世間や他人が良しとする「みんなの正解」ではない。
自分にとっての正解を導き出す。
そして、人生をデザインする。
今の社会では、「お金」は、行動の選択を自由にする。
つながりが大切である(家族・友人・知人)
そして健康が土台となる。
自分の得意を見つける。
得意や好きを発見できれば、これからの人生の<種>となるはず。
今できることから、まず始めよう。
世間や他人が良しとする「みんなの正解」ではない。
自分にとっての正解を導き出す。
そして、人生をデザインする。
今の社会では、「お金」は、行動の選択を自由にする。
つながりが大切である(家族・友人・知人)
そして健康が土台となる。
自分の得意を見つける。
得意や好きを発見できれば、これからの人生の<種>となるはず。
今できることから、まず始めよう。
健康とは、単に病気がない状態ではない。
「精神的」にも、「社会的」にも「満たされている状態」が健康なのである。
定期的な身体活動を行うことで、がんは8~28%。糖尿病は17%、心臓や脳卒中では18%減少するそうだ。
抑うつの原因の一つが運動不足ともされている。
日本の若者の死因のトップは自殺。
▼誰とも真っ向から渡り合える人になれーそのことは、実は非常に難しいことである。
相当の努力が必要である。
師の教えに従い、世界的に活躍した弟子も現れたのである。
人は、無限の可能性を秘めている。
▼途上にある「試行錯誤」が、社会を「良い方向」へ変化させる機会になる。
重要ななのは、性別にかかわらず社会で活躍できることだ。
既存社会の問題点や限界を捉え直すことで、具体的な可能性の契機とすることだ。
▼日本には、世界の平和のために光彩を放つ人材がたくさんいる。
問題は「後を継ぐ若い人」が陸続と育っていくかどうかである。
▼青年は青年に最も強く働きかける―ゲーテ
一人立つ勇気が基本であり、団結が肝要である。
▼他者の役に立ちたい―という心を磨くことが、脳の力を発揮する土台となる。
他人のために行動したことが、自分のためにもなる。
▼子どもは、未来からの使者である。
「人の心の中に平和の砦を築かなければならない」ユネスコの示す「平和の文化を」。
子どもが描く絵には、偉大な力がある。
子どもの希望に力を、世界中の大人に伝えたい。
画は人間の天使
画は少年の宇宙
画は少女の夢の城
子どもを育てる側も育てられる。
画を通して、少年・少女を激励する。
読書、作文、絵画などを通じて子どもたちの可能性を引きだす。
投票行動と民主主義の行方
自分の1票の重要性の問題だ。
特に高齢者は自宅から投票所まで遠い場合、しかも坂や階段の長さで投票率は下がるそうだ。
また、年収も関係する。
自分が選挙にいくことで、世の中が変わるいう「内的有効性の感覚」が低い人、社会から取り残されているという「疎外度」が高い人、「政治的知識度」が低い人は、選挙行動に関心が低いのだ。
教育教育とは、世界を変えるために用いることができる、最も強力な武器である。
教育とは、世界を変えるために用いることができる、最も強力な武器である。
教育とは、世界を変えるために用いることができる、最も強力な武器である。
私は生涯の間、アフリカの人々の闘いに専念しました。
私は白人の支配と戦い、私は黒人の支配と戦いました。
私は、民主主義的で、自由な社会の中で、全ての人に平等な機会が与えられることを望んでいます。
これを、私が生きている間に見届けることが理想です。
しかし、私はこのために必要ならば、死ぬ準備ができています。
ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(コサ語: Nelson Rolihlahla Mandela、1918年7月18日 - 2013年12月5日)は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士である。
南アフリカ共産党中央委員、アフリカ民族会議議長(第11代)、下院議員(1期)、大統領(第8代)を歴任。若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放される。翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。デクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力しながら、1993年にノーベル平和賞を受賞。1994年、南アフリカ初の全人種が参加した普通選挙を経て大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施した。1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退した。
