精神疾患に対する脳神経外科治療

2019年04月25日 23時23分40秒 | 医科・歯科・介護

難治性精神疾患に対する DBS 療法─世界の現状とわが国の課題

東京女子医科大学脳機能外科 平 孝臣(臨床教授)
パーキンソン病をはじめとする不随意運動の原因となる疾患に対して、原因の精査を行うとともに内科的な治療での治療困難な場合などによっては標的となる神経核に対して、定位的脳手術(ステレオタクティックサージャリー)による治療を行っております。

:精神疾患に対する脳神経外科治療(neurosurgery for psychiatric disorders:NPD)を行う脳神経外科医の大半が属する国際定位機能神経外科学会(WSSFN)の会長として,WSSFNでのNPDへのコンセンサス,スタンス,課題,および国際的現状を紹介する。
WSSFNでは少なくとも現時点ではすべての NPD を「研究段階の治療」とみなしている。FDA や CE の承認を背景に企業などの関与があり,純粋な医学的見地からは疑問視する声もある。
したがってこれらの承認をもって一般医療とはみなしていない。
「研究段階の治療」ではある一定のstudy protocolのもと,各国,各施設でのIRB
などの承認が必須で,患者や社会も「研究的,実験的」治療と認識しておく必要がある。多くの倫理規定やガイドラインがあるが,精神科医,脳外科医を含む複数の専門分野の十分経験のある医師の関与が必須である。
このような条件下の研究は,難治性強迫神経症(OCD),難治性うつ病(TRD)が代表的であるが,アルコールを含む薬物依存,神経性食思不振,アルツハイマー病などもにも拡大している。
一方WSSFNの原則に則らず,十分な情報開示もないまま,統合失調症,薬物依存,衝動的
な攻撃性などに対して凝固術を行っている国もある。
しかしこれらにはLevel 1のエビデンスはなく,安全性と有効性がLevel 2の段階で,今後さらに科学的検証が必要である。
DBSが可逆的で盲検可能で科学的アプローチが可能ということで注目を浴びているが,北米では現在も NPDに関与する脳神経外科医の半数が凝固術を行っている。
薬物治療などの既存の治療の効果を評価する尺度で,同様に重度の OCD や TRD に対する DBS の効果を検討した場合,未だに完全ではないが,十分有望な効果が認められており,今後本邦でも看過できない領域である。
日本生物学的精神医学会誌 24(1): 11-21, 2013

脳内の特定の部位に電極を留置し植込み型電気刺激装置を用いて慢性的に電気刺激を行うという脳深部刺激術(deep brain stimulation:DBS)は,1970年代から難治性疼痛の治療として51,65),1990 年代からは振戦60),パ-キンソン病17,23),ジストニアの
治療37,69)に応用され,現在では本邦でも確立された治療としてその大半が健康保険適応となっている。
DBS の実際については本特集に杉山が詳しく述べているが,刺激を on/off することによってその効果が可逆性であること,刺激による副作用などをほとんど破壊しないことなどの理由で,従来から難治性疼痛や不随意運動に対する治療として行われてきた定位脳手術による視床などの凝固術に大きくとってかわるようになった。
精神疾患に対しては前頭葉切截術や(主として心理学者や精神科医による)極めて非倫理的かつ実験的な手術29)の消退後も,より焦点を絞った内包前脚26,49)や帯状回5,14)に対する限局的破壊術40)がいくつかの国々で脈々と行われ,国際的にも 1980 年代までさかんに討議が続けられてきたてきた43)。
不随意運動の機序解明と新たな治療の進歩が両輪となって,不随意運動には大脳皮質─基底核─視床(Cortico─ Basal ganglia─ Thalamic:CBT)サーキットの機能異常が存在し,手術操作がこの CBT サーキットの機能異常を是正するという考えが一般的になった。

