歴史学者 朝河貫一

2024年11月22日 10時46分52秒 | 社会・文化・政治・経済

朝河貫一博士没後70年

<朝河貫一博士の功績>

福島県教育委員会/資料提供:公益財団法人安積歴史博物館 2017.9月
朝河貫一博士/あさかわ かんいち [1873(明治 6)年~1948(昭和 23)年]

【 「国際協調と世界平和こそが人類の永遠のテーマである」 】


朝河貫一博士は、今から 100 年以上前に「国際協調と世界平和こそが人類の最大のテーマである」ことを
提唱し、生涯にわたって世界に訴え続けた福島県二本松市出身の世界的歴史学者である。


★ 2012(平成 24)年『東京電力福島原子力発電所事故調査委員会報告書』黒川清委員長談話
「100 年ほど前に、ある警告が、福島が生んだ偉人・朝河貫一によってなされていた。

朝河は、日露戦争

に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす(危険が差し迫っていることを警告する)書『日本の禍機(かき)』を著し、日露戦争以後に『変われなかった』日本が進んで行くであろう道を、正確に予測していた。・・・・・・」


朝河貫一博士は、22 歳でアメリカに渡り、74 歳で亡くなるまでの約 50 年間アメリカで過ごした。

博士は、国際協調と世界平和という観点から世界の歴史を研究していた。

その時その時の日本の政治、社会体制を国外から見たとき、それが日本の 50 年後、
100 年後にどういう結果をもたらすかよく見通していた。
日露戦争後の 1909 年には、日本人に向けて書いた『日本の禍機(かき:わざわいの兆し)』
を出版した。

また、その後第二次世界大戦を予見した博士は、差し迫っていた日米開戦を回避しようと、米ルーズベルト大統領から昭和天皇宛て親書(天皇・元首から天皇・元首

への手紙)を出すことにより戦争を阻止しようと力を尽くした。

その手紙の草案も自ら書き提出した。

こうして、米大統領親書は昭和天皇宛てに発信され、1941(昭和 16)年 12 月 8 日、日本に届
いた。

しかし、同じ日に日本とアメリカは戦争に突入してしまい、親書が昭和天皇の手に届くことはなか
った。
後世、この事実を知って、日本人をはじめ世界の多くの人々は、もしこれが実現していたなら世界は変わっていたであろうと悔やんだ。

朝河貫一博士は、今も平和の提唱者として高く評価されている。

【 朝河貫一博士の「生涯」 】
《 父は二本松藩士 》


1868(慶応 4)年 二本松城落城。

貫一の父、朝河正澄(当時、宗形幸八郎昌武 24 歳)は二本松藩士。
1873(明治 6)年 貫一、出生。(二本松町下ノ町新長屋。貫一は未熟で虚弱な赤ん坊)
1874(明治 7)年 朝河一家、立子山村(現福島市立子山)天正寺に移る。(父、立子山小学校教員となる)
1878(明治11)年 貫一、立子山小学校初等科に入学。


《 『辞書喰い』朝河貫一 》
1888(明治21)年 貫一、福島県尋常中学校(現安積高校)に入学。
(当時は福島町(現福島市)にあった。)
1889(明治22)年 同尋常中学校、安積郡桑野村(現郡山市)に移転。
●みなさんは、朝河貫一博士をどれくらい知っていますか?


●朝河貫一博士の生涯を見てみよう!
・・・・・・共感することは何だろう?
・・・・・・考えさせられることは何だろう?
旧福島県尋常中学校(現安積高校旧本館)
朝河貫一博士
朝河貫一は中学(現在の高校)時代、英語の勉強のために「英英辞書」を毎日2ページずつ暗記した。
そして暗記したものは、一枚ずつ食べるか破り捨てるかし、最後に残った堅いカバーを校庭の西隅の
若い桜の木の根元に埋めた。

