《東京・葛飾》3歳長男を虐待した風俗店勤務の母親、同居男との“だらしない”関係

2020年08月30日 17時52分30秒 | 事件・事故

8/28(金) 4:01配信

週刊女性PRIME

アンパンマンのミュージカルを長男と(本人のインスタグラムより)

「ゆきちゃんは、まじめで頑張り屋さん。小さいころから仲よくしてくれて、優しいお姉ちゃんという感じ。子どものことも可愛がっていたし、ずっと気にかけていた。とても、そういうことをするとは思えない」

【写真】虐待していたとは思えない…SNSに上げていた長男と容疑者の2ショット

 そうかばうママ友だが、逮捕された容疑は尋常なものではなかった。

容疑者と内縁の夫が長男に虐待
 東京・葛飾区の風俗店従業員・沖間友紀(おきまゆき・26)容疑者は、今年1月15日から16日にかけて、自宅アパートで長男(当時3)の顔面を殴打。

 長男は、右目付近に全治1週間の頭蓋(ずがい)内損傷を負い、意識不明の重体となったが、現在は回復して児童福祉施設に保護されているという。

 さらに、1月24日には太もも付近を殴打し、打撲でやはり全治1週間を負わせたというものだった。この2件の傷害の疑いで8月5日に逮捕された沖間容疑者は、

「言うことをきかないときは叩いていた」

 と日常的な虐待を認めている。

 この長男の父親で当時、沖間容疑者の内縁の夫だった神奈川県横浜市の向山純貴(むこうやまじゅんき・26)容疑者も昨年3月下旬ごろ、長男の耳を引っ張るなどの暴行をしたとして、8月14日に傷害の容疑で逮捕された。

「ケガをするほど引っ張っていない」

 と向山容疑者は、容疑を一部否認している。

 沖間容疑者は以前から、「育児に手間がかかる」などと区や保育園に相談。

 昨年の2月には、長男の右腕が骨折しているのを保育士が発見して、区に連絡。

 沖間容疑者は、「自転車で転んだ」と、みずからの関与を否定していたが、その後、説明が二転三転……。そのような情報が、行政で共有されているなかでの事件だった。

 一連の犯行に関して、現場アパートから徒歩10分ほどのところに住む父親は、

「弁護士から“マスコミには話してはいけない”と止められているので、何も話せない」

 と言うばかり──。

付き合ったり、別れたりを繰り返していた2人
 沖間容疑者は、葛飾区の出身で、地元の農業高校を卒業後は、旅行関係の専門学校に進学。英語が得意で、校内スピーチ大会で優勝したこともあった。

 その後は箱根で働くなどしていたが、そのころに知り合ったのが、向山容疑者。

 2年前からは現在のアパートに、沖間容疑者と2歳になった子どもと暮らし始めたが、その後、向山容疑者も転がり込んできたようだ。

「引っ越してきたころは、確かに2人だったので、シングルマザーかと思った。沖間さんは派遣会社の配膳関係の仕事をしていた。

 そのあと、男性が出入りするようになったので、“とうとう男ができたんだな”と思っていた」(同じマンションの住人)

 2人の知人は、次のように説明する。

「向山くんは人当たりもよかったが、2人は長年、付き合ったり、別れたりを繰り返していた。

 向山くんが少しだらしなかった覚えがあるので、もしかすると赤ちゃんができてしまい、結婚する流れにはなったかと思うが、(沖間さんは)結婚は内心、したくなかったのかと思う。長男は間違いなく2人の子ども」

近隣住人が虐待を疑っていた
 そんなゴタゴタで内縁関係のまま、長男の存在がうとましくなったのか、虐待が始まった。

 近所の主婦はこう話す。

「去年の秋ごろ、夜に子どもの泣き声が聞こえてきて、そのあと沖間さんが子どもを散歩させている姿を見かけた。

 それが泣きじゃくる子どもをあやすようにではなく、無理やり連れ回しているように見えたので、虐待じゃないかと思った。

 でも、もしかすると虐待ではないかもしれないので、近所トラブルになると思って、通報はしなかったんですけど」

 同じアパートの住人も、

「毎日のように泣き声が響いてきたけど、泣きグセのひどい子かもしれないので、やはり通報すればトラブルにもなりかねないし……」

 さらに、沖間容疑者は1年ほど前から、月6万円のアパートの家賃を滞納していた。

「報道で、風俗店で働いていたと知ったけど、配膳関係の仕事がなくなり、お金に困っていたのかも。内縁の夫も無職だったみたいだから、すべてひとりで稼いでいたんでしょうけど」(アパートの住人)

“面倒見のいいお母さん”の一面も
 一方で、近隣のダーツバーなどで楽しむ姿が目撃されている。

「明るい性格で、いつも仲間数人で来て、カラオケやダーツに興じていました。SMAPやサザンの曲が多かった。お酒も結構、いける口でしたね。

 子どもさんも数回、連れてきたことがある。そのときは面倒見のいいお母さんといった感じでしたけどね。でも、ダンナさんは一度も連れてきたことがなかった」(バーの仲間)

 さらに、容疑者のインスタグラムによれば、家賃滞納が始まっていた昨年9月には、世界バレーを観戦。

《大林素子さんデカっ! 栗林恵さんデカっ!  中田監督…足細っ!》

 10月の自分の誕生日には、

《めんどくさいだろう私の相手いつもありがとうございます》と報告。

 長男を意識不明に追い込む直前の今年1月には、東京ドームシティのヒーローショーに長男と一緒に参加。

《怪獣出てくる度に手をギュッと握ってくるのが可愛かった》

 と長男を可愛がる様子もあった。

 逮捕前の7月には、ウニ専門店を訪れている。

《やっぱりウニしゃぶおいしかった! からの〆の雑炊は間違いなかった!》

 そんなSNSに綴られている日常は育児にプライベートに、充実しているようだったが実態は違っていた……。

 ちょうど1年前の愛息の3歳の誕生日には、

《産まれてきてくれたこと 毎日笑っていてくれること それだけでなんでも頑張れる。感謝》

 と記していたが、いまとなってみれば、虚(むな)しいきれいごとにしか聞こえない。

 逮捕前、すでに施設に預けられている息子の4歳の誕生日を容疑者は、直接祝うことはできたのだろうか……。

 

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10代孫娘にわいせつ行為 強制性交容疑で70代の男逮捕/徳島県警

2020年08月30日 17時49分56秒 | 事件・事故

配信

県警捜査1課は28日、孫娘に対する強制性交の疑いで、県内に住む70代の大工の男を逮捕したと発表した。被害者が特定されるのを避けるため、男の氏名や住所は非公表とした。

 逮捕容疑は2018年5~7月ごろ、自宅で同居していた10代の孫娘に、わいせつな行為をしたとしている。  

捜査1課などによると、児童相談所から今年6月、「児童が家庭内で性的虐待を受けているようだ」と連絡があった。8月26日に男を逮捕し、27日に送検した。男の認否は明らかにしていない。

 

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女性の死因は出血性ショック 少年は意味不明な供述

2020年08月30日 17時34分05秒 | 事件・事故

配信

 

福岡市の商業施設で女性が刃物で刺され死亡した事件で、29日、司法解剖の結果、刺し傷は全身に及び、警察は容疑者が執拗に刺したとみて調べています。 28日夜、福岡市中央区にある商業施設で、客の吉松弥里さん(21)が刃物で刺され、その後、死亡しました。

警察は29日、司法解剖を行い、死因が、上半身を中心に複数の刺し傷などによる出血性ショックと発表し、殺人事件として捜査本部を立ち上げました。

刺し傷は首など全身に及んでいることから、警察は容疑者が吉松さんを執拗に刺したとみて捜査しています。 また、現場近くでは血の付いた包丁を持っていた自称15歳の少年が逮捕されていますが、意味不明な供述を繰り返しているということです。

九州朝日放送

 

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沖縄米軍基地全史 (歴史文化ライブラリー)

2020年08月30日 11時58分51秒 | 社会・文化・政治・経済

野添 文彬 (著)

在日米軍基地面積の七割以上が存在する沖縄。なぜ米軍基地が沖縄に集中し、今日まで維持されてきたのか。

沖縄戦から現在に至るまでの通史を描き出し、各時期の東アジアの安全保障体制のなかで米国・日本・沖縄社会が基地をいかに位置付けてきたかを検討する。普天間基地移設や日米安保など、いまだ課題を多く残す問題の歴史的淵源を知るための好著。

著者について

1984年、滋賀県に生まれる。2012年、一橋大学大学院法学研究科博士課程修了。現在、沖縄国際大学法学部地准教授、博士(法学) ※2020年5月現在
【主要編著書】『沖縄返還後の日米安保―米軍基地をめぐる相克―』(吉川弘文館、2016年)、『沖縄と海兵隊―駐留の史的展開―』(共著、旬報社、2016年)
 

目次

「沖縄基地問題」とは何か―プロローグ/沖縄米軍基地の形成 沖縄戦からサンフランシスコ講和へ(沖縄戦と基地建設の開始/米国の戦後基地計画/冷戦の開始と米国の沖縄保有決定/サンフランシスコ講和条約第三条の成立)/沖縄への米軍基地の集中 五〇年代~六〇年代(米国の沖縄長期保有方針/沖縄米軍基地の拡大と現地の抵抗/安保改定と沖縄)/米軍基地のさらなる集中と固定化 沖縄返還とその後(沖縄返還合意への道/沖縄返還の実現/ベトナム戦争後の沖縄米軍基地の再編)/普天間・辺野古問題の迷走 冷戦後(冷戦終結と普天間飛行場の返還合意/在日米軍再編協議/民主党政権の迷走と尖閣問題/安倍政権と「オール沖縄」の対立)/「沖縄基地問題」のゆくえ―エピローグ

 

内容説明

在日米軍基地面積の七割以上が存在する沖縄。なぜ米軍基地が沖縄に集中し、今日まで維持されてきたのか。沖縄戦から現在に至るまでの通史を描き出し、各時期の東アジアの安全保障体制のなかで米国・日本・沖縄社会が基地をいかに位置付けてきたかを検討する。普天間基地移設や日米安保など、いまだ課題を多く残す問題の歴史的淵源を知るための好著。
 
 

 

 


若大将・加山雄三さん救急搬送

2020年08月30日 11時48分53秒 | 社会・文化・政治・経済

配信

若大将」の愛称で知られる、俳優で歌手の加山雄三さんが29日夜、東京都内のマンションで倒れ、救急搬送されていたことがわかりました。 関係者によりますと、29日午後9時過ぎ、俳優で歌手の加山雄三さんが、入居している東京・中央区のマンションで倒れ、救急搬送されました。
加山さんは嘔吐の症状があったということです。 搬送される際には意識はあり、その後、都内の病院に入院し治療を受けているということです。
加山さんは現在83歳で、去年11月には右の脳に軽い脳梗塞を発症して入院しましたが、その後退院し、活動を再開していました。
 

醜い日本人―日本の沖縄意識

2020年08月30日 11時33分58秒 | 社会・文化・政治・経済

大田 昌秀 (著)

沖縄に関して,日本人は醜い-.沖縄返還交渉の進むなか著者はあえてこう断言し,憤りを冷徹な筆致に置きかえて,明治期から沖縄戦,アメリカ統治下にいたる沖縄と日本の関係を説き起こした.あれから30年,日本人は醜さから脱却できたのか.沖縄問題の原点を示した旧著に,沖縄県知事としての経験をふまえ加筆した新版.

