優先してくれる、すごく優しい人です。(略) 
 治療は、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理療法)を続けたかったんですが、再婚して今のところに引っ越した後、こちらで同じ治療ができる先生を探していました。でも一度行ってみたらその先生とは合わなくて、今はひたすら自宅療養ですね。一日中寝たきりで引きこもり状態です。犬の散歩もよっぽど頑張らないと行けないような状態です。

B 私もA子さんと同じく集団レイプの被害にあっています。2014年頃、私もちょうど治療に悩んでいる時にA子さんの記事を読んで、私だけじゃない、同じように苦しんでいる人がいるのだと、いてもたってもいられなくなって、篠田さんに連絡させてもらったんです。
 私が事件にあったのは、16歳、高校1年生の春休みでした。家庭環境が複雑だったこともあって、家にいられなかったんです。事実上の家出をして知らない土地に行ったんですが、駅前で知らない男たちに無理やり車に連れ込まれ、拉致されました。
 ちょうど1988年、足立区で女子高生コンクリート殺人事件があった頃ですが、当時その一帯はそういうグループがすごく多かったのですね。私はA子さんのように勇気を持って警察に被害届けを出さなかったのですが、そのことを後ですごく後悔しました。
 一人で思い悩んでいた時に、親にポロッと言ったのですが、「忘れたほうがあなたの幸せのためよ」という感じで言われてしまったんです。今思えば、母親自身もどうしたらいいかわからなくて、そう言ったのかもしれません。彼女自身も今は後悔しています。私も責めることはないんですが、「あの時、自分はすごく悲しかった」という話をすると、母も「すごく悪かった」と言っています。
 傷も回復してきたから今はこんなふうに話ができるのですが、事件当時から20代はずっと自分の気持ちを閉じ込めていました。30代で結婚を考えた時期があったのですが、ブライダルチェックで、「妊娠が難しいかもしれない。若い頃の性病を放っておいたから不妊になったんじゃないか」と女医さんに言われました。それも「昔遊んでたんじゃないの?」みたいなニュアンスで言われて、すごく傷つきました。結婚はそれで破談になってしまいました。
 それがきっかけでパンドラの箱が開いちゃったみたいな感じで、事件の記憶や感情が抑えられずに雑性PTSDを発症しました。希死念慮があり、リストカットがやめられずに、自殺未遂を何度も繰り返しました。被害月のあたりになるとそういったことを何度も繰り返すので、家族も心配で、一番ひどい時は3年連続で3カ月くらい精神科に入院するというのを繰り返していました。
 
 私の場合は、精神科に行ってもすぐに集団レイプのことを話せなかったのです。ネグレクトの環境で育ったということもあって、精神科では家庭環境のことをずっと相談していて、それが原因で境界性人格障害(境界性パーソナリティ障害)という病名がつきました。カウンセラーが気づいてそこが引き出されない限り、よっぽど信頼できる医師でないと、集団レイプにあったということは話せなかったのです。

 精神科を退院してもA子さんと同じようにたくさんの薬を飲んで、なんとか生きているという生活をしていました。A子さんの日記に書かれていたEMDRが治癒率が高いと聞いていたので、A子さんの記事を読んだ後、その治療を2年くらいしました。治療中は辛かったけれどやって良かったと思っています。
 A子さんの記事を読んで、連絡を取りたいと篠田さんに電話をしたのですが、ちょうどその年に離婚をしました。A子さんとは連絡がとれなかったけれど、自分から行動したことで勇気が出ました。治療を始めることができた自分に対しても自信を持てたこともありました。今は新しい夫と再婚しています。
A その時は篠田さんから連絡をいただいたけれど、誰とも会える状態ではなかったので、応えることはできなかったのですが、今のはうれしいお話です。
――B子さんはきのう(7月11日)もフラワーデモに行ったのですよね。
B コロナの影響で中断していたフラワーデモが久しぶりに行われたのです。東京駅前で行われた「フラワーデモ東京」が規模も大きいし、行こうと思ったんですが、私は被害にあったのが埼玉なので、一度埼玉のフラワーデモにも行きたかったんですね。それまでは怖くて行けませんでした。被害地に近いこともあってなかなか勇気が出なかったんです。でも仲間ももう一人行くというので昨日、初めて行きました。コロナの影響で、東京のように大勢が集まってかわるがわる話すということはできず、主催の何人かだけが話して、行き交う人に聞いてもらうという感じでした。

記者として取材中にも性暴力被害にあった
――A子さんもB子さんも『創』に自身の体験を発表したのですが、C子さんもそうでしたね。しかも実名の手記でした。
C 私は何回か被害にあっています。最初の被害は18歳で一人暮らしを始めたばかり、19歳の誕生日の前日だったんです。翌日は朝一番が大学のテストだったので、遅くまで英語の単語を覚えていました。クーラーのない安い部屋で暑かったので、網戸にして寝てしまったら、窓から入ってきた男に襲われ、レイプをされました。縛られてしまって抵抗できず、そのまま死んでしまうんだと思いました。
 結局、命は奪われなかったのですが、そういうことがその地域で連続で起きていたらしく、半年後くらいに警察から連絡が来ました。犯人が私を襲ったことも自白したようなのです。その当時は親告罪だったので、起訴しますかと聞かれましたが、その件からもう離れたいと思っていたのでそうしなかったんです。何もかも忘れたいと思っていたのですね。
 当時は何の治療もしていませんでした。大学のカウンセリングルームに行ったんですが、先生との相性が悪く、すごく傷ついてしまったんです。もう治療にも繋がれないから自分で頑張るしかない、と思って、心機一転、東京の大学に入り直しました。
 でもやっぱりレイプの出来事から逃れられないことに気がつきました。孤独で、誰かが必要だという思いにかられ、その当時大学の先輩だった、最初の夫に出会って一緒に住み始めたんです。
 というのも最初の被害が自分の家だったので、家に一人でいると、気が狂いそうになるんです。だから家で寝られずに、公園の植え込みとかで寝ていたんです。でもそんな生活が続くはずはなく、最初の夫と住み始めました。(略) 
 とにかく私は命が助かって、レイプをする人から物理的に離れられたので、トラウマの症状を抱えて治療を受けながら、しばらく引きこもり生活をしていました。夫は実家の場所を知っていたので、実家にも帰れないし、仕事関係も全部一緒だったので仕事もできませんでした。
 何年かして体調を整え、決死の覚悟でようやく仕事に戻れたんです。でも今度は、取材中に取材相手からレイプされてしまいました。日本の刑法の欠点である、暴行・脅迫要件の壁がすごく高いことを知っていたので、その時に、これはすごくまずいシチュエーションだと分かったんです。自分はフリーズしていて、抵抗もできない。ただ仕事柄持っていた録音機だけは回しました。
 すぐに通報しないといけないと思って、性暴力専門ダイヤルに電話をして、一切こちらに落ち度がない被害者として、録音も提出したんです。けれども相手は不起訴になってしまった。これはもう私個人の問題ではないということが逆にはっきりしました。それが2012年です。
辻褄を合わせるって何だろう
B A子さんとは事情が違うんですが、私は全く知らない人に拉致されて集団レイプされました。男が次々に新しい仲間を呼び出すんですが、その電話する後ろ姿もフラッシュバックするんです。いっそ帰れないほうがいい、殺してほしいと思いました。そのくらいの心情だったんです。でも一方で、何としてでも生きたいという気持ちもありました。
 学生証もとられていたし、恐怖しか感じませんでした。結局、高校生の自分はどうすればよいか判断できずに、警察には行けませんでした。実際に、勇気を出して警察に届けたとしても、ひどい事情聴取をされたあげくに不起訴になったり、起訴されても去年のように裁判で無罪判決が続いたりとか、日本の司法はまだまだおかしいことばかりだと実感しています。
 そもそも警察の事情聴取にしても、被害者はショックで乖離とかもしているのに、整合性をつけないといけないからと聞いてくるでしょう。無理ですよ。時系列はバラバラだし、思い出せなかったりとか、感覚でふと思い出すとか…。私も「辻褄が合わない」と電話相談で言われたんですが、辻褄を合わせるって何なんだろう、と思いました。
 ただ、このところ少しずつですが、警察庁とか検察官や裁判官も意識が変わってきているのかなと思っています。フラワーデモや#MeTooが盛り上がって、当事者の声を聞こうというふうになっていると思います。(略)
 私たちにしか語れないことがあるから、それを伝えればいいと思う。私も集団レイプの被害者だと言いづらい時期がありました。恥ずかしい気持ちが強いんです。辱められたというか、自分がモノ扱いされたという気持ちがすごく強いんです。
C 私はメディアで仕事をしていた頃に、スーパーフリー事件の取材をしていて、裁判も傍聴していました。そこで性暴力被害者として感じたのは、集団強姦に関わった一人ひとりの加害意識の薄さです。裁判で語るのも先輩後輩の上下関係のいろんなことがあるんだという話だったし、そういう光景を見て、これって日本社会の姿そのものなんじゃないかと思いました。日本人が意識しづらい集団の同調圧力みたいな…。罪を犯してしまう、罪を感じづらい。集団強姦の罪がなくなってしまったことで、見えづらくなったことがあるんじゃないかと思っています。そこをなくしてしまって良かったのかなと今でも思います。》
 
 以上、ごく一部を紹介した。関心がある方はぜひ『創』で全文を読んでほしいと思う。性暴力については刑法の不備もあって、被害者が泣き寝入りせざるをえなかった問題などが当事者の口から語られている。

性犯罪加害者にどう対処すべきかも大事な問題だ
 そして最後にもうひとつ書いておきたいことがある。『創』は事件の被害者にも加害者にも当事者に接触して自ら手記を書いてもらうことを続けてきた。性暴力についても加害者側への取材も継続的に行っている。
 最近になって日本では、性犯罪の仮釈放者にGPSをつけることを本格的に検討するという話になっているようで、報道もなされた。確かに性犯罪は再犯率が高いと言われており、それにどう対処するかは大きな課題だ。
 ただそうした議論を見ていて感じるのは、例えば出所した性犯罪者がどういう状況なのか、そういう具体的な実態がほとんど知られていないことだ。実態がわからずにいると恐怖だけが増幅し、とにかく厳罰化をということになりがちだ。
 でも実際には、もう10年以上にわたって、薬物犯罪と性犯罪の再犯防止のためには、処罰だけでなく治療が大切だという指摘がなされ、様々な試みがなされている。

