人間の幸福に直結する「智慧」

2023年07月30日 12時18分43秒 | その気になる言葉

▼智慧あるひとが最も幸福なひとである―アリストテレス

人間の幸福に直結する「智慧」が、今ほど求められている時代はない。

智慧(ちえ)とは、一切の現象や、現象の背後にある道理を見きわめる心の作用を意味する。

人類を「平和」へうながしてゆく文明再生への「智慧」が期待される。

▼高い倫理観や価値観、共生の思想を総合的に備えた人材の育成。

真実を語り、正義を行うための人間教育—つまり人を「善と信念の道」へ導く教育が期待される。

▼現代は紛争の絶えない困難な時代であり、グローバル化した世界は激しい競争にされ、格差が広がっている。

そこで、新たなビジョンのもとで、人々の生活の質を向上させ、国際的相互理解を増進させる必要がある。

▼経済と思想の自由は、発展と繁栄の象徴となり、全ての人に機会が与えられ、自由競争が効率化と向上につながるメカニズムとなるべきだ。

▼対話によって、世界を対立から協調へ導く必要がある。

▼今いる場所でどんな人とも対話を重ねていくことが、調和と共生という理想をかなえるこことなる。

 

 

 


本 満蒙開拓団

2023年07月30日 10時20分12秒 | 社会・文化・政治・経済

満蒙開拓団

加藤 聖文 著

陸軍主導の国策となり、今なお続く悲劇をもたらした満洲移民。計画から破局までの全歴史を辿る初の通史。

満洲事変を契機として計画された日本各地からの農業移民は、日中戦争の本格化に伴い、陸軍主導の強力な国策となり、青少年までもが満蒙開拓青少年義勇軍として送り込まれた。開拓先で中国人農民の反発を受けながらの厳しい生活、そして敗戦がもたらした悲劇は今なお終わっていない。移民の計画から終局までの全歴史を辿る初の通史。

加藤 聖文は、日本の歴史学者。国文学研究資料館准教授。専門は日本近現代史・東アジア国際関係史・記録資料学。近年は海外引揚研究を中心に活動している。早稲田大学卒業

 

満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)は、1931年昭和6年)の満洲事変以降、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、満洲内蒙古華北に入植した日本人移民の総称である。1932年(昭和7年)から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、満洲国建国直後から1945年の敗戦までの14年間に日本各地から満洲内蒙に開拓民として、27万人が移住した。満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とも言われる[1][2]

概要[編集]

日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。加藤完治が移住責任者となり、満洲拓殖公社が業務を担っていた。この移住は1945年半ばまで続き、日本軍が日本海及び黄海制空権制海権を失った段階で停止した。

昭和恐慌と試験的移民期[編集]

満蒙開拓団の事業は、昭和恐慌で疲弊する内地農村を中国大陸への移民により救済すると唱える加藤完治らと屯田兵移民による満洲国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により発案され、反対が強い中、試験移民として発足した[3]1936年(昭和11年)までの5年間の「試験的移民期」では年平均3000人の移民を送り出した[3]

二・二六事件と本格的移民期[編集]

1939年入植の高社郷開拓団

しかし、同年の二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、同事件により高橋是清蔵相も暗殺され、反対論も弱まり、広田弘毅内閣は、本事業を七大国策事業に位置付けた[3]。同年末には、先に関東軍作成の「満洲農業移民百万戸移住計画」をもとに「二十カ年百万戸送出計画」を策定した[3]。その後の1937年(昭和12年)には、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)の発足、1938年(昭和13年)に農林省拓務省による分村移民の開始、1939年(昭和14年)には日本と満洲両政府による「満洲開拓政策基本要綱」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた[3]

1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)までの5年間は「本格的移民期」にあたり年平均送出数は、3万5000人にのぼる[3]

日中戦争と移民崩壊期

日中戦争の拡大により国家総力戦体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者が激減したが、国策としての送出計画は変更されなかった[3]

国は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした[3]。具体的には補助金による分村開拓団・分郷開拓団の編成、義勇軍の義勇軍開拓団への編入などである[3]。それでも、予定入植戸数(一集団の移民規模;200から300戸)に達しない「虫食い団」が続出した。[4]

