「ますます"人間の劣化"が深まっている…」

2024年10月08日 23時52分44秒 | 社会・文化・政治・経済

そう断言する宗教学者が解説する悪世を生き抜くための教えいつも関心の中心が自分にある"凡夫"のための教え

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戦争に貧困、格差……世界をとりまく深刻な状況は解消することがない。宗教学者の阿満利麿さんは「紀元前後に登場する『阿弥陀仏の物語』では『五濁』といって、人間とその世界の悲惨を5とおりに分けて説明している。現代もこの五濁を免れていないどころか、ますます五濁を深めている、という感慨をもたざるをえない」という――。

※本稿は、阿満利麿『「歎異抄」入門』(河出新書)の一部を再編集したものです。

鎌倉大仏
 
※写真はイメージです
 

私たちの直面する苦しみや不安も、その原因が明らかにできれば、苦でなくなり、不安も解消される。だが、その原因を尋ねてゆくと、苦しみをもたらしている原因は、決して一つではなく、多くの原因と結果が複雑に絡み合っているのだ。そうなると、私たちの力では、苦しみをもたらす因果の関係のすべてを見通せる智慧を身につけることなど、思いも及ばないことになる。こうして、解決できない苦しみや、不安をもったまま生きるのが、人生ということになる。

ここで、「阿弥陀仏の物語」が登場する。

歴史的にいえば、紀元前後のころといわれる。仏教そのものは、紀元前5世紀ころ、ゴータマ・シッダールタによってインドで生まれた。彼は35歳のときに、「生老病死」の「苦」を脱するための智慧を身につけて、「ブッダ」(「悟った人」・「仏」・「釈尊」)になったとされる。その後、「ブッダ」の教えは、智慧を獲得するための精緻な修行の体系とともに、各地に広がってゆくが、こうした修行は、限られた人々のものになり、多くの人々が取り残されてゆく。

そこで、紀元前後くらいから紀元3世紀ころにかけて、万人の救済を目的とする、新しい仏教がインドで生まれてくる。そこでは、多くの「大きな物語」(「経典」)が生まれるが、その一つが「阿弥陀仏の物語」なのである。経典名は、漢訳されて『無量寿経』という。「阿弥陀仏の物語」は、釈尊の弟子、阿難が、阿弥陀仏という仏が生まれた経緯を釈尊から聞いた、という形式をとっている。いうまでもないが、ここに登場する釈尊も、阿難も、歴史上に実在した人物ではなく、物語のなかの登場人物である。

はじめに、私が興味をもつのは、物語の聞き手が阿難だという点にある。阿難は、歴史的には、釈尊の従弟といわれている。阿難は、釈尊の55歳ころに侍者になり、釈尊が亡くなるまで、身の回りの世話をしてきた。そのため、釈尊の教えの数多くを聞くことができたので、のちには、「多聞第一」とよばれるようになる。

だが、阿難は、釈尊の存命中には、悟ることができなかった。伝えられるところによれば、阿難は美男であり、世話好きであり、恩愛の情が大変深く、相手に同情しすぎて、状況を客観的に見ることができない人物であったという。そういうことも、彼が早々に悟ることができなかった理由であるかもしれない。彼が悟ったのは、釈尊亡きあと、兄弟弟子たちの導きのおかげであった。

思うに、恩愛の情に深く、ときに人情に流されることが多かった阿難こそは、私たち凡夫の代表なのではないか。その阿難がこの物語の聞き手として起用されているということは、この「阿弥陀仏の物語」が、私たち「凡夫」のための教えであることを示して余りあるように思われる。ちなみに、「凡夫」とは、なにごとにつけても、いつも関心の中心が自分にあり、他者への関心も自分のため、というような人間のことである。


ヒトラーが台頭した時代と酷似する現代、その本当の恐ろしさとは

2024年10月08日 23時46分51秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
SNSを駆使して過激発言を連発するトランプ大統領がなぜ大衆を引きつけるのか。ヒトラーについて現代人は学ぶ必要がある 
 
前東京都知事の舛添要一氏が『ヒトラーの正体』 (小学館新書)を出版した。
自身の経験も織り交ぜながら、明快な文章で独裁者ヒトラーの実像に迫る入門書だ。
長年にわたりヒトラーを研究し続けてきた舛添要一氏に、なぜヒトラーについて知らなければならないのか語ってもらった。(清談社 村田孔明)

ヒトラー研究は
政治学者の原点だった

 ヒトラーについて「独裁者」「ユダヤ人の大虐殺」「親衛隊」など、断片的なワードを知っている人は多い。しかし全体像を把握できている人は意外に少ないのではないか。実は舛添氏も、かつてはそうだったという。

「初めてヒトラーに興味を持ったのは1965年公開の映画『サウンド・オブ・ミュージック』。オーストリアの退役軍人の家族がナチスから逃れるために、徒歩で山を越えてスイスに亡命するストーリーです。主演ジュリー・アンドリュースの美声と豊かなアルプスの自然に魅せられ、ヨーロッパへ留学するきっかけにもなりました。多感な高校生のときに見たこともあり、ヒトラーが憎くてしょうがなかったですね」(舛添氏、以下同)

 

ところが30歳手前の頃、留学先のミュンヘンで下宿屋のおじさんから「ヒトラーの時代が一番よかった」と告げられた。

「下宿はアメリカの研究者が多く、日本人は私だけでした。70歳ぐらいのおやじは『ヤパーナー(日本人)、ちょっと来い』と、私をお茶に誘ってくれる。日本とドイツは同じ枢軸国だったので気に入ってくれたみたいで、古いアルバムを開いて、『俺の人生の中で、ヒトラーの時代が一番よかった』とうれしそうに話をしてくれたんです。ミュンヘン郊外にはダッハウ収容所跡があり、見学するたびに、あまりにも悲惨なユダヤ人虐殺の歴史を教えてくれました。それなのに下宿に戻れば、おやじはヒトラーがよかったという。このギャップがずっと頭から離れませんでした」

 それから50年間近くヒトラーの研究を続けてきた舛添氏だが、なぜ今になって、専門書ではなく入門書というかたちで発表したのだろうか。

「子どもが大学生と高校生になりました。父として、子どもたちが社会に出る前に、どうしてもヒトラーのことを語り聞かせたかった。民主主義の対極は独裁です。それなのに民主主義から独裁者が生まれてしまった。この歴史を知らなければ、民主主義は守れません。現代はトランプ大統領の誕生、ブレグジット、移民排斥を主張する極右政党の躍進など、世界中でポピュリズムが広がっている。ヒトラーが誕生した時代に似てきています」


「立憲主義って何?」

2024年10月08日 23時24分09秒 | 社会・文化・政治・経済

「立憲主義」って何でしょう?