問題はそういう試みも含めてマスコミ報道がほとんどなされていないことだ。理由のひとつは、マスコミの事件報道が警察や裁判所に全面的に依拠しているめに、刑確定後の犯罪者にほとんどアプローチできていないことだ。

死刑囚でない限り、罪を犯した者は再び市民社会に戻ってくる。特に依存性の高い犯罪は、社会的治療を講じない限り、追い詰められて再び犯罪を犯すという悪循環を繰り返すことになる。
 『創』は薬物犯罪だけでなく性犯罪についても、出所した人とのやりとりを続けている。例えば性犯罪で13年も服役していて2018年に出所した男性については、出所後の生活を定期的にレポートしている。

出所した人間は、何よりも自分の前科や身元を隠さねば生きていけないからマスコミ取材にはほとんど応じない。だからそのレポートは貴重なのだが、『創』8月号に掲載したその出所者、樹月カインさん(仮名)のインタビューを、先頃ヤフーニュース雑誌に公開した。
https://tools.newsbiz.yahoo.co.jp/feed/edit/confirm/
性犯罪で13年間服役した男性は出所後2年どうしているのか本人に聞いた

以前にヤフーニュース個人に書いた出所後レポートも参照いただきたい。
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20181109-00103612/
性犯罪で13年間服役し出所した男性の訴えは社会に受け入れられるのか

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20190131-00113156/
性犯罪で13年間服役し出所した男性の更生レポートその1

 被害者も加害者もそうだが、まずそうした当事者の話に耳を傾け、実情を知るところからしか物事は始まらない。ぜひそうしたレポートを読んで議論してほしいと思う。

 なお月刊『創』9月号の詳しい内容は下記を参照いただきたい。
https://www.tsukuru.co.jp/gekkan/2020/08/2020-09.html


 
篠田博之
月刊『創』編集長
月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。

日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。

その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

 

篠田博之の最近の記事


組織的女性暴行事件 それからどうなったのか

2020年08月11日 02時42分20秒 | 事件・事故
先日慶應大学において 「ミス慶応コンテスト」 を主催している大学公認のサークル、 『広告学研究会』 において、女性学生への性的暴行事件があったという報道が週刊誌に掲載され、現在ニュースで採りあげられるようになっています。
 
 11月20日に開催される予定であった今年の 「ミス慶応コンテスト」 が中止になっています。 その理由はこの 「広告学研究会」 において9月に未成年の飲酒が発覚し、大学が解散命令を出した( PDF )ことによりますが、週刊誌の報道が正確である場合、更に重大な違法行為が行なわれていたということになります。 この事件は現在進行形中で全容が解明されていないので、動向に注目したいと思います。
 
 しかしこの事件に関する報道を見て、10年以上前に起こったとある事件を思い出した方は多いのではないでしょうか。 それは2003年に発覚し、社会を騒がせた大学公認サークルの組織的女性暴行事件である 「スーパーフリー」 の起こした事件。
 
 
2000年前後、
  早稲田大学に存在したイベントサークル 「スーパーフリー」 
 
 「スーパーフリー」 とは何か。 知っている人には2000年代初めに起こった事件自体を連想させるものですが、その名前は早稲田大学に存在したイベント系サークルの名称。 早稲田のサークルではあるものの、実際は他の大学にも勧誘を行い、東大や慶大など様々な学生が集まっていたようです( 俗に言うインカレサークル )。
 当時各大学にこのような 「イベントサークル( イベサー )」 が多数存在し、 「イベント」 を度々催すなど大規模なものもありました。
 
 「スーパーフリー」 も2000年から事件が発覚するまでは、早稲田大学に同好会として公認された上で活動をしておりました( 事件発覚前の2002年に他の大学におけるビラまき等の行為でのクレームがあったことにより、公認を剥奪 )。 大阪・名古屋・札幌・福岡に支部も設立していたようです。
 
 ちなみに飲酒行為も度々行なわれていたようですが、当時は現在と比べて未成年の飲酒、大学生となる18~19歳くらいであるとも実際は社会的な監視の目( 提供した店が逮捕されるなど )が今ほど厳しくなかったのが大きいでしょう。
 
 当時の 「スーパーフリー」 の代表は和田という事件発覚当時28歳の男性( 8年在籍後除籍、その後再入学 )。 8年間代表を務めており、イベント会社としても 「有限会社スーパーフリー」 を経営していたとのこと。 ちなみにこの時点で 「業界」 に数々の人脈が出来ていたらしく、イベント開催などにあたってそれが活用されていたようです。
 
 以下、当時スーパーフリー公式サイトにあったとされている宣伝動画。 ちなみに当時はYouTubeもなかった時代です。
 
 
 
 その時に代表和田の周囲にいて支援をしていた人物が誰かというのは業界人から反グレまで今日まで噂としてネットに流れていますが、正確なところは確かめようがないために具体的には真偽不明状態になっています。 そのあたりのことが書かれたひとつとしては、和田のケツモチとして広告代理店の後に闇金や詐欺に関わったという男性の話をもとに書かれた本をノンフィクションライター溝口敦氏が出しておられます( ただしこれの内容を疑問を示す意見もあり )。
 
 
スーパーフリーの起こした事件
 
 
 しかしこの 「スーパーフリー」、派手なイベントの裏で、飲み会の時に女性に対して集団暴行( 輪姦行為 )が度々行われていました。 結成されたのは明治大学に同じような集団暴行行為をしているサークルが存在し、それを模倣して行ったと言われています。
 手口としては、狙った女性を酔いつぶし、介抱するふりとして連れだし、集団暴行を行うというもの。 それは主に派手なイベントを開催し、そこでの二次会において狙っていた女性をアルコール度数の強い 「スピリタス」 で酩酊状態にさせて行っていたとのこと。
 そのようなサークルの危険性や知り合いが少ない地方出身などの女子生徒が狙われていたようです。 また、サークル内でそれぞれの役割分担もあり、被害者の女性に泣き寝入りをさせるように工作をしたり、笑顔の写真を撮影してあとで同意の証拠とするような行為、もしくは 「ヤクザがついている」 という脅しも行なっていたという悪質なものでした。
 また、スーパーフリーには 「ギャルズ」 と呼ばれる女性スタッフもいたのですが、知人女性をイベントに連れてきて男性スタッフに 「献上」 し、結果として被害に遭わせた例もあると言われています( ただしギャルズからは逮捕者は出ておらず、週刊誌の報道のみなので詳細は不明 )。
 
 スーパーフリーはそのような行為を繰り返していましたが、2003年5月、パーティーで女子大生に暴行したとして、代表の和田含む4名が婦女暴行容疑で逮捕。 早大生の他、他大学の生徒も含まれていました。 容疑者は逮捕当初は 「同意の上での行為」 を主張。
 事件の凶悪性が報じられるとたちまち注目を浴び、週刊誌やワイドショーでその事件やサークルが紹介されることになり、 「スーパーフリー」 の悪名が広まってゆきました。 2003年の当時はインターネットの普及期だったのも大きく、そのことが当時の掲示板でもよく書き込まれていました。
 
 その後2003年6月から11月にかけて、和田容疑者らが起訴、更に追加で逮捕者も出ます。 最終的には少年も含めて14人の逮捕者が出ることになりました。
 起訴されたものは、2001年12月に和田の事務所での輪姦事件、2003年4月の六本木の居酒屋において18歳の女性を13人で暴行した事件、そして前述の2003年5月の女子大生暴行事件となります。
 逮捕容疑は準強姦罪( 当時は集団強姦罪の規定がなかった )。
 
 
事件の判決
 
 
 その後裁判が行われ、2004年に主犯格とされた和田に対し、懲役14年の判決が下ります。 被告側は判決を不服として2004年11月17日に控訴、ここで棄却となり上告。 最高裁では2005年11月1日棄却。 懲役14年の実刑とした1、2審判決が確定しました。
 そのほか準強姦罪で起訴された残りの13人においても、懲役数年の実刑判決が確定しているようです。
 ただ、この事件の被害者総数は、一説では400名以上とされていますが、起訴されたのはそのうち前述の3件のみ。 実際に被害を受けた女子生徒も、事件の性質上泣き寝入り状態になっている人が相当数いると言われています。
 当時サークルに関係していた人間で、事件に関わったのに逃げおおせた人がどのくらいいるのか、逆に本当は事件に関わってなかったのに名前が出て深く関わったようにされているのか、それらの真実の多くは藪の中となってしまいました。
 
 2013年、週刊誌( 週刊アサヒ芸能2013年8月8日号 )において 『 「スーパーフリー事件」 10年目の真実』 という記事が掲載され、当時の証言や主犯和田の獄中での手記などが掲載されました。
 
 現在、裁判から11年が経過し、主犯格以外の人間は刑期が満了しています。 さらに主犯格の刑期の満了は丁度来年か再来年あたりとなりますし、刑期が短縮されていると今年にはもう釈放されている可能性もあります。
 
 
スーパーフリー事件の影響
 
 
 この事件の影響としては、さまざまなものがありました。
 
 
刑法に 「集団強姦罪」 規定の追加
 平成16年の刑法改正において 「集団強姦等」 の規定が第178条の2の規定として追加され、2人以上の者が共同して強姦( 準強姦含む )した場合、4年以上の有期懲役に処すると刑が加重されることになりました。 尚、実際に性行為に参加していなくても、その場にいれば成立します。 ちなみにこの刑は現行の刑法第177条とは異なり、被害者の告訴がなければ公訴を提起出来ない 「親告罪」 の対象からは外れます。
 
 
「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい」 発言問題
 また、この事件で当時与党の議員が少子化問題に関する討論会において、 「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい」 という発言をしたことが国内外含めた各所で報じられ、問題となりました( 議員は一度落選した後、再当選で復帰、現在は引退 )。
 
     ■ 太田誠一議員の「レイプは元気」発言
 
 
Googleサジェスト裁判
 さらに時代は10年近く進み2012年、Google検索においてスーパーフリー事件を検索した際のサジェスト( 関連検索表示 )機能において 「スーパーフリー」 との関係を表示がされることで名誉が傷つけられたとして、都内の男性が米国のグーグル本社などを相手取り検索結果の削除と慰謝料などを求める訴訟を起こしました。
 当時の記事によると 『男性は都内の大学に在学していたころ、スーパーフリーに入会していたが、事件とは無関係だった。 だが、グーグルで検索すると、インターネット掲示板などのページが列挙され、男性がスーパーフリーの幹部で事件に関与したかのような書き込みが表示される』 という状態であったようです。
 
