満州国において1945年(昭和20年)8月9日未明に開始された日本の関東軍と極東ソ連軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソ連軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘である。
この戦闘の勃発により、日本の降伏を決定づけることとなった。
日ソ中立条約を破棄したソ連軍による侵攻・領土奪取であるが、ソ連側はこれに先立つ関東軍特種演習の段階で、同条約が事実上破棄されたものとしている[要出典]。
日本の防衛省防衛研究所戦史部では、この一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ここでは日本の検定済歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。ソ連側の作戦名は8月の嵐作戦[要出典]
居留民への措置[編集]
関東軍と居留民には密接な関連があり、関東軍は居留民の措置について作戦立案上検討している。交通連絡線・生産・補給などに大きく関東軍に貢献していた開拓団は、およそ132万人と考えられていた。
開戦の危険性が高まり、関東軍では居留民を内地へ移動させることが検討されたが、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動させるとしても、いずれ米ソ両軍の上陸によって戦場となるであろう朝鮮半島に送っても仕方がないと考えられ、また輸送に必要な食料も目途が立たなかった。それでも、関東軍総司令部兵站班長・山口敏寿中佐は、老幼婦女や開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引き上げさせることを総司令部第一課(作戦)に提議したが、第一課は居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、ひいてはソ連進攻の誘い水になる恐れがあるとして、「対ソ静謐(せいひつ)保持」を理由に却下している。
状況悪化にともない、満州開拓総局は開拓団に対する非常措置を地方に連絡していたが、多くの居留民、開拓団は悪化していく状況を深刻にとらえていなかった[21]。 また満州開拓総局長斉藤中将は開拓団を後退させないと決めていた。加えて事態が深刻化してから東京の中央省庁から在満居留民に対して後退についての考えが示されることもなかった。関東軍の任務として在外邦人保護は重要な任務であったが、「対ソ静謐保持」を理由に国境付近の開拓団を避難させることもなかった。
ソ連侵攻時、引き揚げ命令が出ても、一部の開拓総局と開拓団が軍隊の後退守勢を理解せず、待避をよしとしなかった。この判断については、当時の多くの開拓団と開拓総局の人々の、無敵と謳われた関東軍に対する過度の信頼と情報の不足が大きな要因であると考えられる[22]。
8月9日ソ連軍との戦闘が始まると直ちに大本営に報告し、命令を待った。命令が下されたのは翌日10日で、10日9時40分に総参謀長統裁のもとに官民軍の関係者を集め、具体的な居留民待避の検討を開始した。同日18時に民・官・軍の順序で新京駅から列車を出すことを決定し、正午に官民の実行を要求した。しかし官民両方ともに14時になっても避難準備が行われることはなく、軍は1時間の無駄もできない状況を鑑みて、結局民・官・軍を順序とする避難の構想を破棄し、とにかく集まった順番で列車編成を組まざるを得なかった。
第1列車が新京を出発したのは予定より大きく遅れた11日1時40分であり、その後総司令部は2時間毎の運行を予定し、大陸鉄道司令部に対して食料補給などの避難措置に必要な対策を指示した。現場では混乱が続き、故障・渋滞・遅滞・事故が続発したために避難措置は非常に困難を極めた。結果として最初に避難したのは、軍家族、満鉄関係者などとなり、暗黙として国境付近の居留民は置き去りにされた。
これらに加えて辺境における居留民については、第一線の部隊が保護に努めていたが、ソ連軍との戦闘が激しかったために救出の余力がなく、ほとんどの辺境の居留民は後退できなかった。