1940年(昭和15年)には、同和地区からも開拓団が編成され、1941年(昭和16年)からは統制経済政策により失業した都市勤労者からも開拓団を編成した[5]。結局、青少年義勇軍を含めると約32万人が移住したことになる[6]

開拓民が入植した土地はその6割が漢人朝鮮人の耕作していた既耕地を買収した農地であり、開拓地と言えない土地も少なくなかった[5][7][8]

ソ連参戦と終焉

太平洋戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの召集も増えるようになり、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が召集された[3][9]

同年8月9日にソ連軍が満洲に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡した[3]

ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人、その大半が老人、女性、子供であった[10]

男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい、その過程と難民生活で約8万人が死亡した[3]

主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決などが理由である[3]

敗戦時に旧満洲にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員が占める[6]

自決や殺害の危機を免れ辛うじて開拓地から都市に辿りついた人々は、麻袋の底をくりぬいて身に纏う避難民の姿もあった[10]

運よく貨車を乗り継いで、長春瀋陽にまで辿り着いた人々もいたが、収容所の床は剥ぎ取られ、窓ガラスは欠け落ち、吹雪の舞い込む中で飢えと発疹チフスの猛威で死者が続出した[10]

孤児や婦人がわずかな食料と金銭で中国人に買われていった[10]。満洲に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち上述のように8万人を開拓団員が占める[11]。満洲での民間人犠牲者の数は、東京大空襲広島への原爆投下沖縄戦を凌ぐ[11]

これほど犠牲者を出した敗戦時の日本軍の満蒙政策とその放棄であったが、大江志乃夫によれば、関東軍上級将校の自決者の中で満蒙居留民に詫びる遺書をしたためたのは上村幹男ただ一人であったという[12]

内地に生還した元開拓移民も、引き揚げ後も生活苦にあえぎ、多くが国内開拓地に入植したが、南アメリカへの海外移民になった者もいた[13]

前記の通り、中国人に買われた孤児や婦人が約1万人いたため、中国残留日本人問題となった[13]。この帰還は、1972年(昭和47年)の日中国交正常化から21世紀まで続く現代的な問題である[13]

開拓団員と義勇隊員併せて3万7000人の移民を送り出した長野県[14]内に満蒙開拓平和記念館(同県下伊那郡阿智村)がある[6]。同記念館は、2014年に、開拓団の生活やソ連軍侵攻後の逃避行についての聞き取り調査する活動を、中国人目撃者から聞き取る活動を行った[6]黒竜江省方正県大羅密村の最年長男性によると、ソ連国境近くにいた開拓団民が同村まで徒歩で逃れてきたが「開拓団民はみなぼろを着て、女性は丸刈りだった。生活は苦しく、中国人に嫁いで子供を産み、何年もしてやっと帰国できた」などの体験談などを得ている[6]

開拓民の出身地

満蒙開拓に送り込まれた27万人のうち、長野県出身者が約3万4千名で最も多く、全体の12.5%を占め、第二位の山形県の2.4倍であった[15]


敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 

2023年07月30日 09時38分30秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
 ジョン ダワー (著), John W. Dower (原名), 三浦 陽一 (翻訳), 高杉 忠明 (翻訳)
 
敗戦後日本人の苦難の歩みを描いて,日本中に感動を巻き起こした名著の写真増補版.
旧版の2.5倍以上に増補された貴重な写真は,著者みずからによって本文といっそう緊密に組み合わされ,敗北を抱きしめて立ち上がった民衆の類まれな経験を語り尽くす.
ヴィジュアル史料と文字史料が織り成す陰影深い戦後史像の誕生
 
 一九四五年八月、焦土と化した日本に上陸した占領軍兵士がそこに見出したのは、驚くべきことに、敗者の卑屈や憎悪ではなく、平和な世界と改革への希望に満ちた民衆の姿であった…新たに増補された多数の図版と本文があいまって、占領下の複雑な可能性に満ちた空間をヴィジュアルに蘇らせる新版。
 