同様に精神疾患もこのような CBT に準じたサーキットの機能異常としてとらえられるという考え 1 8,3 5,4 5)から,DBS を難治性強迫神経症
(treatment resistant obsessive compulsive disorder:TR─
OCD)や難治性うつ病(Treatment resistantmajor depression: TR ─ MD)の治療に応用するということが 2000 年前後から海外で研究されはじめ54,55),現在では数多くの報告が見られるようになった2,16,25,27,33,57)。
一方本邦ではこのような治療に対して実際面や倫理面からの検討24,34,53,66)はわずかながら行われているものの,実際の臨床研究はいまだ皆無である。
筆者は 2009 年から以上のような手術治療を専門筆者は 2009 年から以上のような手術治療を専門的に討議する国際定位機能神経外科学会(The World Society for Stereotactic and Functional
Neurosurgery,www.wssfn.org)の会長を務めている。
本会は人での定位脳手術を確立した Spiegel とWycis によって 1961 年に創設され,脳神経外科のsubspecialty としては最も古い歴史を持っている。
WSSFN では過去の歴史的背景を踏まえた上で,今後の精神疾患に関する外科治療のあり方や研究の進め方を,国際的に討議し方針を出していくことを重要視している。
このため 2009 年にベルギーの Bart Nuttinを委員長とする精神疾患に対する外科治療に
関する委員会を結成し,精神科医や倫理学者も交えて,精神疾患に対する脳神経外科治療について,歴史29,57),手術手技,適応や効果,倫理面の問題点10,20,41,63)など多くの観点から検討を重ねてきた。

難治性うつ病に対する効果
難治性うつ病(Treatment resistant depression:TRD)に対しては OCD と同様に様々な脳内ターゲットに関する研究がある。
すなわちSubgenual cingulate gyrus(Area 25),VC/VS,NA,ITP,外側手綱核である。
この中で,NA の DBS の効果はやや劣るものの,症状の改善率は43~68%,寛解率は9~100%とばらつきがある。
対象症例が,うつ病が2年以上継続している,あるいは,これまでに4回以上の発症歴を持つ,電気けいれん療法を含む他の治療がすべて無効,異なる4種類のうつ病治療を使っても,効果がみられないという難治例65)における結果として,このような効果を有望視するか不十分とするかは意見が分かれるところである。
OCDでもTRDでも,どの刺激ターゲットが最も有効かということについてコンセンサスは得られておらず,混沌とした状況である。
しかしこれらは medial forebrain bundleに関係した領域で,もっとも重要な構造はこのmedial forebrain bundleではないかという考えもある12,13)。
パ-キンソン病に対する定位脳手術のターゲットも 1970 年代には各施設がそれぞれ独自のターゲットを用いていた38)が,現在のように視床 Vim 核,視床下核,淡蒼球内節の3ヵ所にしぼられ,それぞれの利点欠点が明確にされるのに 20 ~ 30 年かかったという経緯がある。
現在尾状核や VS がより OCD に有効で,NA はより TRD に有効であるというような所見3)も報告されつつあり,少しずつではあるがターゲットが定まっていく方向に研究が進められてくと考えられる。

 

 その他の研究対象

OCDとTRD以外の実際に行われている臨床研究
には Tourette’s 症候群50,58,59,67),薬物中毒44,62,68),タバコ依存47,71),アルコール中毒36,52),神経性食思不振4,72),アルツハイマー病39,61)などがあげられる。
これらの中にはTourette’s症候群のように科学的アプローチがなされているものもあるが,時期尚早あるいは不適切という考えも根強くある9,61)。
アルツハイマー病に関しては北米ですでに 60 例を対象と
した脳弓近傍の DBS で多施設ランダム比較対照試
験が開始されており,今後の結果が注目される。
倫理的側面
精神疾患の外科的治療は過去に暗い歴史を持っており,その反省から現代的な倫理面での配慮が特に的確になされることが基本である。
ただしこれは現在のすべての医学研究に共通している問題でもある。
国内外でもこのことは当然広く議論されている。
現在ほぼ全ての研究では各施設でのIRB承認にあたり,本人の同意が必要であること,本人が同意に関する諸条件を理解できる能力があること,第三者による専門グループが個々の例について 1 例ごとに検討して外科治療の inclusion criteria に合致するかを検討することなどが最低限必須とされている6)。
すなわち OCD や TRD などを包括的対象ととらえて認可するのでないという点が重要である。
しかし各施設の独自のIRBのみの判断でよいのかというということも社会的に議論されな
ければならないであろう。
また一方で,人間の精神状態を,たとえ病的状態であろうとも,外科的手段
によってコントロールするということが許されるのかという根源的疑問や批判もあることを忘れてはならない。
薬物治療に抵抗する難治性不随意運動を外科的に治療することとどこが違うのか,精神疾患の薬物治療や ECT などと根本的に何が異なるのか,という議論にもつながる。
たとえば,美容外科手術について,親からもらった身体にメスを入れるのはとんでもないという価値観の人もいれば,本人の納得と希望があればかまわないのではないかという考
えの人もおり,これらの意見のどちらが絶対的に正しいかという結論を得ることは困難である。
同様に,精神疾患であっても外科的な方策で一縷の期待を託して苦しみから逃れたい,たとえ研究段階でも研究に協力しこのような領域の発展に貢献したいと真摯に考える患者もいれば,自分は決して外科的な治療を受けたくない,ましてや研究の対象とされたくな
いと考える患者もいるであろう。
重要なのはこのような個々人それぞれの考えや希望を十分尊重することであろう。
第三者が自分独自の画一的な考えをおしつけ包括的に否定することは,病気をかかえる患者個人の自己選択権を剥奪しているようなものではなかろうか。
患者個人の意思という観点から,精神疾患ではこのような判断能力が十分備わっているか
どうかの検討も重要な課題である。
このように現在の精神疾患に対する外科治療の研究はすべて「病気による苦悩」を抱えている患者のみを対象にしている。
それを拡大解釈して健常者の気分不調や精神状態の改善,あるいは,いわえる政治的,社会的な目的でのmind controlに用いてはならないことは当然である。