特に国境付近の居留民の多くは、「根こそぎ動員」によって戦闘力を失っており、死に物狂いでの逃避行のなかで戦ったが、侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺(葛根廟事件など)が相次ぎ[23][24]、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例や(麻山事件・佐渡開拓団跡事件)、各地に僅かに生き残っていた国境警察隊員・鉄路警護隊員の玉砕が多く発生した。弾薬処分時の爆発に避難民が巻き込まれる東安駅爆破事件も起きた。また第一線から逃れることができた居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が途上で生き別れ・脱落することとなり、収容所に送られ、孤児や満州人の妻となる人々も出た。
当時満州国の首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していたが、8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし3万8000人が脱出した。3万8000人の内訳は
軍人関係家族 2万0310人
大使館関係家族 750人
満鉄関係家族 1万6700人
民間人家族 240人
この時、列車での軍人家族脱出組みの指揮を取ったのは関東軍総参謀長秦彦三郎夫人であり、またこの一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と供の者はさらに平壌からは飛行機を使い8月18日には無事日本に帰り着いている。
当時新京在住で夫が官僚だった藤原ていによる「流れる星は生きている」では、避難の連絡は軍人と官僚のみに出され、藤原てい自身も避難連絡を近所の民間人には告げず、自分達官僚家族の仲間だけで駅に集結し汽車で脱出したと記述している。
また、辺境に近い北部の牡丹江に居留していたなかにし礼は、避難しようとする民間人が牡丹江駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロはなれた地点から特別列車を編成し脱出したと証言している。
初動[編集]
宣戦布告は1945年8月8日(モスクワ時間午後5時、日本時間午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連特命全権大使に知らされた。事態を知った佐藤は、東京の政府へ連絡しようとした。ヴャチェスラフ・モロトフは暗号を使用して東京へ連絡する事を許可した。そして佐藤はモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。しかし、モスクワ中央電信局は受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかった[25]。
詳細は「ソ連対日宣戦布告」を参照
8月9日午前1時(ハバロフスク時間)に、ソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。
同じ頃、関東軍総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、敵が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街が敵の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。
総司令部は急遽対応に追われ、当時出張中であった総司令官山田乙三大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり。各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。さらに中央部の命令を待たず、午前6時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。