 ひと言でいえば、権力の行使を憲法で縛る、コントロールすることです。

 権力行使の主体は、国家です。つまり、立憲主義とは、国家権力を憲法で縛るシステムのことです。

 日本国憲法は、「立憲主義」をとっています。

 では、なぜ「立憲主義」がとられているのでしょう。

それは、一人ひとりが個人として、人として尊重されるという「個人の尊重」をまもるためです。個人の基本的人権が保障され、個人の権利自由が侵害されないために、です。

 侵害するって、いったい誰が侵害するというのでしょう。

これは、国家、権力なのです。

 ここはピンとこないかも知れませんね。

国家は、いろいろと国民のために、何かをしてくれるものではないの?

国、行政には、もっといろいろと「やってほしい」。

 そのとおり、普段は、国、行政は、いろいろとやってくれるありがたい存在です。

でも、強い力、国民を強制できる力をもつ、時に怖い存在です。

 税金を取られたくなくても、国が決めた税金は、強制的に取られてしまいますし、犯罪を犯したとされれば、刑務所に強制的に入れられますし、時に命までとられます。

 権力には、強い力があるから、好き勝手に行使されてしまうとたまったものではないですよね。

憲法は、国民の権利自由を保障するために、国家に対して、「国民の○○の自由を侵害してはならない」という書き方を基本にしています。

 「立憲主義」は、なぜ必要なのでしょう?

 国家、権力によって、国家のためだとして、個人の基本的人権が侵害された歴史がありました。権力によって、一人ひとりのことよりも国家、団体、公が重視されて、個人の権利自由が侵害されてきた過去がありました。

特に、戦争というのは、究極的に、個人よりも国家を優先させ、個人を、一人ひとりの人ではなく、国家のための「道具」としてみなしがちです。

 ここで、民主主義国家、国民から選挙で、選ばれた人たちなら、権力の行使も適正に行われて、暴走することはないのでは?と思われるかも知れません。

 いやいや、民主主義国家であっても、憲法の縛りがなければ、間違った方向に行くこともありうるのです。逆に、国民から選ばれたんだと、謙虚さを忘れて、自分がやることは正しいのだと強気になってしまうかも知れない分、かえってやっかいです。

権力を持つものは、自らが誤りであることに気がつきづらいものです。正しいと思っている。自信があります。

正しいと思っているので、反対する人たちの声に耳を傾けることなく、「妨害する人たち」として排除したくなるでしょう。

多数者から選ばれた人たちからなるために、少数者の人のことがわからないこともあるのです。

そして、権力を行使するのは神様ではなく人なのですから、間違ってしまうこともあります。

 間違っても、大切な基本的人権の保障を侵害しないように、国家が守るべき約束を定めて、約束を破れば、国民がコントロールできるようにしているのが「憲法」です。

 つまり、 国家に権力を与えた国民が、権力行使を適正に行われるようにするため、国家をコントロールためのものが「憲法」なのです。

国家は、憲法に違反するような権力行使、すなわち個人の基本的人権を侵害することはできないという縛りをうけています。

 逆にいえば、国民は、「憲法」を持っているのだから、国家が権力を濫用している場合、濫用しそうな場合に、しっかり国家を「憲法」をもとに、コントロールできるし、しなければならない、ということになるのですね。

「立憲主義」というのは、個人を尊重するために、一人ひとりを人として大切にするための、よくできたシステムだなあと思います。

 

 


時の権力の暴走を防ぐため

2024年10月08日 23時21分42秒 | 社会・文化・政治・経済

請願

第185回国会 請願の要旨

新件番号 217 件名 日本国憲法の中心的理念の一つである第九十六条を堅持することに関する請願
要旨  日本国憲法はおびただしい犠牲を強いた戦争への反省から、平和と民主主義の願いを込めて作られた。取り分け憲法第九十六条は、立憲主義を定めた重要な条項である。これらの理念は、「侵すことのできない永久の権利として」(憲法第九十七条)定められたものである。特に日本国憲法は、時の権力の暴走を防ぐため、国民が行政に対して約束させたもので、他の法律のように簡単に変えることができないような形態に定められている。しかし自民党や維新の会は、憲法改正の発議を衆参各議院の総議員の三分の二以上の賛成(憲法第九十六条)から二分の一に下げようと言っている。これは日本国憲法の中心理念の一つを破壊しようとするものである。
 ついては、次の事項について実現を図られたい。

一、日本国憲法の中心的理念の一つである憲法第九十六条を堅持すること。

権力は暴走

2024年10月08日 22時44分18秒 | 社会・文化・政治・経済

日刊建設工業新聞 所論緒論2009年 6月10日

「民主主義の暴走」をくい止めよ

 

京都大学藤井 聡

 

日本の現政権の中心政党の名称は「民主党」であるが、この言葉の意味を考えたことのある読者はどれくらいおられるのだろうか。

そもそも「党」というのは、英語で言うところのパーティ、つまり、人々の集団である。だから、「民主」ということを政治思想の根幹に置く「人々の集団」、これが「民主党」という名称の意味である。

「民主」とは言うまでもなく、「民主主義」の「民主」である.