過去の暴走

精神疾患に対する DBS のような新しい治療が出現してきた場合に,それを推進する立場の者への批判としてよくあるのは,単なる科学的興味・好奇心のため推進している,アカデミズムの中での功名心や論文・学術発表のためのインセンティブのため推進している,というものである。

日本ではたとえOCDやTRDに対して海外のこれまでの例に従って
DBS を行ったとしても,国際的アカデミズムの中での価値はほとんどない。

これはかつての本邦の心臓移植と同様である。「目の前にいる患者を自分の持つ技術で救いたい」という医の根源的・本能的な純粋な気持ちが伝わりにくく,受け入れてもらえにくいのは,過去に多くの誤った暴走があったからであろう。
脳内の様々な部位を植込み電極で刺激して「幸福をもたらす」「同性愛者を矯正する」「遠隔操作のmind control」などの実験目的で脳外科医の関与なしに心理学・神経生理学者や精神科医が独自に人体実験とも言えることを行っていた時代がある1,29)。

ロボトミーを数多く行ったFreemanや広瀬も脳神経外科医ではなく,精神神経科医であった53)。
現在 WSSFN では NPD を議論する場合に必ず精神科医や倫理学者などに加わってもらっている。
しかし逆に,精神科医のみの判断で DBS のガイドラインを作成するような動きもあり,多専門分野の専門家の関与という原則が守られていない56)ことも監視していく必要がある。
まとめ
精神疾患に対する DBS を含む外科治療はその技まとめ術的進歩と精神疾患を生物学的にとらえるという考え方によって,国際的にはこの 10 余年で様々な新たな知見を生み,将来への展望がさらに開かれようとしている。
また,このような進歩にともない倫理的,社会的な側面からもさらに冷静な判断を迫られ
る状況となっている。
本邦では 2012 年 9 月の日本生物学的精神医学会でこの数十年来はじめて精神科医が主導してこの問題に取り組む場が持たれ,もはや日本でも精神疾患に対する外科治療について「見ざる,言わざる,聞かざる」ということでは済まされない時代に入ったものと思う。

筆者は 1990 年に「精神外科を再び考える」という拙文を著わした64)。
この中で,「正しい知識にもとづいて議論がなされ,責任ある判断のもとに社会的な合意を得ることがもっとも重要」と記した。

このことは 20 余年経過した現在でも何ら変わっていない。科学的アプローチと社会のコンセンサスという場合に,科学的とは何か,コンセンサスとは何か,そして疾患とは,病的とは何か,というような内容にまで踏み込んだ深く冷静な議論を今後期待したい。


精神病院 悪名高いロボトミー

2019年04月25日 22時36分45秒 | 医科・歯科・介護

カラパイア 2016年11月16日 

かつて人体実験が行われていたり、劣悪な環境にあったアメリカの精神病院

古くから精神病院と呼ばれるところの闇は深い。

かつてアメリカの精神病院では、患者を監禁し、病院内で悪名高いロボトミー手術が施術されていたそうだ。

 エガス・モニスがポルトガルで初めてロボトミー手術を行ったのが1935年のこと。

まもなく、アメリカ人医師のウォルター・フリーマンとジェームズ・W・ワッツがこれを取り入れて広め、1949年から1951年の間、この手術を受けた患者数は、5074人から1万8608人へと増加した。