 東京地裁は名誉毀損を認めて30万円の損害賠償を命じましたがその後Googleが控訴。 2014年1月の東京高裁判決においては名誉毀損やプライバシー侵害は認定されずに逆転敗訴となりました。 その後上告された模様ですが、ニュースやネットでの判例検索などかなり調べても出てこなかったのでいまだ継続中なのか判決が出たのかなどは不明。 ただ、地裁判決が再逆転して認められていれば 「1日につき100万円の制裁金」 とした報道がなされていたので、その通りになっていればニュースになるとは思いますが ……。
 
     ■ ( archive )名前検索の名誉毀損訴訟、米グーグル本社が控訴 : 社会 : YOMIURI ONLINE( 読売新聞 )
     ■ グーグルが逆転勝訴 検索予測の表示差し止め、東京高裁で  :日本経済新聞
     ■ Google 元スーパーフリー所属の男性へ7億円の支払い発生の可能性 - ライブドアニュース
 
 
その後大学で起きたサークル絡みの事件
 
 
 スーパーフリー事件の影響は大きく、また不景気や社会的規制、とりわけ未成年の飲酒における厳しさの変化( 場所を提供した側が検挙される事例など )もあってか、その後この手のサークルは以前ほどは( 少なくとも外部に対しては )目立たなくなってゆきます。 しかしながら近年、大学サークルにおける飲酒、女性暴行など似たような騒動が発生し、その度に問題となっています。
 
 
京都大学のアメリカンフットボール部集団暴行事件
 2005年12月、京都大学のアメリカンフットボール部の部員3人が、酒に酔った女性二人を集団強姦したとして逮捕されます。 この事件において前述の集団強姦罪の規定が適用されることになります。
 結果、一人が懲役4年6ヶ月の実刑判決、その他二人が執行猶予付の有罪判決。 京都大学は3人を放学( 復帰不可 )処分として、その年は同大学のアメフト部もその年春の競技会を辞退することになりました。
※ これはサークル( アメフト部 )は飲みサーではなく、サークル絡みの犯行というよりは所属部員の一部が起こした不祥事となりますが、 「集団強姦罪」 の適用例として重要なのでここで挙げておきます。
 
     ■ 京大アメフト元部員、集団強姦容疑で逮捕 - nikkansports.com > 社会ニュース
 
 
明治大学・日本女子大学 「クライステニスクラブ」
 2014年、明治大学と日本女子大学の合同サークル 「クライステニスクラブ」 のメンバーが新宿歌舞伎町において集団昏倒をしている様子が報じられ、話題となります。 その後未成年を交えた大量飲酒が発覚し、公認取消・廃部となりました。
 
     ■ 本学公認サークルの処分について | 明治大学
     ■ 新宿コマ劇場前で女子大生が集団昏倒した異常事態、明大公認サークル「クライス」でスピリタスカプセル使用か
 
 
東京大学 「東大誕生日研究会」 内強制わいせつ事件
 さらに今年( 2016年 )になり、東京大学の 「東大誕生日研究会」 というサークルの主要メンバーが強制わいせつ容疑で逮捕され、その手口の卑劣さも含めて週刊誌に掲載され、話題となりました。
 2016年9月に逮捕された5人のうち3人が起訴され、主犯格とされる被告に強制わいせつと暴行の罪で懲役2年の求刑がなされ、現在も裁判が進行中( 2016.10.15現在 )。
 
     ■ 強制わいせつ東大生5人が所属“ヤリサー”の卑劣な手口 「女子大生の局部にドライヤー」 | デイリー新潮
     ■ 「強制わいせつ」東大生に待ち受ける罰〜勘違いエリートの末路(週刊現代) | 現代ビジネス
     ■ 酔わせた女性に強制わいせつ 東大生に懲役2年求刑 東京地裁 - 産経ニュース
 
 
過度な飲酒における死亡事例
 また、過度な飲酒における死亡事例も度々発生しております。
 
     ■ 立教大学テニスサークルにおける急性アルコール中毒死事件のあらまし
     ■ 亡き息子に、親ができること
     ■ 「東大コンパで泥酔死亡」責任は誰に? 「両親が1.7億円賠償請求」めぐり論議 : J-CASTニュース
 
 
  そして今回の慶應大学における騒動となります。
 
 
 
事件から10年以上経過していることでの風化
 
 
 スーパーフリー事件からすでに15年以上が経ち、現在の大学生の中にはその当時まだ物心つかなかった年齢の人もいますし、もうあの手のサークルが全盛だった時代には生まれてなかったという人も増えてくるでしょう。 そもそも大学というところは、毎年人が変わり、4年も経つと大半の人が入れ替わってしまうところです。 ということはその分そういった問題点の記憶も薄れがちで、生徒間だけでは危機意識の継承もされにくいのが現状です。
 
 風化しつつある現在、 このような事件のことやその危険性を思い出し、 それを現在の学生に伝え、 しないよう、 させないように警告をするのも、 大学をはじめとして先のスーパーフリー事件を知る大人の役目ではないでしょうか。 それは例えば1990年代に話題となったけど、 今風化しつつありその手の偽装サークルが大学内外に存在しているカルト系サークルやマルチ商法サークルにおける危険性も同じでしょう。
 
 
 
- 追記 - 
 
 慶應大学の事件においてはまだ事件の全容が掴めていない状況ですが、仮にスーパーフリーと似たことになった場合、かつてそれによる世論の高まりで集団強姦罪が制定されたように、今議論されている性犯罪への重罰化における、強姦罪の非親告罪化の議論も加速する可能性があるように思えました。
 
 あと、事件の根本にスーフリと同じような組織的、人脈的な要因、泣き寝入りになっているような案件がなかったかも被害者を傷つけないように配慮しつつ注目する必要があるでしょう。
 
 
 
 
( 2016.10.22 )
「慶応ミスコン」 中止の裏に隠されていた
     集団乱暴疑惑 
「一回くらい…」 と誘い出し、テキーラ連続飲み強要の後は …… 
 
 名門大学で信じがたい疑惑が浮上している。 神奈川県葉山町にある合宿施設で、慶応大学の広告学研究会(広研)の男子学生数人から乱暴されたとして、同大学の10代の女子学生が県警に被害届を提出。 県警は被害届を受理し、捜査に乗り出している。 未成年の女子学生に酒を飲ませて集団で乱暴 ──。 さらに、動画なども撮影しているといい、事実ならば鬼畜の犯行と言わざるを得ない。
 
 嫌がる女性を無理やり …
 
 
女子学生が乱暴を受けたとされる合宿施設。神社に隣接し、人通りは少ない
(神奈川県葉山町)
 広研は大正13年設立の歴史ある団体で、 「ミス慶応コンテスト」 の企画・運営を手がける。 大学側は 「未成年者の飲酒」 を理由に広研を解散させ、ミスコンは中止となった。
 
 今後、捜査は警察の手に委ねられるが、関係者にも動揺が広がっている。
 
 「一回くらい手伝いに来てほしい」
 
 女子学生の 「ライン」 に広研の男子学生から連絡がきたのは8月下旬。 海の家の片付けに来てほしいということだった。
 
 関係者によると、女子学生は広研に所属していなかったが、入学直後の新入生歓迎会に参加していたため、連絡先はお互いに知っていた。 本人は会費も払っておらず、広研に所属しているという認識はなかったが、男子学生から 「これまで出席義務のあるイベントに来ていないので、片付けには参加してほしい」 と頼まれたのだ。
 
 9月2日、1年の男子学生2人と3人で葉山町の海の家の片付けに向かった。 現地では男子学生3人と合流。 女子学生はこの時まで、女性は自分だけということを知らなかったという。
 
 夕食をとるため、海の家近くの合宿所に向かった。 それが、屈辱的な時間の始まりだった。
 
 午後8時ごろ、合宿所2階で飲み会が始まった。 未成年の女子学生に男子学生らはテキーラを持ち出して飲酒を強要。 連続で5杯など、最終的に10杯ほど飲まされた。 女子学生は拒否しようにも、酩酊状態でなすすべもなかった。 服は脱がされて暴行を受け、あげく尿もかけられたという。 暴行の際には動画も撮影された。
 
 現場にいたのは1、2年生の男子学生が5人。
 
 1階には別の学生1人がいたが、犯行には関わっていないという。
 
 翌日、合宿所から抜け出し、途中で気分が悪くなって救急搬送された。 母親に事の次第を告げたことで、問題が明らかになった。 女子学生は神奈川県警に被害届を提出。 県警が捜査に乗り出している。
 
 
 大学側 「事件性を確認するには至らなかった」
 
 女子学生の母親からの連絡で大学は問題を把握し、関係者から調査した。
 
 その結果、10月4日に大学は広研に解散命令を出したが、理由は未成年者飲酒で暴行については触れられていなかった。 大学側は12日付で 「可能な限りの調査を行ったが、事件性を確認するには至らなかった」 などとする見解を発表し、隠蔽については否定した。 同大広報室は 「性行為があったことは認識している」 とした上で、事件性が確認された場合は 「厳正な対処を行う」 という。
 
 広研に友人がいるという男子学生(19)によると、 「広研の学生は 『女子学生とは合意があった』 と主張している」 と証言。 さらに、 「女子学生が、親に言ったから問題が大きくなった。 合意があったのに、勝手に騒いでいるだけと周囲に説明している」 と明かす。
 
 この問題の影響で広研が主催するミスコンは中止となった。 ミスコンは女子アナへの登竜門として全国的に知られ、学園祭でも目玉企画だった。
 
 広研は今回問題を起こした海の家を運営するグループ▽ミスコンを開くグループ▽機関誌を発行するグループ-の3つに分かれているという。 広研は過去にも不祥事を起こすなどしており、学内では 「危ない団体」 という認識もあったようだ。
 
 平成21年に、部員が東急東横線日吉駅構内を全裸で走り、公然わいせつ容疑で書類送検された際は、翌年のミスコンが中止となった。 飲み会も過激だったことで知られていた。 新入生歓迎会に参加した男性(19)は 「100人くらい参加したけど、残ったのは20から30人くらい。いわゆる “飲みサー” (飲み会サークル)で合わないと感じる人も多かった」 と話す。
 
