映画の一シーンから浮かびあがった恋心の姿

2022年01月09日 23時22分13秒 | 創作欄

初めて、あなたを見た時から、好きになったの、でも恋はうまくいかないものなのね。
あなたは、一度も私を振り向かない。
あなたはずっと<あの人のこと>が、好きなのね。
そんな、あなたの気持ちを、私も<痛く>分かるわ。
あなたは、恋するあの人から相手にされないのね。
あなたも私も、及びがたい恋をしている。
それでも、私はあなたを密かに愛しているいばかり。
でも、それでいいのよ、私は今も、これからも、あなたを恋しているから・・・。

「ああ、苦しいな」新しい恋をした木島和樹が芝生に寝転ぶ。
ミドリは、和樹から女として見られていない。
大学生からの親しい学友の一人だったのだ。
ミドリは中学生の1年の時に、水泳部の先輩の鳥居信之に恋をした。
言わば初恋である。
そして、高校生の時にも、水泳部の先輩の鳥居信之に似た坂本晃に恋をした。
でも、恋心を告白すべもなかった。
大学の水泳部でも先輩の鳥居信之に似た赤須優斗に恋をする。
常にミドリは、初恋の人の面影を追っていたのだろう。
木島和樹とミドリの均衡が保られていたのは、別々の恋心だった。
鳥居信之の面影をずっと追っていたミドリが、奇しくも多情な木島和樹に恋心を抱くとは、皮肉でもある。
でも、木島和樹は常に新しい恋を求める浮気性の男だったのだ。

 


日陰に雪が残るのに ランニング姿の少年が

2022年01月09日 22時54分32秒 | 日記・断片

1月9日、午後1時、気温は7度であった。
まだ3日前の雪解けの時期であり、特に日陰には雪が凍っていたのに、半袖の人やランニング姿の少年がいた。
寒くないのかと驚く。
以前、水道橋で極寒の真冬なのに、半袖のセーラー服姿の女子高生がいたので驚く。
その身体は、どうなっているのか?!と注目したものだ。

 


自身は苦しみを引き受ける。

2022年01月09日 20時55分04秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼他人がどう考えているか、時代がどう見ているかは、永遠から見れば、小さなものだ。
▼嵐を求め、嵐とともに進んでいくのが真実の指導者であり、人間である。
▼善と悪か一体であり、ある面から善に見えても、別の面からからは悪に見えることもある。
社会の評価もまた絶え間なく動くものだ。
だからこそ、そうした批判には屈せず、誇り高く生きてほしい。
▼人々に喜びと希望を与え、自身は苦しみを引き受ける。
そういう<根っこ>の存在の指導者がいるからこそ、人々の幸福の開花もある。


新型コロナ感染確認 世界全体で“3億人”超に

2022年01月09日 20時55分04秒 | 医科・歯科・介護

新型コロナウイルスの感染が確認された人が世界全体で3億人を超えたことが、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学のまとめで分かりました。変異ウイルス、オミクロン株の感染が世界で急速に拡大していて、WHO=世界保健機関は改めて感染対策を徹底するよう呼びかけています。

アメリカのジョンズ・ホプキンス大学のまとめによりますと、新型コロナウイルスの感染が確認された人は、日本時間の7日午後1時すぎの時点で3億9万5000人余りとなり、世界全体で3億人を超えました。

感染者数を国ごとに見ますと
▽アメリカが最も多くおよそ5800万人、次いで
▽インドがおよそ3500万人
▽ブラジルがおよそ2200万人などとなっています。

また、感染者数が
▽1億人を超えたのは統計を取り始めてからおよそ1年後
▽2億人を超えたのはそれからおよそ半年後
▽3億人を超えたのはそれからおよそ5か月後と、感染は加速度的に拡大していて、背景には、先月からオミクロン株の感染が急速に広がっていることもあると見られます。

WHOは、先月27日から1週間の新規感染者数が、およそ952万人とこれまでで最も多くなったことから、医療体制のひっ迫や人手不足を引き起こしているとして、改めて感染対策を徹底するよう呼びかけています。

また、先進国を中心にワクチンの追加接種の動きが加速する一方、世界全体では供給が遅れているとして、公平な分配に向けた協力を呼びかけています。


日本人はかつて「未知の病」といかに闘ってきたか?

2022年01月09日 20時55分04秒 | 社会・文化・政治・経済

限りなく傲慢になった人類。
ある意味で、人類を懲らしめるために、出現してくるのが、これまにない
未知の疾患。

---------------------------------------------------

日本人はかつて「未知の病」といかに闘ってきたか?

『幕末からコロナ禍まで 病気の日本近代史』
新たな疫病が猛威を振るう今こそ知るべき〝闘病と克服の日本史〟

株式会社小学館2021年2月5日 11時30分

新型コロナ克服のヒントは「歴史」にあり!
現代史家の労作を新書化!
 明治天皇や陸海軍兵士たちが悩まされた脚気から、軍民に蔓延したスペイン風邪などの伝染病、「亡国病」と恐れられた結核やマラリア、患者が増える中で治療法の模索が続いてきた精神疾患、現在死因トップのがんまで、日本人は多くの病気に悩まされてきた。
 そして今また、「新型コロナウイルス」という未知の病が襲来している。果たして、この新たな感染症といかに向き合うべきなのか。

«人類の歴史は、一面では感染症(伝染病)との戦いの歴史でもあった。だが戦うと言っても、一方的な防戦と敗北の連続で、十四世紀のペスト流行では欧州大陸の住人の半分近くが倒れ、人々は絶滅の恐怖におののいた。
 ようやく勝機が訪れたのは、病原である細菌やウイルスの正体が見え始めた、たかだか二百年前からである。〈中略〉

だが戦いが終ったわけではない。»
(「第八章 新型コロナ禍の春秋」より)

