放送日:2021/07/22 NHK
【出演者】
早川:早川智さん(日本大学医学部 教授)
――江戸時代といえば、250年も続いた長い時代ですよね。
早川: 250年以上続いた江戸時代は大変安定した時代で、文明的にも進んでいました。何よりも江戸の文化で評価できるのは大衆文化でして、歌舞伎や浄瑠璃など庶民が楽しむ娯楽が生まれました。
浮世絵なども非常にレベルが高く、一般の人々が文学や芸術を楽しんだという江戸時代は、私は大変すぐれた時代だと思っております。すしや天ぷらなども江戸時代にできたものでして、現代の生活を作ったのは江戸時代だと思っています。
――そんな魅力的な時代に、また感染症に悩まされることになったということですね。
早川: 長く続いた江戸時代に、病気が何度も流行しております。特に江戸末期になりますと、さまざまな感染症が広がっていました。
特に人々を恐怖に陥れたのがコレラです。「安政のコレラ大流行」として学校で習った記憶もおありなんではないでしょうか。
――確かに有名ですよね。
早川: 江戸時代といえば鎖国を開始して長らく外交は制限されていたわけなんですけれど、安政5(1858)年、日米修好通商条約が調印され、225年続いた鎖国が終わりました。ただ、その1か月前に長崎に入港した1隻の船がきっかけでコレラのパンデミックが起きてしまったんです。
――鎖国の解除直前に、ということですか。
早川: ペリーが日本に連れてきたアメリカ船・ミシシッピ号の船員がコレラに感染していました。船員が長崎の出島に上陸しますと瞬く間に長崎に広がりまして、1か月もたたないうちに江戸に広がり、そして2か月後には東北まで広がっております。
――コレラは何が原因で感染するのですか。
早川: これは、不衛生な環境にいるコレラ菌が口から入って感染します。当時は主に生水からでしたが、口から入ったコレラ菌は小腸の粘膜に定着しまして、非常にひどい脱水を起こしていきます。
――亡くなった人も多かったのですか。
早川: 死人が続出したことで、江戸の火葬場には棺おけが山のように積まれたようです。一家全滅した家も多くありました。正確な統計はありませんが、人口100万都市の江戸からおよそ3万人の死者が出たとされています。3~4%がコレラで亡くなったことになります。
――コレラにかかると、どうなるのですか。
早川: おう吐、腹痛、そして非常に激しい水のような下痢が起きてきます。2~3日もたたずに「コロリコロリ」と亡くなることから「3日ころり」あるいは「コロリ」と呼ばれました。
当時は有効な薬がありませんでしたので、生ものや生水を取らないといった予防に努めるしかありませんでした。衛生を重んじるという西洋の思想が入ってきたことで状況は徐々に改善されてきました。
――ほかにも江戸時代にはやった感染症はありますか。
早川: 麻疹、いわゆる「はしか」ですね。これも大流行しました。今では大した病気ではありませんが、免疫がないと非常に多くの方が命を落とします。江戸時代だけで13回の大流行が記録されています。
5代将軍徳川綱吉も麻疹で亡くなったといわれておりまして、日本の歴史の上で麻疹の犠牲になった最も有名な方だと思います。症状が出て7日間で亡くなりました。
――そうだったのですね。麻疹の江戸時代の最後の大流行はどんな状況だったのでしょうか。
早川: この大流行は開国の年のコレラ大流行の4年後でした。コレラと麻疹という2つの輸入感染症が、外国人への不安を高めたんではないかと思います。
実際にコレラの流行によりまして外国人を打ち払う攘夷(じょうい)の機運が高まったとされていますし、麻疹大流行の5年後に幕府は崩壊しました。
――感染症というのは時代の局面に大きく関係しているということですね。
早川: 非常におもしろいのは、明治維新のころというのは西洋医学の革命の時代、つまり消毒や麻酔ということが導入された時代にあたります。それがそのままリアルタイムに日本に入ってまいりまして、戊辰戦争のころには刀傷や鉄砲傷、こういったものに対して安全な手術が可能になりました。けがだけでなく、お産のときの感染も予防できるようになってまいりました。
【出演者】
早川:早川智さん(日本大学医学部 教授)
――早川さん、「元寇」は、鎌倉時代にモンゴル帝国が日本を攻めてきた「蒙古襲来」のことですよね。