そして民主主義とは、「人民」に「主権あり」と考える主義である。つまり、「主権在民」を旨とする政治思想、それが、「民主」と言う言葉の意味である。

したがって,民主,あるいは,民主主義という言葉を理解するためには、結局は「主権」とは何か、を理解しなければならない。

ところが今日,この「主権」という言葉が,十分に一般の国民に理解されているようには到底思えない.もしもそれが十全に理解されているのなら,「主権在民」なり「地域主権」なりといった言葉が,軽々しく使われることはなかろうと思われるからだ.

さてこの「主権」という言葉であるが,これは英語の「サブリン・パワー」なる言葉を訳したものであるが,これを直訳すると「最高の権力」と言う意味である。「最高の権力」というからには、それに勝る者は何もない、ということである.だから人民に主権ありと考える民主主義とは、「政治的に人民に勝るものは、何もない、人民にこそが最高の権力者なのだ」と考える政治思想である。

そう考えると、誠にあっぱれ、現在日本の政治は、ほぼ完璧な「民主主義」だということが分かる。

かつては、「政治家たるもの、世論の人気を横目で気にしながらも、一般大衆が普段考えないような大所高所からものごとを考えるべし」、という常識があり,政治家は実際にその様に振る舞い、かつ、そんな政治家が人気を博していた。しかし、その様な常識を持つ人々は減少の一途を辿り、多くの政治家において「人民の人気」を得る事それ自体を目的とする傾向が相当な水準にまで高まってしまった。今や,大衆に直接訴えかけるテレビのニュースキャスターの方が、政治家よりも「実質的な権力」を握っていると言っても過言ではない。

国家官僚にも、かつては,全ての諸外国と同様に日本においても強大な国家権力である「行政権」が付与されていた.しかし、国家官僚に対する世論からのバッシングは激しく、「政治主導」のスローガンの下、「人民の人気取り」に奔走する政治家によって官僚達の自由な裁量が縮退され続けている.

つまり、日本においては、「立法府」も「行政府」も、「人民」の軍門にほぼ下ったのである。

そしてそんな民主主義の「暴走」を止められるのは,国内ならぬ国外の「アメリカ」くらいしかいない,という何とも情けない国になり下がってしまった(普天間問題が鳩山首相の退陣直接的原因となったと言う事実は,実はそれを暗示しているのだ).

すなわち,我々が,戦後半世紀以上に渡って「民主主義」なるものがなにがしら「善きもの」と信じて疑わずに、無邪気にも無責任にも軽々しく「ミンシュ,ミンシュ」と口にし続けてきたことのツケが回ってきたのである。

しかし,民主主義そのものが「善きもの」であったり「悪しきもの」であったりするはずがない。

あるとするなら,それは「良い民主主義」と「悪い民主主義」とがあるだけなのだ。「善き人民」が織りなす民主主義のみが善き政治をもたらし、「善からぬ人民」は愚かな悪しき政治をしか実現できない.

だからこそわれわれは,「民主」そのものを善きものとする愚を避け,「善き庶民であり善き国民たろう」とする努力をこそ重ねなければならない.その努力無くして,ここまで野放しにされ続けてきた「民主主義の暴走」を,自分自身の力でくい止めることなど,未来永劫できるはずもないのである.


希望の未来は実現できる

2024年10月08日 15時55分13秒 | 社会・文化・政治・経済

政治のリーダーシップと、多様な価値観を持つ一人一人を応援することで、明るい未来は実現できる・

そのために環境を整備するのである。

クリーンな政治を実現する。

物価高の克服—低所得世帯への給付。

電気・ガス料金とガソリンなどの燃料代への支援を継続する。

低賃金については継続的に引き上げる。

子育て支援―個々のニーズに合った学び自分の強みや得意を伸ばすといった「公教育の再生」。

高齢者支援—在職老齢年金を見直すとともに、高齢者が安心して働けるための人材バンクを立ち上げる。

防災対策―国土強靭化へ今後5年で20兆円規模の「実施中期計画」を策定し、インフラ・公共施設の耐震化を進める。

活力ある地域づくり―地域公共交通を再構築する。

また観光立国の推進に取り組む。

農林水産産業—デジタル技術による生産性を向上させる。

食料安全保障を確立する。

国際社会の平和と安定―多国間安全対話の枠組みづくり。

核兵器禁止条約批准への環境整備を進める。

 


皆、等しく生徒である

2024年10月08日 14時55分55秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

経済的困窮する家庭の子どもたちがいる。

「皆、等しく生徒である。教育の眼から見て何の違いがあるだろうか」

「たまたま、垢や塵で汚れたとしても、燦然たる生命の光輝が、汚れた衣服から発するのを、どうして見ようとしないのか」

「社会の中で過酷な差別がある社会にあって、庇護できる存在は教師のみである」

家庭の事情で食事が満足にできない子どもたちがいる。

そこで学校給食が実施された。

日本は戦前に、古着の寄付や、教科書も先輩たちから寄付された。

教育の目的は、「子どもたちの成長と発展が、幸福な生活の中で終始できるようにするものでなければならない」

自分が縁してきた児童をはじめ、全ての子どもたちが幸福な人生を歩通せるようにしたい―それは現場教師の切なる祈りである。

 

「今日わたしたちの教育に到達しつつある変化は、重力の移動にほかならない。それはコパルニクスにとって天体の中心が、地球から太陽に移されたときのそれに匹敵するほどの変化であり革命である。このたびは子どもたちが太陽となり、その周囲を教育のさまざまな装置が回転することになる―ジョン・デューイ

教育とは何かを問い、人びとがともに生きる民主主義のあり方を探究し実践した、アメリカを代表する思想家デューイ

 

 

 


丸亀製麵の太いうどんを食べる

2024年10月08日 14時40分54秒 | 日記・断片

今日はうどんを食べに守谷のイオンモールへ行く。

ちなみに柏のイオンモールは閉鎖されたそうだ。

守谷では先日、祭りがあり「浦島」のウナギ弁当を家人がバイクで買いに行く。

家人の友人が浦島を手伝っているのでる。

浦島の守谷の店は、繁盛していたが、女将さんが亡くなり閉鎖となる。

帰りのカラオケの「赤べこ」に立ち寄り、11月2、3両日に開催される産業祭祭りのイベントで、会津若松市観光大使であるシンガーソングライター鈴木ミチたちが歌うかどうかを確認しに行く。