賞歴としてネルー賞、ユネスコ平和賞、アフリカ賞、サハロフ賞、レーニン平和賞、ノーベル平和賞、国際検察官協会名誉章受章など。
称号には名誉法学博士(早稲田大学)など。南アフリカ共和国での愛称はマディバ、タタ(父)。
マディバとは彼の先祖が誰かを象徴する氏族名であり、部族社会の影響が残る南アフリカでは単なる愛称ではなく、尊称に近いものである。ミドルネームのホリシャシャはコーサ語で「トラブルメーカー」の意味。
1960年にシャープビル虐殺事件が起きると、マンデラも武装闘争路線へと転換し、1961年11月、ウムコントゥ・ウェ・シズウェ(民族の槍)という軍事組織を作り最初の司令官になった。しかし、それらの活動などで1962年8月に逮捕される。また、1963年7月にはウォルター・シスルやゴバン・ムベキといったANC指導部がヨハネスブルク近郊のリヴォニアにおいて逮捕され、すでに獄中にあったマンデラもこの件で再逮捕された。
1964年に、終身刑の判決を受ける。
投獄は27年半、1万日に及んだ。
母の病死、長男の事故死を獄中で知った。
地獄のような苦しみを味わっても。全ての人種が平等に暮らす「虹の国」の理想を決して手放さなかった。
国際社会からの非難が高まり、彼が釈放されたのは、1990年2月11日。
リヴォニア裁判と呼ばれるこの裁判で、マンデラは1964年に国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島に収監された。
1969年5月には、イギリス人傭兵の有志が集まり、ネルソンを救出する作戦が立てられたことがあったが、南アフリカ側への情報漏れで中止されている。
収監は27年にも及び、マンデラはこの時期に結核を始めとする呼吸器疾患になり、石灰石採掘場での重労働によって目を痛めた。
収監中にも勉学を続け、1989年には南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得した。
また、アパルトヘイトの主要勢力であるアフリカーナーとの対話を予測し、アフリカーンス語やラグビーの知識を身につけたのも獄中でのことだった。
獄中にあってマンデラは解放運動の象徴的な存在とみなされるようになり、マンデラの釈放が全世界から求められるようになっていった。
1982年にはロベン島からポールスモア刑務所に移送され、ロベン島時代よりはやや環境が改善された。1988年にはビクター・フェルスター刑務所に再移送された。
1989年にはピーター・ウィレム・ボータ大統領がケープタウンに彼を招き、会見を行った。1989年12月にも当時の大統領フレデリック・デクラークと会談しているが、この時はまだ獄中から釈放されることはなかった。
1990年2月2日にデクラークはANCほか禁止されていた政治団体の活動許可とともにマンデラ釈放を約束し、1990年2月11日にはマンデラは釈放される。
釈放後の第一声はケープタウンの市役所のバルコニーで行われ、10万人の聴衆が彼の釈放を祝った。釈放後、マンデラはANCの仮本部の置かれていたザンビアの首都ルサカに行き、病気療養中だった議長オリバー・タンボを代行する形でANC副議長に就任してアパルトヘイトの撤廃に向けて取り組むこととなった。
また、アパルトヘイト撤廃に向けて理解を得るためにこの時期には外遊を精力的に行っており、1990年10月27日から11月1日までANC代表団を率いて訪日している。1990年5月には国民党政府との第一回予備会談がケープタウンで行われ、マンデラはANC代表として出席した。
8月には第二回会議が行われ、マンデラは政治犯の釈放とアパルトヘイト諸制度の撤廃を新憲法制定のための前提として要求した。かわりに国民党からは政治暴力の停止要求が出された。全ての黒人を勢力基盤とするANCと、ナタール州に勢力を持ちズールー人を政治基盤とするインカタ自由党とは80年代後半から激しい武力抗争が続いていたが、マンデラ釈放後騒乱がさらに激しくなっていたためである。マンデラは抗争の中止を再三呼び掛けたが、効果はなく、抗争は悪化するばかりとなっていた。