 

大田 昌秀(1925年6月12日 - 2017年6月12日[1][2] [3])は、日本、沖縄の政治家、社会学者。元沖縄県知事、元社会民主党参議院議員。
琉球大学名誉教授。特定非営利活動法人沖縄国際平和研究所理事長。
沖縄県島尻郡具志川村(現・久米島町)出身。

沖縄戦[編集]
母校の小学校の用務員などを経て、東京の工学院へ特待生で進学する予定であったが、親戚のつてで 沖縄師範学校に進学、在学中の1945年3月に鉄血勤皇隊に動員され、情報宣伝隊の「千早隊」に配属された。
沖縄戦の中、九死に一生を得るが多くの学友を失う(同期125人中生存は大田を含めて37人)[5]。
敗残兵から「スパイ」として射殺されかかる体験もしている[6]。
また、6月19日に摩文仁の司令部壕に伝令として赴いた際、参謀たちが民間人に扮する場面に遭遇した[7]。10月に捕虜となって生還。
敗戦後、米軍捕虜となり、軍施設で働きながら、日本とアメリカの留学試験に合格し、早稲田大学教育学部へ進学。在学中に英語部(WESA)を創立する。在学中に渡米し、シラキュース大学に留学、帰国後、琉球大学学長秘書となり、琉大タイムスを発刊する。
研究者として[編集]
琉球大学教授時代はメディア社会学を専攻し、新聞研究・報道研究等に従事。また、沖縄戦の歴史的研究にも取り組み、『総史沖縄戦』(1982年、岩波書店)をはじめとする著作を刊行した。この研究の過程で、アメリカで発見・収集した写真の一つが「白旗の少女」である[8]。
政治家として[編集]

1997年2月17日、総理大臣官邸にて内閣総理大臣橋本龍太郎(右)と
1990年、革新統一候補として県知事選に立候補し、現職の西銘順治を破り、知事となった。初の女性副知事の登用、女性総合センターの創設にも取り組んだ[9]。

 

 

数年前、高校野球大会で沖縄の高校が初優勝した閉会式をTVで見ながら私はメキシコオリンピックの陸上200mの表彰式での「事件」を思い出していた。無論、沖縄球児は満面の喜びでいっぱいだったけど。

私は私たちが沖縄の人々に恐ろしい犠牲を過去に与え、今も与え続けていることをそれなりに理解しているつもりであった。

だが、沖縄の人々には「日の丸」に他の意味があることに最近気づき、遅まきながら本書を読んだ。

本書は「返還」前の69年の著作で、第4部のみが書き換えられた「新版」である。内部に30年というギャップがあるが、それは全く問題にならない。

私の拙い能力では「沖縄」の苦悩への理解はいまも不十分だろうけど、本書は確実にそれを向上させてくれた。

著者に深い感謝とお詫びを申し上げる。

そして心ある方が一人でも多く、本書や沖縄の人々の歴史を綴った書を読まれることを願う。

古代、自分の目では見えぬ自らの姿を映し出す「鏡」に「怖れ」を感じ、やがてそれは「権威」の徴となった。

写真の発明や最近の技術進歩で自らの顔を知るのは当然になったし、その「動き」も容易に見ることが出来る。だが、自らの内面を映し出す「鏡」は愚見の限り今も存在しない。

が、本書は私たちが殆ど気づかずにいる「日本人の姿」を明確に示す貴重な「鏡」だと愚生は思う。

それは書名に明らかだが、本書にはもっと的確な言葉があり(レヴューの趣旨からあえて引用は避ける)、全部を読むとその言葉の正しさは確実になる。

このこと自体は「沖縄」の問題に限らず、ほぼあらゆる面において今の日本人の姿だと思う。

だが、高度成長に酔っていた40年前にすでに著者らが見抜いていたことに正直、驚き、怖れを感じた。

あと、一部の輩が起こした「名誉棄損訴訟」だが、何故彼らは本書を対象にしないのだろう?

これは、今の私たち「日本人」が無神経で恥知らずなだけでなく臆病でかつ極めて卑怯である事を示している。

 

 


国体論 菊と星条旗

2020年08月30日 11時07分13秒 | 社会・文化・政治・経済

 

 
著者: 白井 聡
 
天皇とアメリカ
誰も書かなかった日本の深層!
 明治維新から現在に至るまで、日本社会の基軸となってきたものは「国体」である--。
 象徴天皇制の現代社会で「国体」? それは死語ではないのか? 
否、「国体」は戦後もこの国を強く規定している。一九四五年八月、大日本帝国は「国体護持」を唯一の条件として敗戦を受け容れた。ただし、その内実は激変した。「戦後の国体」とは、天皇制というピラミッドの頂点に、アメリカを鎮座させたものなのだ。
 なぜ、かくも奇妙な「国体」が生まれたのか。「戦後の国体」は、われわれをどこに導くのか。『永続敗戦論』の白井聡による、衝撃作!
 

メディア掲載レビューほか

アメリカが「天皇」になり替わってしまった今の日本

「国体」などという、死語同然になっていた言葉をタイトルに冠した新書が今、大きな注目を浴びている。政治学者・白井聡さんの新刊『国体論―菊と星条旗』だ。「国体」といえば、万世一系の皇統。しかし、敗戦を契機に日本の「国体」の中にアメリカが滑り込み、今やアメリカが「天皇」になり替わってしまっている。そんな衝撃的な仮説を、明治以降150年の歴史を検証しながら、『国体論』はじっくり展開していく。

 

「アメリカが『天皇』になった帰結だけを手短に示せば、安倍首相がトランプ大統領に懸命に媚びを売る一方で、天皇の退位の意向を蔑ろにする。あるいは右翼が、街頭デモで日の丸とともに星条旗を振り回す。ある種の人々にとっての精神的な権威が、“菊"ではなく“星条旗"となっていることが、誰の目にもとまるようになってきました」

 

前著『永続敗戦論』では、日本の「自発的」な対米従属を俎上に載せ、従属がもたらす社会の腐食作用を暴き出した。

 

「アメリカにNOを言えない国家は数多あるけれど、日本の従属ぶりは異常です。“思いやり予算"“トモダチ作戦"などの情緒的な用語に象徴されるような“日本を愛してくれるアメリカ"という幻想に溺れたまま、支配されていることを否認する。この“支配の否認"という日本独特の歪みが、どこから来ているかを考えたのが『国体論』です。結果、戦前の“国体"が日本人にもたらした心理構造にいきつきました。天皇と臣民の関係を親密な“家族"にたとえ、“家族の中に支配はない"とばかりに、支配の事実を否認させたのが戦前の“国体"。しかし、支配を否認している限り、人々は自由への希求を持ち得ず、知恵を働かすことができません。“国体"は、人々を愚鈍にするシステムなのです」

 

平成時代以降の日本の衰退は、こうした「国体」の欠陥に起因するという。『国体論』では、明治維新以降、「国体」について考え抜き闘ってきた人々の思想と行動が、通史として描かれているが、本書の冒頭と最後に登場するのが今上天皇だ。

 

「あの“お言葉"は、我々にこの国の在り方を真剣に考えてほしいという呼びかけだと、私は受け止めました。“失われた30年"によって国民の統合は壊され、いまや国家の統治も破綻しています。“国体"の欠陥を考え、知恵を取り戻すことが、長いトンネルを抜け出すために、必要なのです」

評者:「週刊文春」編集部

(週刊文春 2018年05月17日号掲載)

対米従属の精神構造

4月の日米首脳会談から帰った安倍首相は、表情がさえなかった。モリカケ&セクハラ問題もあるが、会談でなにひとつ成果がなかったからだろう。鉄鋼・アルミ製品の輸入制限は適用除外にならず、北朝鮮問題でも蚊帳の外。「ネクタイの柄をそろえ、いっしょにゴルフまでしたのに。こんなにアメリカ様のことを想っているのだから、悪いようにはされないだろうと信じていたのに……」という心の声が聞こえてくるよう。

白井聡の『国体論 菊と星条旗』は、この安倍首相のような対米従属的精神構造がいかにして形成されたのかを解き明かす本である。

国体。もちろん国民体育大会のことではない。国家体制、あるいは、天皇を頂点とした国家という理念である。そんなものは敗戦とともに消滅したのでは?なんて思ったら大間違い。いまもしっかり生きていて、日本人を縛っているのだと白井はいう。

かつて頂点にいたのは天皇だったが、戦後はそのポジションにアメリカが就いた、と白井はいう。明治維新から敗戦までの天皇と国民の関係。敗戦から現在までのアメリカと日本の関係。両者がそっくりであることを、歴史を追って論証していく過程がスリリングだ。

安保条約や地位協定などは政治的かつ戦略的に選択されたというよりも、国体というフィクションを維持するためにある。戦前の天皇と同じように、「慈悲深く保護してくださるアメリカ様」というイメージが日本人の心に染みついているのだ。誰かに庇護されなければ不安でたまらない。対米従属とは奴隷根性の別名である。

評者:永江朗

(週刊朝日 掲載)

内容(「BOOK」データベースより)

明治維新から現在に至るまで、日本社会の基軸となってきたものは「国体」である―。象徴天皇制の現代社会で「国体」?それは死語ではないのか?否、「国体」は戦後もこの国を強く規定している。一九四五年八月、大日本帝国は「国体護持」を唯一の条件として敗戦を受け容れた。ただし、その内実は激変した。「戦後の国体」とは、天皇制というピラミッドの頂点に、アメリカを鎮座させたものなのだ。なぜ、かくも奇妙な「国体」が生まれたのか。「戦後の国体」は、われわれをどこに導くのか。『永続敗戦論』の白井聡による、衝撃作!
 