歌うのでよかった。

昨年から、来年は是非、イベントに参加してほしいと願っていたのである。

 

 

 

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<特殊詐欺> 過去最悪のペース

2024年10月08日 14時03分59秒 | 事件・事故

令和5年における特殊詐欺の認知・検挙状況等について(確定値版)
※ 各値の増減(±)は前年比
1 特殊詐欺(※1)の認知状況
(1) 認知状況全般
○ 令和5年の特殊詐欺の認知件数(以下「総認知件数」という。)は19,038件
(+1,468件、+8.4%)、被害額は452.6億円(+81.8億円、+22.0%)と、前年に
比べて総認知件数及び被害額は共に増加。
○ 被害は大都市圏に集中しており、東京の認知件数は2,918件(-300件)、大阪
2,656件(+592件)、神奈川2,025件(-65件)、愛知1,357件(+377件)、埼玉
1,336件(-51件)、千葉1,310件(-147件)及び兵庫1,224件(+150件)で、総
認知件数に占めるこれら7都府県の合計認知件数の割合は67.4%(-2.5ポイン
ト)。
○ 1日当たりの被害額は1億2,399万円(+2,240万円)。
○ 既遂1件当たりの被害額は243.8万円(+25.2万円、+11.5%)。

(2) 主な手口別の認知状況
○ オレオレ詐欺、預貯金詐欺及びキャッシュカード詐欺盗(以下3類型を合わ
せて「オレオレ型特殊詐欺」と総称する。)の認知件数は8,926件(-798件、
-8.2%)、被害額は201.8億円(-3.3億円、-1.6%)で、総認知件数に占める割
合は46.9%(-8.5ポイント)。
・ オレオレ詐欺は、認知件数3,955件(-332件、-7.7%)、被害額133.5億円
(+4.1億円、+3.2%)と、認知件数は減少するも、被害額は増加し、総認知
件数に占める割合は20.8%(-3.6ポイント)。
・ 預貯金詐欺は、認知件数2,754件(+391件、+16.5%)、被害額38.5億円
(+9.6億円、+33.1%)と、いずれも増加し、総認知件数に占める割合は
14.5%(+1.0ポイント)。
・ キャッシュカード詐欺盗は、認知件数2,217件(-857件、-27.9%)、被害
額29.8億円(-17.0億円、-36.4%)と、いずれも減少し、総認知件数に占め
る割合は11.6%(-5.9ポイント)。
○ 架空料金請求詐欺は、認知件数5,198件(+2,276件、+77.9%)、被害額
140.4億円(+38.6億円、+37.9%)と、いずれも増加し、総認知件数に占める
割合は27.3%(+10.7ポイント)。
○ 還付金詐欺は、認知件数4,185件(-494件、-10.6%)、被害額51.3億円
(-2.4億円、-4.4%)と、いずれも減少し、総認知件数に占める割合は22.0%

(3) 主な被害金交付形態別の認知状況
○ 現金手交型の認知件数は3,421件(-560件、-14.1%)、被害額101.4億円
(-28.6億円、-22.0%)と、いずれも減少し、総認知件数に占める割合は
18.0%(-4.7ポイント)。
○ キャッシュカード手交型の認知件数は3,035件(+364件、+13.6%)、被害額
は47.8億円(+8.0億円、+20.1%)と、いずれも増加。一方、キャッシュカー
ド窃取型の認知件数は2,217件(-857件、-27.9%)、被害額は29.8億円
(-17.0億円、-36.4%)と、いずれも減少。両交付形態を合わせた認知件数の
総認知件数に占める割合は27.6%(-5.1ポイント)。
○ 振込型の認知件数は6,496件(+438件、+7.2%)、被害額は195.2億円

(+90.0億円、+85.5%)と、いずれも増加し、総認知件数に占める割合は
34.1%(-0.4ポイント)。
○ 現金送付型の認知件数は438件(+119件、+37.3%)、被害額は49.5億円
(+10.9億円、+28.3%)と、いずれも増加し、総認知件数に占める割合は
2.3%(+0.5ポイント)。
○ 電子マネー型の認知件数は3,370件(+1,954件、+138.0%)、被害額は
21.5億円(+11.5億円、+116.1%)と、いずれも増加し、総認知件数に占める
割合は17.7%(+9.6ポイント)

(4) 高齢者被害の認知状況
高齢者(65歳以上)被害の認知件数は14,895件(-219件、-1.4%)で、法人被
害を除いた総認知件数に占める割合は78.4%(-8.2ポイント)。65歳以上の高齢女
性の被害認知件数は10,661件で、法人被害を除いた総認知件数に占める割合は

56.1%(-10.1ポイント)。

(5) 欺罔手段に用いられたツール
ぎ もう
被害者を欺罔する手段として犯行の最初に用いられたツールは、電話77.5%、
ポップアップ表示※2 12.2%、メール・メッセージ※3 9.1%、はがき・封書等※4
1.1%と、電話による欺罔が8割近くを占めている。
主な手口別では、オレオレ型特殊詐欺及び還付金詐欺では99.9%が電話。架空
料金請求詐欺ではポップアップ表示が43.7%、電話が30.0%、メール・メッセー
ジが25.5%。
※2 パソコン、スマート

 