アウストレジェジロ・デ・アタイデ(Austregésilo de Athayde、1898年9月25日 - 1993年9月13日)は、ブラジルの作家、ジャーナリスト。世界人権宣言の審議には、ブラジル代表として参加した。
ブラジル文学アカデミーの総裁を34年間、務めた(1959年-1993年)。
国や人種、信条を問わず、正義と人類の友愛をもって民衆を結び、全世界で平和を推進するために尽力する。
そうした努力によってのみ、友愛を支持する精力的な行動を通じて悪の反対勢力を打ち破り、世界人権宣言の庇護のもと、世界が切望する人々の幸福と安全を保証することができるのであります。
1898年、ブラジルのペルナンブコ州、カルアルに生まれる。リオデジャネイロ連邦大学卒。
幼いころから神学校に学び、聖職者として、当時主席として、民間の教育に専念していた。その中、キリスト教の教えに疑問を抱き、聖職者の道をあきらめることを選ぶ。
から、ジャーナリストとしての活動が始まり、 1930年代、新聞記者として活躍。
また、ジャーナリストの活動の中で、3度の投獄、3年に渡る亡命生活も経験する。その亡命生活の中では、ヨーロッパの文化や、法制度、国民の行動様式を学べるきっかけともなる。
精力的にジャーナリスト活動に携わり、生涯で書いたコラムは5万本。
テレビには20年間、毎週1回出演。
ラジオには30年間、毎週1回出演。
講演も40年にわたっ毎週のように行った。
毎日約6本の記事を書き続け、晩年も毎日3本の記事を執筆していた。
また、入院生活の最後の最後まで記事を書き続けた。
世界人権宣言にもブラジルの代表として参加する。 その後、ブラジル文学アカデミーの総裁を34年間務める。
1993年、94歳で逝去。
ドロドロ血液を改善する―が宣伝文句である。
今日で、2回目である。
前回は満席であったが、今日は10人ほど。
体に電気を流すことを恐れる人もいたが、膝に痛みや腰の痛みが改善した人もいた。
夜中のトイレの回数が減った人も。
さらに、便秘が治った人の体験談も聞く。
5回、10回、20回通うことかもしれない。
無料なので、それで喜んでくるのである。
ともあれ、体験することだ。
血は全身に栄養と酸素を送っいるのであるので、理論的にも理解できた。
山本 圭 (著)
嫉妬感情にまつわる物語には事欠かない。
古典から現代劇まで、あるいは子どものおとぎ話から落語まで、この感情は人間のおろかさと不合理を演出し、物語に一筋縄ではいかない深みを与えることで、登場人物にとっても思わぬ方向へと彼らを誘う。
それにしても、私たちはなぜこうも嫉妬に狂うのだろう。
この情念は嫉妬の相手のみならず、嫉妬者自身をも破滅させるというのに――。(「プロローグ」より)政治思想の観点から考察。
人間はなぜ、嫉妬してしまうのか。
嫉妬される人は、どういう人なのか。
アリストテレスが論じたように、人間は誰に対しても嫉妬するわけではなく、むしろ近しい人に嫉妬心を抱くとされています。
確かに、自分より待遇の良い隣人をねたむことがあっても、どこかの大富豪をねたむ人は少ないでしょう。
つまり、嫉妬感情は、比較可能な者同士の間に生じるものだと言えます。
私は、比較それ自体が悪いとは考えていません。
他人と比べ、他人の目を通して自分を見つめることで、自分の価値を測ることができる。
そこから生まれる嫉妬感情についても、ある意味では人間のさがだと言えるでしょう「上方嫉妬」は、容易に理解できますし、ある程度は仕方ないと思えるものです。
一方、より厄介なのは「下方嫉妬」です。
自分より劣位にある人と比較し、抱く嫉妬感情のことです。
例えば日本では、生活保護受給者への過剰なパッシングが、たびたび起こります。
一般的に、社会保障の充実は、社会全体の福祉を向上させる望ましいものであるにもかかわらず、<自分は苦労しているのに・・・>との嫉妬心が、弱い立場の人々に向けられていく。
自分の損得には影響がないはずなのに、他人が利益を得ることが許せない。
そんな下方嫉妬が、社会を生きずらくしている一因であるように思います。
不可解な感情
嫉妬と民主主義は、「同じ土壌からうまれた双子のようなもの」です。
理論的に考えても、民主的な社会は嫉妬が渦巻く社会と言えます。
配信 時事通信
日常の言葉遣いや話し方、あるいは文章の書き方など、国語について、どの程度関心があるかを尋ね
た。
「非常に関心がある」(13.5%)と「ある程度関心がある」(67.4%)を合わせた「関心がある(計)」
は 80.9%となっている。一方、「全く関心がない」(1.5%)と「余り関心がない」(17.0%)を合わせた