 ジョン・F・ケネディーの妹ローズマリーもこの問題の多い手術を施された一人である。

この頃、アメリカの改革家たちが精神病院のシステムを調査したが、患者が治療と称して非人道的な扱いを受けていることをそれほど問題にしなかった。

 現在は、疾患がある人たちを牢獄に監禁するような当時のやり方を無効にする動きを見ることができる。アメリカでもっとも不気味な精神病院をとりあげてみよう。

かつて人体実験が行われていたり、劣悪な環境にあったアメリカの11の精神病院

■ 11. トピーカ州立病院(カンザス州トピーカ)1872年~1997年
古くから精神病院と呼ばれるところの闇は深い。かつてアメリカの精神病院では、患者を監禁し、病院内で悪名高いロボトミー手術が施術されていたそうだ。

 エガス・モニスがポルトガルで初めてロボトミー手術を行ったのが1935年のこと。

まもなく、アメリカ人医師のウォルター・フリーマンとジェームズ・W・ワッツがこれを取り入れて広め、1949年から1951年の間、この手術を受けた患者数は、5074人から1万8608人へと増加した。

 ジョン・F・ケネディーの妹ローズマリーもこの問題の多い手術を施された一人である。この頃、アメリカの改革家たちが精神病院のシステムを調査したが、患者が治療と称して非人道的な扱いを受けていることをそれほど問題にしなかった。

 現在は、疾患がある人たちを牢獄に監禁するような当時のやり方を無効にする動きを見ることができる。アメリカでもっとも不気味な精神病院をとりあげてみよう。

■ 10. ウェイバリーヒルズ・サナトリウム(ケンタッキー州ルイヴィル)1910年~1961年


 この施設もまた、健康や福祉をかえりみることなく、人間を実験台にしていた。ここは必ずしも精神病院というわけではなく、まだ詳しいことがはっきりわかっていなかった時代に結核患者を収容していた。

 有効な治療例もなく、医師たちは患者の肋骨と筋肉を切除して、風船を挿入して肺を膨らませるといった野蛮なやり方をしていたという記録が残っている。
この施設での患者の死亡数について、外部の調査員とサナトリウム側との言い分が食い違っているのも問題になっている。

副医長のJ・フランク・W・スチュワート博士によると、1年で最高でも152人ということだったが、外部調査では162人。この施設が営業していた50年以上の間におよそ8212人が亡くなったことになる。

■ 9. オーバーブルック精神病院(ニュージャージー州シーダーグローヴ)1896年~1975年

開業は1896年。エセックス郡が325エーカーの土地に精神疾患のための新たな病院を建設した。

景色も良く、人里離れた高台にあり、患者の健康やリハビリのために絶好の立地だと思われた。

だが、病院がオープンしてまもなく、患者の数が働きづめのスタッフの数を大きく上回り、必要な治療が行き届かなくなってしまった。

 その結果は恐ろしいものになった。病院の環境は最悪で、20世紀始めには24人の患者がベッドで凍死し、150人以上の患者が行方不明になった。

にもかかわらず、この病院は100年近くも営業し、結局1970年代に閉鎖された。

8. ウィローブルック州立学校(ニューヨーク州スタテンアイランド)1947年~1987年
州が運営していた知的障害児のための施設で、のちに精神病院に再建された。1960年代の施設環境は最悪で、ロバート・ケネディはこの施設を動物園、蛇の穴のようだと表現した。

 もともと4000人の子どもたちを収容できるよう建設されたが、1965年までにその数は6000人に膨れ上がっていた。

目撃談によると、ほったらかしの患者たちが施設のまわりを徘徊して自分たちの排泄物をまき散らしていたという。しかし、もっと悲惨だったのは、医師たちが治療と称して子供たちに対して行う実験だった。

 肝炎の発生についての研究が行き詰まっていた医者ソール・クルッグマンは、ウィローブルックの子どもたちを使って、さまざまな疑問に答えを見つけ出そうとした。

彼は、生きた肝炎ウィルスを60人の子どもたちに接種させ、子供たちの皮膚や目が黄色くなり、肝臓が肥大していくのを観察したという。

 子どもたちは嘔吐し、食べ物を受けつけなくなり、病気を発症して、重症化する者もいた。

クルッグマンは、いずれほとんどが肝炎にかかるのだからいいのだとして、ウィローブルックの知的障害のある子供たちに肝炎ウィルスを接種する行為を正当化していた。

意図的に子供たちに肝炎ウィルスを植えつけることで、クルッグマンは確実に肝炎患者を観察することができたのだ。

 ウィローブルックの悲劇は、1980年に制定された連邦法、施設収容者に対する人権の公民権法成立につながった。
州が運営していた知的障害児のための施設で、のちに精神病院に再建された。1960年代の施設環境は最悪で、ロバート・ケネディはこの施設を動物園、蛇の穴のようだと表現した。