一人一人の生活、行動が基本である

2024年10月08日 13時25分23秒 | その気になる言葉

▼人生は、<ここぞ>という時には断じて勝たなければならない。

▼どのように小さな地域も<幸福と平和>の起点となる。

そして、その地域には偉大な使命の力が秘められているのだ。

▼近隣の交際を大切にすることだ。

一人一人の生活、行動が基本である。

使命の行動いかんで、社会に大きく影響を及ぼすものだ。

▼各自が職場で立派に仕事をやりぬき、信頼を得て、尊敬される、そのことが生き方の理念の証明となる。

▼初めは小規模の組織でも、一人一人が、襲いかかる人生の波浪を乗り越え、勝利の実証を重ねる中で、大きく発展を遂げていくのである。

▼私たちはどこまでも社会人であり、一市民である。

ゆえの自分自身の「仕事」と「生活」を大切にすることだ。

そして「近隣」を大切にすることだ。

良き市民として、現実の社会で、模範の人間の道を歩みとおするのである。

▼真の雄弁は、口先ではない。

知性をかけた正義の行動である。

ゆえに雄弁は組織の力に寄りかかった甘えからは生まれない。

一対一のぬきさしならない百戦錬磨から生まれる。

 


人生の目的

2024年10月08日 13時00分37秒 | 社会・文化・政治・経済
 
誰でも最後は独り
 
人生の目的 旅人は、無人の広野で猛虎に出会う
 
大反響!たちまち19万部突破!! 注目のベストセラー

「だれでも最期は独り ~この真実から目をそむけてはいけない」

トルストイが驚愕し、稲盛和夫が自著で強く紹介した「ブッダの寓話」——ひとはたとえ死の淵にいてもその事実から目を背け、目の前の欲にまみれる生き物である——を、イラストと大きな文字でやさしく解説。

この「不都合な真実」を受け入れ、正面から向き合った先にこそ、本当の幸せにたどりつく道がある。

本書を読み、満ち足りた人生を送るのに、遅すぎるということはないのです。


【主な内容】

第1章 私とはどんな者か

・ 「私とは、どんな者か」を、正しく知らねば、
   幸せにはなれない

・ 果てしない広野を、
   独りトボトボと歩いてゆく旅人がいた

第2章 ブッダのたとえは、何を物語っているか

・ この孤独は、どこからくるのか

・ 出会いがあれば、必ず別れがやってくる

・ 一緒に居ても相手にされない、
   独りぼっちの淋しさは耐えがたい

・ 最期は、すべてから見放されて、
   独り、死出の山路を行かなければならない

・ 命の短さを感ずるほど、
   人間らしい生き方ができる

・ 限りなき欲に振り回されて、苦しんでいる

・ 欲望が妨げられると、
   怒りの炎が燃え上がる

・ 言葉の魔剣で、
   どれだけ多くの人を、傷つけてきたか分からない

・ 「死んだらどうなるか」
   人間の知恵では、サッパリ分からない

第3章 絶望の闇を破る光あり

・ 細い藤ヅルにぶら下がりながら、
   ハチミツに心を奪われている旅人を救うには

・ この世から永遠の幸福になることこそが、
   人間に生まれた唯一の目的なのだよ

・ 一切は、人間に生まれた唯一の目的を果たす道程であり、
  ムダは一つもない

・ 老、病、死を超えた幸せを求めて
 
人生の目的1
 
人生の目的(2)
『人生の目的』感想1
『人生の目的』感想2
著者について
 
高森顕徹 プロフィール

昭和04年 富山県氷見市生まれ
       龍谷大学在学中より、各地で法話・講演
昭和33年 浄土真宗親鸞会を設立
        富山県を中心に、滋賀、岐阜など各地で法話・講演
昭和44年 『こんなことが知りたい』1発刊
       (現在、『こんなことが知りたい』4まで発刊される)
昭和49年 『白道燃ゆ』発刊
昭和56年 初のブラジル、ハワイ、アメリカでの講演
昭和59年 初の台湾での講演。『本願寺なぜ答えぬ』発刊
平成06年 初の韓国での講演
平成09年 大阪城ホール、東京国際フォーラムで講演
平成12年 『光に向かって100の花束』発刊(発行・1万年堂出版)
        (66万部のロングセラー:令和2年現在)
平成13年 『なぜ生きる』を監修(発行・1万年堂出版)
        (シリーズ100万部突破のロングセラー)
平成16年 『光に向かって100の花束』韓国語版発刊
        2000畳の大講堂が完成(畳敷きの建造物では世界最大)
平成18年 11月 親鸞聖人報恩講に2万人参詣(2日間)
        11月 『なぜ生きる』英語版発刊
平成19年  4月 香港で講演
平成20年  3月 『歎異抄をひらく』発刊(発行・1万年堂出版)
        (66万部:令和6年現在)
        『光に向かって100の花束』中国語(簡体字)版発刊
平成21年 『光に向かって』英語版発刊
平成22年  2月 『なぜ生きる』中国語(簡体字)版発刊
         8月 『なぜ生きる』中国語(繁体字)版発刊
       11月 新装版『光に向かって100の花束』発刊
        (8万部:令和2年現在)
平成23年 4月 『歎異抄をひらく』英語版発刊
        9月 『親鸞聖人の花びら』桜の巻・藤の巻 2巻同時発刊
        (発行・1万年堂出版  2巻で12万部:令和2年現在)
平成25年12月 『なぜ生きる2』発刊(発行・1万年堂出版)
        (10万部:令和2年現在)
平成26年 3月 『なぜ生きる』ポルトガル語版発刊
平成28年 1月 『なぜ生きる』韓国語版発刊
令和 3年12月 『歎異抄ってなんだろう』発刊(発行・1万年堂出版)
令和 5年 7月 『人生の目的』発刊(発行・1万年堂出版)

 
 
 
 
 
 
学生のとき、ずっと頭の片隅にあった疑問でした。「私とは、どんな者か」の書き出しに引かれて読みました。残りの人生の指針になると感じました。

人生の目的 旅人は、無人の広野でトラに出会った**

この本は、無人の広野でトラに出会った旅人の物語を通して、人生の目的について深く考察しています。著者の高森光晴さんと大見滋紀さんは、ブッダの寓話に触発されながら、自然との触れ合いが人間に与える洞察を描き出しています。