 
 合宿所と海の家 「来年は白紙」
 
 事件現場となった合宿所がある葉山町でも衝撃は広がっている。
 
 合宿所は葉山御用邸の近くにある神社の隣にある。 合宿所は慶応大専用ではなく、地域で使われている建物だ。 「氏子会館」 と呼ばれ、地元の祭りではカラオケ大会などが開かれているという。
 
 会館を管理する氏子会会長の男性(75)によると、広研には約60年前から夏の間に貸し出していたという。 今後については 「団体が解散しているし、白紙。 学生と話し合う必要があるが、まだ連絡もなにもない」。
 
 近隣住民も思いはさまざまだ。 近所の主婦(70)は 「夏の夜はうるさくて眠れない。 叫び声もよく聞こえる」 と不満をのぞかせる。 近年の風紀の乱れを指摘する声もあった。 別の主婦(44)は 「自分が小さいころは大学生のお兄さんやお姉さんと遊んだこともあったし、挨拶もしっかりしていた。 夜道が暗くて不安な時も、学生の笑い声が聞こえていて防犯に役立っていた」 と振り返る。 「ここ数年は挨拶もない。 飲んで騒ぐのは若いから仕方がないにしても、乱暴行為などは一線を越えている」。
 
 海の家も、廃止の公算が大きそうだ。 葉山町によると、海岸に海の家などの建物を建てることなどは県が申請可否を判断するが、申請は組合が行うため、組合の許可がなければ営業できない。
 
 広研が所属する 「県立葉山公園下海岸営業組合」 の関係者は 「少なくとも来年は海の家をやらせない方向」 という。 同団体は過去にも問題を起こしており 「次に何かあったら最後、という話は常々していた。 今後の営業も考えにくい」 と憤りを隠せない。 一方で、 「彼らが地元にお金を落としてくれていた側面もある。 伝統ある活動だったし、こうしたことで終わってしまうのは本当に残念」 と肩を落とした。
 
 名門大学で突如として起こった集団乱暴疑惑。 真相解明が待たれるが、周囲に与えた影響はあまりにも大きい。
 
 
 
( 2019.12.27 )
 
大きな反響を呼んだ
   集団レイプ被害女性闘病記
● はじめに
 
 以下に掲げるのは集団レイプ事件の被害女性A子さんの話だ。 彼女とはいまだにメールのやりとりや、時々会うという関係を続けているが、事件からもう20年以上経つにもかかわらず、いまだに後遺症に苦しんでいる。
 後半に掲げた彼女の闘病日記は本誌の2011年12月号と翌年1月号に掲載したものだが、ヤフーニュースに掲載したところ、300万以上のアクセスがあった。
 性犯罪は 「被害者の魂も犯す」 と言われるが、まさにその実例だ。 彼女の闘病日記は詳細で、とてもここに全文掲載できないので、主要部分を抜粋した。
 
12年ぶりに再会した被害女性の手首には
 
A子さんがつづった闘病日記
 A子さんが 『創』 編集部を訪ねてきたのは2011年9月初めだった。 本人から電話があり、会いたいということだった。 12年ぶりの再会だった。
 編集部を訪れた彼女は、声もか細く、今にも倒れそうな弱々しい印象だった。 手首に包帯を巻いているのは、明らかにリストカットの跡であった。
 彼女は1998年に大々的に報道された某大学集団レイプ事件の被害女性である。 当時はまだ19歳。 この被害女性に直接会って話を聞いたのは本誌だけだった。
 事件は97年11月13日未明に起きた。 彼女が警察に被害届を出して捜査が動き出し、学生らが次々と逮捕されたのは98年1月20日だった。 計8人の学生はいずれも実名・顔写真入りで、 「レイプ犯」 「鬼畜」 などとセンセーショナルに報じられた。 20日に逮捕されたのは5人、その後24日に他大学の学生も含め3人が逮捕された。
 当時、本誌がこの事件に取り組んだのは、逮捕された学生のうち2年生だった2人の親たちが、あまりにセンセーショナルな報道に反発し、BPO(放送倫理・番組向上機構)に申し立てたり、週刊誌を提訴したのがきっかけだった。 当時の報道が事実と違う内容も多く、あまりにひどいというのだった。
 報道内容を検証するために、事件に関わった学生たちに個別にあたり、逮捕された学生のうち4人に話を聞けた。 そして被害女性にも接触した。 1カ月近く続いた騒動だったが、当事者に直接取材したメディアはほとんどなかった。
 そもそも被害女性の母親も取材は受けたことがないと言うのだが、幾つかの週刊誌には堂々とコメントが掲載されていた。 恐らく警察から情報を得たのだろうが、伝聞情報を 「告白」 などと銘打って載せたものだったため、細かい事実関係は間違いだらけだった。
 まだ騒動の渦中だったため、本誌の取材に応じてくれた人たちも冷静というわけにはいかなかった。 特に被害女性のA子さんには母親と一緒に話を聞いたのだが、事件について話しながら涙を流し、取材の途中で呼吸困難に陥った。
 そして、その彼女が事件から12年を経て、編集部を訪ねてきたのだった。
 実は彼女は、事件によるPTSDから抜け出せず、心に深い傷を負ったままだった。 この間も、リストカットなど自傷行為を繰り返し、突発性難聴や原因不明の高熱も続いているという。 そして彼女は、何とかそこから抜け出すために、敢えて事件と向き合うことを決め、編集部を訪ねてきたという。 両親は、彼女がこれ以上傷つかないようにと事件についての報道は極力見せないようにしていたため、彼女は自分の証言の載った本誌をまだ読んでいなかったのだという。
 事件と向き合うことで、自分のトラウマを克服しようというのは、投薬治療では限界があると判断した精神科医の勧めでもあり、母親もそう思ったのだという。
 その後、私は本人から何度か話を聞き、12年ぶりに彼女の実家も訪ねて母親にも話を聞いた。 A子さんは、治療のために専門医にも足を運んでいた。 そして、そうしたプロセスを日記に記し、自分自身を見つめようとし始めたのだった。
 
示談を経て不起訴に終わったレイプ事件
 集団暴行事件が発生したのは1997年11月13日未明だったが、前夜の午後11時頃、某大学運動部約10人が、八丁堀のカラオケボックスに集合した。 そこはメンバーの一人がアルバイトをしており、12時を過ぎると社員は帰宅してバイトだけになるので、ほぼ貸し切りで飲み会ができると判断したのだった。
 部員たちは1階で待ち合わせた後、3階のパーティールームに移動し、飲み会を始めた。 当時、赤坂の居酒屋でバイトをしていたBは12時過ぎに東京駅で、事前に連絡していた女性2人と落ち合い、カラオケボックスに合流する。 実は被害女性A子さんは彼の元交際相手で、友人の女性を連れて飲み会に来てくれないかと誘われていたのだった。 A子さんはそれに応じたものだが、ただ部員らが10人もそこに待っていることは現場に行くまで知らなかったという。
 Bと付き合うようになったのは、A子さんが高校生の時、友人を介して知り合ったのがきっかけだった。 何度かデートを重ねたのだが、そのうちに 「お気に入りの子が他にできたらしい」 と友人に聞かされ、彼女は自分から電話で別れを告げた。 しかし、Bに好意を抱いていたようで、後に社会人になってから再び連絡を受けて再会し、交際が復活した。 深い関係になったのはその時だった。 そしてその再会から何カ月か後に事件にあったのだった。 果たしてBが了解のうえでその事件が起きたのか、あるいは偶発的にそうなったのか。 A子さん自身、いまだに真相はわからない。
 カラオケボックスに合流した後、アルコールが飲めないA子さんは、彼女に目をつけた他の部員に半ば強引に酒を飲まされ、酔ってしまう。 他の連中がパーティールーム16号室で騒いでいる間に、同じフロアにある小さな別室13号室に誘われたA子さんは、そこでBと合意のうえ性行為を行った。
 ところが彼は気分が悪くなって、トイレへ行くと言って出て行ったまま帰ってこない。 彼女が衣服を着たところへ、その前から彼女にちょっかいを出していたCが入ってきた。 そして彼が性行為を強要したという。 他の男たちもやってきたので、彼女は、 「Bはどこ? Bを呼んで」 と助けを求めるが、応答はなかった。 Bはその部屋の前の女子トイレで酔いつぶれて寝込んでしまったのだという。
 A子さんは男たちに囲まれ、威嚇された。 殺されるのではないかという恐怖に襲われ、抵抗するすべもなかった。 ただ、このあたりについては、当事者たちの話も食い違いを見せる。 そもそもその部屋はうす暗かったし、途中から呼ばれてやってきた者のなかには状況を理解できない者もいたらしい。 後に取材に対して 「嫌がる女性を無理やり強姦するほど俺達だってバカじゃないですよ」 と容疑を否定する者もいた。
 A子さんは翌朝解放されるのだが、彼女は、Bもグルだったのではないかと疑った。 警察もそう考えたようで、レイプ現場にいなかったにもかかわらずBも逮捕された。 ただ、警察が疑った事前共謀はどうやら立証は難しいと判断されたようだ。 Bは、私の取材にも応じて、寝入っていた間、何が起きていたのか知らないと答えた。
 よくわからないのは、事件のあった13日の午後に、Bが何も知らない様子でA子さんに電話をかけてきたことだ。 Bは、呼びだしたのに酔いつぶれてしまったことを謝ろうと電話したのだという。 ただ、事件で憔悴していたA子さんからすれば、その電話で彼が笑っていたのが信じられなかった、という。
 彼女はその後、警察に届けた方がよいとアドバイスされ、悩んだ末に母親に事情を打ち明け、警察に被害届を出した(正式に受理されたのは11月20日付)。 警察で何度か事情を聞かれ、告訴したのは12月24日だった。
 年明けの1月19日、大学生5人が警察に呼ばれ、20日未明に逮捕状が執行された。 前夜からマスコミの取材報道が始まり、逮捕後の朝のワイドショーはこの事件の報道一色になった。
 