 もともと4000人の子どもたちを収容できるよう建設されたが、1965年までにその数は6000人に膨れ上がっていた。目撃談によると、ほったらかしの患者たちが施設のまわりを徘徊して自分たちの排泄物をまき散らしていたという。しかし、もっと悲惨だったのは、医師たちが治療と称して子供たちに対して行う実験だった。

 肝炎の発生についての研究が行き詰まっていた医者ソール・クルッグマンは、ウィローブルックの子どもたちを使って、さまざまな疑問に答えを見つけ出そうとした。彼は、生きた肝炎ウィルスを60人の子どもたちに接種させ、子供たちの皮膚や目が黄色くなり、肝臓が肥大していくのを観察したという。

 子どもたちは嘔吐し、食べ物を受けつけなくなり、病気を発症して、重症化する者もいた。クルッグマンは、いずれほとんどが肝炎にかかるのだからいいのだとして、ウィローブルックの知的障害のある子供たちに肝炎ウィルスを接種する行為を正当化していた。意図的に子供たちに肝炎ウィルスを植えつけることで、クルッグマンは確実に肝炎患者を観察することができたのだ。

 7.ウィローブルックの悲劇は、1980年に制定された連邦法、施設収容者に対する人権の公民権法成立につながった。
この施設は、ありとあらゆることが劣悪だった。250人収容の施設のはずだったが、1949年には実際には2400人以上を収容していた。北米医療機関調査委員会の1938年の報告によると、この施設には癲癇、アルコール中毒、薬物中毒、無学な精神障害者なども収容
されていたという。
制御することができない患者は、アイスピックなどの粗野な道具でロボトミー手術を施され、その他大勢と檻の中に閉じ込められた。この施設の不思議なほど長い運営期間中に、患者への恐ろしい治療が大勢を死に追いやったことは間違いない。

■ 6. バイベリー精神病院(ペンシルベニア州バイベリー)1907年~1987年

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 市民の抵抗は現在の政治風土では分が悪いが、確かに効果はある。良心ある抵抗者チャーリー・ロードがバイベリー精神病院でその任務を任された。

 彼が撮った36枚の白黒写真が、この病院を閉鎖に追い込むのに十分な証拠となったのだ。これらの写真は大勢の市民を激怒させ、時のファーストレディ、エレノア・ルーズベルトでさえ、この問題との戦いを支援すると約束した。

 ナチの強制収容所になぞらえ、過密状態の中、自分の排泄物の中で眠る患者たちの劣悪な環境を指摘する者もいた。
多数の目撃証言によると、施設は不潔極まりなく、患者は裸のままうろつきまわていたという。ロードが撮ったあまりにもひどい環境の写真は、1946年に《ライフ》に掲載され、精神病院施設の改革が広がった。世論の圧力が強くなり、この施設は縮小を余儀なくされ、ついに閉鎖した。
多数の目撃証言によると、施設は不潔極まりなく、患者は裸のままうろつきまわていたという。ロードが撮ったあまりにもひどい環境の写真は、1946年に《ライフ》に掲載され、精神病院施設の改革が広がった。世論の圧力が強くなり、この施設は縮小を余儀なくされ、ついに閉鎖した。
1821年に設立されたときは、精神疾患患者を道義的に正しくリハビリするための施設だったが、病院がやったことはそのモラルから大きく逸脱してしまった。

 1872年、ジャーナリストのユリウス・チャンバースが異例な手を使ってこの非道を暴露した。《ニューヨーク・トリビューン》の編集主任の協力を得て、チャンバーズ自身が10日間この病院に入ったのだ。

 病院から出てくると、彼は施設で行われていた非人道的な処置を詳しく発表した。患者が殴る蹴るされ、血を吐くまで首を絞められたリ、病院ぐるみの虐待によって自殺に追い込まれたりしていたことが世に知られることとなった。こうした暴露によって、病院側は精神疾患ではなかった12人の患者を解放するはめになった。さらに、チャンバーズの著作『狂った世界とその中の人々』は精神疾患をもつ人々の権利の改善につながった。
4. ピルグリム精神医学センター(ニューヨーク州ブレントウッド)1941年~現在