旅人は、広野の道に点々と散らばる白いものに気づき、立ち止まります。それがトラの骨だと気づいた旅人は、自然の摂理に驚嘆し、人生の意味を問い直すことになります。人間中心主義から脱却し、自然との調和を見出すことが、この物語の核心にあります。

また、高森顕徹さんの監修のもと、茂本ヒデキチさんの美しい挿絵が物語の世界観を一層引き立てています。自然の中で生きる動物たちの姿から、人間が見失いがちな生命の尊厳を感じ取ることができるでしょう。

この本は、忙しい日常から離れ、自然の中で静かに瞑想する機会を与えてくれます。人生の目的を見失いがちな現代人に、新たな視点をもたらすことでしょう。自然との調和を見出し、生きる喜びを再発見する一冊として、ぜひ読んでいただきたい作品です。
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あまり読書をしない、物静かな母ですが、熱心に何度も読んでいます。合い間に私も1度、読みました。短い時間で読めます。確かにそうだな、と思うところが多く、何年かした後にまた読んだら、違う感想を抱くかもしれない、と思いました。深い本だと思います。
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仏陀の寓話

2024年10月08日 12時37分11秒 | 社会・文化・政治・経済

生きる意味は何か|それをブッダはたとえ話で教えている。

誰もが知りたい、その答えを示された寓話が、ブッダの説かれた『仏説譬喩経(ぶっせつひゆきょう)』という経典に説かれています。
ロシアの世界的文豪・トルストイも称賛したという、その例え話をお話しします。

人生を真に大切に生きるには?

「命」とは、私に与えられた「時間」だといわれます。
人生を大切に生きる、とは、時間を大切にすること。
人生は有限であり、しかもその終末は、いつ来るか分からないからです。
 
この明白な事実を、ロシアのトルストイは、“どうして当初から理解できずにいたのだろう”と、著書で振り返りました。
しかもそれは彼自身のみならず、すべての人が理解できていないことだと述べています。
 
数々の名作を残し、世界の思想に多大な影響を及ぼした文豪がこう述べたのは、ブッダのある例え話の影響でした。
彼が自著『懺悔』に引用し、「これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない。単なる作り話ではなく、誰でも納得のゆく真実だ」と絶賛している寓話を聞けば、トルストイが人生に驚きを発した理由が分かるでしょう。

「人間」とは何かを教えられた釈迦のご説法

それはある日、ブッダ・釈迦牟尼の法話会場に、勝光王という一人の王様が参詣したことから始まります。
初めて仏法を聞く勝光王に、ブッダはこう説かれました。

 
 王よ、それは今から幾億年という昔のことである。ぼうぼうと草の生い茂った、果てしない広野を、しかも木枯らしの吹く寂しい秋の夕暮れに、独りトボトボと歩いていく旅人があった。
ふと旅人は、急ぐ薄暗い野道に、点々と散らばっている白い物を発見して立ち止まった。
一体何だろうと、1つの白い物を拾い上げて旅人は驚いた。なんとそれは、人間の白骨ではないか。
どうしてこんな所に、しかも多くの人間の白骨があるのだろうか、と不気味な不審を抱いて考え込んだ。
そんな旅人に、間もなく前方の闇の中から、異様なうなり声と足音が聞こえてきた。
 
闇を透かして見ると、彼方から飢えに狂った、見るからに獰猛な大虎が、こちら目掛けて、まっしぐらに突進してくるではないか。
旅人は、瞬時に白骨の散らばっている意味を知った。
自分と同じく、この広野を通った旅人たちが、あの虎に食われていったに違いない。
同時に旅人は自分もまた、同じ立場にいることを直感した。
驚き恐れた旅人は無我夢中で、今来た道を全速力で虎から逃げた。
しかし、所詮は虎に人間はかなわない。
やがて猛虎の吐く、恐ろしい鼻息を身近に感じて、もうだめだと旅人が思った時である。どう道を迷って走ってきたのか、道は断崖絶壁で行き詰まっていたのだ。
絶望に暮れた彼は、幸いにも断崖に生えていた木の元から1本の藤蔓が垂れ下がっているのを発見した。
旅人は、その藤蔓を伝ってズルズルズルーと下りたことは言うまでもない。
 
文字どおり、九死に一生を得た旅人が、ホッとするやいなや、せっかくの獲物を逃した猛虎は断崖に立ち、いかにも無念そうに、ほえ続けている。
 
「やれやれ、この藤蔓のおかげで助かった。まずは一安心」と足下を見た時である。
旅人は思わず口の中で「あっ」と叫んだ。
底の知れない深海の怒濤が絶えず絶壁を洗っているではないか。
 
それだけではなかった。
波間から3匹の大きな龍が、真っ赤な口を開け、自分の落ちるのを待ち受けているのを見たからである。
旅人は、あまりの恐ろしさに、再び藤蔓を握り締め身震いした。
しかし、やがて旅人は空腹を感じて周囲に食を探して眺め回した。
 
その時である。
旅人は、今までのどんな時よりも、最も恐ろしい光景を見たのである。

藤蔓の元に、白と黒のネズミが現れ、藤蔓を交互にかじりながら回っているではないか。
やがて確実に白か黒のネズミに、藤蔓は噛み切られることは必至である。
絶体絶命の旅人の顔は青ざめ、歯はガタガタと震えて止まらない。
だがそれも長くは続かなかった。

それは、この藤蔓の元に巣を作っていたミツバチが、甘い5つの蜜の滴りを彼の口に落としたからである。
旅人は、たちまち現実の恐怖を忘れて、陶然とハチミツに心を奪われてしまったのである。

 
 ブッダがここまで語られると、勝光王は驚いて、

「世尊、その話はもうおやめください」と叫びました。
「その旅人は何と愚かなのでしょう。それほど危ない所にいながら、なぜ5滴の蜜くらいで、その恐ろしさを忘れられるのでしょうか。