事件は当事者たちに何を残したのか
 こう書いてくると、事件の経過は明白に見えるが、実はそう簡単ではない。 逮捕された学生たちは警察の取り調べに対して外形的事実は認めたが、レイプと呼ぶようなことはしていないという主張だった。 密室での行為だっただけに、裁判での立証は簡単ではないと思われた。
 最初に逮捕された5人が勾留満期になる2月9日、学生7人と被害者との間で示談が成立した。 その間、逮捕された学生の親のなかには、いきなりA子さんの自宅を訪れて土下座した人もいたという。 示談成立にあたっては、逮捕学生の親たちや弁護士の強い働きかけがあったようだ。 裁判になったら被害者側も再び辛い目にあう。 そういう説得を受けて、A子さん側も折れることになったらしい。
 結局、逮捕された学生8人が処分保留のまま釈放、後に不起訴となった。 学生たちが釈放された夜、大学は記者会見を行い、14日に学生たちの処分を発表。 事実認定は難しいとして、迷惑をかけたことが処分の理由だった。
 集団レイプ事件の真相はどうだったのか。 不起訴となったことで、細かい事実の確定は結局行われないままとなった。 ただ、被害者であるA子さんが、深い心の傷を負ったのは確かだった。 特に信頼していた交際相手の男性に騙されたのではないかという疑念は、彼女を苦しめたようで、A子さんはBに本心を聞きたいというのだった。
 編集部を訪れたA子さんは事件について語るたびにボロボロと涙を流した。 トラウマを乗り越えようとする彼女を応援したいという思いから、本誌は彼女の日記を公開することにした。
 

 