[著者情報]
白井 聡(しらい さとし)
一九七七年、東京都生まれ。政治学者。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。博士(社会学)。専攻は政治学・社会思想。京都精華大学人文学部専任講師。『永続敗戦論?戦後日本の核心』(太田出版)で、石橋湛山賞、角川財団学芸賞、いける本大賞を受賞。
 
 
 
長い割には既知の内容が多く、天皇や国体まで持ち出して「牛刀をもって鶏を裂く」如きに大げさな書。これまで「誰も書かなかった」のではなく、「誰もが知っている」から書かなかったのであろう。

「誰もが知っている」基本的構造は以下である。
(1) 現在の日本国憲法はGHQの幹部が一週間程度で草案を書き、日本の事務方が何とか微調整をしながら訳した("象徴"の原語は<symbol>)。その中で、アメリカの都合の良い様に戦争放棄を謳った。
(2) その代りに、日本の安全保障はアメリカが守る(日米安保条約)。
(3) 今更、憲法九条に、日本は戦力保持出来る等とは書けないし、書いたら(書こうとした段階で)国内外からの苛烈な反発を招いてしまって実現不可能。

この意味において、本書中で著者が言う様に、日本は独立国ではないのである(国の根幹である安全保障を他国に委ねる独立国は存在しない。まさに属国である)。だから、沖縄の基地問題は何時まで経っても解決しないし、貿易摩擦など日米間の問題が発生すれば、必ず最後には日本が譲歩する)。そして、上記(3)の制約がある限り、このジレンマは解決不能である。これが著者が言う(現在の国体=アメリカとして)日本社会を覆う閉塞感、日本の今後の危機の正体である。これらの事柄は天皇や国体なしでも言える。結局、著者の結論は何なのであろう。上記(3)の制約を外す事なのだろうか ? 体裁も大げさなら、論旨も旗幟不鮮明な書だと思った。
 
 
 
アメリカに隷属する日本の現実に対し、自己の思考も批評精神も失った劣等民族たる日本人に絶望する。
絶望する意味もわからない、付和雷同の民、日本人の行く末に呆然とする他はない。大震災を忘れ、オリンピックに狂い
格差社会にも他人事のように無関心。誇りを失った民族に、明日の事など語りようもない。
56人のお客様がこれが役に立ったと考えています。
 
 
 
戦後の「国体」についての著者の記述が「天皇制に擬制した対米従属」なのか「対米従属に擬制した天皇制」なのか混乱している気もするが、これは「実状として両義あるから」なのだろう。その上で、この作品にいう「国体」とはやっぱり第一義的には、戦前戦後を通して天皇制のことなのだと理解するのが穏当である。
この作品が「国体」という観点から近代日本の政治と思想の流れをまるごと相対化するという野心的な試みの果てに目指しているのは、その「国体」を超克する「新たな集団的主体性」(p.254)の創出に他ならない。 私たちが主体的に乗り越えることを求められているのは、対米従属もそうかもしれないが、やはり天皇制なのだろう(「乗り越える」ということは一概に否定することを意味しないが)。
だが「天皇制を乗り越えることのできる新たな集団的主体性を日本の社会に築かねばならない」という呼びかけがあったとして、いまいったいどれだけの日本人がそれに応じるだろうか、あるいは応じる用意があるだろうか。歴史に対する反省を欠いた右翼と「敵対性」の本質を見誤った左翼 、そして対米従属にある程度の合理性を見出しながら自らを無反省な右翼と峻別する自覚を欠いた中道層、それらすべてを「国体」を通して相対化する本書は、残念ながら「左の人には右の本に見え、右の人には左の本に見え、真ん中の人には『面白いけどよくわからない本』に見える」だけかもしれない。
本質的には「 日本社会のすべてを敵に回す」可能性を秘めた、ものすごくラディカルな作品だと思うのだが、そのラディカルさを全面に出し過ぎるのは危険だという認識もあったのだろう。この作品は明仁天皇の「おことば」に始まって終わるが、 著者としてはできたはずの「明仁天皇の立ち位置を著者の提示する『国体の歴史』のパースペクティブの中にプロットする」という作業はさすがに見送られている。
 
 
 
文章が平易ではなく、回りくどい難解な単語を使用し、この論文?の格を上げようとしている。
もう少し司馬遼太郎のように分かりやすく文章が書けないのか・・・・疑問に思う。
レジ-ム、テクスト等の手垢にまみれた単語を使えば内容の格が上がると思っているのか?
書店で実際に手を取ってみた場合は、この著者の本は買わない‼
 
 
 
近現代の日本の歩みを斬新な「国体」というキーワードを用いて分析した本書は、崩壊期に入った対米従属体制以後の日本社会を構想する上で、不可欠な視角を提供しているように思う。「国体」の概念により見えてくるものの何と多いことか!
 
 
ポツダム宣言の受諾に際して最後の留保として試みたことが「国体の護持」であった。
今上天皇が「国民統合の象徴」という役目を責務として捉え、その義務を自己に課しておられた結果が強い「退位の意思」であった。
マッカーサーは征夷大将軍として日本の歴史の一齣を担った。
それほど日本の社会の根底にしっかり根付いている「国体」を戦後雲散霧消したかのごとくに忘れ去っていたことが、思い違いだったことを、しっかり喚起してくれた素晴らしい名著である。
 
 
 
よくわからなかった。日本の歴史の全てを理解できるはずがないのでそれが答えだと思いました。実際、現実ですら理解できないことが多いのですから。
 
 
 
 
全ての人の自分の観念の元が、親・祖父祖母・曽祖父曽祖母・地域の大人・受けた教育・友人・受けた全てで出来ている事、当たり前の事が、歴史的事実に由来している事に気づかされる!

永続敗戦論 戦後日本の核心

2020年08月30日 10時37分32秒 | 社会・文化・政治・経済

白井 聡 (著)

米国に対する敗戦を骨の髄まで内面化する対米無限従属と、一方でアジアに対する敗戦否認。
戦後から内在し、今日顕在化してきた現代日本のねじれた姿を「永続敗戦レジーム」と喝破し、各界に衝撃を与えた注目書、待望の文庫化。

解説・進藤榮一

 

内容(「BOOK」データベースより)

「永続敗戦」。それは敗戦後、「平和と繁栄」の物語のもとで連綿と続き、その物語が失われようとするいま、露になってきた戦後日本体制のグロテスクな姿。それは、米国に対する敗戦を骨の髄まで内面化する対米無限従属と、一方でアジアに対する敗戦否認として表れる。負けを正面から認めないがゆえに、さらなる敗戦を招く。現政権下でさらに進む「永続敗戦レジーム」を解く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

白井/聡
1977年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。博士(社会学)。専攻は政治学・社会思想。日本学術振興会特別研究員等を経て、京都精華大学人文学部専任講師。『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田出版)で第4回いける本大賞、第35回石橋湛山賞、第12回角川財団学芸賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 
敗戦の結果として、対米従属となる一方、東アジアの国々には敗戦と認めない。保守支配層はその姿勢を崩そうとはしないゆえに、敗戦としない終戦が永続する。キチンと反省、整理しない限り「戦後」は終わらないと結論付けされてます。言い回しが複雑で理解するのにちょっと苦労するかもしれません。
私としては著者の意見に納得できてません。本当の歴史の真実を基礎にされているのか疑問に思う部分が少々ありました。反省せよというなら、事実認識、歴史認識を明確にせねばなりませんが、占領軍が課した被虐史観をどこまで直せるのか。それを左派は「歴史修正主義」と非難する。進もうにも進めません。読むにあたって歴史は勝者が作るを念頭に置くべきではないでしょうか?
 
 
 
今までの固定された価値観にメスを入れられたような感じです。物事を客観的にまた、多角的に見ることができます。
 
 
 
「戦後レジーム」なるものの実態とは、敗戦という動かせない政治的事実を
ごまかすことを背骨にする対米無限従属(その裏側として東アジアで孤立する)
体制である。(本書より)

今の日本のあり方、安倍晋三のやりかたへの、批判の書でもある。

アメリカの核の傘の下で日本のナショナリズムを主張すること、
すなわち外国の庇護の下でナショナリズムの欲望を満たすという異様さ。

この一文は効いた。

対米従属は、オバマからトランプになって政策が180度変わったにもかかわらず、
オバマにもトランプにも「そうだ、そうだ」と言う状態を見ればわかる。
本来、日本がやるべき拉致問題までトランプにお願いしている。

賛否あるにせよ、トランプは北朝鮮と会談を持った。
安倍晋三はなぜ会おうとしないのか。口先ばかりでは、拉致問題は解決しない。

そんなことまで考えさせられる1冊である。
 
 
白井聡氏の日米の歴史研究には敬服しています。内容も大変にわかりやすく腑に落ちる著書です。
 
 
まだ読んでる途中ですが、知らない歴史的事実がいろいろあり正直目からうろこです。
 
 
 
白井さんは頭が良くて執念深いのです。
なので、「一度手にした使える表現」と「一度抱いた怨念」は手放さず、使いたがります。

その結果、文章は難解になり、伝えるべきことは比喩の煙幕に隠れ、読者の気力を奪います。

論理の是非は人それぞれです。
なので中身は批評しません。
でもこれだけは言いたい。

 
誰かが「右翼も左翼もない、日本人は仲良くだ」と言ってました。
怨念のカタルシスを望んで出刃包丁を振り回すより、「忿を絶ち、瞋を捨てて、人の違うことを怒らざれ」(17条憲法の第10条)の精神であるべきではないですかね、白井さん。
疲れるんですよ、貴方に付き合うの…。
 
 
 
沖縄 普天間基地 戦闘機離発着が2019年は前年比4.2倍増で騒音が激増
不公平な日米地位協定で激増した理由を米軍に訊くこともできない情けない日本の安倍政権。
自称愛国者の右翼共は中国や韓国に対しずいぶん威勢のいいこと言ってるが、
まず米国に毅然としろ!!
かつて愛国だの憂国だのと口にしてた右翼が日本を破滅させたことを忘れるな!!
雨傘運動・香港デモに際し日本の反中右翼は
中国政府敵視の延長で香港デモ参加者を応援したが
香港の立場は日本で言えば本土と沖縄のそれに近い
日本では基地問題で政府と対立してる
沖縄に対し、本土の右翼は「土人」だ「非国民」だと
誹謗中傷してる
そのおぞましい矛盾と欺瞞に右翼は無自覚である
 
 
 
国際法の事を言っているのだろうか。日独は不戦条約(1928年)を破ったのでその保護を受けられないというのが戦勝国の立場であったからだ。保障占領中のその扱いは「敵国条項」として国連憲章に残っている。しかしそれを「政治的な命題」などと大げさな、実用性もない言葉で強調しなければならないのだろうか。
ところで白井が望むような戦後日本を実現するシナリオが一つだけあった。それは国共内戦(1946-1950年)で国民党政府が勝利するケースである。
WWⅡ終結の段階でアメリカの防衛ラインの最前線は中国にあった。中華民国が日本に勝利(実際的にはともかく、政治的命題としては勝利)したからである。
中国がアジアの安全保障を担うはずで、日本の出番はない。日本は非武装のまま置き沖縄の米軍だけで守る。米ソで日本の中立保障をする案(ソ連も朝鮮半島から撤退するのが条件)まであった。まさに白井が納得できる戦後になりえた。
だがなぜこのシナリオは実現しなかったのだろう。一つはソ連の動向である。だがもう一つあり、それは日本が1944年に行った一号作戦(大陸打通作戦)である。
これが国府軍に残っていた最後の力を破壊してしまった。1944年の日本の作戦課が戦後の展開まで読んでいた訳ではない。一種のパラドキシカル・ロジックだが、日本が自力で自分の運命を回転させたのも事実なのである。共産中国が成立する事で逆コースが起こり、日本の必要性が高まり、本来「政治的にアジアに対して敗戦国」である日本がデカい顔をして戦後もG7に入る事になったのである。白井がそういう現実を間違っていると感じる事に一理もないとまでは言うまい。しかしそれでも彼のいう「永続敗戦」の論理は意味不明である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ソ連対日参戦

2020年08月30日 10時37分32秒 | 社会・文化・政治・経済

満州国において1945年(昭和20年)8月9日未明に開始された日本の関東軍と極東ソ連軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソ連軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘である。
この戦闘の勃発により、日本の降伏を決定づけることとなった。
日ソ中立条約を破棄したソ連軍による侵攻・領土奪取であるが、ソ連側はこれに先立つ関東軍特種演習の段階で、同条約が事実上破棄されたものとしている[要出典]。
日本の防衛省防衛研究所戦史部では、この一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ここでは日本の検定済歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。ソ連側の作戦名は8月の嵐作戦[要出典]