敗戦の惨状の中を歩み始めた民衆は、「平和と民主主義」への願いを抱きしめて、上からの革命に力強く呼応した。
奇蹟的な「敗北の物語」を描いた二十世紀の叙事詩。ピュリッツァー賞受賞作品。2001年刊の増補版。
 
ダワー,ジョン
1938年生まれ。アマースト大学卒業後、ハーヴァード大学で博士号取得。
現在マサチューセッツ工科大学教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 
教科書では学べない日本の終戦時の裏を知る歴史書
 
 

2004年1月刊(原著は1999年刊)。
このピュリッツァー賞など多くの受賞を誇る著作を、今更ながら私も読んでみた。
著者は米国の歴史学者で専門は日本近現代史(現在MIT名誉教授)。
これは所謂「歴史研究書」というよりは、圧倒的な質量を持って語られた「一大ドキュメンタリー」のような世界。
アジア太平洋戦争敗戦から1952年GHQ占領統治終了(サンフランシスコ講和条約発効)までの流れを、政治経済の支配階層から一般民衆の動き・意識の変遷までこれだけ詳細に分析し論じ活き活きと描写した著作を私は他に知らない。
まさに圧巻!であった。
特にこの「増補版」では初版にはなかった貴重な写真・図版などが数多く追加されていて、ビジュアル面でも理解がより深まる。
ちなみに原著タイトルは”Embracing Defeat”~何やらジャズスタンダード曲のようでもある。
ここでダワー氏は、天皇と天皇制~それが戦前戦中の日本国民の価値観にどう作用し、それが戦後のGHQ(特にマッカーサー)上陸によって「崇拝の対象」がどう劇的に転換し、それでいて「人間宣言」した天皇がいかにその地位と権威を保持し続けてきたかを、あらゆる側面から検証している。
そしてマッカーサーらが、自身の占領統治を円滑たらしめるために「天皇の戦争責任」を徹底的に否認し、「責任の所在は暴走した軍部」というシナリオをどう作りあげていったか。
また、当初若きニューディーラーたちが目指していた「非軍事化と民主化」路線が、その後の「逆コース」(所謂レッドパージや労働運動締め付け、再軍備路線等)によってうやむやにされていく過程。
一般民衆の民主化への願望とは裏腹に、徹底して「改革」を最小限に抑えようとする頑迷な守旧派支配層。新憲法制定の過程でもその「抵抗」は如実に表れる。
そして蘇る戦犯右翼たち。
さらには戦後の経済復興が朝鮮戦争という「天祐」によってもたらされた事実の重視。
天祐(てんゆう)とは、天の加護。天のたすけ。天助。
著者は日本の戦後体制を「日米交配による産物」と捉え、日本の1952年講和条約以降の「独立」は実は米国の「保護国化」であったと喝破するが、だからこそ、21世紀に入ってからの日本が「非軍事化と民主化」という取り残された課題をどう解決していくのか~そういう問題提起と期待をこの著作の最後に込めてるように私には思えた。
しかし、戦後も戦前戦中と「ほとんど変わらない日本」の真相・深層も、この優れた歴史研究者は冷徹に見据えてもいるのだ。
非常に長く読むのにも時間がかかるが、それだけの労力をかけるに足る素晴らしい大作。おすすめ!である~(*^^*)
 
 
 
終戦後の米国による占領について書かれた書物は数多くあるが、その中でも本書は異彩を放っている。
ほとんどの書物が占領下での日本の政治経済の改革にフォーカスしているのに対し、本書は改革そのものというよりはむしろ、敗北と占領によって日本人がどのように変わったのか、あるいは日本人の何が変わらなかったのかを観察している。
日本人そのものを客観的に観察できるのは、やはり日本人よりは外国人の方だろう。
日本人が所与としていることにも本書の筆者は鋭く切り込んでいる。
しょ‐よ【所与】 · 1 他から与えられること。また、そのもの。特に、解決されるべき問題の前提として与えられたもの。
また、筆者は学術的文献のみならず、日本の新聞や漫画、映画、ポスターといった、これまでの日本研究では見過ごされて来たような素材をも資料として使用しており、出来る限り日本人を等身大で理解したいという筆者の意欲が見て取れる。
この増補版は、これらのユニークな資料の写真をふんだんに持ちいており、あたかも資料集のような充実さである。