旅人がこの先どうなるかと思うと、恐ろしくて聞いておれません」
 「王よ、この旅人をそんなに愚かな人間だと思うか。実はな、この旅人とは、そなたのことなのだ」

 「えっ、どうしてこの旅人が私なのですか」

 「いや、そなた1人のことではない。この世の、すべての人間が、この愚かな旅人なのだ」

 
その言葉に、聴衆は騒然となったのです。

例え話に登場したものは何を表すのか

トルストイが、“これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない”と驚いた例え話。
これは何を表しているのでしょう。一つ一つ解説します。

「旅人」=すべての人間

「旅人」とは私たち、すべての人間のことです。人生は旅によく似ています。
旅に出ると、同じ所に長くはとどまりません。
 
人生も、昨日から今日、今日から明日へと、時の流れを刻々と進んでいます。
旅の道中は晴れの日ばかりではなく、曇天もあれば、雨や風雪の日も。台風に見舞われることもあるでしょう。
人生も、調子のいい時ばかりではありません。
上り坂もあれば、下り坂もある。
有頂天から「まさか」と急転直下、どん底に落ちる日もあるでしょう。
そんな順境、逆境の中、旅を続けていますが、私たちはどこへ向かって歩いているのでしょう。
旅の目的地は、一体どこでしょうか。

 

禅僧・一休は、「門松は 冥土の旅の 一里塚」と詠んでいます。
「冥土」とは「来世」のこと。
私たちは一日生きれば、一日死に近づきます。
泣いたり笑ったりしながら「生きる」とは、死への行進であり、「冥土への旅」です。
年始の門松は、冥土の旅の一里塚なのです。
 
冥土へ旅立つその時まで、私たちは何をなすために生きるのでしょう。
生きる目的を知らず、気晴らしに明け暮れて、死を待つだけの人生であってはなりませんね。
人生の目的を知り、その達成に向かって生きれば、時間を最大限に生かし、人生を輝かすことができます。
目的達成の暁には「生まれてきてよかった」という無上の生命の歓喜が獲られますから、「生きる意味」「人生の目的」を知ることは、幸福な人生の第一歩なのです。
その目的の大切さを、ブッダは一貫して教えられています。

「無人の広野」=人生の寂しさ

続いて、木枯らしの吹く秋の夕暮れに旅人は、果てしない無人の広野をひとりで歩いていた、とあります。
これは、人生の寂しさを例えたものです。

 

今年1月、イギリスで「孤独担当大臣」が新設されました。
900万人以上が孤独を感じているというイギリスでは、月に1度も友人や家族と会話をしない高齢者が20万人に上ります。
また、400万人以上の子供が孤独を訴えているともいわれます。
そんな孤独は心と体の健康をむしばみますから、問題解決のために設けられた役職なのでしょう。
 
日本でも「孤独死」が社会問題化しているように、内外を問わず、“孤独”は大きな問題です。
種々の対策を施せば、癒やされる孤独もあるでしょう。
しかし“一人じゃ孤独を感じられない”と歌った人もあるように、物質に囲まれ、肉親や友人に恵まれていても、“寂しい”と深く感ずる人があります。
社会的政策だけでは、どうにも埋められぬ心の空洞が、私たちにはあるのです。
その理由をブッダは、

「独生独死 独去独来」

(独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る)

と経典に説かれています。
「肉体の連れはあっても、魂の連れがないのだよ」と言われるのです。
大勢に囲まれていても寂しいのは、私の「心」を分かってくれる人がいないから。
たとえ親兄弟、夫婦、親友でも、何一つ隠さずに、心中をさらけ出すことができるでしょうか。
心の奥底をよくよく見てみると、とても言葉にできないものを、誰もが抱えています。
その悩みや苦しみを、完全に理解してもらえたら、どれほど救われることでしょうか。
この孤独の根本的解決が、生きる意味といってもよいほどです。
しかし、現実に一人一人の本心は、他人がのぞき見ることはできません。
それどころか自分自身でも知りえない、秘密の蔵のような心があると、仏教では説かれています。
この、いかんともしがたい人生の寂寥を感ずることが、実は人生を意味あるものにするのだと、ブッダはこの例え話で説かれているのです。

「白骨」=他人の死

孤独な道中で旅人は、道に散らばる白骨を見て驚きました。
この「白骨」とは「他人の死」を表しています。
その驚きは、私たちが他人の死を見たり、聞いたりした時の衝撃を例えたもの。
事故、災害、殺人、テロ、自殺……。テレビや新聞で、人が死ぬニュースの流れない日はありません。
 
ドラマの名脇役・大杉漣さんが、ロケ先で突如亡くなったのは平成30年2月のこと。
時折聞こえる、こんな有名人の不幸の陰に、名も知らぬ人々の訃報は数が知れません。
そう考えると私たちも、この旅人と同じように、白骨の広野にポツネンと立っている、ということでしょう。

「飢えた猛虎」=自分の死

その死は、私自身にも迫っている。
「猛虎」と例えられたのは「無常(自分の死)」であり、執拗に追いかけてくるのは無常の嵐の吹き荒れていることを表します。
私たち一人一人の背後に、飢えた猛虎(死)が迫っているのは、否定できない事実です。
 
あるガン患者が闘病記に、「死は、突然にしかやって来ないといってもよい。いつ来ても、その当事者は、突然に来たとしか感じない」と記しています。
また「きれいにそうじをした座敷に、土足のままで、ズカズカと乗り込んでくる無法者のようなものである」とも言っています。
トルストイが驚いたのは、この無法者のような自己の死の影でした。

「藤蔓」=寿命 「白・黒のネズミ」=昼と夜

猛虎に追われた旅人は、藤蔓につかまって断崖にぶら下がります。
「藤蔓」は、人間の寿命を表します。
その寿命の藤蔓をかじる「白と黒のネズミ」「昼と夜」を例えています。
2匹のネズミが交互に藤蔓をかじる、とは、昼と夜が循環しながら、命を削っている有り様です。
白黒、いずれかのネズミに、やがて命の蔓が噛み切られる時が来る。
その命の短さを、釈迦が修行者たちに尋ねられた、こんな逸話があります。