居留民への措置[編集]
関東軍と居留民には密接な関連があり、関東軍は居留民の措置について作戦立案上検討している。交通連絡線・生産・補給などに大きく関東軍に貢献していた開拓団は、およそ132万人と考えられていた。

開戦の危険性が高まり、関東軍では居留民を内地へ移動させることが検討されたが、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動させるとしても、いずれ米ソ両軍の上陸によって戦場となるであろう朝鮮半島に送っても仕方がないと考えられ、また輸送に必要な食料も目途が立たなかった。それでも、関東軍総司令部兵站班長・山口敏寿中佐は、老幼婦女や開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引き上げさせることを総司令部第一課(作戦)に提議したが、第一課は居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、ひいてはソ連進攻の誘い水になる恐れがあるとして、「対ソ静謐(せいひつ)保持」を理由に却下している。
状況悪化にともない、満州開拓総局は開拓団に対する非常措置を地方に連絡していたが、多くの居留民、開拓団は悪化していく状況を深刻にとらえていなかった[21]。 また満州開拓総局長斉藤中将は開拓団を後退させないと決めていた。加えて事態が深刻化してから東京の中央省庁から在満居留民に対して後退についての考えが示されることもなかった。関東軍の任務として在外邦人保護は重要な任務であったが、「対ソ静謐保持」を理由に国境付近の開拓団を避難させることもなかった。

ソ連侵攻時、引き揚げ命令が出ても、一部の開拓総局と開拓団が軍隊の後退守勢を理解せず、待避をよしとしなかった。この判断については、当時の多くの開拓団と開拓総局の人々の、無敵と謳われた関東軍に対する過度の信頼と情報の不足が大きな要因であると考えられる[22]。
8月9日ソ連軍との戦闘が始まると直ちに大本営に報告し、命令を待った。命令が下されたのは翌日10日で、10日9時40分に総参謀長統裁のもとに官民軍の関係者を集め、具体的な居留民待避の検討を開始した。同日18時に民・官・軍の順序で新京駅から列車を出すことを決定し、正午に官民の実行を要求した。しかし官民両方ともに14時になっても避難準備が行われることはなく、軍は1時間の無駄もできない状況を鑑みて、結局民・官・軍を順序とする避難の構想を破棄し、とにかく集まった順番で列車編成を組まざるを得なかった。

第1列車が新京を出発したのは予定より大きく遅れた11日1時40分であり、その後総司令部は2時間毎の運行を予定し、大陸鉄道司令部に対して食料補給などの避難措置に必要な対策を指示した。現場では混乱が続き、故障・渋滞・遅滞・事故が続発したために避難措置は非常に困難を極めた。結果として最初に避難したのは、軍家族、満鉄関係者などとなり、暗黙として国境付近の居留民は置き去りにされた。
これらに加えて辺境における居留民については、第一線の部隊が保護に努めていたが、ソ連軍との戦闘が激しかったために救出の余力がなく、ほとんどの辺境の居留民は後退できなかった。

特に国境付近の居留民の多くは、「根こそぎ動員」によって戦闘力を失っており、死に物狂いでの逃避行のなかで戦ったが、侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺(葛根廟事件など)が相次ぎ[23][24]、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例や(麻山事件・佐渡開拓団跡事件)、各地に僅かに生き残っていた国境警察隊員・鉄路警護隊員の玉砕が多く発生した。弾薬処分時の爆発に避難民が巻き込まれる東安駅爆破事件も起きた。また第一線から逃れることができた居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が途上で生き別れ・脱落することとなり、収容所に送られ、孤児や満州人の妻となる人々も出た。
当時満州国の首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していたが、8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし3万8000人が脱出した。3万8000人の内訳は
軍人関係家族 2万0310人
大使館関係家族 750人
満鉄関係家族 1万6700人
民間人家族 240人
この時、列車での軍人家族脱出組みの指揮を取ったのは関東軍総参謀長秦彦三郎夫人であり、またこの一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と供の者はさらに平壌からは飛行機を使い8月18日には無事日本に帰り着いている。
当時新京在住で夫が官僚だった藤原ていによる「流れる星は生きている」では、避難の連絡は軍人と官僚のみに出され、藤原てい自身も避難連絡を近所の民間人には告げず、自分達官僚家族の仲間だけで駅に集結し汽車で脱出したと記述している。

また、辺境に近い北部の牡丹江に居留していたなかにし礼は、避難しようとする民間人が牡丹江駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロはなれた地点から特別列車を編成し脱出したと証言している。

初動[編集]
宣戦布告は1945年8月8日(モスクワ時間午後5時、日本時間午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連特命全権大使に知らされた。事態を知った佐藤は、東京の政府へ連絡しようとした。ヴャチェスラフ・モロトフは暗号を使用して東京へ連絡する事を許可した。そして佐藤はモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。しかし、モスクワ中央電信局は受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかった[25]。
詳細は「ソ連対日宣戦布告」を参照
8月9日午前1時(ハバロフスク時間)に、ソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。

同じ頃、関東軍総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、敵が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街が敵の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。
総司令部は急遽対応に追われ、当時出張中であった総司令官山田乙三大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり。各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。さらに中央部の命令を待たず、午前6時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。
この攻撃は、関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなり、前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つこととなったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。総司令官は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後1時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。

さらに総司令官は、宮内府に赴いて溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都することを勧めた。皇帝溥儀は満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた[26]。
西正面の状況[編集]
ソ連軍ではザバイカル正面軍、関東軍では第3方面軍がこの地域を担当していた。日本軍の9個師団・3個独混旅団・2個独立戦車旅団基幹に対し、ソ連軍は狙撃28個・騎兵5個・戦車2個・自動車化2個の各師団、戦車・機械化旅団等18個という大兵力であった。

関東軍の要塞地帯と主力部隊及び国境守備隊は東部・北東正面に重点配置され、西部・北西正面の守りは手薄だった。方面軍主力は、最初から国境のはるか後方にあり、開戦後は新京-奉天地区に兵力を集中しこの方面でソ連軍を迎撃する準備をしていたため、西正面に機械化戦力を重点配置していたソ連軍の一方的な侵攻を許してしまった。逆にソ連軍から見ると日本軍の抵抗を受けることなく順調に進撃した。第6親衛戦車軍はわずか3日で450キロも進撃した。

同軍の先鋒はヴォルコフ中将の第9親衛機械化軍団が務めたが、アメリカ製のシャーマン戦車が湿地帯の峠道に足をとられ、第5親衛戦車軍団のT34部隊が代わりに先導役を務めた。第39軍の側面援護の下、第6親衛戦車軍は満州西部から迂回しつつ、鉄道沿線の日本軍を殲滅していった。8月15日までに第6親衛戦車軍は大興安嶺を突破し、第3方面軍の残存部隊を掃討しつつ満州の中央渓谷に突入した。 一方第3方面軍は既存の築城による抵抗を行い、ゲリラ戦を適時に行うことを作戦計画に加えたが、これを実現することは、訓練、遊撃拠点などの点で困難であり、また機甲部隊に抵抗するための火力が全く不十分であった。同方面軍は8月10日朝に方面軍の主力である第30軍を鉄道沿線に集結させて、担当地域に分割し、ゲリラ戦を実施しつつソ連軍を邀撃しつつも、第108師団は後退させることを考えた。このように方面軍総司令部が関東軍の意図に反して部隊を後退させなかったのは、居留民保護を重視することの姿勢であったと後に第3方面軍作戦参謀によって語られている。

関東軍総司令部はこの決戦方式で挑めば一度で戦闘力を消耗してしまうと危惧し、不同意であった。ソ連軍の進行が大規模であったため、総司令部は朝鮮半島の防衛を考慮に入れた段階的な後退を行わねばならないことになっていた。前線では苦戦を強いられており、第44軍では8月10日に新京に向かって後退するために8月12日に本格的に後退行動を開始し、西正面から進行したソ連の主力である第6親衛戦車軍は各所で日本軍と遭遇してこれを破砕、撃破していた。ソ連軍の機甲部隊に対して第2航空軍(原田宇一郎中将)がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃に向かった。

攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上った。ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは第107師団で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなった。

師団主力が迎撃態勢をとっていた最中、第44軍から、新京付近に後退せよとの命令を受け、12日から撤退を開始するも既に退路は遮断されていた。ソ連軍に包囲された第107師団は北部の山岳地帯で持久戦闘を展開、終戦を知ることもなく包囲下で健闘を続け、8月25日からは南下した第221狙撃師団と遭遇、このソ連軍を撃退した。

関東軍参謀2名の命令により停戦したのは29日のことであった。ソ連・モンゴル軍は外蒙古から内蒙古へと侵攻し、多倫・張家口へと進撃、関東軍と支那派遣軍の連絡線を遮断した。ザバイカル正面軍は西方から関東軍総司令部の置かれた新京へと猛進撃し、8月15日には間近にまで迫り北東部・東部で奮戦する関東軍の連絡線を断ちつつあった。
東正面の状況[編集]

旅順に進駐し、海軍旗を掲げる太平洋艦隊所属の海軍歩兵
東方面においては日本軍は第1方面軍が、ソ連軍は第1極東正面軍が担当していた。日本軍の10個師団と独立混成旅団・国境守備隊・機動旅団各1個に対し、ソ連軍は35個師団と17個戦車・機械化旅団基幹であった。日本の第1方面軍は、国境の既存防御陣地を保守し、ソ連軍の主力部隊が進行した後は後方からゲリラ戦を以って奇襲を加える防勢作戦を計画していた。

牡丹江以北約600キロに第5軍(清水規矩中将)、南部に第3軍(村上啓作中将)を配置、同方面軍の任務は、侵攻する敵の破砕であったが、二次的なものとして、満州国と朝鮮半島の交通路の防衛、方面軍左翼の後退行動の支援があった。
しかし、日本軍の各部隊の人員や装備には深刻な欠員と欠数があり、特に陣地防御に必要な定数を割り込んでいた。

同方面軍の主力部隊の一つであった第5軍を例に挙げれば、牡丹江沿岸、東京城から横道河子の線において敵を拒否する任務を担っていたが、銃剣・軍刀・弾薬・燃料だけでなく、火器・火砲にも欠数が多く、銃・軽機関銃、擲弾筒は定数の三分の一から三分の二程度しかなく、また火砲は第124師団、第135師団ともに定数の三分の二以下、第124師団は野砲の欠数を山砲を混ぜて配備し、第135師団は旧式騎砲、迫撃砲で野砲の欠数を補填しているほどであった。
一方メレツコフが指揮する第1極東正面軍は日本軍の強固な要塞地帯の攻略を担当し、最も困難な任務を抱えていた。メレツコフは奇襲を成功させるため、通常の準備砲撃を省略し、雷雨の中偵察大隊を越境させた。30分後には歩兵部隊が日本軍の陣地に浸透し、機械化兵力の前進路を切り開いた。各狙撃師団は傘下の戦車旅団を解き放ち、各戦車旅団は1日で満州領内22キロの地点に到達、日本軍の要塞は迂回し後続の部隊に排除を任せた。