惜しむらくは、筆者は「征服者」である米国人であり、その点で客観性に疑問を付すことができる点である。
筆者は客観的な視点から分析しようと試みているが、日本人の読者から見ると、「制服者」の視点から書かれているのではないかと思える箇所が少なくない。
また、筆者は天皇制に懐疑的であり、随所でこのスタンスをさりげなく示しているが、これは戦後日本を分析すする者にとっては非常に大きなバイアスとなってしまうのではないだろうか。

このように本書には問題点が無いわけではないが、本書の副題にある「第二次大戦後の日本人」を様々な角度から観察したという点において、本書ほど徹底的なものはない。
この点に、本書が高く評価されている理由があるだろう。下巻も楽しみである。
 
 
 
資源に乏しく、人だけが溢れていた当時の日本が大国ぶって仕掛けたアジア・太平洋戦争。
その代償の大きさがまざまざとわかる一冊。
緻密な分析と多角的な視座によりえぐり取られた、日本の戦争観が理解できる一冊です。
同時になぜ日本だけが、官僚制度を含めて国家体制が温存できたのかも迄もがわかってきます。
例えばドイツは政府が崩壊し、イタリアは政府転覆によってバドリオ政権に取って代わられたなかで三国同盟の内、日本だけが生き残ってアメリカ占領軍の走狗となった。
しかもアメリカによって多くの日本人が、戦犯指定された以外の人々は、戦争の罪を許されたかのような「錯覚」を思い込むことに成功した。
そして大東亜共栄圏構想までもがあっさりと悪い夢をみたかのように、無責任にも捨て去ることができた。
ここではあたかもアメリカはメシアのごとき振舞いをした訳である。
最後にもう一度述べたいのは著者の研究によって、バカみたいな当時の日本の大東亜共栄圏構想の空虚さとアメリカの成熟した国家戦略が理解できます。当然下巻も一読ををお勧めします。
 
 
敗戦後の日本を米国はどの様に考え、統治したのか?それを日本の政治家、大衆はどう捉えたか?を知ること、そうすることで、現在の政治の動きが理解できればと思い購入しました。

これまで、私自身があまりにも常識、普通のことと考え、見えてなかったことが浮かび上がって見えてきたのが、とても面白かったです。

たとえば、「昭和」という年号が戦後も継続して用いていました、あたりまえのように。
ところが、当時の世界の潮流では、敗戦国の最高責任者(日本の場合は天皇)が罰せられていたこと、よって昭和天皇が失脚し「昭和20年」で途絶えていても、まったくおかしくはなかったようです。

これは、著者いわく「クサビを打ち込み、軍部を悪役にして、天皇を平和主義者にして天皇制民主主義を建設せよ。」とのマッカーサーをはじめとする米国占領軍の方針が要因とのことです。
この方針は、天皇を罰すると日本国人が暴徒化し統治が困難になる、共産党化することの懸念が背景らしいです。
ところが、その予想は想定外でした、米国側にとっては良いほうに。

少しショックを受けたのは、天皇の求心力が戦後、予想以上に低下し、日本の民衆の心はマッカーサーに急速に傾いていったことです。
「マッカーサーを聖職者、偉大な愛の化身、神のように見ていた−贈り物、手紙が滝のように降り注いだ」とのこと。
日本人の依存的心理、強力なカリスマ的リーダーを羨望する、まかせっきりにする体質は日本人の国民性なのか。
(自民党だめなら民主党、でもだめなら、みたいな)

ほかにも本書は、貴重な写真や図表が豊富に載っており、それらを見ているだけでも当時の様子が窺え、面白いし興味深かったです。
日本人として、読んでおくべき書籍だと思います。
 