この攻撃は、関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなり、前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つこととなったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。総司令官は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後1時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。
さらに総司令官は、宮内府に赴いて溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都することを勧めた。皇帝溥儀は満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた[26]。
西正面の状況[編集]
ソ連軍ではザバイカル正面軍、関東軍では第3方面軍がこの地域を担当していた。日本軍の9個師団・3個独混旅団・2個独立戦車旅団基幹に対し、ソ連軍は狙撃28個・騎兵5個・戦車2個・自動車化2個の各師団、戦車・機械化旅団等18個という大兵力であった。
関東軍の要塞地帯と主力部隊及び国境守備隊は東部・北東正面に重点配置され、西部・北西正面の守りは手薄だった。方面軍主力は、最初から国境のはるか後方にあり、開戦後は新京-奉天地区に兵力を集中しこの方面でソ連軍を迎撃する準備をしていたため、西正面に機械化戦力を重点配置していたソ連軍の一方的な侵攻を許してしまった。逆にソ連軍から見ると日本軍の抵抗を受けることなく順調に進撃した。第6親衛戦車軍はわずか3日で450キロも進撃した。
同軍の先鋒はヴォルコフ中将の第9親衛機械化軍団が務めたが、アメリカ製のシャーマン戦車が湿地帯の峠道に足をとられ、第5親衛戦車軍団のT34部隊が代わりに先導役を務めた。第39軍の側面援護の下、第6親衛戦車軍は満州西部から迂回しつつ、鉄道沿線の日本軍を殲滅していった。8月15日までに第6親衛戦車軍は大興安嶺を突破し、第3方面軍の残存部隊を掃討しつつ満州の中央渓谷に突入した。 一方第3方面軍は既存の築城による抵抗を行い、ゲリラ戦を適時に行うことを作戦計画に加えたが、これを実現することは、訓練、遊撃拠点などの点で困難であり、また機甲部隊に抵抗するための火力が全く不十分であった。同方面軍は8月10日朝に方面軍の主力である第30軍を鉄道沿線に集結させて、担当地域に分割し、ゲリラ戦を実施しつつソ連軍を邀撃しつつも、第108師団は後退させることを考えた。このように方面軍総司令部が関東軍の意図に反して部隊を後退させなかったのは、居留民保護を重視することの姿勢であったと後に第3方面軍作戦参謀によって語られている。
関東軍総司令部はこの決戦方式で挑めば一度で戦闘力を消耗してしまうと危惧し、不同意であった。ソ連軍の進行が大規模であったため、総司令部は朝鮮半島の防衛を考慮に入れた段階的な後退を行わねばならないことになっていた。前線では苦戦を強いられており、第44軍では8月10日に新京に向かって後退するために8月12日に本格的に後退行動を開始し、西正面から進行したソ連の主力である第6親衛戦車軍は各所で日本軍と遭遇してこれを破砕、撃破していた。ソ連軍の機甲部隊に対して第2航空軍(原田宇一郎中将)がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃に向かった。
攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上った。ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは第107師団で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなった。
師団主力が迎撃態勢をとっていた最中、第44軍から、新京付近に後退せよとの命令を受け、12日から撤退を開始するも既に退路は遮断されていた。ソ連軍に包囲された第107師団は北部の山岳地帯で持久戦闘を展開、終戦を知ることもなく包囲下で健闘を続け、8月25日からは南下した第221狙撃師団と遭遇、このソ連軍を撃退した。