実際の戦闘においては第二十五軍、第三十五軍団を主力部隊とする極東方面軍の激しい攻撃を受けることになった。天長山・観月臺の守備隊は敵に包囲され、天長山守備隊は15日に全滅、観月臺は10日に陥落した。また八面通正面では秋皮溝守備隊は9日に全滅、十文字峠・梨山・青狐嶺廟の守備隊も10日にソ連軍の圧倒的な攻撃を受けて陥落、残存した一部の部隊は後退した。平陽付近では、前方に展開していた警備隊がソ連軍の攻撃で全滅し、残りの守備隊は8月9日に夜半撤退したが、10日にソ連軍と遭遇戦が発生し、離脱したのは850人中200人であった。

このように各地で抵抗を試みるもその戦力差から悉くが撃破・殲滅されてしまい、ソ連軍の攻撃を遅滞させることはできても、阻止することはできなかった。
東部正面最大都市、牡丹江にソ連軍主力が向かうものと正しく判断した清水司令官は、第124師団、その後方に第126・第135師団を配置、全力を集中してソ連軍侵攻を阻止するよう処置した。

ソ連第5軍司令官クルイロフ大将は増強した戦車旅団を牡丹江に差し向け、さらに2個狙撃師団を出撃させた。 穆稜を守備する第124師団(椎名正健中将)の一部は12日に突破されたが、後続のソ連軍部隊と激戦を続け、肉薄攻撃などの必死の攻撃を展開、第126、第135師団主力とともに15日夕までソ連軍の侵攻を阻止し、この間に牡丹江在留邦人約6万人の後退を完了することができた。

牡丹江には戦車旅団に先導された4個狙撃師団が殺到し、2日に渡る壮絶な市街戦の末、日本軍5個歩兵連隊が全滅した。牡丹江東側陣地の防御が限界に達した第5軍は、17日までに60キロ西方に後退、そこで停戦命令を受けた。南部の第3軍は、一部の国境配置部隊のほか主力は後方配置していた。8月16日には牡丹江市が陥落した。

一方この正面に進攻したソ連軍第25軍は、北鮮の港湾と満州との連絡遮断を目的としていた。羅子溝の第128師団(水原義重中将)、琿春の第112師団(中村次喜蔵中将)は其々予定の陣地で激戦を展開、多数の死傷者を出しながら停戦までソ連軍大兵力を阻止した。広い地域に分散孤立した状態で攻撃を受けた第3軍は、よく善戦して各地で死闘を繰り広げたが停戦時の17日にはソ連軍が第2線陣地に迫っていた。
北正面の状況[編集]

1945年モンゴル人民軍が戦争に参加
満州国の北部国境地域、孫呉方面及びハイラル方面でも日本軍(第4軍)は抵抗を試みるもソ連軍の物量を背景にした攻撃で後退を余儀なくされていた。

孫呉正面においては、ソ連軍は36軍・39軍・53軍・17軍及びソ蒙連合機動軍を以って8月9日に機甲部隊を先遣隊として攻撃を行ったが、当時の天候が雨であったために沿岸地区の地形が泥濘となって機甲部隊の機動力を奪ったため、作戦は当初遅滞した。日本軍は第123師団と独立混成第135旅団で陣地防御を準備していたが、第2極東方面軍の第2赤衛軍が11日から攻撃を開始した。

ソ連軍の攻撃によって一部の陣地が占領されるも、残存した陣地を活用して反撃を行い、抵抗を試みていた。しかし兵力の差から後方に迂回されてしまい、防衛隊は離脱した。

またハイラル正面においては、ソ連軍はザバイカル方面軍の最左翼を担当する第36軍の部隊が進行し、日本軍は第119師団と独立混成第80旅団によって抵抗を試み、極力ハイラルの陣地で抵抗しながらも、戦況が悪化すれば後退することが指示されていた。第119師団は停戦するまでソ連軍の突破を阻止し、戦闘ではソ連軍の正面からの攻撃だけでなく、南北の近接地域から別働隊が侵攻してきたために後退行動を行った。
北朝鮮の状況[編集]
北朝鮮においては第34軍(主力部隊は第59師団、第137師団「根こそぎ動員」師団、独立混成第133旅団)が6月18日に関東軍の隷下に入り、7月に咸興に集結した。

戦力は第59師団以外は非常に低水準であり、兵站補給も滞っていた。開戦して第17方面軍は関東軍総司令官の指揮下に、第34軍は第17方面軍司令官の指揮下に入った。また羅南師管区部隊は本土決戦の一環として4月20日に編成された部隊であり、2個歩兵補充隊と、5個警備大隊、特設警備大隊8個、高射砲中隊3個、工兵隊3個などから構成されていた。
第一線の状況として、ソ連軍の侵攻は部分的なものであった。咸興方面では第34軍はソ連軍に対して平壌への侵攻を阻止し、朝鮮半島を防衛する目的で配備され、野戦築城を準備していた。しかし終戦までソ連軍との交戦はなかった。一方で羅南方面では、ソ連軍の太平洋艦隊北朝鮮作戦部隊・第一極東方面軍第25軍・第10機甲軍団の一部が来襲した。12日から13日にかけて、ソ連軍は海路から北朝鮮の雄基と羅南に上陸してきた。

8月13日にソ連軍の偵察隊が清津に上陸し、その日の正午に攻撃前進を開始した。羅南師管区部隊は上陸部隊の準備が整わないうちに撃滅する作戦を立案し、ソ連軍に対抗して出撃し、上陸したソ連軍を分断、ソ連軍の攻撃前進を阻止するだけの損害を与えることに成功し、水際まで追い詰めたが、14日払暁まで清津に圧迫し、ソ連軍の侵攻を阻止する中15日には新たにソ連第13海兵旅団が上陸、北方から狙撃師団が接近したので決戦を断念し、防御に転じた時に8月18日に停戦命令を受領した。
南樺太および千島の概況[編集]
当時日本が領有していた南樺太・千島列島は、アメリカ軍の西部アリューシャン列島への反攻激化ゆえ急速強化が進んだ。1940年12月以来同地区を含めた北部軍管区を管轄してきた北部軍を、1943年2月5日には北方軍として改編、翌年には第五方面軍を編成し、千島方面防衛にあたる第27軍を新設、第1飛行師団と共にその隷下においた。

結果、1944年秋には千島に5個師団、樺太に1個旅団を擁するに至る。
しかし、本土決戦に向けて戦力の抽出が始まると航空戦力を中心に兵力が転用され、1945年3月27日に編成を完了した第88師団(樺太)や第89師団(南千島)が加わったものの、航空兵力は貧弱なままで、北海道内とあわせ80機程度にとどまっていた。
他方、ソ連軍は同方面を支作戦と位置づけており、その行動は偵察行動にとどまっていた。1945年8月10日22時、第2極東戦線第16軍は「8月11日10:00を期して樺太国境を越境し、北太平洋艦隊と連携して8月25日までに南樺太を占領せよ」との命令を受領、ようやく戦端を開く。しかし、準備時間が限定されており、かつ日本軍の情報が不足していたこともあり、各兵科部隊には具体的な任務を示すには至らなかった。

情報不足は深刻で、例えば、樺太の日本軍は戦車を保有しなかったにもかかわらず、第79狙撃師団に対戦車予備が新設されたほどであった。北千島においてはさらに遅れ、8月15日にようやく作戦準備及び実施を内示、8月25日までに北千島の占守島、幌筵島、温禰古丹島を占領するように命じた。
南樺太の戦闘[編集]
詳細は「樺太の戦い (1945年)」を参照
樺太の日本軍は、1941年の関東軍特種演習から対ソ戦準備をしていたが、太平洋戦争中盤からは対米戦準備も進められて、中途半端な状態だった。第88師団が主戦力で、うち歩兵第125連隊が国境方面にあった。対ソ開戦後は、特設警備隊の防衛召集や国民義勇戦闘隊の義勇召集が実施され、陣地構築や避難誘導を中心に活動した。居留民については、1944年秋から第5方面軍の避難指示があったが、資材不足などで進んでいなかった。

ソ連軍侵攻後に第88師団と樺太庁長官、豊原海軍武官府の協力で、23日までに87670名が離島できた。その後の自力脱出者を合わせても、開戦時住民約41万人のうち約10万人が脱出できたにすぎない[27]。 なお、戦後の引揚者は軍人・軍属2万人、市民28万人の合計30万人で、残留した朝鮮系住民2万7千人を除くと陸上戦の民間人死者は約2,000人と推定されている。後述の引揚船での犠牲者を合わせると、約3,700人に達する[28]。
樺太におけるソ連軍最初の攻撃は、8月9日7時30分武意加の国境警察に加えられた砲撃である。11日5時頃から樺太方面における主力とされたソ連軍第56狙撃軍団は本格的に侵攻を開始した。樺太中央部を通る半田経由のものと、安別を通る西海岸ルートの2方向から侵入した。

他方、日本軍は9日に方面軍の出した「積極戦闘を禁ず」という命令のため、専守防御的なものとなった。後にこの命令は解除されたが前線には届かなかった。日本軍は、国境付近の半田10kmほど後方の八方山陣地において陣地防御を実施した。日本の第5方面軍は航空支援や増援作戦等を計画したが、8月15日に中止となった。
戦闘は8月15日以降も継続し、むしろ拡大していった。日本政府からの明確な指示が出ないまま、ソ連軍による無差別攻撃に対応し日本軍も自衛戦闘として応戦を続けた。16日には塔路・恵須取へソ連軍が上陸作戦を実施。

20日には真岡へも上陸し、この際に逃げ場を失った電話交換女子達が集団自決する真岡郵便電信局事件が発生した。真岡の歩兵第25連隊は、ソ連軍による軍使殺害事件が発生したため自衛戦闘に移った。熊笹峠へ後退しつつ抵抗を続け、23日2時ごろまでソ連軍を拘束していた。
8月22日に知取にて停戦協定が結ばれるが、赤十字のテントが張られ白旗が掲げられた豊原駅前にソ連軍航空機による空爆が加えられ多数の死傷者が出た。同日朝には樺太からの引揚船「小笠原丸」「第二号新興丸」「泰東丸」が留萌沖でソ連軍潜水艦に攻撃され、1708名の死者と行方不明者を出した(三船殉難事件)。
その後もソ連軍は南下を継続し24日早朝には豊原に到達、樺太庁の業務を停止させて日本軍の施設を接収した。25日には大泊に上陸、樺太全土を占領した。
千島列島の状況と戦闘[編集]
詳細は「占守島の戦い」を参照
アリューシャン列島からの撤退により、千島列島、中でも占守島をはじめとする北千島が脚光をあびる。当初はアッツ島からの空爆に対する防空戦が主であったが、米軍の反攻に伴い、兵力増強が図られる。本土決戦に備えて抽出がなされたのは樺太と同様であるが、北千島はその補給の困難から、ある程度の数が終戦まで確保(第91師団基幹の兵力約25000人、火砲約200門)された。