客観的事実として、「戦後」の日本人は自らの国の侵略戦争における戦争犯罪に対して無頓着でありつづけた。
諸外国、特に戦後日本の方向決定を支配したアメリカはそれを形式的には許してきたし、その他の国々も大目に見てきた節がある(少なくとも戦後の一定の期間においては)。
もちろんそれは国家政府単位の外交上の駆け引きでの話であり、個別にはそれを強く非難し補償を求める人たちは少なくないのだし、国内でもそれについてきちんと調べ発言してきた人はいるのだが、それは一部を除いて「国家対国家」の責任追及にはなっていない。
そして、道義的には戦争突入と遂行の責任者の位置から逃れられないはずの昭和天皇および天皇制は何の咎もなくその地位を保全され、その後も名目上は日本国民の上に君臨している。

煎じ詰めて言えば米占領軍の「改革」は甘く、権力者は戦時の反省など何もなく贅沢に暮らし、庶民は飢えに苦しむ不条理な状態も温存されたまま「戦後」はスタートした。
ここから今日までに何ら歴史的「転換」などはなかっただろう。
日本において民主主義なるものが理解されたとも定着したとも言えない。

一方で、今の90代の高齢者の話を聞けば、あの戦争が終わったことを「解放」だと捉えた一般国民の意識があったことも想像がつく。
自由で明るい未来を作っていく希望の時代の到来であり、戦争に明け暮れる「嫌な時代」が偉そうに国民に圧力を加える軍部という「嫌な奴ら」とともに去った瞬間だったのだろうと(残念ながら、そうでないケースも多かったが)。
終戦とともに、完膚無きまでの敗北を口実に、それらの過去を水に流しきれいさっぱり忘れ去る、忘れるのだ、前だけを見ていいのだ、というまったく自分勝手なリセットボタン押し気分が、上記のような責任問題をどうでもいいことにしてしまった土壌なのだろう。

もちろんリセットボタンを押された日本人は、そうした気分を戦略的に許可し利用した米占領軍の見守りとサポートと解放の高揚感の中、復興に向けたロケットスタートを切ることができた。
その結果が、良くも悪くも今わたしたちが暮らしている日本を形作った。

この占領期間の日本における日本人と占領軍の動向を、膨大な一次資料にあたってここまで整理した本は初めてだったのだろうし、今もこれに匹敵するものはなさそうだ。
読めば読むほど「確かにそうだっただろうな」とおもえる。
そして1950年までの日本に生まれなくて幸運だったと心から思った。
「偉大な祖国」の「偉大な民族」などという訳の分からない帝国思想を叩き込まれることも、爆撃や銃撃で木っ端微塵にされることも、手足を失うことも、家や家族を失い露頭に彷徨うことも、瀕死の飢えに十数年を耐えることも、すべてを失ってしかたなく犯罪に手を染めることも、ありとあらゆる伝染病で苦しんで死ぬことも、何一つ経験せずに生きてこれたからだ。
といってもほんの10年程度の時間差でしかないことに改めて慄然とする。
今いきている日本人は運良く(あるいは汚い手を使って)この苦難の時代をなんとか生き延びた人やその子孫である。

日本人なら必読だと思う。この時期の日本のことを我々が知らないでいて良い理由はなにもない。我々の原点を知っておこう。

利根輪太郎の競輪人間学 捲り張られ

2023年07月30日 06時30分22秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ 名古屋競輪 開場74周年記念 金鯱賞争奪戦

3日目(7月30日)

10レース

別線互角 S級準決勝

並び予想 9-1 4-2 8-7 3-5-6

レース評

連日好回転の捲りを見せる嘉永。三度豪快な捲り発揮。鋭い中本がマークで逆転十分。ただ再度、渡辺に乗る守沢も突っ込む。

嘉永 泰斗選手から勝負する

9-1ラインを軽視したことが、車券として、敗因となる。

8レース 4-5

9レース 7-1

10レース ?

出目作戦として、8レースの4-5の下がり目の3-5で勝負する。

だが、9レースの7-1の上がり目なら、1番からみの車券も買えたのだ。

3-5ラインは8-7ラインと先行争いになっことも誤算であった。

4-2ラインも先行争いに加わる展開となり、後方の9-1ラインの捲りごろとなる。

3番の嘉永 選手は1番の守澤 太志選手に張られて失速する。

これが、走る格闘技の波乱要素!