安積高校にはその桜の木(二代目)が今もあり、「朝河桜」と呼ばれてい
る。貫一は同級生たちに『辞書喰い』というあだ名を付けられたという。


卒業式で朝河貫一は答辞を述べた。すべて英語であった。

来賓をはじめ皆驚いたという。2年間英
語を指導したイギリス人教師・ハリファクスも、その文章の見事さと発音の素晴らしさに感じ入って、
「やがて世界はこの人を知るであろう。」と語ったと言われている。


《 「やがて世界はこの人を知るであろう。」 》
1892(明治25)年 貫一、福島県尋常中学校を卒業。(貫一は尋常中学校(5年間)を4年間で卒業した)
1892(明治25)年 貫一、東京専門学校(後の早稲田大学)文学科に入学。
1895(明治28)年 貫一、渡米。翌年、米ダートマス大学1年に編入。
1899(明治32)年 貫一、米イェール大学大学院歴史学科に進学。
1902(明治35)年 貫一、学位論文(英文)『645 年の改革(大化の改新)の研究』で博士号を授与される。
《 『一時の国利と 100 年の国害』 》


1909(明治42)年 貫一、『日本の禍機』を出版。
日本の外交は、日露戦争後大陸に勢力圏を拡大していく方向にあった。当時 35 歳の朝河は「こんな
ことしていたら、日本は世界から孤立し、滅亡の道を歩むことになる」と指摘した。そして「『一時の
国利と 100 年の国害』とを比較検討することの大切さ」を訴え、日本の政治家・軍人・国民に向けて、
遠くアメリカの地から警告し続けた。
1929(昭和 4)年 貫一、『入来文書』完成、米イェール大学と英オックスフォード大学より出版。
1937(昭和12)年 貫一、イェール大学大学院(歴史学)教授となる。(日本人初の米大学正教授)
《 『昭和天皇宛ルーズベルト大統領親書』草案作成 》
1941(昭和16)年 貫一、昭和天皇宛「米大統領親書」草案を作成し米政府に働きかける。
《 “Science is another monster of Frankenstein …” 》

 

1948(昭和23)年 貫一、米バーモント州ウエスト・ワーズボロの山荘で死去。(74 歳)
“Science is another monster of Frankenstein that the historic man’s hand has joyfully created but his
mind has been slow to hold under control…“(1942 年、米国人友人ウィルコックス宛朝河貫一の手紙)
「科学は、人類が喜んで造り出したものであるが、人類の知性はまだそれをコントロールできてお
らず、もう一つのフランケンシュタインのモンスターである。・・・」
(当時アメリカとソビエトは原子爆弾の開発で激しく先を争っていた。朝河のこの言葉はそうしたこ
とへの警告であろう。)
●「100 年後の世界」=現在は、博士に
はどんな世界に見えるのだろうか?
【 真の民主社会の樹立 】
●朝河貫一博士の生涯から、今を生きる
我々が学ぶべきことは何だろうか?
「・・・ もし日本が真の民主社会を願うなら、とりわけ、民主主義
の政治形態は、市民一人一人が自らの良心に対する危機感を強くし、
個人的な責任を果たすことでしか、打ち立てられない。私は堅くそう
信じます。」
(1946 年 米美術史家・友人ラングドン・ウォーナー宛手紙)
●良心とは、どんなことだろ
う?
1915 年 イタリア・カプリ島にて(伊仏英三国調査旅行中)

朝河貫一(あさかわ かんいち)は、福島県二本松市出身の世界的歴史学者で、次のような業績を残しています。
  • 「国際協調と世界平和こそが人類の最大のテーマである」ことを提唱し、生涯にわたって世界に訴え続けた
     
     
  • 日本人初のイェール大学教授を務めた
     
     
  • 太平洋戦争回避のために行動した
     
    朝河貫一は、旧制安積中学校(現在の安積高校)を卒業し、東京専門学校(現在の早稲田大学)の文学部に進学しました。明治維新後間もない時代に22歳でアメリカに渡り、74歳で亡くなるまでの約50年間をアメリカで過ごしました。
     
     

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