防衛計画は、対米戦における戦訓から、水際直接配備から持久抵抗を志向するようになったが、陣地構築の問題から砲兵は水際配備とする変則的な布陣となっていた。
8月9日からのソ連対日参戦後も特に動きはないまま、8月15日を迎えた。方面軍からの18日16時を期限とする戦闘停止命令を受け、兵器の逐次処分等が始まっていた。だが、ソ連軍は15日に千島列島北部の占守島への侵攻を決め、太平洋艦隊司令長官ユマシェフ海軍大将と第二極東方面軍司令官プルカエフ上級大将に作戦準備と実施を明示していた。
18日未明、ソ連軍は揚陸艇16隻、艦艇38隻、上陸部隊8363人、航空機78機による上陸作戦を開始した。投入されたのは第101狙撃師団(欠第302狙撃連隊)とペトロパヴロフスク海軍基地の全艦艇など、第128混成飛行師団などであった。日本軍第91師団は、このソ連軍に対して水際で火力防御を行い、少なくともソ連軍の艦艇13隻を沈没させる戦果を上げている。
上陸に成功したソ連軍部隊が、島北部の四嶺山付近で日本軍1個大隊と激戦となった。日本軍は戦車第11連隊などを出撃させて反撃を行い、戦車多数を失いながらもソ連軍を後退させた。しかし、ソ連軍も再攻撃を開始し激しい戦闘が続いた。

18日午後には、日本軍は歩兵73旅団隷下の各大隊などの配置を終え有利な態勢であったが、日本政府の意向を受け第5方面軍司令官 樋口季一郎中将の命令に従い、第91師団は16時に戦闘行動の停止命令を発した。停戦交渉の間も小競り合いが続いたが、21日に最終的な停戦が実現し、23・24日にわたり日本軍の武装解除がなされた。
それ以降、ソ連軍は25日に松輪島、31日に得撫島という順に、守備隊の降伏を受け入れながら各島を順次占領していった。南千島占領も別部隊により進められ、8月29日に択捉島、9月1日〜4日に国後島・色丹島の占領を完了した。歯舞群島の占領は、降伏文書調印後の、3日から5日のことである[1][2]。
ポツダム宣言受諾後のソ連の戦闘[編集]
外地での戦闘が完全に収束する前に、1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日、終戦詔書が発布された。
このことにより、攻勢作戦を実行中であった日本軍の全部隊は、その戦闘作戦を全て中止することになった。
しかしソ連最高統帥部は、「日本政府の宣言受諾は政治的な意向である。その証拠には軍事行動には何ら変化もなく、現に日本軍には停戦の兆候を認め得ない」との見解を表明し、攻勢作戦を続行した。この為、日本軍は戦闘行動にて防衛対応する他なかった。
連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は8月15日に日本の天皇・政府・大本営以下の日本軍全てに対する戦闘停止を命じた。この通達に基づき、8月16日、関東軍に対しても自衛以外の戦闘行動を停止するように命令が出された。しかし、当時の関東軍の指揮下にあった部隊のほぼすべてが、激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたため、全く状況は変わらなかった。すでに17の要塞地区のうち16が陥落し指揮系統は分断され関東軍は危機的状況にあった。
8月17日、関東軍総司令官山田乙三大将がソ連側と交渉に入ったものの、極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は、8月20日午前まで停戦しないと回答した。

関東軍とソ連軍の停戦が急務となったマッカーサーは8月18日に改めて、日本軍全部隊のあらゆる武力行動を停止する命令を出し、これを受けた日本軍は各地で戦闘を停止し、停戦が本格化することとなった。その同日、ヴァシレフスキーは、2個狙撃師団に北海道上陸命令を下達していたが、樺太方面の進撃の停滞とスタフカからの命令により実行されることはなかった。
8月19日の15:30(極東時間)、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、ソ連側の要求を全て受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。

これを受け、8月24日にはスタフカから正式な停戦命令がソ連軍に届いたが、ソ連軍による作戦は1945年9月2日の日本との降伏文書調印をも無視して継続された。結局ソ連軍は、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく、一方的な戦闘攻撃を終了した[1][2]。


日ソ戦争 1945年8月 棄てられた兵士と居留民

2020年08月30日 10時22分04秒 | 社会・文化・政治・経済
「日ソ戦争」はソ連軍170万、日本軍100万が短期間であれ戦い、日本側の死者は将兵約8万、民間人約25万、捕虜約60万を数えた、明らかな戦争であった。

本書は、現在まで「触れたくない敗戦史」ゆえに放置されてきた日ソ戦争(1945. 8. 9-9. 2)の全体像を初めて描くものである。旧ソ連の公文書と日本側資料、日本人兵士の回想の三つの視点から戦闘現場の詳細を追った「第二部 日ソ八月戦争」を軸に、軍事的側面を中心に、これまで断片的にしかわかっていなかった戦争の真実を著者は明らかにしていく。
ソ連側の戦略はいかなるものであったか。それに対する日本と関東軍の実態は? 日本軍とソ連軍の兵士はどのような思いで戦闘にあたっていたのか。

満蒙開拓団はじめ居留民がこの戦争に巻き込まれていった実態は? さらに、ヤルタ会談前後から広島・長崎への原爆投下、ソ連参戦まで、また日本敗戦後の日本軍捕虜などの取り扱いやシベリア抑留、東京裁判、731部隊の処置に至るまで、米ソの動向と思惑も併せて、現在に連なる諸相を、本書は考察していく。
参謀の戦史に代わって兵士の戦史にアクセントを置き、日本敗戦後75年目にはじめて明らかになる真実を、ここに記す。

目次


日ソ戦争の経過 年表
満洲全図とソ連軍の作戦構想
用語解説
兵器の図解
凡例

序論 本書の狙いと意義
  これまでの研究を振り返る  戦力の認識と戦略の是非  本書がめざすものは何か

第一章 戦争前史――ヤルタからポツダムまで
第一節 ソ連の外交と対日戦準備
一 対米 協調と対日欺瞞
二 「戦略的攻勢作戦」の立案
  1 作戦計画策定と在欧兵力東送  2 主攻は大興安嶺突破に  3 モンゴルの対日戦基地  4 将兵の不安とプロパガンダ
第二節 日本の外交と対ソ戦準備
一 「対ソ静謐」と仲介幻想
  1 早期和平派の登場と重光の対ソ仲介依頼案  2 東郷の対ソ仲介依頼とポツダム宣言
二 対ソ作戦計画と戦略なき変更
  1 ノモンハン戦の教訓は生かされたか  2 対ソ作戦計画の漸次後退  3 ソ連参戦予想下の作戦変更
第三節 日ソ戦争における米国要因
一 米国の対ソ援助と軍事協力
二 ポツダム会談とその後の米ソ関係
  1 宣言と原爆投下決定、ソ連案  2 日ソ開戦および日本敗北後の米国  3 ソ連対日参戦前後の中ソ交渉

第二章 日ソ八月戦争
第一節 ソ連軍の満洲侵攻と関東軍
一 国境付近の要塞地帯戦
  1 ムーリン攻防戦  2 虎頭要塞攻防戦  3 孫呉・璦琿要塞戦  4 ハイラル要塞戦
二 満洲平原進出と占領
  1 アルシャンから中央平原進出へ  2 機甲軍集団の中央平原、遼東占領
三 北朝鮮侵攻と占領
  1 朝鮮の戦略的位置  2 北朝鮮侵攻と占領
四 関東軍降伏をめぐる動向
  1 通化移転と「新京死守」論  2 ソ連軍による「だめ押し」  3 無条件降伏と「捕虜」観  4 ソ連政府による過去の条約破棄
第二節 ソ連軍による満洲での蛮行
一 開拓団員・難民の悲劇
  1 鉄道・船舶での避難とソ連軍の攻撃  2 日本軍部隊とともに自決  3 ソ連軍部隊による大量殺戮  4 地元民、反乱満洲国軍による襲撃
二 都市住民への暴行・略奪
  1 主要都市の様子と占領軍  2 「戦利品」搬出と労働使役
第三節 捕虜の留置から移送へ
一 野戦収容所の実態
  1 収容所の配置  2 各地の野戦収容所
二 ソ連移送命令と移送経路
  1 移送命令と実態  2 移送ルートの概略

第三章 戦後への重い遺産
第一節 満洲「残留」と「留用」
一 「留用」の起源と実態
二 北朝鮮その他の場合
第二節 捕虜と賠償をめぐる米ソ論争
一 ソ連の捕虜および「戦利品」移送
二 アメリカ賠償調査団の報告
第三節 ソ連の「戦犯」裁判
一 東京裁判前後の「戦犯」裁判
  1 「戦犯」裁判の実態  2 東京裁判と関東軍関係者――証人  3 東京裁判と関東軍関係者――証言
二 1949年末のハバロフスク裁判
  1 731部隊関係者の東京裁判喚問ならず  2 ハバロフスク裁判の準備と問題

結語

資料
1 ソ米英ヤルタ秘密協定(1945年2月11日)/2 ソ連の中立条約不延長通告(1945年4月5日)/3 連合国ポツダム宣言(1945年7月26日)/4 ソ連の対日参戦通告(1945年8月8日)/5 スターリンの「ソ連国民に対する呼びかけ」(1945年9月2日)
文献一覧と一部解題
あとがき

著訳者略歴

富田武
とみた・たけし
1945年福島県生まれ。東京大学法学部卒業。成蹊大学名誉教授。
ロシア・ソ連政治史、日ソ関係史、シベリア抑留。
日ソ戦争 1945年8月
 
 

秘密情報部M16とは? 元MI6情報部員の告白

2020年08月30日 10時11分54秒 | 事件・事故

「公安調査庁」から目を離すな

8min2019.1.31

デイリー・テレグラフ(英国)デイリー・テレグラフ(英国)
Text by Neil Tweedie and Thomas Harding

西側最高峰の諜報組織のひとつイギリス「MI6」は、どのようにスパイを“採用・育成”し、諜報活動を展開しているのか。
同組織の元情報部員で引退後にスパイ小説家に転身したマシュー・ダン氏が、謎に包まれた実状を赤裸々に語った。

元MI6情報部員の告白

マシュー・ダンの右手には傷跡がある。

小指から腕にそって走るその深い切り傷は、刃物の一撃から身を守るために負ったもののように見える。もしかするとそれは、「イギリス情報局秘密情報部(SIS)」、通称「MI6」の情報部員として活躍していた時代の名残なのかもしれない。

女王と母国に仕えていた頃、命の危機に瀕するような事態を経験したのだろうか? 

 

私がそう質問すると、彼の指がドラマーのようにテーブルを叩いた。トン、トン、トン。

ロンドンにあるMI6本部
Photo: Tolga Akmen / Anadolu Agency / Getty Images

「どのように答えたらよいか、少し考えさせてください」

トン、トン、トン。彼の手が止まる。

「答えはとりあえず『イエス』ということにしておきましょう」

私たちはイギリス南部にあるダンの新居にいた。長く曲がりくねった私有車道の先に秋の気配をたたえた森林地帯があり、彼の住居はそこにひっそりと佇んでいた。


家には家具がほとんどなく、イギリスの推理作家ジョン・ル・カレの作品に登場する情報部員ジョージ・スマイリーが穏やかにかつ強迫的に尋問をした場所を思わせる。

私は同じ質問を繰り返す。ところで、その傷について話してもらえますか?