早川: 13世紀にチンギス・ハンが即位して、モンゴル帝国は大陸での勢力を拡大していました。さらに13世紀の中頃に、孫のフビライ・ハンが即位した後に元王朝が成立いたしました。元は海を越えて日本まで征服しようと、2度にわたって襲来しました。それがいわゆる元寇です。
――その元の襲来とペスト、どういう関係があるのですか。
早川: 日本の歴史上、大変おもしろい関係があります。
まずペストについて簡単にご説明いたします。ペストというのは世界の歴史の上で大変大きな影響を残した感染症です。ペストはペスト菌という細菌によって起こる感染症で、感染すると発熱や頭痛などの症状が起こりますが、皮膚が内出血を起こして紫色あるいは黒色になりますので、中世のヨーロッパでは「黒死病」という名前で大変恐れられておりました。
――ペストは世界史の授業で習って怖いと思った記憶が残っています。ペスト菌はそもそもどうやって感染するのですか。
早川: これはネズミがもともと持っている病気でして、ネズミには病気を起こしません。宿主であるネズミに寄生しているノミが人を刺して発病します。さらに、せきやたんといったことによって菌が排出されまして空気感染する。そして広がっていきます。非常に死亡率が高いのが特徴です。
ペストといいますとヨーロッパで流行した印象が強いんですけれど、何度か世界的に大流行を起こしております。第2のパンデミック、最大の流行が、14世紀の中央アジアから広がったものでした。
1331年に中国大陸で発生したペストによって中国の人口は半減し、その後ヨーロッパ・中東・北アフリカなどに拡大していきました。
――どういうことですか。
早川: 13世紀はモンゴル帝国が発展しまして、シルククロードが開通しまして東西の交流が大変活発化しております。初めて西から東へ、東から西へと人々の行き来が大変盛んになってまいりました。紙・火薬・めん類などはそのころの元からヨーロッパに行ったのではないかといわれています。一方、ヨーロッパからはマルコ・ポーロが来て、元のさまざまな情報を持ち帰ったといわれています。そういったことで、人と情報が行き来したんだと思います。
ただ、文明と同時にペストの波が東西に広がりました。14世紀の終わりには、ヨーロッパの人口が半減したといわれております。経済・人口ともに、回復するのに大体200~300年かかっております。
――回復に200~300年もかかったといわれているのですね。その流れで日本にもペストが入ってきたということなのですか。
早川: いいえ。不思議なことに、どの記録を見ましても、14世紀に日本ペストが流行したという記録はありません。
――日本にペストが入ってきたという記録がない。これはどうしてなのですか。
早川: 世界中でペストのパンデミックが起きておりました14世紀には、日本は元との交流をしておりませんでした。交流をしない理由が元寇にあったといわれています。要するに、元寇があったために、当時日本ではペストの流行が防げたということになります。つまり、期せずして「ロックダウン」を行ったということだと思います。
――なるほど。元の襲来を防いだだけでなくて、ペストが入ってくるのを防いだということなのですね。ちなみに、元寇前は大陸との交流はあったのですか。
早川: 元の前の宋の時代、日本では源平時代にあたりますけれど、そのころは宋と貿易をしておりました。特に平清盛が大変盛んに宋と貿易をしておりまして、それが彼の経済的な背景になったんではないかといわれています。
そのあと鎌倉期になりましてもある程度交流は続いていたんですけれど、ペストが大流行する直前に元寇がありました。それをきっかけに、大陸との交流は途絶えました。朝鮮半島とも当然行き来があったわけなんですけれど、そのころは高麗という国がありまして、高麗は元と同盟国ですので交流を絶つことになりました。
その後、大陸では元に代わって明となり、日本では室町時代になりますと、足利義満が勘合貿易を始めたわけですが、鎌倉時代から南北朝時代にかけてはほぼ鎖国に近い状態でした。この「ロックダウン」によって、日本にペストが持ち込まれることはなかったと考えております。
また、この時代に鎖国に近い状態だったことで、室町文化、現在の私たちの文化のもとになっている茶室、茶道、それから和風建築、能楽、こういったものが生まれたという点で特筆すべき時代だったと思います。
――なるほどね。侵略戦争になったことは大変だったでしょうけれど、一方でペストを持ち込まれずに済んで、日本特有の文化も築かれたというおもしろい時代だったのですね。