こちらは本書の内容の一部です。
盲腸炎――切るか? 散らすか?
庶民から天皇までなぜ日本人は脚気に悩まされたのか?
あばたもえくぼの〝あばた〟とは?
昭和18年の死因第1位(17万人余)は?
戦死より戦病死が多かった?
明暗を分けた日米マラリア戦
精神障害歴を報じられた著名人
受動喫煙と肺がんの関連性に疑問符
コロナとの戦いのなかで見えてきた争点

 本書は、医師や医療専門家ではなく、政治史や軍事史を中心に研究・執筆を重ねてきた現代史家の手になる医学史である。そのため、医学の研究書とは異なり、歴史家の視点から「難病の制圧をめざす国家的な総力戦」の過程を検証しつつ、「人間の生死をめぐって運と不運、喜びと悲しみが交錯するドラマ」を描きだしている。

«日本における近代医療の歴史は各種の病気、とくに脚気、伝染病、結核、がんなど難病の制圧をめざす国家的な総力戦の過程でもあった。
 それは人間の生死をめぐって運と不運、喜びと悲しみが交錯するドラマでもあったから、文学の感性を借用しないと、全容は描きにくい。»
(本書「あとがき」より)

 同名単行本(2011年刊)に新型コロナに関する新章などを大幅加筆した決定版。

〈目次〉
第一章 黎明期の外科手術
第二章 脚気論争と森鴎外
第三章 伝染病との戦い
第四章 結核との長期戦
第五章 戦病の大量死とマラリア
第六章 狂聖たちの列伝
第七章 肺がんとタバコ
第八章 新型コロナ禍の春秋
巻末付表
あとがき

【著者プロフィール】
秦 郁彦(はた・いくひこ)
1932年山口県生まれ。歴史学者(日本近現代史・軍事史)。1956年東京大学法学部卒業。同年大蔵省入省後、ハーバード大学、コロンビア大学留学、防衛研修所教官、大蔵省財政史室長、プリンストン大学客員教授、拓殖大学教授、千葉大学教授、日本大学教授を歴任。法学博士。1993年に第41回菊池寛賞を受賞、2014年に第68回毎日文化賞、第30回正論大賞を受賞。

 

 


利根輪太郎の競輪人間学 諦めが肝心

2022年01月09日 17時20分36秒 | 未来予測研究会の掲示板

輪太郎は自身に怒りを覚えていた。

GⅢ和歌山競輪開設記念 和歌山グランプリ

9レース

並び7-1-4 2-5-8 9-3 6(単騎)

レース評
小松崎が格の違いを見せる。最後は出切ってマーク永沢との直線勝負だ。今岡の頑張りで友定が浮上。菅原も必死で抵抗。

輪太郎は1-7からの3連単車券で勝負した。
だが、7番が来なかった時は?と考えて、1-2からの3連単をどうするかを迷っていた。
だが、傍で我孫子の勝負師が、「2番より5番だろう」と強気の発言。
「そうかも」と迷いが出てきたのだ。
結局1-5からの3連単車券を押さえることに。

結果

1-2 6,610円(16番人気)

1-2-5 3万1,350円(51番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 永澤 剛   11.8 S 捲乗り外伸
2 2 今岡 徹二 3/4車輪 12.1 B ペース逃粘
× 3 5 友定 祐己 1/2車輪 12.0     番手仕事し
4 7 小松崎 大地 タイヤ差 12.0     捲り一息で
  5 4 工藤 政志 1車輪 11.8     前が1着も
  6 8 小川 圭二 タイヤ差 11.9     被り踏めず
7 3 高橋 雅之 1/2車身 11.6     目標と共倒
  8 6 小林 潤二 タイヤ差 11.9     先手も被り
9 9 菅原 大也 3/4車身 11.7     後手踏めず

----------------------------------------------------

そして、10レースはの7-5を買わずに7-2の3連単で勝負車券を外す。

残りの金はわずか 1000円に。

11レース

並び 1-9-5 6-2 7-3 8-4

レース評
売り出し中の吉田が記念初参戦。神山がマークして本線ガッチリ。波乱があれば大西の一発か。舘も時折、穴を演出。


11レースは本命の1-9が1.6倍。
資金はわずか1000円、ここは本命車券は諦めだ。
そこで1番吉田 有希選手を2着の車券にする。

結果として、本命の1-9で決まらず救われた思いとなる。

競輪には絶対はないのだから、時には<本命車券を見切>る必要もあるのだ。

結果

6-1 8,870円(12番人気)

6-1-3 17万9,150円(130番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 6 橋本 優己   11.4   流れ乗り伸
2 1 吉田 有希 1/2車輪 11.3   被り動けず
3 3 山口 貴嗣 1/4車輪 11.6     捲乗り交す
× 4 7 大西 貴晃 1/8車輪 11.7     3番手捲り
5 9 神山 拓弥 1/4車輪 11.2     捌いて突込
  6 5 稲村 成浩 2車身 11.3     失敗ライン
7 4 高橋 清太郎 2車身 12.0     一緒捲られ
8 2 舘 泰守 2車身 11.5     外で捌かれ
  9 8 畝木 努 5車身 12.9   B 先行捲られ

戦い終わって

戦い終わって写真

 吉田有希と橋本優己が意識し合う展開。九州勢を追う形となった橋本が直線で突き抜けて一着「吉田君は引くと思ってたしあそこは自分の判断。吉田君が粘るのか引くのか中途半端で微妙な感じでしたね。自分は外併走で脚にきてた。一コーナーで行こうと思ったら前も踏んでG前勝負に。勝ち上がれたけど自力の面に関しては甘えが出てしまった。もっとレースに慣れて仕掛けれるようにしていかないと」。
 橋本を追う形となった吉田が二着「緩めに来たら突っ張るつもりだたけど。今から思えば突っ張るべきでした。橋本さんが斬ってくれればその上をと思ってたが引くに引けなくてラインに迷惑を掛けてしまった。ゴール後もきつくなかったしもう半周くらいなら余裕で行けた。消化不良になってしまったし勉強も多い。この反省を活かして次に」。
 大西貴晃を交わした山口貴嗣が三着「吉田君を後方に置いて一番良い展開。大西君と決まったと思たけどやっぱり来られましたね。自分的にも悪くはないけど相手が強かった」。