「任務の最中に負った傷です。もう少しで失敗に終わるところでしたが、結果的にはうまくいきました」

ナイフによるものですか?

「銃よりは鋭かったとだけ言っておきましょう」

日曜大工で負うケガとは次元が違うものですよね?

「もしその程度のものだったら、私はもっと上手に傷口を縫うことができたでしょうね」

実体験を小説に反映

現在のダン(50)はスパイ小説家だ。ル・カレや「007」の生みの親イアン・フレミングと同様に、彼もMI6の情報部員から謎めいた世界を描く作家に転身した。

あわせて読みたい: アラン・チューリングの伝統は生きている! 英国政府通信本部(GCHQ)で働く暗号解読者たちは、「一般人とは異なる脳」を持つ

だが、彼の作品の登場人物はル・カレ作品に出てくるジョージ・スマイリーやジェームズ・ボンドよりもマッチョだ。

『スパイキャッチャー』(未邦訳)シリーズの主人公ウィル・コクランは大量破壊兵器のようにたったひとりで敵を駆逐する。それに対してボンドといえば、カクテルを格好良く飲んだり、腹部に撃たれた銃弾をホコリのようにを払い落とすシーンが思い浮かぶ。


ダンは作家という自身の第二のキャリアについて、「これまでの自分の経験が生きている」と話す。

「諜報活動に関するあらゆる専門的な知識がスパイ小説を書くのにおおいに役立っています。情報部員は通常、単独で行動するので自分自身ですべての決定を下さねばなりません」

では、彼の作品のなかで事実に基づいて描かれているのはどの部分なのだろう?

「スパイの使う特殊な技術や彼らの孤独、決断や状況判断の方法などはそうです。もちろん、実際よりも強調した描き方をしていますが」

ダンの処女作『スパルタン』(未邦訳)のタイトルは、主人公コクランのコードネームにちなんでつけられた。物語はニューヨークのセントラルパークでイラン人と英国要人の死体が見つかる場面から始まり、コクランは世界を破滅に追いやろうと目論むイラン人スパイに立ち向かう。


身長193cmのダンは、これまで約70の諜報活動に関わってきた。その功績を評価され、ロビン・クック元外務大臣から個人的に表彰されたこともある。

「2階にそのときの表彰状がありますが、残念ながらお見せすることはできません。『極秘』と書かれているのでね」

せめて、どんな事件を追いかけていたのか教えてもらえないだろうか?

「大事件だったということ以外は何も言えません。イギリス国外で起こったことでしたが、政府にとって満足のいく形で解決しました」

MI6の採用の決め手は?

ロンドン出身のダンは、船員からカメラマンに転身した父のもとで育った。
イースト・アングリア大学で政治学や経済学を学んだ後、ケンブリッジ大学で国際関係学の博士号を取得。
就職について考えていたときに、指導教員からアドバイスを受けた。


「学術的な仕事に関心がないわけではなかったのですが、心の奥底では別の野望も抱いていました。外交官を考えている話すと、先生は私が興味を持ちそうな仕事があると言いました。出張が多くて、臨機応変に対応することが求められると聞いて、何の仕事か察しました」

情報部員になるための選考は6ヵ月間にわたり、IQテストやロールプレイ、数回に及ぶ面接、身元調査などがおこなわれた。十数名の志願者のうち、5人が社会的に成功している女性だったという。

「MI6はエリート主義者のクラブではありません。情報部員には誰とでもコミュニケーションがとれる能力が求められます。紳士クラブのような環境で育ってきた人にはこの仕事は務まらないでしょう。近衛騎兵隊に参加するのとはわけが違います」

 


公安調査庁 情報コミュニティーの新たな地殻変動

2020年08月30日 10時02分24秒 | 社会・文化・政治・経済

公安調査庁 情報コミュニティーの新たな地殻変動

手嶋龍一(著), 佐藤優(著) /

「あの時、MI6は、公安調査庁に
極秘情報を渡していた――」

深い霧に覆われた情報組織、これが公安調査庁だ。一般の目が届かない深層で情報活動を繰り広げ、決して表舞台に出ようとしない組織。

逮捕権を持たないため、人の心の襞に分け入るヒューミント(対人諜報)に存在意義を見出している。公安警察や外務省と情報コミュニティーの主導権を競う公安調査庁。インテリジェンスの巨匠ふたりは、その素顔に切り込み、過去の重大事件の裏側を初めて論じてみせた。いま公安調査庁から目が離せない!

著者について

手嶋龍一 Teshima Ryuichi
外交ジャーナリスト・作家。9・11テロにNHKワシントン支局長として遭遇。ハーバード大学国際問題研究所フェローを経て2005年にNHKより独立し、インテリジェンス小説『ウルトラ・ダラー』を発表しベストセラーに。『汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師』のほか、佐藤優氏との共著『インテリジェンスの最強テキスト』など著書多数。

佐藤優 Sato Masaru
1960年東京都生まれ。作家・元外務省主任分析官。英国の陸軍語学学校でロシア語を学び、在ロシア日本大使館に勤務。2005年から作家に。05年発表の『国家の罠』で毎日出版文化賞特別賞、翌06年には『自壊する帝国』で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『修羅場の極意』『ケンカの流儀』『嫉妬と自己愛』など著書多数。池上彰氏との共著に『教育激変』などがある。
 
 
 
公安調査庁をテーマとする対談本。
本書は244ページ。まえがき、第1章~第6章、あとがきからなる。
まえがきは手嶋龍一が執筆している。
第1章~第6章は手嶋と佐藤優の対談だ。
第1章では、2001年5月1日の金正男の密入国未遂事件は、英国秘密情報機関(SIS)から公安調査庁にもたらされた情報が端緒になったと紹介されている。金正男の密入国の目的はおそらく米国中央情報局(CIA)との接触であり、SISは何らかの理由でその接触を妨害しようとしたのではないかという。
第2章では、新型コロナ・ウィルスが武漢病毒研究所から漏れ出たという情報の真偽を日本で検証できるのは、オウム真理教事件で生物・化学戦情報の蓄積がある公安調査庁だけだとして、「この情報の結節点になるべき」と主張している(「結節点になっている」ではない)。
第3章はインテリジェンスの総論だ。
第4章では、2014年10月に北海道大学理学部数学科の男子学生N(26歳)がイスラム国の義勇兵になるのを未然に防いだのは、公安調査庁と警視庁公安部外事三課の連係プレーだったと紹介されている。シリアへの渡航歴がある中田考・同志社大学神学部元教授(54歳)を監視していた公安調査庁が、千代田区外神田1-16-10の雑居ビル「ニュー秋葉原センター」1階でSF小説を扱う古書店「星雲堂」に中田が頻繁に出入りするのをチェック。開成高校から東京大学理学部数学科に進学したものの中退した「星雲堂」店主・緒方(31歳)は、高機能発達障害者の自助グループ「悪質クラスタ」では「大司教」と呼ばれていた。杉並区阿佐ヶ谷2-15-12の「アジト」と呼ぶ木造平屋の管理人をして、高機能発達障害者たちと生活を共にしていた。4月1日に「星雲堂」を開店して、4月半ばには「求人 勤務地:シリア」という広告を貼りだした。
「悪質クラスタ」の仲間であったN(ツイッターのハンドルネームは「ほわせぷ」、9月以後は「障害者」)は4月に北大を休学して、全国を放浪。7月に上京して「星雲堂」を訪れ、貼り紙を見て義勇兵に応募。イスラム教徒でもなんでもなかったが、就職活動がうまくいかず、自暴自棄になっての行動だった。Nとやはり貼り紙を見て応募してきた千葉県在住の軍事オタクのフリーター(23歳)を「アジト」に住まわせた緒方は、彼らを中田に紹介。Nとフリーターをイスラム教に入信させた中田は、ヴィザなしでシリア入りする方法を教え、イスラム国のウマル・グラバー司令官と連絡を取り、フリー・ジャーナリストの常岡浩介(45歳)を紹介した。7月31日に池袋のマレーシア料理店で常岡は彼らと会った。軍事ジャーナリストの神浦元彰によると、彼らに密着取材してテレヴィ局に売り込めば30分番組で400万~800万円にはなるという。彼らは8月11日の出発を希望しており、常岡は一時旅費を立て替えてトルコまでの航空券を買い、8月5日に中田の自宅近くのファミリー・レストランで彼らに渡した。ここに至って、公安調査庁が外事三課に通報するか、彼らの親に知らせるかしたらしい。10日の送別会で知人女性が旅券を持ち出して北大の学生課に預け、学生課がNの母親に渡した。フリーターも母親に押しとどめられて断念した。
上京した母親から旅券を返却されて激高したNは、なんと警察に女性を告発。おかげで外事三課は堂々と一件に介入することができた。外事三課の刑事がNを説得しようと試みたが、翻意させるには至らなかった。Nはどうしてもシリアに入りたいと中田に相談。常岡から10月7日に出国してシリアに行くと聞いていた中田は、それをNに教えた。今度は自腹で航空券を買ったNは、4日に常岡に同行を志願。6日に外事三課は刑法第93条「私戦予備及び陰謀罪」容疑でNや常岡を強制捜査して、旅券を押収した。
2017年10月3日に常岡は東京都と国に620万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に提訴した。幕末に徳川幕府に無断で長州藩や薩摩藩が英国に戦争を仕掛けたようなことを繰り返さないために明治13年(1880年)に制定された「私戦予備及び陰謀罪」は、今まで適用されたことが一度もない。外国で傭兵として戦闘に参加したと公言する者や、傭兵体験を本にして出版する者がいるなかで、Nや常岡にだけこの法律を適用するのはいささか公平性を欠く。2014年8月15日に国連安全保障理事会がすべての加盟国に外国人戦闘員の参加を阻止する措置を講じることを求めるという決議2170号を採択しており、日本政府もこんなに努力していますよと国際社会にアピールしたかったのかもしれない。
時効成立前の2019年7月3日に外事三課はN、フリーター、緒方、中田、常岡を書類送検したが、22日に東京地方検察庁は5人を不起訴処分とした。
2016年1月4日に中田は豊島区南長崎5丁目29-13に「リサイクルショップ落穂拾(らくすいしゅう)2号店」を開店したが、10月31日に警視庁は古物営業法違反容疑で同店や中田の自宅など4か所を家宅捜索。盗品売買を防ぐために、古物営業法は古物商に中古品や売り主の身元を台帳に記録することを義務付けているが、「リサイクルショップ落穂拾2号店」はそれを怠っていた疑いだった。だが今日、リサイクルショップに並ぶ商品のほとんどは元の持ち主がリサイクル料を惜しんでただ同然で払い下げた不用品で、古物営業法でも1万円未満の中古品の取引は台帳への記録義務がない。微罪だから強制捜査が行われることも異例だ。明らかにこの家宅捜索は情報収集または嫌がらせを目的とした別件捜査だった。表向き目白警察署生活安全部が捜索するように見せかけながら、実際には外事三課の捜査員が生活安全部に机を置いて押収したスマホの解析などに当たった。
11月5日に警視庁は「リサイクルショップ落穂拾」を経営する株式会社「東講」で台帳を管理していた矢内東紀(25歳)を書類送検。都立新宿高等学校から1浪して慶應義塾大学経済学部に進学した矢内は、在学中の2011年12月に「宮内春樹」と名乗って企業の新人採用のあり方に抗議する「就活生組合」を組織した。2012年1月22日にアラーの啓示を受けたと主張して「預言者」を自称し、25日にイスラム系新興宗教団体「聖久律法会」を開いた。「聖久律法会」は「神はすべての人民に即刻自殺せよとおっしゃいました」などと説く危険なカルト宗教だった(2015年4月に「 ダールルハック〔真理の家〕」と改称したが、2016年ごろに休眠状態になった)。西新宿のカレー屋で中田と会ったのをきっかけに親しくなり、2013年5月22日に東京に中田と共同で「カリフメディアミクス」という会社を設立した(2015年10月5日に「東講」と商号変更)。2014年にNの件で中田に取材が殺到したときには、矢内が窓口になってメディア各社に100万円払えなどと要求した。2015年に「カリフメディアミクス」は「リサイクルショップ落穂拾」を開店。1年間で5店舗にまで拡大した。ここからは矢内が敏腕経営者であるかのようにみえるが、実際には店員に共同体への奉仕を要求し、衣食住を保証するかわりにただ働きさせるというからくりがあったからこそ実現した事業拡大だった。2018年には矢内はアラーの啓示は幻聴だったとして「預言者」の自称をやめた。こちらも相当胡散臭い人物だ。
第5章では、公安調査庁の歴史が解説されている。
第6章では、今後の公安調査庁に必要なこととして、国会による監視、調査官に身分偽変を認めること、広報、オープン・ソース・インテリジェンス(OSINT)活動が挙げられている。
あとがきは佐藤が執筆している。
手嶋も佐藤もインテリジェンスの大家ではあるが、公安調査庁の職員だったことはない。厳しい言い方をすれば、インテリジェンス・コミュニティの周辺にいて、公安調査庁については一般人よりいくらか詳しいという程度だ。
公安調査庁のキャリア職員だった野田敬生は、一連の告発本で公安調査庁の予算や人員や能力や士気の貧弱さを暴露している。野田が公安調査庁を退職してから20年以上が経って、公安調査庁も生まれ変わったのかもしれないが、手嶋や佐藤のいうようにインテリジェンス・コミュニティの中核を担う情報機関になったとは信じられない。
レヴューの評価は高いが、評者には「手嶋と佐藤のネーム・ヴァリューに乗っかってお手軽にまとめた代物」という印象がぬぐえない。
 