早川: グローバル化を避けることがいいわけではないんですけれど、感染の拡大を防ぐと同時に日本文化を築く上で意味があった、大変おもしろい時代だったと思います。
――まず梅毒という病気についてお聞きしますが、日本で梅毒がはやったのはいつごろの話ですか。
早川: 日本では戦国時代に梅毒が流行しました。戦国時代というと、戦国大名が群雄割拠した15世紀末から16世紀末にかけての約100年間です。室町時代末期から安土桃山時代に入るまで戦乱が続きました。
――戦乱期にどうして梅毒が流行したのでしょうか。
早川: 戦国時代は、戦乱が続く一方で、ヨーロッパの人々が日本にやって来て西洋の文明を伝えた時代です。フランシスコ・ザビエルがキリスト教を持ってきましたし、鉄砲も伝来しました。また西洋医学も参りました。さまざまな西洋の文物が入ってきました。
グローバル化の時代というのはやはり感染症のリスクを持っておりまして、その時代に梅毒も入ってきたということになります。
――梅毒って性感染症ですよね。
早川: 梅毒は、梅毒トレポネーマと呼ばれる細菌に感染して起こる感染症です。性的な行為で皮膚や粘膜から感染する病気ですが、感染した女性が妊娠した場合に胎盤を介してお子さんに感染する母子感染も報告されております。
――梅毒にかかると、どんな症状が現れるのですか。
早川: 梅毒は、症状が現れては消えを繰り返して慢性に進行していきます。感染すると、感染した部位にしこりや潰瘍、それからそけい部のリンパ節の腫れなどの症状が起きてきます。その後、手のひら、足の裏、体全身に発疹が出まして、さらに3年以上たって症状が進んでいきます。
当時は特効薬がありませんでしたので、悪化して命を落とす人が少なくありませんでした。
――そもそも梅毒はどういう経緯で日本に入ってきたのですか。
早川: もともとは南米の地方病だったんですけれど、1492年、有名なコロンブスがアメリカに上陸したことでヨーロッパに入ってまいります。
――コロンブスの新大陸到達の陰で、そんな出来事があったのですね。
早川: コロンブスの船団の船乗りが旧大陸に持ち帰ったといわれています。乗組員が航海中に先住民の女性から梅毒に感染し、ヨーロッパに戻ってから感染源となったらしいんです。それ以前からあったという説もありますが、病原体の遺伝子を調べることで否定されています。
15世紀の末から16世紀の初めには、ヨーロッパ全土で大流行いたしました。
――ヨーロッパで広がって、その後日本にまで持ち込まれたということですか。
早川: 戦国時代、西洋でいうと大航海時代なんですけれど、この大航海の幕開けともに梅毒が世界中に、そして日本にやって来ました。
日本で最初の梅毒の記録は1512年、三条西実隆というお公家さんの記録に残っております。ヨーロッパ人が初めて鉄砲を伝えた30年以上前に、すでに梅毒は日本に到達していたことになります。
そうした記録から、西洋人が直接持ち込んだというよりも、梅毒に感染した中国人の商人が来日して国内の感染元になったんじゃないかと推測されています。そして戦国時代、非常に多くの人々が感染しました。
――梅毒が治療できるようになったのはいつごろですか。
早川: 江戸時代になりましても流行は収まらず、『解体新書』で有名な杉田玄白は外来の患者さんの半分が梅毒だったということを書いております。
梅毒はペニシリンという抗菌薬でほぼ完全に治りますが、日本では昭和19年に生産に成功し、昭和22年からようやく日本全国で使用できるようになりました。
――日本では昭和になるまで梅毒の特効薬はなかったということですね。
早川: そうなんです。第2次大戦後になりまして、ペニシリンのおかげで梅毒患者はほぼいなくなったんですが、実はこの10年ぐらい日本では毎年患者さんが増えておりますので注意していただきたいと思います。2019年には8000人に達しました。
――最近また増えているというのは、どうしてなのですか。
早川: いくつかの説があるんですけれど、この10年ほどで梅毒のトレポネーマの遺伝子が変異しまして、抗菌薬が効きにくくなっているのが原因の1つと考えられています。
梅毒は、先進国では男性どうしの性的接触での感染が多い病気なんですが、日本国内では異性間の感染が増えておりまして、特に20代の女性の増加が目立っております。感染女性は、性産業従事者に限らず、一般の主婦やOLにも拡大しています。近年は症状が口やのどに現れる人も多いです。