「ひきこもり」から考える

2022年01月09日 12時31分12秒 | 社会・文化・政治・経済

ひきこもりとは何か。著者は、研究者としてこの問に取り組んできた。

ひきこもり」から考える ――〈聴く〉から始める支援論
 

吉井勇の旅鞄 昭和初年の歌行脚ノート

2022年01月09日 11時42分03秒 | 新聞を読もう
  • 要旨(「BOOK」データベースより)

    「いのち短し、恋せよ、少女」「ゴンドラの唄」の作詞者・吉井勇の知られざる壮年期の激動―。
  • 目次

    序章 第一章 相模相聞居時代から渓鬼荘結廬まで 白秋描く「勇像」/猪野々日記/雅澄の妻/わびずみの記/春待つ心/巡礼日記/瀬戸英一の死/土佐への初旅/猪野々籠り/渓鬼荘/田村敬男と京都政経書院/夢二の死/歌集『人間経』/水蔭の客死と結廬 
  • 第二章 上京と「遍路」創刊 寂しければ/歌の師・鉄幹/微熱抄/娑婆風流/孤独地獄/市川仮寓と「遍路」の創刊 
  • 第三章 歌行脚 白鳥歌はず/杉皮装『わびずみの記』/歌行脚1讃岐路・伊予路/歌行脚2瀬戸の島々/歌行脚3中国路・鯉城歌抄/歌行脚 4九州路・「五足の靴」/歌行脚5九州路 ・火祭り/歌行脚6南予路・帰山/大原富枝の「渓鬼荘を訪ねて」 
  • 第四章 流離時代の終わり 駿河路の春/富士を仰ぐ/父と子の歌行脚/阿波行・モラエス/南国土佐大博覧会・茂吉の手紙/伯方島/戦雲来/益喜出征/薩摩がえり/築屋敷/天彦
    吉井勇の旅鞄昭和初年の歌行脚ノート[細川光洋]
     
    内容紹介
    「いのち短し恋せよ乙女(ゴンドラの唄)」で一世を風靡した若き伯爵歌人・吉井勇。
    その中年期は社交界を巻き込んだ一大スキャンダル「不良華族事件」からはじまる激動があった。
  • はじめて明かされる長い漂白と隠遁の日々。晩年の円熟した境地に至るまでを丹念に追う。

    図書館選書
    「いのち短し恋せよ乙女」で一世を風靡した若き伯爵歌人・吉井勇。その中年期は一大スキャンダル「不良華族事件」からはじまる激動があった。初めて明かされる漂白と隠遁の日々、晩年の円熟の境地に至るまでを丹念に追う。
  • 著者紹介(「BOOK著者紹介情報」より)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

    細川 光洋(ホソカワ ミツヒロ)
    1967年4月、横浜生まれ。静岡県立大学国際関係学部教授(日本近代文学)。
  • 早稲田大学教育学研究科博士課程単位取得退学。立教英国学院、桐蔭学園中等教育学校教諭、高知工業高等専門学校准教授を経て、2015年4月より現職

-------------------------------------------

今週の本棚

川本三郎・評 『吉井勇の旅鞄 昭和初年の歌行脚ノート』=細川光洋・著

 

 (短歌研究社・5940円)

旅する歌人の系譜継ぐ、寂寥と哀感

 吉井勇(一八八六―一九六〇)といえば「かにかくに祇園はこひし寝(ぬ)るときも枕の下を水のながるる」「先斗町のあそびの家の灯のうつる水なつかしや君とながむる」の歌や、松井須磨子が歌って評判になった「ゴンドラの唄」(いのち短し、恋せよ、少女(おとめ))の作詞者として広く知られる。

 そのためもあって遊蕩(ゆうとう)の歌人の印象が強いが、吉井勇研究の第一人者である著者は、本書でこれまで語られることの少なかった旅する歌人としての吉井を語る。実に新鮮で教えられることが多い。

日本には旅する歌人という系譜がある。
明治、大正、昭和を生きた吉井勇もまたこの系譜に属する歌人であったことを、著者は豊富な資料を駆使して明らかにしていく。
吉井勇は昭和に入って、革製の旅行鞄を持って、主として西日本各地を旅し、土地土地の歌を詠んでいた。
そこには紅燈の巷を愛した若き日の遊蕩歌人の姿はない。
世を捨てたように鞄ひとつで旅を続ける中年の歌人には孤独、寂寥、哀感がただよう。
奔放な妻、徳子が引き起こした「不良家族事件」のスキャンダルから逃れたのがきっかけになった。
妻と別れ四国の山なかに引きこもった。
そして土佐の草庵に住みながら昭和11年になると旅行脚と称して四国、中国、九州を旅して歩く。
一種、巡礼の旅である。
都会暮らしの垢を洗い流したいという思いがあっただろう。
昭和11年といえば二・二六事件があった年だが、吉井勇は現実社会に抗がって静かな自然に身をゆだねにゆく。
著者は、吉井勇が知人友人に出した多くの手紙を引用し、また、詠まれた歌の数々を紹介しながら、世を捨てようとする歌人の孤独な心に迫っていく。
吉井勇の評伝であると同時に昭和初年の文学史になっていて趣が深い。
勇が永井荷風を啓していたとは荷風好きにはうれしい。

 

 


感染症の日本史 ④/江戸末期に大流行 ~コレラ・麻疹~

2022年01月09日 10時33分27秒 | 医科・歯科・介護

放送日:2021/07/22 NHK

【出演者】
早川:早川智さん(日本大学医学部 教授)

――江戸時代といえば、250年も続いた長い時代ですよね。

早川: 250年以上続いた江戸時代は大変安定した時代で、文明的にも進んでいました。何よりも江戸の文化で評価できるのは大衆文化でして、歌舞伎や浄瑠璃など庶民が楽しむ娯楽が生まれました。