 
 
単独執筆の佐藤氏より対談形式の方が分かり易くなるのは、出版社と佐藤氏自身がよくお分かりのようです。

相手が平易な池上氏に比べて、同じインテリジェンスを見せる手嶋氏との対談は更に深い内容となったようです。

これを読むと、大メディアの甘さやネットにしたり顔で書き込まれる甘い投稿がいかに恥ずかしいことか。

インテリジェンスの世界、恐るべし、学ぶべし。
恐らく、3~4回読んで思いを深めます。
 
 
 
映画のような活動報告を知りたかったがそこは秘密のようだ。差しさわりない範囲のプロ組織の宣伝でわかりにくさもある。国家の危機の前にこの組織の役割が一層重要という点では納得できる。ただし兵器と同様使い方次第で国家を危機に陥れることもできるという行を忘れてはいけない。最後にこの組織の情報収集活動は一般のビジネスと同じだという点は何もここでいう話ではない。そこまでビジネスマンを甘く見てはいけない。そもそも情報に垣根はないし補完しあうものだ。
 
 
 
知は自らを救う術となることを学びました。
 
 
 
公安調査庁とは、法務省の外局で、主に共産党やオウム真理教などの破壊活動防止法に抵触するおそれのある組織を監視し、情報を収集する機関であるが、この官庁の存在を知る国民は少ないと思う。何せ予算も人員も少なく、「最小にして最弱の機関」と呼ばれている程だからだ。
 しかし、公安調査庁のインテリジェンス活動は、国家の安寧にとって必要不可欠なもので、だからこそ、一般の目が届かない所で密かに活動を繰り広げているのである。
 本書では、作家の手嶋龍一氏と佐藤優氏による対談形式で、公安調査庁の知られざる実像と実力と実績を紹介しており、誠に興味深い。
 公安調査庁では、近年海外についての諜報活動についても積極的に携わっており、警察庁や外務省などの他官庁の隙間を埋める貴重な諜報機関として存在度を高めている。
 本書を読めば、公安調査庁の存在意義とその重要性が理解でき、国家のインテリジェンスの重要性がいかに大切な事であるかを知ることができる。
 
 
 
①インテリジェンス(機密情報分析)の専門家二人の対談は当然ながら、今だから明かせる国家機密情報の暴露となる。色々な情報が公開されているが、何と言っても重要なのは、2001年の金正男夫妻等4人の成田空港偽造パスポート入国事件である。
②金正男氏は金正日委員長の長男であり、彼の後継者は当時はまだ決まっていなかった。この長男の身柄を人質として拘束し、日本人拉致被害者返還交渉の切り札(カード)として使うべきことを当時の佐藤優氏は外務省で提言していたという。
今から思うと、この時こそ拉致問題を一気に解決する唯一のチャンスであった。かえすがえすも残念である。
③当時は小泉内閣が誕生したばかりで、外務大臣として田中眞紀子氏が実権を握り、直ぐに解放して出国させろとの指示があったと言う。事実、3日後に金正男夫妻は出国した。
④彼は2017年にマレーシア国際空港で殺されるが、日本への不法入国をアメリカ・ロシアからいち早く入手したのは、〈公安調査庁〉であった。この組織が本書では極めて重要な役割を果たすが、国民の知らないこの組織について本書で読者は知ることになる。
⑤本書から得られる知見は大変貴重である。当事者しか知らない情報を知ることが出来るからだ。
お勧めの一冊だ。
 
 
 
一般にはほとんど知られていない公安調査庁。その歴史的経緯や、近年の有名な事件での動きなどを二人のインテリジェンス大家が解説している。官僚組織に対して辛口な二人が口を揃えて特定の組織の仕事ぶりを称賛することは極めて珍しいが、今回本書のテーマとして取り上げたのは、「内外に情報のアンテナを張り巡らしたインテリジェンス機関なくして、国家は生き残れない」という認識の下、日本におけるインテリジェンス機関の必要性を国民がもっと認識すべきである、という危機感に鑑みたものと理解する。

2001年5月に金正男が日本に違法入国しようとして拘束された事件で、公安調査庁がシンガポールから情報を得ていたことで、成田の入管で止めることが出来たこと、金正男を拉致問題解決の切り札として生かす選択肢があったことなど、歴史の「if」を考えない訳にはいかない。
また、イスラム国に参加しようとした北大生を未遂に止まらせた裏にも公安調査庁の働きがあったということも一般には知られていないが、日頃の地道な調査・働きが国益を守っていることを認識しておく必要がある。

1660人の知られざる第一級のインテリジェンス機関の実態に光を当てる優れた一冊。
 
 
 
一般の方に、公安調査庁が知られるようになったのは、やはりオウム関連からだったと思う。しかし、事件も収束後、果たしてこの官庁の存続する意味について疑問に思うこともあった。マトリのように、ますます巧妙、複雑化する麻薬取引の撲滅といった、非常な分かりやすい目的などのようなアピールポイントが不足していたからだ。しかし、昨今、公安調査庁も国際情勢に非常に適合しながら、そのプレゼンスを高めていることを伺い知った。このようなインテリジェンス機関は、むしろ、あまり周知されない方がかえって良いのかもしれない。いろいろ学ぶところがあった。

 


阪神・藤浪 連勝あと1死も無念の降板 矢野監督「いろいろ課題はまだある」

2020年08月30日 09時59分55秒 | 野球

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<広・神>5回2死、会沢に死球を与えたところで降板となり、肩を落とす藤浪(右から2人目)(撮影・坂田 高浩)

 ◇セ・リーグ 阪神6―5広島(2020年8月29日 マツダ)

 阪神の藤浪は3回までに5点の援護をもらいながら、白星を挙げられなかった。

藤浪が4回2/3を6安打4失点、5四死球で降板。勝利投手の権利目前だった4点リードの5回に3点を失い、なお2死一、三塁で会沢に死球を与え、無念の降板となった。  

中継ぎ陣の奮闘でチームは勝利も「本来はもっと長いイニングを投げなければいけない展開だった」と反省。

前回21日のヤクルト戦で692日ぶりの勝利を挙げたが連勝ならず、勝率5割に復帰した矢野監督も「いろいろ課題はまだある」と奮起を促した。

 

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少年、更生保護施設から失踪後に殺害か 福岡の女性刺殺

2020年08月30日 09時53分44秒 | 事件・事故

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事件から一夜明け、臨時休館となった商業施設「MARK IS(マークイズ) 福岡ももち」=2020年8月29日午前9時38分、福岡市中央区、吉本美奈子撮影

 福岡市中央区の商業施設で28日夜、女性が殺害された事件をめぐり、包丁を持っていたとして銃刀法違反容疑で現行犯逮捕された自称15歳の少年が、事件の前日、少年院から移ってきた更生保護施設から無断でいなくなっていたことが、捜査関係者への取材でわかった。

福岡県警は29日、中央署に捜査本部を設置。女性が殺害された経緯と少年の関与について詳しく調べる方針だ。

【写真】事件から一夜明けた大型商業施設「MARK IS(マークイズ) 福岡ももち」=2020年8月29日午前8時34分、福岡市中央区、横山翼撮影  県警は29日、殺害されたのは福岡市南区若久3丁目、事務アルバイト吉松弥里(みさと)さん(21)で、司法解剖の結果、死因は出血性ショックだったと発表した。  

県警によると、28日午後7時半ごろ、「MARK(マーク) IS(イズ) 福岡ももち」1階の女子トイレで、吉松さんが血を流して倒れているのを警備員が見つけた。

首など上半身を中心に複数の刺し傷や切り傷があり、搬送先の病院で死亡が確認された。署は、客として来店していた吉松さんが何者かに襲撃されたとみている。

朝日新聞社

 

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5福岡市中央区の大型商業施設「MARK IS(マークイズ) 福岡ももち」で、同市南区若久3、アルバイト吉松弥里(みさと)さん(21)が殺害された事件で、福岡県警は29日、死因は出血性ショックで、複数の刺し傷があったと発表した。県警は施設内で包丁を所持したとして、住所不詳、無職の少年(15)(いずれも自称)を銃刀法違反容疑で現行犯逮捕しており、吉松さんが殺害された経緯も調べる。

 捜査関係者によると、逮捕されたのは、行方不明届が出されていた少年とみられ、吉松さんと面識はなかったという。「(包丁を)所持したのは間違いない」と容疑を認めている。県警は29日、捜査本部を設置し、少年が包丁で殺害した疑いがあるとみて調べる。  

発表などによると、吉松さんは首や肩などに、刃物で刺されたり、切りつけられたりした複数の傷があった。

 事件は28日午後7時半頃発生。「刃物を持った男がいる」など複数の110番が寄せられ、警備員が近くにいた少年を取り押さえ、警察官に引き渡した。

 

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