関東軍参謀2名の命令により停戦したのは29日のことであった。ソ連・モンゴル軍は外蒙古から内蒙古へと侵攻し、多倫・張家口へと進撃、関東軍と支那派遣軍の連絡線を遮断した。ザバイカル正面軍は西方から関東軍総司令部の置かれた新京へと猛進撃し、8月15日には間近にまで迫り北東部・東部で奮戦する関東軍の連絡線を断ちつつあった。
東正面の状況[編集]
旅順に進駐し、海軍旗を掲げる太平洋艦隊所属の海軍歩兵
東方面においては日本軍は第1方面軍が、ソ連軍は第1極東正面軍が担当していた。日本軍の10個師団と独立混成旅団・国境守備隊・機動旅団各1個に対し、ソ連軍は35個師団と17個戦車・機械化旅団基幹であった。日本の第1方面軍は、国境の既存防御陣地を保守し、ソ連軍の主力部隊が進行した後は後方からゲリラ戦を以って奇襲を加える防勢作戦を計画していた。
牡丹江以北約600キロに第5軍(清水規矩中将)、南部に第3軍(村上啓作中将)を配置、同方面軍の任務は、侵攻する敵の破砕であったが、二次的なものとして、満州国と朝鮮半島の交通路の防衛、方面軍左翼の後退行動の支援があった。
しかし、日本軍の各部隊の人員や装備には深刻な欠員と欠数があり、特に陣地防御に必要な定数を割り込んでいた。
同方面軍の主力部隊の一つであった第5軍を例に挙げれば、牡丹江沿岸、東京城から横道河子の線において敵を拒否する任務を担っていたが、銃剣・軍刀・弾薬・燃料だけでなく、火器・火砲にも欠数が多く、銃・軽機関銃、擲弾筒は定数の三分の一から三分の二程度しかなく、また火砲は第124師団、第135師団ともに定数の三分の二以下、第124師団は野砲の欠数を山砲を混ぜて配備し、第135師団は旧式騎砲、迫撃砲で野砲の欠数を補填しているほどであった。
一方メレツコフが指揮する第1極東正面軍は日本軍の強固な要塞地帯の攻略を担当し、最も困難な任務を抱えていた。メレツコフは奇襲を成功させるため、通常の準備砲撃を省略し、雷雨の中偵察大隊を越境させた。30分後には歩兵部隊が日本軍の陣地に浸透し、機械化兵力の前進路を切り開いた。各狙撃師団は傘下の戦車旅団を解き放ち、各戦車旅団は1日で満州領内22キロの地点に到達、日本軍の要塞は迂回し後続の部隊に排除を任せた。
実際の戦闘においては第二十五軍、第三十五軍団を主力部隊とする極東方面軍の激しい攻撃を受けることになった。天長山・観月臺の守備隊は敵に包囲され、天長山守備隊は15日に全滅、観月臺は10日に陥落した。また八面通正面では秋皮溝守備隊は9日に全滅、十文字峠・梨山・青狐嶺廟の守備隊も10日にソ連軍の圧倒的な攻撃を受けて陥落、残存した一部の部隊は後退した。平陽付近では、前方に展開していた警備隊がソ連軍の攻撃で全滅し、残りの守備隊は8月9日に夜半撤退したが、10日にソ連軍と遭遇戦が発生し、離脱したのは850人中200人であった。
このように各地で抵抗を試みるもその戦力差から悉くが撃破・殲滅されてしまい、ソ連軍の攻撃を遅滞させることはできても、阻止することはできなかった。
東部正面最大都市、牡丹江にソ連軍主力が向かうものと正しく判断した清水司令官は、第124師団、その後方に第126・第135師団を配置、全力を集中してソ連軍侵攻を阻止するよう処置した。
ソ連第5軍司令官クルイロフ大将は増強した戦車旅団を牡丹江に差し向け、さらに2個狙撃師団を出撃させた。 穆稜を守備する第124師団(椎名正健中将)の一部は12日に突破されたが、後続のソ連軍部隊と激戦を続け、肉薄攻撃などの必死の攻撃を展開、第126、第135師団主力とともに15日夕までソ連軍の侵攻を阻止し、この間に牡丹江在留邦人約6万人の後退を完了することができた。
牡丹江には戦車旅団に先導された4個狙撃師団が殺到し、2日に渡る壮絶な市街戦の末、日本軍5個歩兵連隊が全滅した。牡丹江東側陣地の防御が限界に達した第5軍は、17日までに60キロ西方に後退、そこで停戦命令を受けた。南部の第3軍は、一部の国境配置部隊のほか主力は後方配置していた。8月16日には牡丹江市が陥落した。