浮世絵なども非常にレベルが高く、一般の人々が文学や芸術を楽しんだという江戸時代は、私は大変すぐれた時代だと思っております。すしや天ぷらなども江戸時代にできたものでして、現代の生活を作ったのは江戸時代だと思っています。
――そんな魅力的な時代に、また感染症に悩まされることになったということですね。

早川: 長く続いた江戸時代に、病気が何度も流行しております。特に江戸末期になりますと、さまざまな感染症が広がっていました。
特に人々を恐怖に陥れたのがコレラです。「安政のコレラ大流行」として学校で習った記憶もおありなんではないでしょうか。
――確かに有名ですよね。

早川: 江戸時代といえば鎖国を開始して長らく外交は制限されていたわけなんですけれど、安政5(1858)年、日米修好通商条約が調印され、225年続いた鎖国が終わりました。ただ、その1か月前に長崎に入港した1隻の船がきっかけでコレラのパンデミックが起きてしまったんです。
――鎖国の解除直前に、ということですか。

早川: ペリーが日本に連れてきたアメリカ船・ミシシッピ号の船員がコレラに感染していました。船員が長崎の出島に上陸しますと瞬く間に長崎に広がりまして、1か月もたたないうちに江戸に広がり、そして2か月後には東北まで広がっております。
――コレラは何が原因で感染するのですか。

早川: これは、不衛生な環境にいるコレラ菌が口から入って感染します。当時は主に生水からでしたが、口から入ったコレラ菌は小腸の粘膜に定着しまして、非常にひどい脱水を起こしていきます。
――亡くなった人も多かったのですか。

早川: 死人が続出したことで、江戸の火葬場には棺おけが山のように積まれたようです。一家全滅した家も多くありました。正確な統計はありませんが、人口100万都市の江戸からおよそ3万人の死者が出たとされています。3~4%がコレラで亡くなったことになります。
――コレラにかかると、どうなるのですか。

早川: おう吐、腹痛、そして非常に激しい水のような下痢が起きてきます。2~3日もたたずに「コロリコロリ」と亡くなることから「3日ころり」あるいは「コロリ」と呼ばれました。
当時は有効な薬がありませんでしたので、生ものや生水を取らないといった予防に努めるしかありませんでした。衛生を重んじるという西洋の思想が入ってきたことで状況は徐々に改善されてきました。
――ほかにも江戸時代にはやった感染症はありますか。

早川: 麻疹、いわゆる「はしか」ですね。これも大流行しました。今では大した病気ではありませんが、免疫がないと非常に多くの方が命を落とします。江戸時代だけで13回の大流行が記録されています。
5代将軍徳川綱吉も麻疹で亡くなったといわれておりまして、日本の歴史の上で麻疹の犠牲になった最も有名な方だと思います。症状が出て7日間で亡くなりました。
――そうだったのですね。麻疹の江戸時代の最後の大流行はどんな状況だったのでしょうか。

早川: この大流行は開国の年のコレラ大流行の4年後でした。コレラと麻疹という2つの輸入感染症が、外国人への不安を高めたんではないかと思います。
実際にコレラの流行によりまして外国人を打ち払う攘夷(じょうい)の機運が高まったとされていますし、麻疹大流行の5年後に幕府は崩壊しました。
――感染症というのは時代の局面に大きく関係しているということですね。

早川: 非常におもしろいのは、明治維新のころというのは西洋医学の革命の時代、つまり消毒や麻酔ということが導入された時代にあたります。それがそのままリアルタイムに日本に入ってまいりまして、戊辰戦争のころには刀傷や鉄砲傷、こういったものに対して安全な手術が可能になりました。けがだけでなく、お産のときの感染も予防できるようになってまいりました。

【出演者】
早川:早川智さん(日本大学医学部 教授)

――早川さん、「元寇」は、鎌倉時代にモンゴル帝国が日本を攻めてきた「蒙古襲来」のことですよね。

早川: 13世紀にチンギス・ハンが即位して、モンゴル帝国は大陸での勢力を拡大していました。さらに13世紀の中頃に、孫のフビライ・ハンが即位した後に元王朝が成立いたしました。元は海を越えて日本まで征服しようと、2度にわたって襲来しました。それがいわゆる元寇です。
――その元の襲来とペスト、どういう関係があるのですか。

早川: 日本の歴史上、大変おもしろい関係があります。
まずペストについて簡単にご説明いたします。ペストというのは世界の歴史の上で大変大きな影響を残した感染症です。ペストはペスト菌という細菌によって起こる感染症で、感染すると発熱や頭痛などの症状が起こりますが、皮膚が内出血を起こして紫色あるいは黒色になりますので、中世のヨーロッパでは「黒死病」という名前で大変恐れられておりました。
――ペストは世界史の授業で習って怖いと思った記憶が残っています。ペスト菌はそもそもどうやって感染するのですか。

早川: これはネズミがもともと持っている病気でして、ネズミには病気を起こしません。宿主であるネズミに寄生しているノミが人を刺して発病します。さらに、せきやたんといったことによって菌が排出されまして空気感染する。そして広がっていきます。非常に死亡率が高いのが特徴です。
ペストといいますとヨーロッパで流行した印象が強いんですけれど、何度か世界的に大流行を起こしております。第2のパンデミック、最大の流行が、14世紀の中央アジアから広がったものでした。
1331年に中国大陸で発生したペストによって中国の人口は半減し、その後ヨーロッパ・中東・北アフリカなどに拡大していきました。
――どういうことですか。

早川: 13世紀はモンゴル帝国が発展しまして、シルククロードが開通しまして東西の交流が大変活発化しております。初めて西から東へ、東から西へと人々の行き来が大変盛んになってまいりました。紙・火薬・めん類などはそのころの元からヨーロッパに行ったのではないかといわれています。一方、ヨーロッパからはマルコ・ポーロが来て、元のさまざまな情報を持ち帰ったといわれています。そういったことで、人と情報が行き来したんだと思います。
ただ、文明と同時にペストの波が東西に広がりました。14世紀の終わりには、ヨーロッパの人口が半減したといわれております。経済・人口ともに、回復するのに大体200~300年かかっております。
――回復に200~300年もかかったといわれているのですね。その流れで日本にもペストが入ってきたということなのですか。