大きな反響を呼んだ集団レイプ被害女性闘病記 篠田博之

2020年08月11日 02時27分43秒 | 事件・事故

8/7(金) 14:55配信

12年ぶりに再会した被害女性の手首には

A子さんの自筆の闘病日記

 A子さんが『創』編集部を訪ねてきたのは2011年9月初めだった。本人から電話があり、会いたいということだった。12年ぶりの再会だった。
 編集部を訪れた彼女は、声もか細く、今にも倒れそうな弱々しい印象だった。手首に包帯を巻いているのは、明らかにリストカットの跡であった。
 彼女は1998年に大々的に報道された某大学集団レイプ事件の被害女性である。当時はまだ19歳。この被害女性に直接会って話を聞いたのは本誌だけだった。
 事件は97年11月13日未明に起きた。彼女が警察に被害届を出して捜査が動き出し、学生らが次々と逮捕されたのは98年1月20日だった。計8人の学生はいずれも実名・顔写真入りで、「レイプ犯」「鬼畜」などとセンセーショナルに報じられた。20日に逮捕されたのは5人、その後24日に他大学の学生も含め3人が逮捕された。
 当時、本誌がこの事件に取り組んだのは、逮捕された学生のうち2年生だった2人の親たちが、あまりにセンセーショナルな報道に反発し、BPO(放送倫理・番組向上機構)に申し立てたり、週刊誌を提訴したのがきっかけだった。当時の報道が事実と違う内容も多く、あまりにひどいというのだった。
 報道内容を検証するために、事件に関わった学生たちに個別にあたり、逮捕された学生のうち4人から話を聞けた。そして被害女性にも接触した。1カ月近く続いた騒動だったが、当事者に直接取材したメディアはほとんどなかった。
 そもそも被害女性の母親も取材は受けたことがないと言うのだが、幾つかの週刊誌には堂々とコメントが掲載されていた。恐らく警察から情報を得たのだろうが、伝聞情報を「告白」などと銘打って載せたものだったため、細かい事実関係は間違いだらけだった。
 まだ騒動の渦中だったため、本誌の取材に応じてくれた人たちも冷静というわけにはいかなかった。特に被害女性のA子さんには母親と一緒に話を聞いたのだが、事件について話しながら涙を流し、取材の途中で呼吸困難に陥った。
 そして、その彼女が事件から12年を経て、編集部を訪ねてきたのだった。
 実は彼女は、事件によるPTSDから抜け出せず、心に深い傷を負ったままだった。この間も、リストカットなど自傷行為を繰り返し、突発性難聴や原因不明の高熱も続いているという。そして彼女は、何とかそこから抜け出すために、敢えて事件と向き合うことを決め、編集部を訪ねてきたという。両親は、彼女がこれ以上傷つかないようにと事件についての報道は極力見せないようにしていたため、彼女は自分の証言の載った本誌をまだ読んでいなかったのだという。
 事件と向き合うことで、自分のトラウマを克服しようというのは、投薬治療では限界があると判断した精神科医の勧めでもあり、母親もそう思ったのだという。
 その後、私は本人から何度か話を聞き、12年ぶりに彼女の実家も訪ねて母親にも話を聞いた。A子さんは、治療のために専門医にも足を運んでいた。そして、そうしたプロセスを日記に記し、自分自身を見つめようとし始めたのだった。
示談を経て不起訴に終わったレイプ事件
 集団暴行事件が発生したのは1997年11月13日未明だった。前夜の午後11時頃、某大学運動部約10人が、八丁堀のカラオケボックスに集合した。そこはメンバーの一人がアルバイトをしており、12時を過ぎると社員は帰宅してバイトだけになるので、ほぼ貸し切りで飲み会ができると判断したのだった。
 部員たちは1階で待ち合わせた後、3階のパーティールームに移動し、飲み会を始めた。当時、赤坂の居酒屋でバイトをしていたBは12時過ぎに東京駅で、事前に連絡していた女性2人と落ち合い、カラオケボックスに合流する。実は被害女性A子さんは彼の元交際相手で、友人の女性を連れて飲み会に来てくれないかと誘われていたのだった。A子さんはそれに応じたものだが、ただ部員らが10人もそこに待っていることは現場に行くまで知らなかったという。
 Bと付き合うようになったのは、A子さんが高校生の時、友人を介して知り合ったのがきっかけだった。何度かデートを重ねたのだが、そのうちに「お気に入りの子が他にできたらしい」と友人に聞かされ、彼女は自分から電話で別れを告げた。しかし、Bに好意を抱いていたようで、後に社会人になってから再び連絡を受けて再会し、交際が復活した。深い関係になったのはその時だった。そしてその再会から何カ月か後に事件にあったのだった。果たしてBが了解のうえでその事件が起きたのか、あるいは偶発的にそうなったのか。A子さん自身、いまだに真相はわからない。
 カラオケボックスに合流した後、A子さんは、彼女に目をつけた他の部員に半ば強引に酒を飲まされ、酔ってしまう。他の連中がパーティールーム16号室で騒いでいる間に、同じフロアにある小さな別室13号室に誘われたA子さんは、そこでBと合意のうえ性行為を行った。
 ところが彼は気分が悪くなって、トイレへ行くと言って出て行ったまま帰ってこない。彼女が衣服を着たところへ、その前から彼女にちょっかいを出していたCが入ってきた。そして彼が性行為を強要したという。他の男たちもやってきたので、彼女は、「Bはどこ? Bを呼んで」と助けを求めるが、応答はなかった。Bはその部屋の前の女子トイレで酔いつぶれて寝込んでしまったのだという。
 A子さんは男たちに囲まれ、威嚇された。殺されるのではないかという恐怖に襲われ、抵抗するすべもなかった。ただ、このあたりについては、当事者たちの話も食い違いを見せる。そもそもその部屋はうす暗かったし、途中から呼ばれてやってきた者のなかには状況を理解できない者もいたらしい。後に取材に対して「嫌がる女性を無理やり強姦するほど俺たちだってバカじゃないですよ」と容疑を否定する者もいた。
 A子さんは翌朝解放されるのだが、彼女は、Bもグルだったのではないかと疑った。警察もそう考えたようで、レイプ現場にいなかったにもかかわらずBも逮捕された。ただ、警察が疑った事前共謀はどうやら立証は難しいと判断されたようだ。Bは、私の取材にも応じて、寝入っていた間、何が起きていたのか知らないと答えた。
 彼女はその後、悩んだ末に母親に事情を打ち明け、警察に被害届を出した(正式に受理されたのは11月20日付)。警察で何度か事情を聞かれ、告訴したのは12月24日だった。
 年明けの1月19日、大学生5人が警察に呼ばれ、20日未明に逮捕状が執行された。前夜からマスコミの取材報道が始まり、逮捕後の朝のワイドショーはこの事件の報道一色になった。
 こう書いてくると、事件の経過は明白に見えるが、実はそう簡単ではない。逮捕された学生たちは警察の取り調べに対して外形的事実は認めたが、レイプと呼ぶようなことはしていないという主張だった。密室での行為だっただけに、裁判での立証は簡単ではないと思われた。
 最初に逮捕された5人が勾留満期になる2月9日、学生7人と被害者との間で示談が成立した。その間、逮捕された学生の親のなかには、いきなりA子さんの自宅を訪れて土下座した人もいたという。示談成立にあたっては、逮捕学生の親たちや弁護士の強い働きかけがあったようだ。裁判になったら被害者側も再び辛い目にあう。そういう説得を受けて、A子さん側も折れることになったらしい。
 結局、逮捕された学生8人が処分保留のまま釈放、後に不起訴となった。学生たちが釈放された夜、大学は記者会見を行い、14日に学生たちの処分を発表。事実認定は難しいとして、迷惑をかけたことが処分の理由だった。
 集団レイプ事件の真相はどうだったのか。不起訴となったことで、細かい事実の確定は結局行われないままとなった。ただ、被害者であるA子さんが、深い心の傷を負ったのは確かだった。特に信頼していた交際相手の男性に騙されたのではないかという疑念は、彼女を苦しめたようで、A子さんはBに本心を聞きたいというのだった。
 編集部を訪れたA子さんは事件について語るたびにボロボロと涙を流した。トラウマを乗り越えようとする彼女を応援したいという思いから、本誌は彼女の闘病日記を公開することにした。日記は2011年12月号と翌年1月号に分けて掲載したが、以下に改めて掲載するのは、そのごく一部である。
A子さんの壮絶な闘病日記
《●9月×日
 今日、篠田さんに会いに行った。
 あの時以来、私の中で止まったままの思いが逆転。篠田さんからBの話が出たときは少し混乱した。彼等のことを聞くつもりは一切なかったので、ずっと震えが止まらず、何をどう話したかさえ忘れかけているけれど、今まで私が、この先~したかった、~したいという想いは伝えられたのかと……。
 当時の雑誌はもうないらしく、私と母へとコピーをくれた。その時はまだ見られなく目を背けるので一杯だった……。
 そして今、初めて開いた。誰かの拘留中日記なんか関係ない。読む気にもならない。
 そして最初は(もうB以外の名前を覚えていない)その中の誰かの証言。頭の中の崩れたパズルが蘇ってくる。嘘!嘘!嘘!!!「真実」と言いながら何故嘘をつく!?
 勿論、合っている部分もあるが、私をそんな風にとらえていたの? それとも自分を守るため?? 物凄く情けなくなった……。次々に色んな事が書かれてあり、蘇った記憶との相違点が次々と浮上。
 私、大勢だなんて一言も聞かされてなかった。BとのSEXの後、すぐ服を着て、Bが戻ってくるの待ってた。でも笑いながら嫌だった人が入ってきた。抵抗して泣き叫んだ。Bの名前を大声で何度も叫んだ。大声で叫べば誰かが気付いてくれると思った。「Bは来ねーよ」その言葉……聞こえてきた。そこからは思い出せない……。
 気づいた時には大きくて怖い人がいた。泣いたのか抵抗したのか、私が声を上げると「うるせー女だ」「なぐるぞ」「下の毛燃やすぞ」とライターの火を目の前に……そこはハッキリ覚えてる。毎日見る悪夢。誰が誰かわからない。沢山された。抵抗したって無駄だとあきらめた。こんな身体の人たちに抵抗したって無駄。殺されると。
 水が欲しい、と言ったら水を顔にかけられた。……もう覚えていない……。
 服を着て?エレベーターに乗ってYちゃんと、もう一人の男の人と駅で少し話して帰った。
 バイバイした後、電車に飛びこもうとした。何故生きて家に戻ったんだろう?
 思い返す度、記事を見る度に「違う!」「違う!」と心が叫ぶ。
 当時の私、きっと混乱でいっぱいだったのだろう。なぜあんな目にあってもBの事を気にしていたのか……。確かにBの事、本当に好きだった。
「真実」を知って欲しい。今更だけど、訂正したい。そして記憶から消えて欲しい。それは無理だけど……せめて「真実」をどうか……。
●9月×日
 一昨日も昨日も、ただただ寝込むだけ。薬とリスカで現実逃避。入院中から始めようと購入した写経セットを始めてみたが、手が震え、集中力ももたず、結局3分の1がやっと。でも気持ちは込めた。
 昨日はBの事が頭にずっと浮かんだ。色んな事を思い出した。高校の時の付き合っていた時、練習後に急いで近所まで来てくれ、公園で誕生日プレゼントにもらった香水。Xmasには3組でPArtyをし、コンビニに行った時恥ずかしそうに差し出した小箱、指輪だった。涙が出まくるほど嬉しかったのを想い出す。こんな思い出あったんだね。
 あの頃の彼が、私が止まったままなのかも。彼がずっとつけてた香水、今でも持ってる。嗅ぐと眠くなる……。
 別れた日もハッキリ記憶している。彼に他に好きな人が出来、一緒にボーリングに行ったと彼の友人から聞き、その晩、親友の家に泊まって、そこから電話をし、別れを告げた。数秒の沈黙があったが、「いいよ……わかった……」と。
 そして翌朝阪神大震災があった。
 そういえば、何でBは離れた席にいたの? 私が一番嫌だった人に口移しで梅酒を飲まされた時も、すみれSeptemberが流れてた。あの曲きくたび今でも気が狂う。
 皆、若気の至りで済ませてるの? あの時の気持ち教えてよ……。巡る記憶が破壊していく……。こわれてく。
●9月×日
 今日は家族の誕生日。頑張って起きて最高の誕生日に!! と思っていたもののダメ……。イライラ、フラフラ、暴言、自傷(トイレにこもって壁(石)に左肘を何十回以上も打ちつける)。おもいっきり打っても痛くない。痛くないと意味がない。ヒビが入るんじゃないかって位、強打した時、痛いハズなのに何故か嬉しかった。皆に当たったバチだ。罰だ。そうしなきゃ気が済まない。人の心を傷付けたんだから当たり前。
●9月×日
 私は最悪。最低。苦しいからと……。「自分が苦しいから」と皆に負担を掛けている。少しでも光を見つけると、そこを頼りに図々しく甘えまくってしまう。この依存治さなきゃな。自制がきくようになりたい。今日も篠田さんが忙しいのわかってた上で自分の事ばかりでメールしてしまった……。焦らず……と思っていても止められない。頭の中に「生か死か」の2択ばかりになってしまう……。
 薬、飲んでも飲んでも眠れない。暗闇が怖い。人の気配が怖い。薬ほんのり効いてる、けど眠れない。》
当時逮捕された男性に接触を試みた
 この時期、A子さんは医者の治療を受けながら、毎日、日記を書いてある程度たまるごとに送ってきた。彼女が久々に事件のことを思い出し、事件と向き合うというプロセスだった。引用した部分からでもわかるように、彼女はBに好意を寄せていた。そして事件によって突然関係を断たれ、その後、一度も会っていない。彼女の中で、12年経ってもBの存在が微妙な影を落としているのは、日記からも読み取れた。
 この事件をもとに書かれた吉田修一さんの小説『さよなら渓谷』では、レイプ事件の加害者と被害者が、その後再会し、同居を始める。もちろんそれはフィクションなのだが、吉田さんはもしかすると、当事者らの関係や証言を詳しく掲載した『創』を参考資料として読んだのかもしれない。加害者と被害者の交錯する思いが小説のモチーフになっていて、それを原作にした映画を映画館で観た時、私はフィクションなのにリアリティに満ちたその内容に驚いた。
 さて、A子さんが12年ぶりに私を訪ねてきた理由を、最初は、事件当時の『創』誌面を見たいと語っていたのだが、彼女と接触するうちに、それだけではないことがわかってきた。吉田さんの小説ではないが、彼女はBに接触を試みようとしていたのだった。
 以前交際していたから、彼女は彼の自宅を覚えており、まず手紙を書いてみようと考えた。しかし、彼女からその相談を受けた私としては、相手が「何をいまさら」と反発するのが予想できた。
 昔好きだったBに会うという彼女の思いは、もしかすると彼女の精神的病を一気に治すことにつながるかもしれない。だから私は、無謀とも思えたその提案を手助けすることにした。ただ一方で、問題がこじれると、A子さんをさらに精神的に追い詰めることになることも予想できた。どうすべきか悩んだ末に、私は彼女の提案に賭けてみることにした。
 A子さんが直接Bを訪ねるというのはありえないことだったので、まず私が代理として接触することにした。事件当時、取材で私はBにも会って話を聞いており、面識があったからだ。しかもBの印象は悪くない、まさに好青年というものだった。そこでまず、Bに「会いたい」という手紙を書いたのだった。
 通常ならレイプ事件の被害者と加害者が再会するなどありえないことだ。でも日記を読めばわかるように、彼女のBへの思いはなかなか複雑だ。不信の念と、それでも信じたいという思いとが、交錯しているのだ。
 集団レイプの現場にいなかったにもかかわらず逮捕されたことでわかるように、この事件へのBの関わりはなかなか微妙だ。本人は、酔いつぶれて寝入ってしまい、集団レイプがあったことは全く知らなかった、後で友人から聞いてびっくりしたと供述した。つまり逮捕自体が誤認だったという主張だ。それが本当ならBは冤罪の被害者ということになる。 
 しかし、なぜ彼が逮捕されたかというと、A子さんが、実はBもグルだったのではないかと疑ったからだ。警察も当初、事前共謀という線で捜査を進めていたという。ただ結局、立件は難しいということになった。恐らくA子さんの内面にそのことはひっかかっていて、真相を直接Bに質したいと考えたのだろう。
 B宛てに書いた手紙を出して数日後、彼の父親から私に電話があった。予想通り、今さら事件を蒸し返して何になるのかという反発の返事だった。印象に残ったのは「息子も大学を退学となり、十字架を背負って生きているのだ」という言葉だった。
 あれだけの事件になったのだから、加害者とされた側も十字架を背負わされたのは確かだろう。事件は不起訴となったが、実名・顔写真入りの大報道は、裁判所がくだすべき以上の大きな処罰を当事者たちに与えたに違いない。
 それから何日かして、Bと父親からの手紙が届いた。内容は厳しいものだが、そんなふうに返事を送ってきたこと自体、Bの精いっぱいの誠意のあらわれであるように思えた。
《この度、お手紙を頂きまして、大変迷惑をしているのが本心です。あれから13年経過して、自分も、事件の事を背負って、苦しみ、悩み、又、忘れようとして頑張ってやってきましたが、ここに来て、なんで今更というのが本心です。事件の首謀者にまつりあげられ、まったく身に覚えがない事まで言われ苦悩したが、彼女を呼んだ事の事実は消しようもない、その責任は充分感じていますし、自分は男だからどんな事でも耐えて生きて行くつもりです。》
 手紙はこの後、示談が成立したのにどうして、という疑問が表明され、次のように書かれていた。示談は成立したものの、彼女に直接詫びるという行為がなされていないではないか、と私が書いたことへの反論だった。
《私が釈放された際、私と両親ですぐその足で、ご自宅に赴き謝罪するつもりでお電話をさしあげたところ、お母さんから、もう一切関わりたくないので来ないよう強く言われましたので、謝罪にお伺いできませんでした。だから、一切謝罪がないという彼女の見解は間違っております。》
 恐らくA子さんとしては、自分のPTSD状態から脱却するために、Bに再び会って事件と向き合いたいと考えたのだろうが、この手紙でそれは一頓挫を余儀なくされた。
「深い地底にハシゴが降りた」
 Bと父親からのメッセージはもちろんA子さんに伝えた。その結果を彼女がどう受け止めたのか、日記をもう少し引用しよう。
《●11月×日
 先日篠田さんがBに手紙を書いてくださると言った。どうなったのかな……届いたのだろうか。届いたとしても返事なんてないんだろうな。でも私もきちんと文が書ける時に早急に書きたい。
 苦しい。呼吸が止まりそう……。
●11月×日
 僅かな眠りの中、いつもの悪夢と少し違う夢を見た。交際当時のBと私。以前書いた公園にいる。その後、突然暗闇・崖の上。恐怖心と共に取り残された自分だけのまま目が覚める。夢の中の彼は無表情。いや表情すらわからなかったかも。
 夕方篠田さんから連絡があり、Bからレスポンスがあったと。内容はまだわからない。少し嫌な予感。
 今日も些細な事で激しく落ち込む事があった。何も出来ない私が悪い。トイレに閉じこもり、うずくまり頭を抱えながら泣き唸り、自傷行為に走り……そうになったが、また今日も何度かの葛藤の末防げた。
 正直消えたい。何の役にも立たない。
●11月×日
 何も出来なかった。ひたすら落ち込んでしまった。色々と考えメモを残そうとしてもペンすら握れず。正直、遺書は用意し始めている。そう、生きる気力がなくなり、私が前を向こうとすればする程、周囲を巻き込み、相当な迷惑をかけているんだな……と。
 線路の上を歩いている時にカンカンと警報音が鳴り始め、急げない私はそのまま立ち止まる事を考え止まった。このまま死んじゃえばいいのに。でも周囲が気付き、それこそ更にまた迷惑な話。どうしたら良いのだろう? 存在している意味がわからない。
 悲しい。悲しいよ。沢山泣いた。一日中泣いていた。今も止まらない。涙は悲しみを流し、気持ちを切り替えてくれると言うけれど、一向に流れていかない。胸が痛い。
●11月×日
 ふと……真っ暗闇の深い地底にハシゴが降りた。登れる力がない。しかし力をつければ登れる。》

