8/13(木) 7:02配信
京都新聞
終戦2日前に特攻で亡くなった星野實さん太平洋戦争の終戦2日前の1945年8月13日、京都に生まれ育った19歳の特攻隊員が沖縄の海に浮かぶ艦船へゼロ戦で突入した。青年は最後の2カ月間、鹿児島県の喜界島で出撃をひたすら待っていた。75年がたった夏。島の住民が在りし日の姿を語り、遺族が命の軌跡を振り返った。
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「まじめ過ぎる兄」16歳で予科練に
特攻で亡くなったのは星野實(みのる)さん。1926年、京都市伏見区下鳥羽の農家に四男として生まれた。「まじめ過ぎた男ですわ」。3歳下の弟の植村五市(ごいち)さん(91)=上京区=は兄の記憶をたどる。
五市さんによると、實さんは幼い頃からふざけたりすることもなく、勉学に励んでいた。下鳥羽尋常小(現・下鳥羽小)を卒業し、桃山中(現・桃山高)を経て1943年6月、16歳でパイロットの基礎訓練を積む海軍飛行予科練習生(予科練)になった。
最後に見た兄は七つボタンの制服姿だった
星野實さんの遺品とみられる絹の布。行動した部隊の推移や「轟沈」「必沈」などの文字が書かれている(京都市伏見区下鳥羽)
實さんは入隊して京都を離れた後、休暇で生家に帰省したことがある。予科練の象徴、七つボタンの制服を着ていた。五市さんは「飛行機乗りになりおったんやなあ、と思った。でも自分は戦争にはあまり意識がなかった」と話す。
五市さんが實さんと会ったのは、その時が最後となった。後に實さんは、用務の際に生家のある下鳥羽の上空を飛行すると家族に伝えていた、という。
五市さんも1944年に予科練に入り、神奈川県にあった海軍の教育機関に所属していた時、實さんから手紙が届いた。「俺は先に行く。お前は後についてこい」と記されていたという。「空中戦で死ぬ覚悟が伝わった。もしかしたら特攻を志した頃かもしれない」
「妹の話をしきりに」喜界島の住民は實さんを覚えていた
星野實さんの思い出を語る栄ヤエさん(鹿児島県喜界町・喜界島)
海上自衛隊鹿屋航空基地史料館(鹿児島県鹿屋市)によると、1945年6月10日、實さんが所属した神風特攻隊「第二神雷爆戦隊」は鹿屋の基地から、沖縄へ向かう特攻機の中継基地となっていた奄美群島の喜界島へ移った。以降、出撃命令を待つ日々が続いた。
島に暮らす栄(さかえ)ヤエさん(96)は隊員たちと交流があり、實さんのことを覚えていた。自宅は兵舎の近くにあり、實さんはヤギを見るのを楽しみに毎日のように半袖シャツ姿で訪れた。稲刈りを手伝い、生家での農作業の様子を伝えた。柔らかな物言いで妹の話をしきりにしていたという。栄さんは實さんに手作りのお守りを渡した。
終戦2日前に出撃、最後に打電した言葉は
喜界島の滑走路脇に咲くテンニンギク。特攻隊員が、島の住民から贈られた花を置いて飛び立ったことで根付いたとの言い伝えがあり、「特攻花」と呼ばれる=喜界町役場提供
1945年8月11日、出撃命令が下る。13日朝、栄ヤエさん宅を隊員たちが訪れ、一緒にご飯を食べた。星野實さんは「上から連絡が来た。今日は一緒に仕事へ行けない」と告げたという。午後6時、實さんら隊員は1人ずつ計5機で出撃。家の外で見送った栄さんの上空で、何度も左右の翼を上下に振るゼロ戦が1機あった。「優しい顔をしていてね、男前だった」。栄さんは、照れるように笑った。
同史料館の説明では、出撃した5機のうち3機は機体の不具合で引き返し、實さんらの2機がそれぞれ500キロの爆弾を積んで敵艦に向かった。日没45分後の午後7時50分、實さんは「我敵空母に必中突入中」と打電した後、消息を絶った。突入したのは後に、空母ではなく揚陸艦とみられることが分かった。
實さんらの特攻を新聞が報じたのは2日後の8月15日。毎日新聞2面に「わが航空部隊は十三日夕刻沖縄本島中城湾に在泊中の敵艦船に対し特別攻撃を敢行、現在までに判明せる状況は敵空母に必中突入を報じたるもの二機である」との記事がある。1面の記事には「聖断拝し大東亜戦争を終結」と終戦を伝える大見出しが付いていた。
会ったことのない叔父のため、京都の水を錦江湾に注ぐ
星野實さんに関わる資料を自宅で保管するおいの澄夫さん(京都市伏見区下鳥羽)
「特攻の 名も世に出でず 埋木の つぼみに散りし 我子思へば」。實さんの父の市三郎さんは息子の死を悼む歌を詠んだ。生家には遺品とみられる絹の布が残された。土浦、鹿島、博多、天草、舞鶴と行動した部隊の推移とともに、「轟沈」「必沈」と書かれ、特攻機が敵艦に突入する絵も描かれていた。
實さんの資料を保管するおいの星野澄夫さん(71)=京都市伏見区=は叔父が踏んだ地を訪ね、慰霊に尽力してくれた部隊の関係者に謝意を伝えてきた。喜界島に建つ碑には、生家のそばの酒造会社が作った日本酒を供えた。鹿児島の錦江湾では、生家で使う井戸水を酌んで運び、海に注いだ。
「生きておられた時と同じ京都の水やさかい。心だけはそう思って、持って行った」。一度も会ったことのない叔父へ、澄夫さんは思いを込めた。
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