「関心がない(計)」は 18.5%となっている。
過去の調査結果(令和 3 年度)と比較すると、余り変化は見られない。
【以下、次ページ、図 1 参照】
地域ブロック別に見ると、「関心がある(計)」は、全ての地域で 7~8 割台となっている。
性別に見ると、「関心がある(計)」(男性 78.5%、女性 83.0%)は、女性の方が高くなっている。
年齢別に見ると、「関心がある(計)」は、30~60 代で他の年代より高く 8 割台前半となっている。
性・年齢別に見ると、「関心がある(計)」は、女性の 40~60 代で他の年代より高く 8 割台後半となっ
ている。
国語に「非常に関心がある」「ある程度関心がある」と答えた人(全体の 80.9%)に、どのような点
に関心があるかを尋ねた(選択肢の中から三つまで回答)。【7 ページ参照】
「日常の言葉遣いや話し方」が 80.7%で最も高く、次いで「敬語の使い方」が 48.9%となっている。
以下、「文字や表記の仕方あるいは文章の書き方」(42.4%)、「言葉の意味・由来や国語の歴史」(38.3%)、
「新語・流行語」(17.6%)、「パソコン・スマートフォンなどの情報機器が国語に与える影響」(14.0%)、
「発音やアクセント」(13.2%)、「共通語や方言」(10.7%)、「外来語・外国語の使い方」(9.0%)、「国
語の教育や国語に関する施策」(6.2%)、「国際化が国語に与える影響」(3.4%)となっている。
過去の調査結果(令和 3 年度)と比較すると、「文字や表記の仕方あるいは文章の書き方」が 4 ポイ
ント増加している。
地域ブロック別に見ると、「日常の言葉遣いや話し方」は、全ての地域で 7~8 割台で他の選択肢の割
合を上回っている。「文字や表記の仕方あるいは文章の書き方」は、中部で他の地域より高く 48.4%、
「新語・流行語」は、北海道で他の地域より高く 26.0%となっている。
性別に見ると、「日常の言葉遣いや話し方」(男性 76.5%、女性 84.0%)、「敬語の使い方」(男性 43.5%、
女性 53.3%)は、女性の方が高く、「言葉の意味・由来や国語の歴史」(男性 43.1%、女性 34.5%)は、
男性の方が高くなっている。
年齢別に見ると、「日常の言葉遣いや話し方」は、50外国から来た人など、日本語がよく分からない人に道などを聞かれたとしたら、それになるべく答え
ようとすると思うか、それとも、答えないと思うかを尋ねた。
「なるべく答えようとする」は 89.0%、「答えない」は 10.3%となっている。
【以下、次ページ、図 2 参照】
地域ブロック別に見ると、「なるべく答えようとする」は、関東(91.5%)と中部(90.6%)で他の
地域より高く 9 割強となっている。
性別に見ると、「なるべく答えようとする」(男性 90.3%、女性 87.9%)は、男性の方が高くなって
いる。
年齢別に見ると、「なるべく答えようとする」は、40 代以下で他の年代より高く 9 割台半ばとなって
いる。
性・年齢別に見ると、「なるべく答えようとする」は、男性の 30~40 代と女性の 20 代、40 代で他の
年代より高く 9 割台後半となっている。 代で他の年代より高く 84.3%、「敬語の使い方」
は、20 代で他の年代より高く 61.5%となっている。「文字や表記の仕方あるいは文章の書き方」は、30
代と 50 代で他の年代より高く 4 割台後半となっている。「新語・流行語」は 16~19 歳と 70 歳以上で、
「共通語や方言」「外来語・外国語の使い方」は 16~19 歳で、それぞれ他の年代より高く 2 割台となっ
ている。
性・年齢別に見ると、「日常の言葉遣いや話し方」は、女性の 30~50 代で他の年代より高く 8 割台後
半となっている。「敬語の使い方」は、男性の 20 代と女性の 50 代以下で他の年代より高く 5~6 割台と
なっている。「文字や表記の仕方あるいは文章の書き方」は、男性の 30 代と女性の 50 代で他の年代よ
り高く約 5 割となっている。「言葉の意味・由来や国語の歴史」は、男性の 50 代以上で他の年代より高
く 4 割台半ばから 5 割弱となっている。
どのように答えようとすると思うか
外国から来た人など、日本語がよく分からない人に道などを聞かれたとしたら、それに「なるべく答
えようとする」と答えた人(全体の 89.0%)に、どのように答えようとすると思うかを尋ねた(選択肢