早川: いいえ。不思議なことに、どの記録を見ましても、14世紀に日本ペストが流行したという記録はありません。
――日本にペストが入ってきたという記録がない。これはどうしてなのですか。

早川: 世界中でペストのパンデミックが起きておりました14世紀には、日本は元との交流をしておりませんでした。交流をしない理由が元寇にあったといわれています。要するに、元寇があったために、当時日本ではペストの流行が防げたということになります。つまり、期せずして「ロックダウン」を行ったということだと思います。
――なるほど。元の襲来を防いだだけでなくて、ペストが入ってくるのを防いだということなのですね。ちなみに、元寇前は大陸との交流はあったのですか。

早川: 元の前の宋の時代、日本では源平時代にあたりますけれど、そのころは宋と貿易をしておりました。特に平清盛が大変盛んに宋と貿易をしておりまして、それが彼の経済的な背景になったんではないかといわれています。
そのあと鎌倉期になりましてもある程度交流は続いていたんですけれど、ペストが大流行する直前に元寇がありました。それをきっかけに、大陸との交流は途絶えました。朝鮮半島とも当然行き来があったわけなんですけれど、そのころは高麗という国がありまして、高麗は元と同盟国ですので交流を絶つことになりました。

その後、大陸では元に代わって明となり、日本では室町時代になりますと、足利義満が勘合貿易を始めたわけですが、鎌倉時代から南北朝時代にかけてはほぼ鎖国に近い状態でした。この「ロックダウン」によって、日本にペストが持ち込まれることはなかったと考えております。
また、この時代に鎖国に近い状態だったことで、室町文化、現在の私たちの文化のもとになっている茶室、茶道、それから和風建築、能楽、こういったものが生まれたという点で特筆すべき時代だったと思います。
――なるほどね。侵略戦争になったことは大変だったでしょうけれど、一方でペストを持ち込まれずに済んで、日本特有の文化も築かれたというおもしろい時代だったのですね。

早川: グローバル化を避けることがいいわけではないんですけれど、感染の拡大を防ぐと同時に日本文化を築く上で意味があった、大変おもしろい時代だったと思います。

――まず梅毒という病気についてお聞きしますが、日本で梅毒がはやったのはいつごろの話ですか。

早川: 日本では戦国時代に梅毒が流行しました。戦国時代というと、戦国大名が群雄割拠した15世紀末から16世紀末にかけての約100年間です。室町時代末期から安土桃山時代に入るまで戦乱が続きました。
――戦乱期にどうして梅毒が流行したのでしょうか。

早川: 戦国時代は、戦乱が続く一方で、ヨーロッパの人々が日本にやって来て西洋の文明を伝えた時代です。フランシスコ・ザビエルがキリスト教を持ってきましたし、鉄砲も伝来しました。また西洋医学も参りました。さまざまな西洋の文物が入ってきました。
グローバル化の時代というのはやはり感染症のリスクを持っておりまして、その時代に梅毒も入ってきたということになります。
――梅毒って性感染症ですよね。

早川: 梅毒は、梅毒トレポネーマと呼ばれる細菌に感染して起こる感染症です。性的な行為で皮膚や粘膜から感染する病気ですが、感染した女性が妊娠した場合に胎盤を介してお子さんに感染する母子感染も報告されております。
――梅毒にかかると、どんな症状が現れるのですか。

早川: 梅毒は、症状が現れては消えを繰り返して慢性に進行していきます。感染すると、感染した部位にしこりや潰瘍、それからそけい部のリンパ節の腫れなどの症状が起きてきます。その後、手のひら、足の裏、体全身に発疹が出まして、さらに3年以上たって症状が進んでいきます。
当時は特効薬がありませんでしたので、悪化して命を落とす人が少なくありませんでした。
――そもそも梅毒はどういう経緯で日本に入ってきたのですか。

早川: もともとは南米の地方病だったんですけれど、1492年、有名なコロンブスがアメリカに上陸したことでヨーロッパに入ってまいります。
――コロンブスの新大陸到達の陰で、そんな出来事があったのですね。

早川: コロンブスの船団の船乗りが旧大陸に持ち帰ったといわれています。乗組員が航海中に先住民の女性から梅毒に感染し、ヨーロッパに戻ってから感染源となったらしいんです。それ以前からあったという説もありますが、病原体の遺伝子を調べることで否定されています。
15世紀の末から16世紀の初めには、ヨーロッパ全土で大流行いたしました。
――ヨーロッパで広がって、その後日本にまで持ち込まれたということですか。

早川: 戦国時代、西洋でいうと大航海時代なんですけれど、この大航海の幕開けともに梅毒が世界中に、そして日本にやって来ました。
日本で最初の梅毒の記録は1512年、三条西実隆というお公家さんの記録に残っております。ヨーロッパ人が初めて鉄砲を伝えた30年以上前に、すでに梅毒は日本に到達していたことになります。
そうした記録から、西洋人が直接持ち込んだというよりも、梅毒に感染した中国人の商人が来日して国内の感染元になったんじゃないかと推測されています。そして戦国時代、非常に多くの人々が感染しました。
――梅毒が治療できるようになったのはいつごろですか。

早川: 江戸時代になりましても流行は収まらず、『解体新書』で有名な杉田玄白は外来の患者さんの半分が梅毒だったということを書いております。
梅毒はペニシリンという抗菌薬でほぼ完全に治りますが、日本では昭和19年に生産に成功し、昭和22年からようやく日本全国で使用できるようになりました。
――日本では昭和になるまで梅毒の特効薬はなかったということですね。

早川: そうなんです。第2次大戦後になりまして、ペニシリンのおかげで梅毒患者はほぼいなくなったんですが、実はこの10年ぐらい日本では毎年患者さんが増えておりますので注意していただきたいと思います。2019年には8000人に達しました。
――最近また増えているというのは、どうしてなのですか。