一方この正面に進攻したソ連軍第25軍は、北鮮の港湾と満州との連絡遮断を目的としていた。羅子溝の第128師団(水原義重中将)、琿春の第112師団(中村次喜蔵中将)は其々予定の陣地で激戦を展開、多数の死傷者を出しながら停戦までソ連軍大兵力を阻止した。広い地域に分散孤立した状態で攻撃を受けた第3軍は、よく善戦して各地で死闘を繰り広げたが停戦時の17日にはソ連軍が第2線陣地に迫っていた。
北正面の状況[編集]
1945年モンゴル人民軍が戦争に参加
満州国の北部国境地域、孫呉方面及びハイラル方面でも日本軍(第4軍)は抵抗を試みるもソ連軍の物量を背景にした攻撃で後退を余儀なくされていた。
孫呉正面においては、ソ連軍は36軍・39軍・53軍・17軍及びソ蒙連合機動軍を以って8月9日に機甲部隊を先遣隊として攻撃を行ったが、当時の天候が雨であったために沿岸地区の地形が泥濘となって機甲部隊の機動力を奪ったため、作戦は当初遅滞した。日本軍は第123師団と独立混成第135旅団で陣地防御を準備していたが、第2極東方面軍の第2赤衛軍が11日から攻撃を開始した。
ソ連軍の攻撃によって一部の陣地が占領されるも、残存した陣地を活用して反撃を行い、抵抗を試みていた。しかし兵力の差から後方に迂回されてしまい、防衛隊は離脱した。
またハイラル正面においては、ソ連軍はザバイカル方面軍の最左翼を担当する第36軍の部隊が進行し、日本軍は第119師団と独立混成第80旅団によって抵抗を試み、極力ハイラルの陣地で抵抗しながらも、戦況が悪化すれば後退することが指示されていた。第119師団は停戦するまでソ連軍の突破を阻止し、戦闘ではソ連軍の正面からの攻撃だけでなく、南北の近接地域から別働隊が侵攻してきたために後退行動を行った。
北朝鮮の状況[編集]
北朝鮮においては第34軍(主力部隊は第59師団、第137師団「根こそぎ動員」師団、独立混成第133旅団)が6月18日に関東軍の隷下に入り、7月に咸興に集結した。
戦力は第59師団以外は非常に低水準であり、兵站補給も滞っていた。開戦して第17方面軍は関東軍総司令官の指揮下に、第34軍は第17方面軍司令官の指揮下に入った。また羅南師管区部隊は本土決戦の一環として4月20日に編成された部隊であり、2個歩兵補充隊と、5個警備大隊、特設警備大隊8個、高射砲中隊3個、工兵隊3個などから構成されていた。
第一線の状況として、ソ連軍の侵攻は部分的なものであった。咸興方面では第34軍はソ連軍に対して平壌への侵攻を阻止し、朝鮮半島を防衛する目的で配備され、野戦築城を準備していた。しかし終戦までソ連軍との交戦はなかった。一方で羅南方面では、ソ連軍の太平洋艦隊北朝鮮作戦部隊・第一極東方面軍第25軍・第10機甲軍団の一部が来襲した。12日から13日にかけて、ソ連軍は海路から北朝鮮の雄基と羅南に上陸してきた。
8月13日にソ連軍の偵察隊が清津に上陸し、その日の正午に攻撃前進を開始した。羅南師管区部隊は上陸部隊の準備が整わないうちに撃滅する作戦を立案し、ソ連軍に対抗して出撃し、上陸したソ連軍を分断、ソ連軍の攻撃前進を阻止するだけの損害を与えることに成功し、水際まで追い詰めたが、14日払暁まで清津に圧迫し、ソ連軍の侵攻を阻止する中15日には新たにソ連第13海兵旅団が上陸、北方から狙撃師団が接近したので決戦を断念し、防御に転じた時に8月18日に停戦命令を受領した。
南樺太および千島の概況[編集]
当時日本が領有していた南樺太・千島列島は、アメリカ軍の西部アリューシャン列島への反攻激化ゆえ急速強化が進んだ。1940年12月以来同地区を含めた北部軍管区を管轄してきた北部軍を、1943年2月5日には北方軍として改編、翌年には第五方面軍を編成し、千島方面防衛にあたる第27軍を新設、第1飛行師団と共にその隷下においた。
結果、1944年秋には千島に5個師団、樺太に1個旅団を擁するに至る。
しかし、本土決戦に向けて戦力の抽出が始まると航空戦力を中心に兵力が転用され、1945年3月27日に編成を完了した第88師団(樺太)や第89師団(南千島)が加わったものの、航空兵力は貧弱なままで、北海道内とあわせ80機程度にとどまっていた。