の中から幾つでも回答)。【10 ページ参照】
「身振り手振りを交えて答える」が 82.2%で最も高く、以下、「スマートフォンなどの翻訳ツールを
使う」(46.3%)、「英語などの外国語を使って答える」(46.0%)、「やさしい日本語で分かりやすく答え
る」(39.6%)、「紙に書くなど、筆談する」(20.3%)、「特に気を使うことなく日本語で答える」(7.0%)
となっている。
【以下、次ページ、表 4 参照】
地域ブロック別に見ると、「身振り手振りを交えて答える」は、全ての地域で他の選択肢の割合を上
回り、中でも北海道で他の地域より高く 89.1%となっている。「英語などの外国語を使って答える」は、
関東で他の地域より高く 51.9%となっている。「紙に書くなど、筆談する」は、東北(26.9%)と中国
(26.2%)で他の地域より高く 2 割台後半となっている。
性別に見ると、「身振り手振りを交えて答える」(男性 79.8%、女性 84.3%)、「やさしい日本語で分
かりやすく答える」(男性 35.7%、女性 43.2%)は、女性の方が高くなっている。
年齢別に見ると、「身振り手振りを交えて答える」は、60 代で他の年代より高く 86.2%となっている。
「スマートフォンなどの翻訳ツールを使う」「英語などの外国語を使って答える」は、年代が低いほど
割合が高くなる傾向がある。一方、「紙に書くなど、筆談する」は、年代が高いほど割合が高くなる傾
向がある。「やさしい日本語で分かりやすく答える」は、70 歳以上で他の年代より高く 48.4%となって
いる。
性・年齢別に見ると、「身振り手振りを交えて答える」は、女性の 60 代で他の年代より高く 90.0%と
なっている。「スマートフォンなどの翻訳ツールを使う」は、男女とも年代が低いほど割合が高くなる
傾向があり、男女の 30 代以下で 7 割を超えている。「英語などの外国語を使って答える」は、男性の 50
代以下と女性の 40 代以下で他の年代より高く 5~6 割台となっている。「やさしい日本語で分かりやす
く答える」「紙に書くなど、筆談する」は、男性の 70 歳以上と女性の 60 代以上で、それぞれ他の年代
より高くなっている。
東京駅の八重洲地下街の居酒屋「ホタル」の娘である北側春香は、静岡県網代の出身であった。
美形の顔立ちであるが、素朴なモンペ姿の似合う人であった。
彼女の母親の女将さんもモンペ姿で接客していた。
彼女の父親は網代の漁師で地元で民宿を経営していた。
網代と言えば、大学の同期生で親しくなった土屋治夫から夏休に招かれ、漁師である実家で新鮮な魚料理をご馳走になった経験があった。
人生には想定外の事が起こるものだ、水野晃とは破局したはずであった春香は彼との3回の交情で身ごもっていたのだ。
母親の梓が妊娠中絶を迫ったが、春香は「私は彼の子を産むの」と一途になる。
足立幸雄は、その事態を水野から聞かされる。
「足立君、どうすべきねかね」男気のある水野もさすがに困惑していた。
「この際は、責任を取るほかないな」先に打ち明けた本橋一郎がズバリ言ったのだ。
「どう責任をとるべきかな」ロマンチストの水野は、皮肉にも厳しいん現実を思い知らされる事態となった。
「身勝手だけど、もしも、妻子と別れることになったら、足立君に後を託したいんだ」
「後を託す?」
「一番の親友の足立君に、心からお願いしたいんだ。助けてほしい、どうかね?」
三島由紀夫にも心酔していた水野は、三島の壮絶な最後に強い衝撃を受けていた。
その日は、厚生労省日比谷クラブのテレビに記者たちの眼は釘付けになる。
12月25日の給料日でもあり、記者仲間は新橋や有楽町でそれぞに酒を飲む約束もしていた。
昭和45年(1970)11月25日午前11時10分頃であった
楯の会の制服に身を包んだ三島由紀夫は自身が主宰する
楯の会のメンバーである森田必勝(まさかつ)・小賀正義・
小川正洋・古賀浩靖を引き連れて、東京都新宿区にある
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れていた
三島が事前に連絡をつけていたので駐屯地内では
「三島由紀夫先生が総監を訪ねて来るのでフリーパスで通す」という手筈になっており、三島らは難なく総監室へと
通されたのである
三島は益田兼利総監に森田ら4名を優秀な隊員なので
楯の会の例会で表彰しようと思うので一目総監に
お目にかけたいと考えて連れて来た、そして今日は例会があるので正装で来たと説明した。