 生きていくのが精いっぱいという現実の中でも、自分の辛い経験が社会に何かを考えてもらうきっかけになってくれたら嬉しいという彼女の思いがある限り、本誌はフォローを続けようと思う。

 

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最終更新:

性行為30回で億万長者に、自殺者は3人に リアリティ番組が過激化したイギリスでの顛末――2020上半期BEST5

2020年08月11日 02時11分54秒 | 事件・事故

8/10(月) 11:01配信
文春オンライン

木村花さん ©getty

2020年上半期(1月~6月)、文春オンラインで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。国際部門の第3位は、こちら!(初公開日 2020年6月5日)。

【画像】イギリスの番組で亡くなったキャストたち

*  *  *

 5月23日、人気番組『テラスハウス』に出演していた女子プロレスラー、木村花さんが亡くなった。生前はバッシング被害に悩まされていたと伝えられている。

2019年3月時点でリアリティ番組の自殺者数は38人
 視聴者参加型番組とバッシングにまつわる議論は、数年前から海外で活発になっていた。 英紙Metro によると、2019年3月時点で同様の番組キャストの自殺者数は38人にのぼる。中でも痛ましいとされるケースは、インドのダンス・コンテスト番組に出場した11歳の少女ネハ・サマントの遺体が首を吊った状態で発見された事件であった。

 国家機関が介入したケースもある。国民的人気番組から相次いで自殺者が出たイギリスでは、テリーザ・メイ、ボリス・ジョンソンがともに首相として対応を約束。2019年5月には、リアリティ番組制作陣に対してプロセスの透明化や出演者へのアフターケアに関する調査報告を義務化する規制が議会によって成立した。

 イギリスのTVは、どんな状況だったのか。まず留意すべきは、同国で人気の視聴者参加型番組が『テラスハウス』よりも過激なことだろう。 こちらの記事 で紹介したように、英米において『テラスハウス』が注目を集めた一因には「礼儀ただしい人々による平和な内容」が珍しがられたことにある。

自殺者が続出したイギリスのTV番組の実態
 一方、参加者たちの共同生活を映すイギリスのTV番組は「リアリティショー」と呼ばれることが多く、乱れた性生活や激しい喧嘩など過激さを売るものが多い。

視聴者投票によって脱落者が決まる2000年代の人気番組『ビッグ・ブラザー』シリーズでは、男性陣の前でワインボトルを使った自慰行為に挑戦する女性も出てくる状況だった。

 2010年代イギリスで合計3名もの自殺者が出た人気番組が、美しい若者たちが共同生活を送る『ラブ・アイランド』だ。このリアリティショーは「人間のもっとも醜悪な部分の繁殖地」と形容されている。

 内容を大まかに言えば、参加者たちがカップルになり5万ポンドの賞金をめがけて競う内容で、視聴者投票によって脱落者が決定される。

要するに、視聴者の機嫌をとるため、参加者たちが率先して修羅場や騙し合いを巻き起こすよう設計されているのだ。
番組中、30回もの性行為を行った出演者は億万長者に
『ラブ・アイランド』は、2015年に始まって以降「文化現象」とされるほどの人気を博していった。16~34歳のTV視聴者のうち40%がこの番組を見ていたとするデータもある。

 出演をきっかけに大成したキャストも出た。番組中、30回もの性行為を行って話題をつくったオリヴィア・ボーエンは、レースこそ準優勝に終わったものの、その後アパレルブランドや主演リアリティ番組を興していき、5億円ほどの資産を築いてみせた。『ラブ・アイランド』に出る前は借金苦で食べることすら苦労していたというのだから、相当な成り上がりだ。

 無論、出演を望む若者も数多い。2019年の出演者オーディションには応募開始24時間で6万人もの応募が殺到したという。

「参加者みんな、お金持ちになって人生が楽になると思ってるんだ」。

そう語るシーズン3参加者ジョニー・ミッチェルは、番組を「インスタント名声マシーン」と呼んだ。

国民的番組となり、3人も自殺者が
 国民的番組となった『ラブ・アイランド』に対する批判は増大していく。大きな発端となったのは2018年、シリーズで初めて同性とカップルになったのち、バッシング被害に苛まれている旨を明かしていたシーズン2出演者ソフィー・グラドンの自殺である。彼女の遺体を発見した恋人も20日後にあとを追った。

 翌年には、シーズン3にて演じた「暑苦しい男キャラ」像が定着してしまい悩んでいたとされるマイク・サラシーティスが26歳の若さで亡くなった。自殺者の連続発生を受けて、ソフィーの母デボラはリアリティ番組ビジネスを糾弾した。

「弱き人々の悪用をいつやめるのか。リアリティ番組は、最も邪悪で幼稚な娯楽形式だ」「これらの番組は血塗られた残酷劇場……恥を知れ」。

 リアリティ番組が孕む問題として「急速な名声」が挙げられる。

一般人に近い参加者が出演を機に一気に知名度を上げると、専門的な対策無きままにインターネットやメディアから罵詈雑言を浴びることとなり、甚大なダメージを負いやすいのだ。

そして、軋轢や凋落、予測不能な展開を売りにする類のリアリティ番組は、ことさらバッシングを生む。
リアリティ番組は攻撃的な反応を生みやすいとする調査も
 アメリカでは、攻撃的な争いを売りにする監視型リアリティ番組が(暴力的なフィクションよりも)視聴者の攻撃的な反応を生みやすいとする調査結果も出ている。

また、英国社会では「自ら出演を選んだのだからバッシングされるのも自己責任」といった向きも根強いとされる。

 多くのリアリティ番組が「ヤラセ」とされることも重要だ。

UK版Cosmopolitan では、制作側がまずストーリーを決定し、それに沿う「キャラクター」として参加者を採用するケースが多いと報告されている。

ヌードや性行為、喧嘩といった過激な行動のオファーを受けたキャストに追加報酬が払われるパターンもあるようだ。

 視聴率をとるための「物語」が決められている現場では、ハラスメントも横行しやすくなる。『ラブ・アイランド』にしても、参加者を「動物」のように扱うプロデューサーがカップルを決めた上で贔屓のキャストばかりを映し、ときにはキスシーンを4回も撮り直すような状況だったと告発されている。

キャストへのサポートを義務づける議会決定も
 一般参加者を嘘発見器にかけて争わせる『ジェレミー・カイル・ショー』でも自殺者が発生したことによって批判がより高まった結果、2019年、キャストへの中長期的サポート等の調査報告を義務づける議会決定がイギリスで下された。

 しかし、2020年には、またしても自殺者が出てしまう。恋人への暴行疑惑で起訴されていた『ラブ・アイランド』司会者キャロライン・フラックが遺体で発見されたのだ。

英国王室ハリー王子との交際歴もある彼女の場合、「リアリティショーの女王」と呼ばれるほどのベテランだった。

ダンス・コンテスト番組優勝で知名度を上げて前出『ビッグ・ブラザー』シリーズのホストも務めていたのだから、人生をリアリティショー・ビジネスに捧げた存在と言える。

 亡くなる前日に母親に送られたという、公表を見送った声明文には、暴行疑惑の否定とともに、誹謗中傷を受ける立場を生業とした人生、その後悔がつづられている。

「多くの人々にとって、暴行罪で起訴されることは、人生観を変える経験かもしれません。しかし、私にとっては、もう普通のことになっていました。長いあいだ、ストレスに蓋をしていました。10年以上もの間、辱めや悪意ある意見を浴びせられることは仕事の一部だと自分に言い聞かせていたのです」

「キャリアを取り戻したいわけではありません。ただ、どうしたら自分自身と家族の人生を取り戻せるのか考えています」。

「誰も見ないなら、誰もつくらないだろう」
 自殺・自傷防止の超党派議員団に参加するチャールズ・ウォーカー下院議員は、大勢の視聴者を惹きつける残酷なリアリティ番組は大衆の反映であると語った。

「この問題は社会的な連帯責任だ。そうした番組を誰も見ないなら、誰もつくらないだろう」。

 司会を替えて新シーズンを放送する予定の『ラブ・アイランド』は、今やアメリカやドイツを含めた15カ国で制作・放送されるグローバル・コンテンツとなっている。

辰巳JUNK

 

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「黒い雨」訴訟で国が控訴方針 広島市と県、条件付き受け入れも

2020年08月11日 02時03分57秒 | 社会・文化・政治・経済

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被爆者健康手帳の交付を求めた訴訟で、全面勝訴の垂れ幕を掲げる原告団の弁護士=広島市中区で2020年7月29日午後2時7分、山田尚弘撮影

 広島原爆の投下後に降った「黒い雨」を国の援護対象区域外で浴びた住民ら84人全員に被爆者健康手帳を交付するよう命じた広島地裁判決について、厚生労働省が広島市と広島県に控訴の方針を伝えたことが関係者への取材で判明した。

市と県は実質的な被告である国に控訴断念を求めているが、国が援護区域の拡大に乗り出すことを条件に受け入れる検討を始めた。控訴期限は12日で、3者は詰めの協議を進める。