この治療には専門的な知識が必要ですので、ぜひ感染症の専門医を受診していただきたいと思います。
――江戸時代といえば、250年も続いた長い時代ですよね。
早川: 250年以上続いた江戸時代は大変安定した時代で、文明的にも進んでいました。何よりも江戸の文化で評価できるのは大衆文化でして、歌舞伎や浄瑠璃など庶民が楽しむ娯楽が生まれました。浮世絵なども非常にレベルが高く、一般の人々が文学や芸術を楽しんだという江戸時代は、私は大変すぐれた時代だと思っております。すしや天ぷらなども江戸時代にできたものでして、現代の生活を作ったのは江戸時代だと思っています。
――そんな魅力的な時代に、また感染症に悩まされることになったということですね。
早川: 長く続いた江戸時代に、病気が何度も流行しております。特に江戸末期になりますと、さまざまな感染症が広がっていました。
特に人々を恐怖に陥れたのがコレラです。「安政のコレラ大流行」として学校で習った記憶もおありなんではないでしょうか。
――確かに有名ですよね。
早川: 江戸時代といえば鎖国を開始して長らく外交は制限されていたわけなんですけれど、安政5(1858)年、日米修好通商条約が調印され、225年続いた鎖国が終わりました。ただ、その1か月前に長崎に入港した1隻の船がきっかけでコレラのパンデミックが起きてしまったんです。
――鎖国の解除直前に、ということですか。
早川: ペリーが日本に連れてきたアメリカ船・ミシシッピ号の船員がコレラに感染していました。船員が長崎の出島に上陸しますと瞬く間に長崎に広がりまして、1か月もたたないうちに江戸に広がり、そして2か月後には東北まで広がっております。
――コレラは何が原因で感染するのですか。
早川: これは、不衛生な環境にいるコレラ菌が口から入って感染します。当時は主に生水からでしたが、口から入ったコレラ菌は小腸の粘膜に定着しまして、非常にひどい脱水を起こしていきます。
――亡くなった人も多かったのですか。
早川: 死人が続出したことで、江戸の火葬場には棺おけが山のように積まれたようです。一家全滅した家も多くありました。正確な統計はありませんが、人口100万都市の江戸からおよそ3万人の死者が出たとされています。3~4%がコレラで亡くなったことになります。
――コレラにかかると、どうなるのですか。
早川: おう吐、腹痛、そして非常に激しい水のような下痢が起きてきます。2~3日もたたずに「コロリコロリ」と亡くなることから「3日ころり」あるいは「コロリ」と呼ばれました。
当時は有効な薬がありませんでしたので、生ものや生水を取らないといった予防に努めるしかありませんでした。衛生を重んじるという西洋の思想が入ってきたことで状況は徐々に改善されてきました。
――ほかにも江戸時代にはやった感染症はありますか。
早川: 麻疹、いわゆる「はしか」ですね。これも大流行しました。今では大した病気ではありませんが、免疫がないと非常に多くの方が命を落とします。江戸時代だけで13回の大流行が記録されています。
5代将軍徳川綱吉も麻疹で亡くなったといわれておりまして、日本の歴史の上で麻疹の犠牲になった最も有名な方だと思います。症状が出て7日間で亡くなりました。
――そうだったのですね。麻疹の江戸時代の最後の大流行はどんな状況だったのでしょうか。
早川: この大流行は開国の年のコレラ大流行の4年後でした。コレラと麻疹という2つの輸入感染症が、外国人への不安を高めたんではないかと思います。
実際にコレラの流行によりまして外国人を打ち払う攘夷(じょうい)の機運が高まったとされていますし、麻疹大流行の5年後に幕府は崩壊しました。
――感染症というのは時代の局面に大きく関係しているということですね。
早川: 非常におもしろいのは、明治維新のころというのは西洋医学の革命の時代、つまり消毒や麻酔ということが導入された時代にあたります。それがそのままリアルタイムに日本に入ってまいりまして、戊辰戦争のころには刀傷や鉄砲傷、こういったものに対して安全な手術が可能になりました。けがだけでなく、お産のときの感染も予防できるようになってまいりました。
――きょうのテーマは「進化するワクチン」、大正デモクラシーとスペインかぜ、結核です。大正は1912年から1926年までの15年間ということで、短い時代でしたよね。
早川: 江戸が250年間、明治が44年間で、大正が15年間ということで、時代としては短いんですけれど、明治時代の富国強兵からある程度余裕が出てきて自由があった時代らしいですね。