ソファに総監と三島が向かい合って話しており、話題は三島が持参した日本刀の関孫六についてであった
三島は鑑定書を総監に見せて刀を抜いて刀身の油を拭くために(日本刀は刀身が錆びないように油を塗って手入れをする)、「小賀、ハンカチ」と言って小賀にハンカチを要求した
三島のこの一言は行動開始の合図を意味する一言であった
しかし総監はティッシュで拭いてはどうかと机に向かった
ために小賀は計画通りに動くことができず、三島に手ぬぐいを渡しただけであった
総監はティッシュが見つからなかったので、
ソファに戻り刀を見るために三島の横に腰かけた
三島は手ぬぐいで刀身を拭くと総監に刀を手渡した
総監は「いい刀ですね」と言って刀を三島に返すと三島の
向かいの席へと戻った
三島はもう一度刀身を手ぬぐいで拭くと、その手ぬぐいを
小賀に渡して目で合図を送った
そして三島は刀をパチンと音をさせて鞘へと納めたのである
その音を合図にして小賀は行動を開始した
小賀は総監の後ろに回り込んで持っていた手ぬぐいで総監の
口をふさぎ、小川と古賀がロープで総監をイスに縛りつけた
小賀は古賀から渡された手ぬぐいで総監の口にさるぐつわをはめ、総監に短刀を突きつけたのである
その間に森田は総監室の正面入口や幕僚室に通じる3つの出入口に机やイスでバリケードを築いた
総監室の異様な物音に気づいた一等陸佐が総監室正面入口のすりガラスの窓から中をうかがったところ、
三島らの動きが不自然だと感じて中に入ろうとすると鍵がかけられていた
一等陸佐がドアに体当たりすると森田が「来るな」と叫び、ドアの下の隙間から要求書を出した
要求書を見た一等陸佐は上層部に「三島らが総監室を占拠した」と報告し、すぐさま幕僚らに非常呼集がかけられた
三島由紀夫が演説したバルコニーのある建物は現在「市ヶ谷記念館」となっている。三島が幕僚との乱闘の際に付けた刀傷が残る扉も保存されている
11時20分頃、2名の二等陸佐が総監室に通じる一つのドアのバリケードを突破して総監室へと突入を敢行した
三島は関孫六を抜いて背中を斬りつけるなどして応戦し、
続けて突入してきた一等陸佐と2名の二等陸曹に「要求書を読め」などと叫びながら相手をなで斬り
(薄く削ぐように斬る)にしながら応戦していた
この乱闘の最中に別のドアから7名の幕僚が総監室へなだれ込んできた
幕僚の一人は「話し合おうじゃないか」と持ちかけたが
乱闘はやまずに森田が短刀で、小川は特殊警棒で、古賀はイスなどを投げつけて応戦していた
森田らが攻撃されると三島はすかさず加勢して幕僚らを寄せ付けなかったので、幕僚らは総監の安全も考慮して
一旦退いた
11時22分には駐屯地から警視庁へ110番通報がなされて
25分には警視庁公安部公安第一課が捜査本部を立上げ、120名から成る機動隊を市ヶ谷駐屯地へと出動させた
幕僚らは総監室正面入口ドアの窓を割って三島に説得を試みようとしたが、三島は森田が渡した要求書と同じものを
幕僚らに突きつけたのみであった
その要求書には
11時30分までに市ヶ谷駐屯地の全自衛隊員を本館前に集合させること、三島の演説を静聴すること、一切の攻撃や妨害を行なわなければ当方は一切攻撃をしないなどということが書かれていた
幕僚らは三島の要求を受け入れることにし、11時40分に本館玄関前に集合せよという館内放送がなされた
11時46分に警視庁は三島ら全員を逮捕せよという指令を下したのでパトカーが駐屯地に入り、テレビやラジオはこの
事件の第一報を報じていた
放送を聞いた自衛隊員1000名ほどが本館玄関前に集まってきていた
正午少し前、森田と小川が『檄』と題された檄文をバルコニーからばら撒き、要求を書いた垂れ幕をバルコニーから垂らした
この時すでに機動隊やテレビ、新聞社の報道陣が集まってきていた
「我々は戦後日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、
国の大本を忘れ、国民精神を失い、自ら魂の空白状態へ落ちこぼれて行くのを見た。
国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずに
ただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰しゆくのを、歯噛みしながら見ていなければならなかった」
「法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、