1番人気 3-5(3・9倍)2番人気 5-3(6・4倍)

 




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 1 守澤 太志   11.7   仕事し差す
2 9 渡邉 雄太 1/4車輪 11.8 B 援護受逃粘
3 2 武藤 龍生 3/4車輪 11.4     切替直伸び
4 3 嘉永 泰斗 1/8車輪 11.6     捲り張られ
  5 8 福永 大智 1/8車輪 11.6   S 締られ伸ず
6 5 中本 匠栄 1/2車身 11.5     目標張られ
7 7 椎木尾 拓哉 1/8車輪 11.3     踏出し離れ
  8 6 山口 貴嗣 3車身 11.7     ライン共倒
  9 4 高橋 築 5車身 12.3     叩かれ一杯
 
2

1=6
700円(3)
2

1=9
790円(3)
3

1=2=9
3,710円(12)


1=2
890円(10)
1=9
400円(4)
2=9
2,340円(23)
1-6
1,100円(5)
1-9
1,100円(4)
1-9-2
8,380円(29)

戦い終わって

戦い終わって写真

カマシた渡邉雄太に乗ったS班の守澤太志が一番人気の嘉永泰斗ー中本匠栄の仕掛けを一発で止めて見せた。その後も内を締めての流石の立ち廻りで渡邉も二着に残る。切り替えて直線伸びた武藤龍生が三着。
 一着の守澤は「作戦通りにはいかなかったが渡邉君がしっかり叩いてくれた。並走が見え、嘉永君がどこから来るかと思っていたら死角から来た。なので無理やり持って行った。内の事も考えながらですね。最後は無我夢中でしたが、しっかり対処出来た。三日目はセッティングや乗り方を大幅に変えた。決勝ではもっと良くなるように」。
 二着の渡邉は「前中団からで斬って斬っての展開を考えていたら突っ張られた。踏み遅れてしまって、内差しヤバいと思ったら高橋築さんが行ってくれて。二日目より全然キツイ。最後も行かれたと思った。名古屋は相性いいし、ケガも良くなってきて状態は三日目が一番良かった」。
 三着の武藤は「高橋君は前々に行くと言ってくれていて任せていた。斬らないと厳しいと思った処で勇気を持って行ってくれた。バックでは迎え入れてあげたかったが遅れていたので。守澤さんが持っていったのが見えて、閉じてくるのを確認してからコースを探して踏んだ。後は無我夢中で。記念の決勝はいつ振りか覚えてないですね」。

 

11レース

並び予想 1-9 2-5 7-3-8 4-6

レース評

捲って良し、逃げて良しの山口が好調。首位突破を狙う。地元の岡本が食い下がり対抗だが、坂井次第では平原の逆転は十分。

1-9 1-3 3-1 1-7の3連単で勝負する。

1-9-3 1-9-7 1-3-7 1-3-5 1-3-2 1-7-3 1-7-5 3-1-7 3-1-5 3-1-9

1-5に目がいかなかったことが悔やまれた。

7-3ラインへの拘りが敗因!

1番人気 1-3(4・8倍) 2番人気 1-9(5・9倍)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 山口 拳矢   11.0   6番手一気
2 5 桑原 大志 1/4車輪 11.5   番手で仕事
  3 2 取鳥 雄吾 微差 11.6   SB 援護受逃残
× 4 3 平原 康多 1/2車身 11.4     前張れ切替
5 9 岡本 総 1/2車身 11.1     前遅仕掛け
6 8 小林 大介 1車身 11.4     前切替一緒
  7 6 新納 大輝 1車身1/2 11.0     目標が全然
  8 4 金ヶ江 勇気 タイヤ差 11.1     8番手不発
9 7 坂井 洋 1/2車輪 11.8     捲り張られ
 
2

1=4
1,240円(5)
2

1=5
1,620円(6)
3

1=2=5
2,210円(8)


1=2
780円(9)
1=5
460円(5)
2=5
1,140円(12)
1-4
1,430円(6)
1-5
1,580円(7)
1-5-2
7,560円(23)