ただ、その短い時代の中に、感染症に関わる出来事が2つありました。
――それは何ですか。
早川: 1つはスペインかぜの大流行、もう1つが結核の対策です。
――では、1つずつ教えていただきたいと思います。まず、スペインかぜの大流行について教えてください。
早川: スペインかぜというのは、インフルエンザのことです。
インフルエンザ自体が日本では江戸時代にも流行し、江戸では夏の1か月で8万人もの死者が出て大混乱になったことがあり、何度か繰り返されていますが、第1次大戦のときに世界中で大流行しました。
第1次大戦は1914年に始まりますが、戦争の初期1915年にインフルエンザの世界的な流行が始まりました。そして大戦末期の17~18年ごろには、ヨーロッパ中に広がりました。そして戦争どころではなくなりまして、戦争が終わったわけです。
第1次大戦において日本は戦場にはなりませんでしたけれど、遠く離れた日本や中国までインフルエンザが広がっております。
――インフルエンザの別名が「スペインかぜ」ということですが、スペインで始まったから「スペインかぜ」というわけではないのですね。
早川: これは誤解をされているんですけれど、インフルエンザの流行が始まったのはスペインではなくて、アメリカの軍隊だったといわれております。しかも第1次大戦に参戦したアメリカの軍隊から広がったことは、機密事項とされていました。
それが中立国であるスペインまで広がったときに世界で流行する悪性の感冒であることが分かりまして、「スペインかぜ」という名前がつきました。「インフルエンザ」となったのは戦後になってからです。
――インフルエンザが流行して、どのような事態が起こったのでしょうか。
早川: そのとき世界では、患者さんが6億人、死者は2000万人以上に達したとされています。日本でも大変大きな被害が出ました。大正7年、8年、9年の死亡原因の第1位がインフルエンザによる肺炎でした。
――当時、治療や予防はどういう状況だったのですか。
早川: そのころはまだインフルエンザウイルスが特定されておらず、薬もありませんので、隔離や水分補給、可能な場合は酸素吸入などです。
――インフルエンザのワクチンはいつできたのでしょうか。
早川: インフルエンザワクチンができたのは第2次大戦後になってからなんですが、有効な薬ができたのは21世紀近くになってからです。それまでは、先ほど申し上げましたマスクや隔離など、ある程度社会的な防衛でコントロールをしておりました。
――では、大正時代のもう1つの出来事、結核の対策について教えてください。
早川: 結核は、日本で社会問題になったのは明治以降です。昔は遺伝が原因で感染するといわれていました。
当時、農村から都市の工場に出稼ぎに来る若い女性などが集団感染を起こすとか、学校で感染が広がっていく、こういったことが多く起きてまいりました。
結核についてはなかなか有効な治療がなかったんですけど、大正時代になってようやく対策が取れるようになりました。
――どんな対策がなされたのですか。
早川: 大正時代にBCGのようなワクチンが導入されたことで結核が予防できるようになりました。これによってコントロールが可能になってまいりました。それから、結核は栄養状態が悪いとかかりやすくなりますので、栄養状態がよくなったことが患者さんの減少に大きく関わっていると思います。
――いろいろお聞きしてきましたけれど、現在の新型コロナウイルスの対策としても参考にできることが多い気がしますよね。
早川: 感染症すべてにおきまして、やはり清潔な社会、個人と社会の衛生、それから十分な栄養と休養で体の抵抗力を高めることが大変大事だと思います。もしかかってしまった場合は、適切な抗菌薬、抗ウイルス薬などの治療を受けることも大事です。
ただそれだけでは十分ではありませんので、予防的にワクチンを積極的に打っていただくことが大事だと思っております。インフルエンザのワクチンにつきましては毎年流行株を特定して行うようになっておりますし、ほかにも肺炎球菌やヒトパピローマウイルス、そして現在の新型コロナウイルスのワクチンなどワクチンの進化は目覚ましいものがあります。
現在はさまざまな情報が氾濫しておりますけれど、公的機関や病院で提供している正しい情報をもとに行動していただきたいと考えております。
■マイあさ! 健康ライフ「日本人が乗り越えてきた感染症から学ぶ」シリーズ おわり