早川: いくつかの説があるんですけれど、この10年ほどで梅毒のトレポネーマの遺伝子が変異しまして、抗菌薬が効きにくくなっているのが原因の1つと考えられています。
梅毒は、先進国では男性どうしの性的接触での感染が多い病気なんですが、日本国内では異性間の感染が増えておりまして、特に20代の女性の増加が目立っております。感染女性は、性産業従事者に限らず、一般の主婦やOLにも拡大しています。近年は症状が口やのどに現れる人も多いです。
この治療には専門的な知識が必要ですので、ぜひ感染症の専門医を受診していただきたいと思います。

――江戸時代といえば、250年も続いた長い時代ですよね。

早川: 250年以上続いた江戸時代は大変安定した時代で、文明的にも進んでいました。何よりも江戸の文化で評価できるのは大衆文化でして、歌舞伎や浄瑠璃など庶民が楽しむ娯楽が生まれました。浮世絵なども非常にレベルが高く、一般の人々が文学や芸術を楽しんだという江戸時代は、私は大変すぐれた時代だと思っております。すしや天ぷらなども江戸時代にできたものでして、現代の生活を作ったのは江戸時代だと思っています。
――そんな魅力的な時代に、また感染症に悩まされることになったということですね。

早川: 長く続いた江戸時代に、病気が何度も流行しております。特に江戸末期になりますと、さまざまな感染症が広がっていました。
特に人々を恐怖に陥れたのがコレラです。「安政のコレラ大流行」として学校で習った記憶もおありなんではないでしょうか。
――確かに有名ですよね。

早川: 江戸時代といえば鎖国を開始して長らく外交は制限されていたわけなんですけれど、安政5(1858)年、日米修好通商条約が調印され、225年続いた鎖国が終わりました。ただ、その1か月前に長崎に入港した1隻の船がきっかけでコレラのパンデミックが起きてしまったんです。
――鎖国の解除直前に、ということですか。

早川: ペリーが日本に連れてきたアメリカ船・ミシシッピ号の船員がコレラに感染していました。船員が長崎の出島に上陸しますと瞬く間に長崎に広がりまして、1か月もたたないうちに江戸に広がり、そして2か月後には東北まで広がっております。
――コレラは何が原因で感染するのですか。

早川: これは、不衛生な環境にいるコレラ菌が口から入って感染します。当時は主に生水からでしたが、口から入ったコレラ菌は小腸の粘膜に定着しまして、非常にひどい脱水を起こしていきます。
――亡くなった人も多かったのですか。

早川: 死人が続出したことで、江戸の火葬場には棺おけが山のように積まれたようです。一家全滅した家も多くありました。正確な統計はありませんが、人口100万都市の江戸からおよそ3万人の死者が出たとされています。3~4%がコレラで亡くなったことになります。
――コレラにかかると、どうなるのですか。

早川: おう吐、腹痛、そして非常に激しい水のような下痢が起きてきます。2~3日もたたずに「コロリコロリ」と亡くなることから「3日ころり」あるいは「コロリ」と呼ばれました。
当時は有効な薬がありませんでしたので、生ものや生水を取らないといった予防に努めるしかありませんでした。衛生を重んじるという西洋の思想が入ってきたことで状況は徐々に改善されてきました。
――ほかにも江戸時代にはやった感染症はありますか。

早川: 麻疹、いわゆる「はしか」ですね。これも大流行しました。今では大した病気ではありませんが、免疫がないと非常に多くの方が命を落とします。江戸時代だけで13回の大流行が記録されています。
5代将軍徳川綱吉も麻疹で亡くなったといわれておりまして、日本の歴史の上で麻疹の犠牲になった最も有名な方だと思います。症状が出て7日間で亡くなりました。
――そうだったのですね。麻疹の江戸時代の最後の大流行はどんな状況だったのでしょうか。

早川: この大流行は開国の年のコレラ大流行の4年後でした。コレラと麻疹という2つの輸入感染症が、外国人への不安を高めたんではないかと思います。
実際にコレラの流行によりまして外国人を打ち払う攘夷(じょうい)の機運が高まったとされていますし、麻疹大流行の5年後に幕府は崩壊しました。
――感染症というのは時代の局面に大きく関係しているということですね。

早川: 非常におもしろいのは、明治維新のころというのは西洋医学の革命の時代、つまり消毒や麻酔ということが導入された時代にあたります。それがそのままリアルタイムに日本に入ってまいりまして、戊辰戦争のころには刀傷や鉄砲傷、こういったものに対して安全な手術が可能になりました。けがだけでなく、お産のときの感染も予防できるようになってまいりました。

――きょうのテーマは「進化するワクチン」、大正デモクラシーとスペインかぜ、結核です。大正は1912年から1926年までの15年間ということで、短い時代でしたよね。

早川: 江戸が250年間、明治が44年間で、大正が15年間ということで、時代としては短いんですけれど、明治時代の富国強兵からある程度余裕が出てきて自由があった時代らしいですね。
ただ、その短い時代の中に、感染症に関わる出来事が2つありました。
――それは何ですか。

早川: 1つはスペインかぜの大流行、もう1つが結核の対策です。
――では、1つずつ教えていただきたいと思います。まず、スペインかぜの大流行について教えてください。

早川: スペインかぜというのは、インフルエンザのことです。
インフルエンザ自体が日本では江戸時代にも流行し、江戸では夏の1か月で8万人もの死者が出て大混乱になったことがあり、何度か繰り返されていますが、第1次大戦のときに世界中で大流行しました。

第1次大戦は1914年に始まりますが、戦争の初期1915年にインフルエンザの世界的な流行が始まりました。そして大戦末期の17~18年ごろには、ヨーロッパ中に広がりました。そして戦争どころではなくなりまして、戦争が終わったわけです。
第1次大戦において日本は戦場にはなりませんでしたけれど、遠く離れた日本や中国までインフルエンザが広がっております。
――インフルエンザの別名が「スペインかぜ」ということですが、スペインで始まったから「スペインかぜ」というわけではないのですね。