【被爆75年 「黒い雨」に画期的判決】  

市と県は独自の調査結果を基に、国に対して黒い雨の援護区域を見直すよう、住民が訴訟を起こす前から求めてきた。

これに対し、国は「科学的な根拠がない」などとして拒んできた経緯がある。

控訴を断念すれば原告84人は救済されるものの、その他の人たちは依然として対象にならない。市の幹部は毎日新聞の取材に「援護区域を広げてもらえるなら、控訴も選択肢の一つだ」と述べた。  

黒い雨を巡っては国が1976年、原爆投下直後に爆心地の北西部に大雨が降ったとする気象台の調査を基に「健康診断特例区域」(援護対象区域)を指定。

区域内にいた人は被爆者に準じて無料の健康診断が受けられ、一定の病気になれば被爆者健康手帳に切り替えられるようになった。

 しかし、区域外で「黒い雨」を浴びて健康被害を受けたと訴える住民は多く、2015年11月、国の線引きはおかしいなどとして、住民が手帳交付申請を却下した市と県を相手取って提訴した。

市と県は国からの法定受託事務で手帳の交付審査を担っているが、裁量が認められていない。このため国も訴訟に補助的な立場で参加しており、控訴する権限も与えられている。【小山美砂、賀有勇】

 

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【終戦75年】「俺が死んだら何人泣くべ」 特攻隊員が残した覚悟の遺書と、たったひと言の偽らざる気持ち

2020年08月11日 01時56分14秒 | 社会・文化・政治・経済

配信

大きくなったら戦地へと信じた少年期
 

「俺が死んだら何人泣くべ」という書を残した特攻隊員、前田啓(画像:合田一道)

 東京でも猛暑日を記録する日が続いています。まさに真夏といったこの時期、終戦記念日(8月15日)が近づいてくると、あの文言がよみがえってきます。

【画像】「俺が死んだら……」本人直筆の書を見る

「俺が死んだら何人泣くべ」  若き特攻隊員、前田啓が出撃前に書き記した文言です。

 北海道室蘭市出身。23歳。1945(昭和20)年4月3日朝出撃、と記録されています。

 この書を鹿児島県知覧町の知覧特攻平和会館で見たのはもう30年も前ですが、いまもまぶたに焼きついて離れません。一読して分ける北海道弁。筆者(合田一道。ノンフィクション作家)も北海道生まれなだけに、この表現がズシンと胸を突くのです。  

戦争たけなわの頃、まだ小学生だった筆者は、「小国民」として国民学校(小学校のこと)に通い、軍国教育を受けていました。ですから何の疑いも抱かず、大きくなったら戦地へ行こうと、本気で考えていました。

 同級生の男子たちも皆、同じ思いで、中には「俺は陸軍大将になる」などと胸を張る子もいました。

「太平洋ノ防波堤トナリ 死ニマス」

村永薫編『知覧特別攻撃隊』(画像:ジャプラン)

 歓呼の声に送られて戦地に赴き、戦死したら、俺のために何人泣いてくれるだろうと、友だちと真顔で話し、「母に、姉に、それから担任の先生か」などと指折り数えていたのを、悲しいことですがいまも鮮明に覚えています。  

いまでは想像もできない話ですが、そんな時代でした。  それゆえにこの書を見て、年齢が11、12歳も離れている先輩までが、少年だった自分たちとよく似た感情を抱いていたのかと、心を動かされたのです。

 ほかにまだ書いたものがないかと思い、調べたところ、村永薫編『知覧特別攻撃隊』(ジャプラン)に本人の遺書が記されていました。

 陸軍特別攻撃隊振武隊陸軍少尉とあり、戦死後に大尉に昇進しています。その文面を省略しながら掲げます。

 父母様、啓ハ大命ヲ拝シテ往ク事ニナリマシタ。二十有余年ノ今日ニ至ル迄(まで)厚キ恩愛情ヲ受ケ、何一ツ孝行モ出来ズ御心配バカリカケ申シ訳御ザイマセン。啓ハ大君ノ御為太平洋ノ防波堤トナリ死ニマス。武人ノ名誉之(これ)ニ過グルハナシ。

 君ニ忠ナリ親ニ孝ナリノ両輪コレノ道義ニ邁進(まいしん)シ、死ヲ以(も)テヨリ高ク海ヨリ深シノ君親大恩(くんしんたいおん)ノ万分ノ一アリト報イ奉ル決心ナリ。  

特ニ自分ノ墓ハ不用デアリマス。亡母ノオン墓ノ側ニ寝カセテ下サイ。サヨウナラ。天皇陛下万歳、振武隊万歳  若桜屍ヲ空ニサラストモ 何惜シカラウ大君ノタメ

500kgもの爆弾とともに敵艦目がけて

知覧特攻平和会館に展示されている海軍零式艦上戦闘機(画像:知覧特攻平和会館ウェブサイト)

 あの、「俺が死んだら……」の本音とは全く違う、遠くかけ離れた印象の別離の書で、別人のような感じを受けました。そして死を直前にした若者が、死の本質を自らに言い聞かせて書いた――そんな印象を抱き、筆者は胸が裂けるほどの痛みを覚えました。  

特攻機は胴体に500kgもの爆弾を装置し、片道分だけの燃料を積んで飛び立っていき、敵艦目がけてぶつかっていく。出撃したら帰還しないという人類史上類のない肉弾攻撃の特攻機です。

 アメリカ軍はこの戦法に驚き、震え上がったといいます。この特別攻撃は敗戦の日の1945(昭和20)年8月15日まで続いたのです。  

この日正午、昭和天皇はラジオの「玉音放送」でポツダム宣言を受託する旨を伝え、これにより戦争は終結します。  

それにしてもどれだけ多くの特攻隊員が死んでいったのか。  原勝洋編著『鎮魂 特別攻撃隊の遺書』によると、出撃、体当たりを敢行した特攻機は657機で、直接命中したのは351機。命中により被害を受けた艦船は104隻、沈没は49隻にのぼった、と記されています。

 また特攻機の搭乗者は総勢3853人(海軍2516人、陸軍1337人)、このうち学徒出身者は1090人で、全体の28%を占めていたとあります。  

別の記録では、特攻の戦死者は2522人とするものもあります。

特攻隊員へあてた指揮官の「わび」状

特攻隊の遺品や関係資料を展示する「知覧特攻平和会館」(画像:知覧特攻平和会館ウェブサイト)

 特攻作戦を発案し、実行に移した中心人物とされる海軍軍司令部次長の大西瀧次郎中将は、最後まで徹底抗戦を主張しましたが受け入れられず、玉音放送の翌日、腹を切りました。  

妻への遺書ともう1通、特攻隊員への次の遺書が残されていました。

 多くの特攻隊員を死地に送り込んだ指揮官の「わび」の言葉です。皆さんには、どう聞こえるでしょうか。

 特攻隊の英霊に曰(もう)す 善(よ)く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつヽ肉弾として散華せり 然れ共(しかれども)其(そ)の信念は遂(つい)に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす

合田一道(ノンフィクション作家)

 

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マンションを買うんじゃなかった…コロナ禍で人生計画が崩れた独身女子の嘆き

2020年08月11日 01時53分22秒 | 社会・文化・政治・経済

8/10(月) 15:00配信
Suits-woman.jp


新型コロナウイルスの影響で、テレワークというような働き方を始め、様々な生活様式に異変が起きています。今回は、これまで普通の生活を送っていた30代の堅実女子が、コロナをきっかけに人生計画に異変が起きてしまったケースを紹介します。

勤続10年以上の信頼を基に、新築マンションを購入
生命保険会社に勤務している島谷文江さん(仮名・36歳)は、去年、増税前におひとりさま用マンションを購入したそうです。

「勤続年数が10年を超え、都内での一人暮らしの家賃を払い続けるのは高いなって思ったんです。新築マンションだったら、そのあと自分が住まなくなっても資産に回せるという説明を受けて、購入に踏み切りました」

30代でのマンション購入は、残りのローン返済の年数を考えるとメリットがある判断といえますが、結婚や出産というようなライフプランはどうするつもりだったのでしょうか。

「実は、ちょうどその頃、4年ほど付き合っていた1つ年下の彼氏がいたんです。ただ、会おうと言っても『今は落ち込んでいるからしばらく会いたくない』と言われて、距離を置かれていたんです。彼はフリーのデザイナーだったので、収入がやや不安定。そこで、私がマンションを購入するという話をしたら、復縁して一緒に暮らすようになるかと思っていたんですよね」

まさに、一か八かの賭けに出たという文江さん。しかし、マンション購入を機に、別れ話が本格化したそうです。

「彼とは毎月2~3回は会っていたので、休みの日がぽっかりやることがなくて暇になりましたね。新居に置く家具をIKEAやニトリに見に行ったり、それまであまり自炊をしていなかったので、料理を作ってみたりして過ごしていました。彼にも、『家具を見に行くから一緒に行ってほしい』とLINEでメッセを送ってみたのですが、返信がなくて。つらかったのですが、マンションの受け渡し日がどんどん近づいて、引くに引けず。つらい中、今年に入ってすぐ、新築マンションでの暮らしをスタートさせました」

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中国、米上院議員ら11人に制裁 香港めぐる米国の措置に報復

2020年08月11日 01時48分39秒 | 事件・事故

配信

【AFP=時事】(更新)中国は10日、米国のマルコ・ルビオ(Marco Rubio)、テッド・クルーズ(Ted Cruz)両上院議員らを含む米国人11人に制裁を科した。
中国政府による香港への締め付けをめぐり、米国が中国当局者らに同様の制裁を科したことへの報復措置。
【写真】「いつ死ぬつもりですか?」 香港行政長官、記者会見で集中砲火浴びる  中国の趙立堅(Zhao Lijian)報道官は10日、「中国は、香港に関連する問題でひどい振る舞いをした者に制裁を科すと決めた」と発表。
 制裁対象リストには国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(HRW)のケネス・ロス(Kenneth Roth)代表や、全米民主主義基金(National Endowment for Democracy)のカール・ガーシュマン(Carl Gershman)会長も含まれている。
 米国は7日、香港政府トップの林鄭月娥(キャリー・ラム、Carrie Lam)行政長官をはじめ、中国高官ら計11人の米国資産を凍結すると発表。中国が国家安全維持法(国安法)を導入して以来、米国による香港関連の対中措置として最大のものとなった。  
米国は林鄭長官らが、香港の「自由と民主的なプロセスを抑圧する、中国政府による政策の導入に直接的な責任を負っている」と非難していた。【翻訳編集】 AFPBB News
 

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