修行者の1人は、「命の長さは5、6日間でございます。」と答え、次の1人は、「命の長さは5、6日もありません。食事をする間くらいのものでございます。」
3人目は、「いやいや命の長さは一息つく間しかありません。吸った息が出なかったら、それでおしまいです。」
 
釈迦は、最後の答えを大いに称賛し、
「そうだ、そなたの言うとおり、命の長さは吸った息が出るのを待たぬほどの長さでしかないのだ。命の短さがだんだんに身にしみて感じられるようになるほど、人間は人間らしい生活を営むようになるのだ」と教えられた。

やがて必ず白か黒のネズミに噛み切られる細い命の藤蔓。
普段私たちは、この蔓を鋼鉄のワイヤか何かと思い込み、いつまでも生きていられるように錯覚していないでしょうか。
しかし本当は、今にも切れそうな、「ほそ~い蔓」なのです。
そしてこの「短い命」の自覚こそが、人生を真に輝かせるのだと、ブッダは言われます。

「3匹の龍」=欲・怒り・愚痴

藤蔓にすがる旅人の足下には、3匹の恐ろしい毒龍と底知れぬ深海が待ち受けています。
「3匹の龍」とは、欲、怒り、愚痴の煩悩を例えています。
青い龍は、底の知れない欲の心
金が欲しい、物が欲しい、褒められたい、認められたい、もっともっとと求める心です。その際限のない欲望を、深海の青で表しています。
 
欲が妨げられると、出てくるのが怒りです。
炎のように赤い龍で、「あいつのせいで儲け損なった」「こいつのせいで恥をかかされた」
と燃え上がる腹立ちの心です。
 
怒っても、とてもかなわぬ相手と知ると、ネタミ、ソネミ、ウラミの心が起きてきます。相手の才能や美貌、金や財産、名誉や地位を妬み、そねみ、他人の不幸を喜ぶ醜い心。
災難で苦しんでいる人に「お気の毒に」と言いながら、心ではニヤリとする、恐ろしい心でもあります。

「深海」=来世ゆく所

これらの煩悩で悪を造り続けながら、それでもヒシと握り締めている藤蔓が切れると同時に、旅人は底の知れない深海へ落ちていきます。
人は、死ねばどうなるのか。
 
まいたタネは必ず生えます。
遅かれ早かれ、必ずぶち当たる未来です。
昨今は「終活ブーム」で、「死の準備が大切だ」とか「死生観を学ぼう」とよく言われますが、そう聞くと、遺産などの身辺整理や墓の準備、死に方を考える人が多いようです。
 
これは「死」の地点に立ってはいますが、自身の未来後生に背を向け、来し方を眺めているにすぎません。
例えばそれは、電車から降りる時、誰に席を譲ろうかとキョロキョロして気をもんでいるようなもの。
電車に執着して、座っていた席に未練を残しているのです。
降車の迫っている人にとって重大なのは、席は前に立っている人にあっさり譲って、「降りた先」を考えること。
仏教「死に備える」とは、「死ねばどうなるか」の来世を考えることなのです。

「5滴のハチミツ」=5つの楽しみ

ところが、こんな危ない所にいながら、旅人がうつつを抜かすのは、5滴のハチミツのことばかり。
これは、人間の五欲、5つの楽しみです。
 
食べたい、飲みたいという飲食の楽しみ。金や財産を追い求め、貯める楽しみ。男女の愛欲の楽しみ。誰からでも褒めてもらいたい、称賛される楽しみ。楽して寝ておりたい楽しみ。
この5つの楽しみ求めて、限りある命で限りない欲を満たそうと、私たちは、懸命に生きています。
旅人は、これら5つのハチミツをなめながら、陶然と深海に落ちていく。
危機的状況にありながら、目先の欲に無我夢中の相こそが一大事だ、とブッダは、この例え話で教えられているのです。

まとめ

そんな私たちが、生きている今、絶対の幸福になれる法(真理)を説かれたのがブッダの教え、仏教です。
人生は有限です。当たり前のことなのですが、誰もが実は目を背けています。
 
限られた時間の価値に気づいた人は、本当の幸福になれる法を探し求めるでしょう。
その法を、よくよく聞かせていただくことこそが、人生を真の幸福に生きる道なのだとブッダは教示されているのです。

 

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ブログ作成のお手伝いをしています「あさだよしあき」です。
東京大学在学中、稲盛和夫さんの本をきっかけに、仏教を学ぶようになりました。
20年以上学んできたことを、年間100回以上、仏教講座でわかりやすく伝えています。

 


創作 人生の選択 番外編 2)

2024年10月08日 04時29分54秒 | 創作欄

それは、1年前のことであった。

18歳の由紀子は、父親を憎しみ続けていた。

死んでくれれば良いとさえ思い詰めていた。

そんな彼女が、街中で出会った男がいた。

身長は180㎝ほどで長身、父親よりはるかに大きい。

髪は角刈りであり、厳つい様子であるが、由紀子の心を惹きつける男であった。

「おねいさん。俺とデートしないかい?」厳つい顔の男は微笑むと優しい容貌に変わっていた。

そして、誘われたのが、居酒屋であった。

当時、多くの飲食店が暴力団に金を定期的に支払っていた。

男は、その店を担当していた。

いわゆる、みかじめ料である、である、(見ヶ〆料、みかじめりょう)は、飲食店や小売店などが出店する地域の反社会的勢力に支払う場所代、用心棒代 。

男は、まずビンビルーを注文し、焼き鳥と刺身の盛り合わせを注文する。

由紀子は、父親に言わせると<不良少女>であったが、まだ、酒はそれほど飲んでいなかった。

彼女はタバコは少々、父親のタバコを盗んで、屋外で吸っていた。

「おねいさん、どんどんビール飲んでよ」男は上機嫌である。

当然、男には魂胆があったのだ。

ビールの次は日本酒となる。

<おねいさん>は、足がとられるほど酔っていく。

酒場街には旅館のあり、そこへ由紀子は連れ込まれる。

彼女にとって、相手は初めの男となるのだ。