他方、ソ連軍は同方面を支作戦と位置づけており、その行動は偵察行動にとどまっていた。1945年8月10日22時、第2極東戦線第16軍は「8月11日10:00を期して樺太国境を越境し、北太平洋艦隊と連携して8月25日までに南樺太を占領せよ」との命令を受領、ようやく戦端を開く。しかし、準備時間が限定されており、かつ日本軍の情報が不足していたこともあり、各兵科部隊には具体的な任務を示すには至らなかった。
情報不足は深刻で、例えば、樺太の日本軍は戦車を保有しなかったにもかかわらず、第79狙撃師団に対戦車予備が新設されたほどであった。北千島においてはさらに遅れ、8月15日にようやく作戦準備及び実施を内示、8月25日までに北千島の占守島、幌筵島、温禰古丹島を占領するように命じた。
南樺太の戦闘[編集]
詳細は「樺太の戦い (1945年)」を参照
樺太の日本軍は、1941年の関東軍特種演習から対ソ戦準備をしていたが、太平洋戦争中盤からは対米戦準備も進められて、中途半端な状態だった。第88師団が主戦力で、うち歩兵第125連隊が国境方面にあった。対ソ開戦後は、特設警備隊の防衛召集や国民義勇戦闘隊の義勇召集が実施され、陣地構築や避難誘導を中心に活動した。居留民については、1944年秋から第5方面軍の避難指示があったが、資材不足などで進んでいなかった。
ソ連軍侵攻後に第88師団と樺太庁長官、豊原海軍武官府の協力で、23日までに87670名が離島できた。その後の自力脱出者を合わせても、開戦時住民約41万人のうち約10万人が脱出できたにすぎない[27]。 なお、戦後の引揚者は軍人・軍属2万人、市民28万人の合計30万人で、残留した朝鮮系住民2万7千人を除くと陸上戦の民間人死者は約2,000人と推定されている。後述の引揚船での犠牲者を合わせると、約3,700人に達する[28]。
樺太におけるソ連軍最初の攻撃は、8月9日7時30分武意加の国境警察に加えられた砲撃である。11日5時頃から樺太方面における主力とされたソ連軍第56狙撃軍団は本格的に侵攻を開始した。樺太中央部を通る半田経由のものと、安別を通る西海岸ルートの2方向から侵入した。
他方、日本軍は9日に方面軍の出した「積極戦闘を禁ず」という命令のため、専守防御的なものとなった。後にこの命令は解除されたが前線には届かなかった。日本軍は、国境付近の半田10kmほど後方の八方山陣地において陣地防御を実施した。日本の第5方面軍は航空支援や増援作戦等を計画したが、8月15日に中止となった。
戦闘は8月15日以降も継続し、むしろ拡大していった。日本政府からの明確な指示が出ないまま、ソ連軍による無差別攻撃に対応し日本軍も自衛戦闘として応戦を続けた。16日には塔路・恵須取へソ連軍が上陸作戦を実施。
20日には真岡へも上陸し、この際に逃げ場を失った電話交換女子達が集団自決する真岡郵便電信局事件が発生した。真岡の歩兵第25連隊は、ソ連軍による軍使殺害事件が発生したため自衛戦闘に移った。熊笹峠へ後退しつつ抵抗を続け、23日2時ごろまでソ連軍を拘束していた。
8月22日に知取にて停戦協定が結ばれるが、赤十字のテントが張られ白旗が掲げられた豊原駅前にソ連軍航空機による空爆が加えられ多数の死傷者が出た。同日朝には樺太からの引揚船「小笠原丸」「第二号新興丸」「泰東丸」が留萌沖でソ連軍潜水艦に攻撃され、1708名の死者と行方不明者を出した(三船殉難事件)。
その後もソ連軍は南下を継続し24日早朝には豊原に到達、樺太庁の業務を停止させて日本軍の施設を接収した。25日には大泊に上陸、樺太全土を占領した。
千島列島の状況と戦闘[編集]
詳細は「占守島の戦い」を参照
アリューシャン列島からの撤退により、千島列島、中でも占守島をはじめとする北千島が脚光をあびる。当初はアッツ島からの空爆に対する防空戦が主であったが、米軍の反攻に伴い、兵力増強が図られる。本土決戦に備えて抽出がなされたのは樺太と同様であるが、北千島はその補給の困難から、ある程度の数が終戦まで確保(第91師団基幹の兵力約25000人、火砲約200門)された。
防衛計画は、対米戦における戦訓から、水際直接配備から持久抵抗を志向するようになったが、陣地構築の問題から砲兵は水際配備とする変則的な布陣となっていた。
8月9日からのソ連対日参戦後も特に動きはないまま、8月15日を迎えた。方面軍からの18日16時を期限とする戦闘停止命令を受け、兵器の逐次処分等が始まっていた。だが、ソ連軍は15日に千島列島北部の占守島への侵攻を決め、太平洋艦隊司令長官ユマシェフ海軍大将と第二極東方面軍司令官プルカエフ上級大将に作戦準備と実施を明示していた。