早川: これは誤解をされているんですけれど、インフルエンザの流行が始まったのはスペインではなくて、アメリカの軍隊だったといわれております。しかも第1次大戦に参戦したアメリカの軍隊から広がったことは、機密事項とされていました。
それが中立国であるスペインまで広がったときに世界で流行する悪性の感冒であることが分かりまして、「スペインかぜ」という名前がつきました。「インフルエンザ」となったのは戦後になってからです。
――インフルエンザが流行して、どのような事態が起こったのでしょうか。

早川: そのとき世界では、患者さんが6億人、死者は2000万人以上に達したとされています。日本でも大変大きな被害が出ました。大正7年、8年、9年の死亡原因の第1位がインフルエンザによる肺炎でした。
――当時、治療や予防はどういう状況だったのですか。

早川: そのころはまだインフルエンザウイルスが特定されておらず、薬もありませんので、隔離や水分補給、可能な場合は酸素吸入などです。
――インフルエンザのワクチンはいつできたのでしょうか。

早川: インフルエンザワクチンができたのは第2次大戦後になってからなんですが、有効な薬ができたのは21世紀近くになってからです。それまでは、先ほど申し上げましたマスクや隔離など、ある程度社会的な防衛でコントロールをしておりました。
――では、大正時代のもう1つの出来事、結核の対策について教えてください。

早川: 結核は、日本で社会問題になったのは明治以降です。昔は遺伝が原因で感染するといわれていました。
当時、農村から都市の工場に出稼ぎに来る若い女性などが集団感染を起こすとか、学校で感染が広がっていく、こういったことが多く起きてまいりました。
結核についてはなかなか有効な治療がなかったんですけど、大正時代になってようやく対策が取れるようになりました。
――どんな対策がなされたのですか。

早川: 大正時代にBCGのようなワクチンが導入されたことで結核が予防できるようになりました。これによってコントロールが可能になってまいりました。それから、結核は栄養状態が悪いとかかりやすくなりますので、栄養状態がよくなったことが患者さんの減少に大きく関わっていると思います。
――いろいろお聞きしてきましたけれど、現在の新型コロナウイルスの対策としても参考にできることが多い気がしますよね。

早川: 感染症すべてにおきまして、やはり清潔な社会、個人と社会の衛生、それから十分な栄養と休養で体の抵抗力を高めることが大変大事だと思います。もしかかってしまった場合は、適切な抗菌薬、抗ウイルス薬などの治療を受けることも大事です。
ただそれだけでは十分ではありませんので、予防的にワクチンを積極的に打っていただくことが大事だと思っております。インフルエンザのワクチンにつきましては毎年流行株を特定して行うようになっておりますし、ほかにも肺炎球菌やヒトパピローマウイルス、そして現在の新型コロナウイルスのワクチンなどワクチンの進化は目覚ましいものがあります。
現在はさまざまな情報が氾濫しておりますけれど、公的機関や病院で提供している正しい情報をもとに行動していただきたいと考えております。

■マイあさ! 健康ライフ「日本人が乗り越えてきた感染症から学ぶ」シリーズ おわり

 


不良華族事件 吉井勇の妻・徳子

2022年01月09日 09時49分21秒 | 事件・事故

 

不良華族事件(ふりょうかぞくじけん)は、1933年(昭和8年)に発覚した華族の恋愛・不倫事件。

ダンスホール事件とも呼ばれる。これは上流社会に属する女性らが関わる性的なスキャンダルとして主要新聞に報じられ、登場人物には伯爵夫人や大病院の院長夫人なども含まれていたことで当時広く世間の耳目を集めた[1]。

事件の発端
この事件は1933年(昭和8年)11月13日に赤坂溜池町で開業していた東京屈指の豪華な内装を誇るフロリダダンスホールの主任教師が警視庁に検挙されたことに始まる[1]。

東京朝日新聞(現在の朝日新聞東京本社)は同年11月15日付の朝刊でこの事件を報じた。

朝刊が報じるところによると、主任教師は「日本一の好男子」と自称して女優やダンサー、良家の娘、有閑マダムなど多くの女性と関係を持っていたといい、新聞記事の中で主任教師は「色魔」とまで呼ばれている[1]。

当時は姦通罪が存在した時代であり、主任教師の行為は検挙の対象となり得たのである。

警視庁の取り調べの中で主任教師は、自分に女性客を紹介したのは歌人の伯爵吉井勇の妻・徳子であることを自供した[1]。

徳子は愛人であった主任教師の愛情と関心を繋ぎ止めるために、友人の有閑マダムを次々と姦通相手として彼に斡旋していた。そして事件発覚後は身を隠していたが、警視庁は徳子を捜し出し、取り調べを行った[1]。

徳子は伯爵柳原義光の娘であり、義光の叔母には明治天皇の側室で大正天皇の生母である柳原愛子がいる。義光の父で愛子の兄の柳原前光は駐露公使や枢密顧問官などを歴任している。

また、義光の妹に歌人の柳原白蓮がおり、1921年(大正10年)には白蓮が愛人と失踪する白蓮事件を起こしている。そのような経緯もあり、徳子が警察の取り調べを受けたことは世間の注目を集めたのである[2]。

徳子が吉井勇と結婚したのは1921年、徳子22歳、勇36歳の時だったが、同じ伯爵家同士の結婚とはいえ、徳子の実家の柳原家は堂上華族、吉井家は新華族である。そのためか、勇は徳子とは距離を置いており、そのことが影響して徳子は遊び癖がついてしまう[3]。

それ以外の原因として、吉井も自由奔放な遊び人であり、すでに夫婦関係は崩壊していたこともある。そして徳子が事件に関与していると分かり、世間が好奇の目で見ている時でさえ、当時の上流階級の中には徳子の素行から事件を意外には感じなかった者もいた[3]。