国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ」
三島は憲法第9条がある限り自衛隊は違憲の存在でしかないとして、政府の第9条の解釈や左派政党が日米安保条約
破棄を掲げつつも第9条を堅持するという矛盾を
「日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来ているのを見た」
として政治の国体を顧みない姿勢を批判したのである
そして
「自衛隊が目覚める時こそ、日本が目覚める時だと信じた」
「自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために」
「自衛隊にとって建軍の本義とは何だ。日本を守ることだ。
日本を守るということは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることではないか」
と訴えた
自衛隊に武士の魂が残っていれば、護憲の軍隊という
パラドックスを打ち破るべく立ち上がるべきなのに、
自衛隊からはそのような男としての声は聞こえてこなかった
我々が楯の会を結成して自衛隊に体験入隊したのは、
自衛隊が目覚める時に自衛隊を名誉ある国軍とするために
命を捨てようという決心にあった
国のねじ曲がった大本を正して日本を守るという使命のため、
我々は少数であるが訓練を受け、挺身しようとしていたのだと
『檄』は自衛隊員に語りかけている
「我々は四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ」
「しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために、日本を日本の真姿に戻して死ぬのだ」
「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。
生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
それは自由でも民主主義でもない。
日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国、日本だ」
「これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか」
「我々は至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として
蘇ることを熱望するあまり、この挙にでたのである」
三島の檄文は熱烈に激烈に自衛隊員たちに決起を促すものであった
正午のサイレンが市ヶ谷駐屯地に響き渡ると、三島は何度生まれ変わっても国に尽くすという意味の
七生報国と書かれた日の丸の鉢巻を巻き、手には関孫六を握りしめてバルコニーに立った
三島から向かって右側には、三島と同じ鉢巻を巻いた森田が立っていた
三島が姿を現すと集まった自衛隊員たちは口々に「三島じゃないか」「何やってるんだ」「バカヤロウ」などと
罵声を浴びせた
その中で三島は日本を守るという建軍の本義に立ち返れとした
憲法改正の決起を呼びかける演説を始めた
この時すでに報道陣のヘリコプターが飛来して駐屯地上空を旋回し始めていた
三島由紀夫の命を張った最後の演説は以下の通りである
諸君は去年の10.21から後だ、もはや憲法を守る軍隊になってしまったんだよ
自衛隊が20年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだよ
もうそれは政治的プログラムから外されたんだ
ついに外されたんだ、それはどうしてそれに気づいてくれなかったんだ
去年の10.21から1年間、俺は自衛隊が怒るのを待っていた
もうこれで憲法改正のチャンスはない!
自衛隊が国軍になる日はない!
建軍の本義はない!
それを私は最も嘆いていたんだ
自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ、日本を守ること、
日本を守るとはなんだ
日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである
マイクを持たない三島は大声を振り絞り、拳を高くかざして絶叫していた
三島の魂の絶叫はヘリコプターの轟音と自衛隊員たちが発する罵声がかき消していく
それでも三島は叫び続ける
お前ら聞けえ!聞けえ!静かにせい、静聴せい!話を聞け!
男一匹が命を懸けて諸君に訴えているんだぞ!