18日未明、ソ連軍は揚陸艇16隻、艦艇38隻、上陸部隊8363人、航空機78機による上陸作戦を開始した。投入されたのは第101狙撃師団(欠第302狙撃連隊)とペトロパヴロフスク海軍基地の全艦艇など、第128混成飛行師団などであった。日本軍第91師団は、このソ連軍に対して水際で火力防御を行い、少なくともソ連軍の艦艇13隻を沈没させる戦果を上げている。
上陸に成功したソ連軍部隊が、島北部の四嶺山付近で日本軍1個大隊と激戦となった。日本軍は戦車第11連隊などを出撃させて反撃を行い、戦車多数を失いながらもソ連軍を後退させた。しかし、ソ連軍も再攻撃を開始し激しい戦闘が続いた。
18日午後には、日本軍は歩兵73旅団隷下の各大隊などの配置を終え有利な態勢であったが、日本政府の意向を受け第5方面軍司令官 樋口季一郎中将の命令に従い、第91師団は16時に戦闘行動の停止命令を発した。停戦交渉の間も小競り合いが続いたが、21日に最終的な停戦が実現し、23・24日にわたり日本軍の武装解除がなされた。
それ以降、ソ連軍は25日に松輪島、31日に得撫島という順に、守備隊の降伏を受け入れながら各島を順次占領していった。南千島占領も別部隊により進められ、8月29日に択捉島、9月1日〜4日に国後島・色丹島の占領を完了した。歯舞群島の占領は、降伏文書調印後の、3日から5日のことである[1][2]。
ポツダム宣言受諾後のソ連の戦闘[編集]
外地での戦闘が完全に収束する前に、1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日、終戦詔書が発布された。
このことにより、攻勢作戦を実行中であった日本軍の全部隊は、その戦闘作戦を全て中止することになった。
しかしソ連最高統帥部は、「日本政府の宣言受諾は政治的な意向である。その証拠には軍事行動には何ら変化もなく、現に日本軍には停戦の兆候を認め得ない」との見解を表明し、攻勢作戦を続行した。この為、日本軍は戦闘行動にて防衛対応する他なかった。
連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は8月15日に日本の天皇・政府・大本営以下の日本軍全てに対する戦闘停止を命じた。この通達に基づき、8月16日、関東軍に対しても自衛以外の戦闘行動を停止するように命令が出された。しかし、当時の関東軍の指揮下にあった部隊のほぼすべてが、激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたため、全く状況は変わらなかった。すでに17の要塞地区のうち16が陥落し指揮系統は分断され関東軍は危機的状況にあった。
8月17日、関東軍総司令官山田乙三大将がソ連側と交渉に入ったものの、極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は、8月20日午前まで停戦しないと回答した。
関東軍とソ連軍の停戦が急務となったマッカーサーは8月18日に改めて、日本軍全部隊のあらゆる武力行動を停止する命令を出し、これを受けた日本軍は各地で戦闘を停止し、停戦が本格化することとなった。その同日、ヴァシレフスキーは、2個狙撃師団に北海道上陸命令を下達していたが、樺太方面の進撃の停滞とスタフカからの命令により実行されることはなかった。
8月19日の15:30(極東時間)、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、ソ連側の要求を全て受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。
これを受け、8月24日にはスタフカから正式な停戦命令がソ連軍に届いたが、ソ連軍による作戦は1945年9月2日の日本との降伏文書調印をも無視して継続された。結局ソ連軍は、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく、一方的な戦闘攻撃を終了した[1][2]。