徳子は警視庁の留置場に一晩留置された後、実家の柳原家に帰され、姦通罪では起訴されることはなかった[3]。

徳子の遊び仲間としては、歌人斎藤茂吉の妻・輝子や近藤廉平男爵の次男・廉治とその妻・泰子などがおり、木戸幸一の『木戸日記』(1933年(昭和8年)11月22日)には宮内省警衛局皇宮警察部が宮内省宗秩寮総裁の木戸に対して調査報告を行った記述があり、その報告によれば徳子は1931年(昭和6年)8月中旬より近藤廉治と関係を持っていたという[3]。

斎藤輝子はこの事件の結果、夫と長期にわたって別居することになる[3]。また、この事件に関連して小説家の久米正雄や里見弴などが、花札賭博開帳の廉で検挙されている[3]。

華族に対する処分

吉井徳子 1947年(昭和22年)
徳子は刑事罰を受けなかったものの、宮内省は事件に関係した華族を処分する意向で、1933年12月17日には徳子の夫の吉井勇が隠居する意向を表明している[4]。

華族に対する処分を決める宗秩寮審議会は同年12月21日に開かれ、審議の結果、徳子に対しては「礼遇停止」、近藤廉治・泰子夫妻に対しては華族の身分を剥奪する「除族」、徳子の夫の吉井勇伯爵と近藤廉治の兄の近藤滋弥男爵に対しては監督責任を問い「訓戒」とする処分が決まった[4]。

なお、徳子の事件が発覚する少し前、徳子の父の柳原義光伯爵が男色相手の新派の元役者の男に手切れ金を脅し取られる事件が発覚している[4]。
白蓮と徳子に加えて自身にもスキャンダルが発覚したことで義光への処分も新聞では取り沙汰されていたが、審議会では処分の対象として議論にすらならなかった[4]。
新聞記者たちは義光の自宅にまで押しかけて進退を追及したが、義光は隠居も爵位返上もしなかった[5]。皇室に近い柳原家への「配慮」が働いた結果、果断な処分に期待した国民を一層失望させることとなった。

この事件後、徳子は勇と別居し、離婚した[5]。
勇は後に別の女性と京都で生活することになる[5]。
叔母の白蓮は、事件発覚前に徳子にダンスホールに行くのをやめるよう説教し、子供のためにも離婚に及ばないよう世話をしていたが、騒ぎとなって新聞取材を受け、「姪がこのような問題を起こし、叔母として恥じる次第です。」と頭を下げている。
徳子の所業を擁護こそしなかったものの、柳原家で四面楚歌であった徳子の唯一の味方であった。

 


2022年にのぞんで 昭和1桁世代の弔い合戦 インタビュー 宗教学者・山折哲雄

2022年01月09日 09時41分25秒 | 新聞を読もう

注目の連載 オピニオン
 毎日新聞 2022/1/7 

宗教学者、山折哲雄さん(90)は一昨年、肺炎で入院した際、「延命治療も手術も一切お断り」と医師に告げたという。
すんでのところで生を得た今、これからの人生を「昭和1桁世代の弔い合戦」と位置づけ、言葉の陰影と複眼的な物の見方をこの国に取り戻そうと語る。卒寿の碩学(せきがく)にその真意を聞いた。【聞き手・小国綾子】

昭和1桁とは、戦争と平和の両方を経験した最後の世代なのです。
高度成長が終わり、今や日本が数々の困難に直面している。
貧困や格差の問題が深刻になり、若者までが閉塞感や絶望を抱える時代になってしまった。
そんな中、昭和1桁世代が一人、また一人とこの国を憂えながら死んでいく。
これからは「弔い合戦」だ、と。
例えば「癒やし」という言葉。平成に入って安易な使い方が増えました。
「癒やし」はむしろ「卑しい」。
「寄り添う」もそう。しかし「寄り添う」と口にすることで問題をスルーし、具体的な行動を取らずに済む便利な言葉になっていないでしょうか。
東日本大震災に多様された「絆」もそう。すべてをスルーさせる「あいさつ語」のようになっている。
他方、「向き合う」という言葉が使われなくなっているようで気になります。
言葉には陰影やさまざまな含意があります。
例えば「絆」は人のつながりを示す一方、人々を縛るくびきの意味もある。
言葉を一面的に用いられる風潮の中で、人間の存在も、一面的に扱われているように感じます。
また、「被害者」「加害者」という言葉が多用され、被害者か加害者か、という二元論が社会にはびこっています。

新型コロナウイルスの感染これも「感染させる側」「させられる側」、つまり被害者・加害者の二元論でしょうか。

平成から令和へ、厳罰主義や極刑主義が広まり、社会はますます非寛容になっています。
日本人はもともと、複眼的な物事の見方をする文化に生きてきたはずなのに。
今回のコロナの登場で、死は急に身近な存在になりました。
しかし、残念ながら、新聞もテレビも「命は大事だ」「命を守れ」の一辺倒。
死生観について改めて考えるような命の議論は広がりを持ちません。
日本人は今一度「生」と「死」について考え、死生観を問い直さなければなりません。
心臓死や脳死は人の死を「点」でとらえる考え方です。
しかし日本の伝統的社会では「生と死は線でつながっている」と考えられてきた。
「点」ではなく「線」としての死。
死に向かうプロセスを「線」でとらえたのです。
日本人が「無宗教」という時、それは特定の宗教や宗派を信じないということに過ぎません。
むしろ「無の宗教」であると言えます。
宗教心は普遍的なもので、多くの人が心の底で持っている。
いや、宗教心を大事にする人ほど特定の宗教を信用しないようなところが日本人にはあるのです。
同じことが政治にも言える。この国の「無党派」の存在は、日本人の「無」をめぐる国民性から考察する必要があります。
彼らの多くは単に政治に関心がないのではなく、政党や党派を信用していない。
無常、無我、無一物、無尽蔵・・・。日本人は「無」という言葉が大好きです。
私は、日本の「無派」の中には仏教、儒教、道教、神道のマスターたちの思想に通じるものがあると感じます。
だから「無党派」が増大している現実を嘆く必要はない。
むしろ信頼できる存在だ。
私は昨今、社会に広がりつつある二元論の方がずっと心配です。
無党派がいかに社会化し、政治化していくのか―。
それがこれからの日本の行方を握っているはずです。