それがだ、今日本人がだ、ここでもって立ち上がらなければ、
自衛隊が立ち上がらなきゃ憲法改正ってものはないんだよ
諸君は永久にだねえ、ただのアメリカの軍隊になってしまうんだぞ
諸君と日本と・・・(聞き取れず)
アメリカからしかこないんだ
シビリアンコントロール・・・(聞き取れず)
シビリアンコントロールに毒されるな
シビリアンコントロールというのはだな、新憲法で堪えるのが
シビリアンコントロールじゃないぞ
もうこれだけの・・・政治家・・・シビリアンコントロール
じゃないぞ(この部分よく聞き取れず)
そこでだ、俺は4年待ったんだよ、俺は4年待ったんだ、
自衛隊が立ち上がる日を
そうした自衛隊の4年待ってだな(この部分は完全には
聞き取れず)、最後の30分に、最後の30分に、
だから今待ってんだよ
諸君は武士だろう、諸君は武士だろう、武士ならばだ、
自分を否定する憲法をどうして守るんだ
どうして自分を否定する憲法にだね、
自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ
これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ
諸君は永久にだね、今の憲法は政治的謀略に、諸君が合憲の如く装っている
自衛隊は違憲なんだよ
自衛隊は違憲なんだ、あなた達も違憲だ
憲法というものは、ついに自衛隊というものは、
憲法を守る軍隊になったんだということにどうして気がつかんのだ
どうしてそこに諸君は気がつかんのだ
俺は諸君がそれを断つ(それで起つ、か?)のを
待ちに待ったんだ
諸君はその中でも、ただ小さい根性ばっかりに惑わされて、
本当に日本のために立ち上がるって気はないんだ
・・・抵抗したからだ
(自衛隊員が「何のために我々の・・・」と言っているのが
聞き取れるので、幕僚らとの乱闘や総監を拘束したこと
について問いただされたことへの返答だと思われる。
自衛隊員は続けて「抵抗とは何だ」と叫んでいる)
憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従ってきた
ということを知らないのか
諸君の中に一人でも俺と一緒に起つ奴はいないのか
―しばらくの沈黙―
一人もいないんだな
よし、武というものはだ、刀というものは何だ、
自分の使命である・・・(聞き取れず)に対して
・・・(聞き取れず)という言葉だ
それでも武士か!それでも武士か!
まだ諸君は憲法改正のために立ち上がらないと
見極めがついた
これで俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ
それではここで、俺は天皇陛下万歳を叫ぶ
天皇陛下万歳
(かすかに天皇陛下万歳と言っているようにも聞こえるが、
ほとんど聞き取ることができない。
三島はここで天皇陛下万歳を三唱したとされている)
三島がマイクを使わなかったのは神風連(じんぷうれん)の
精神に基づくとされる
神風連は明治政府の開明政策に反対して熊本藩の
保守派士族によって組織された政治的な団体で、
神道を基本とする排外的復古主義を唱えていた
三島は楯の会メンバーにマイクを使って大声で演説すれば
必ずそこに誇張や虚飾が入り、本質的に人の心を動かす
ことができないと語っていた
三島は自衛官たちの心を動かすために肉声にこだわったのである
それはあるいは三島の精神の美学とも言える行為だったのかもしれない
しかし自衛隊員たちはそんな三島に
「聞こえねえよ」「降りて来い」「この野郎」
「マイク持って話せよ、聞こえねえ」「帰れ」「やめちまえ」
「お前それでも男か」などと怒号とも言える激しい罵声を浴びせ続けた
「男一匹が命を懸けて諸君に訴えているんだぞ」という
凄まじい気迫で迫る三島の演説だが途中の
「4年待ったんだ・・・最後の30分に・・・待っているんだよ」
という部分では三島の失意や絶望が感じられる
後に続くあるを信ず、これがなければ三島の命を懸けた決起は完結しない
それでも三島は
「諸君の中に一人でも俺と起つやつはいないのか!」
の言葉にラストチャンスを賭けた
起つやつはいないのかと叫んだ三島はしばらく沈黙して
待っていた
タイムリミットは演説をしている30分間なのである、
その後は自らの死をもって完結させなければならない
しかし自衛隊員たちの三島への返答は激しい怒号と野次であった
自衛隊員たちの反応は三島の予想外だったと言われ、
加えて上空を旋回するヘリコプターの騒音で三島は10分ほどで演説を切り上げた。