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 この施設の場合、あるひとりの患者に対するあまりにひどい仕打ちが、その他大勢への虐待よりも広く語られている。

 1940年代、ベルーラ・ジョーンズは当時世界最大の精神病院だったこの施設に入れられた。最後の子どもを妊娠した後、精神に異常をきたし、夫によって入院させられたのだ。医師からロボトミー手術しか治療の見込みはないと言われて、夫はこれを承諾したという。
 ベルーラは妄想が続いていたのに、10週にわたって15回も電気ショック療法を受けさせられ、のちに医師が彼女の頭にドリルで穴を開けて、前頭葉を切除した。この話を伝え聞いたベルーラの孫娘、クリスティーン・ジョンソンは、証拠書類をかき集めて、こんな古臭い残酷な施術が行われた理由や、ロボトミー手術を合法化して一般的に広めたエガス・モニスにノーベル賞が授与されたことに対する説明を求めた。
ベルーラは数十年この施設で過ごした後、1972年に開放された。だが、どういうわけかこの施設は今日でも運営している。

■ 3. グレイストーン・パーク精神病院(ニュージャージー州モリスプレインズ)1876年~現在
この施設もほかの精神病院と同様、過密状態だった。1600人収容のところに、2412人の患者がひしめきあっていた。さらに、ここではPTSDに苦しむ退役軍人にインシュリンショック療法や電気ショック療法を行っていた。フォークミュージック界のレジェンド、ウッディ・ガスリーが入院していたことでも知られている。

 ガスリーは入っていたのは、1956年から61年。遺伝性の退行性神経障害で難病のハンチントン病だった。入院中、ガスリーはここを"墓石"と呼び、ワーディ・フォーティと呼ばれた病棟でたくさんの手紙を書いた。たとえ精神疾患だと診断されても、健常者と同様、患者たちも人との接触や相互のやりとりが必要だということを証明している。

2. ペンハースト児童養護施設(ペンシルベニア州スプリングシティ)1908年~1987年
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かつて人体実験が行われていたり、劣悪な環境にあったアメリカの11の精神病院
カラパイア 2016年11月16日 15:30 0


■ 2. ペンハースト児童養護施設(ペンシルベニア州スプリングシティ)1908年~1987年

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 患者に対する虐待は非難すべきものだが、特にこの精神病院の子どもたちへの治療は非道極まりない。知的障害のある人の治療と教育のために建てられたこの病院は、まもなくまるで反対路線を行くようになった。

 1968年、事件記者のビル・バルディーニの調査によって、この病院の恐るべき実態が明るみに出た。"苦しむ幼い子供たち"と題された報道によって、あたりにこだまする放置された子供たちの叫び声、大規模な肉体的、性的虐待、全般的な患者への思いやりの欠如が明らかになった。

 また、噛みついたりした反抗的な子どもは1度警告を与えられるが、2度目には歯を抜かれてしまう。かつてここに入っていたテリー・リー・ハルダーマンが2度目の報告をした後、裁判所が3000人以上の患者が適切な治療を受けていないことを確認し、病院は閉鎖された。
アテネ精神病院(オハイオ州アテネ)1874年~1993年

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 19世紀は、性欲を露わにしたり強い感情を示す女性はヒステリー症と診断された。"月経による錯乱"という病気のせいで精神障害を起こしたと考えられた。

 精神病院でのこうした女性たちの治療は、凍えさせたり、ショックを与えたり、殴る蹴るといったもので、病気を取り除くためと称してロボトミー手術も行なわれていた。ときにわたしたちは逆行しているように思えることもあるかもしれないが、こうした歩み全体は前進していて、ロボトミー手術や抜歯、電気ショック療法は過去のものになっている。

 


“不妊手術を強いられた” 追跡・旧優生保護法

2019年04月25日 22時10分03秒 | 社会・文化・政治・経済

NHK クローズアップ現代

今、ある法律により被害を受けたと言う人たちが国を提訴する動きが相次いでいる。
人口抑制のため「不良な子孫の出生防止」を掲げて成立した旧優生保護法(昭和23年〜平成8年)。
1万6千人を超える“障害者”が不妊手術を強制されたが、全貌は明らかになっていない。

番組では関係者を独自に取材。そこからは「社会のためになる」という国のかけ声のもと、社会に潜む“優生思想”を背景に強制手術が広がった実態が明らかになってきた。

埋もれた“いのちの選別”の深層に迫る。
森岡正博さん (早稲田大学教授)
NHK記者
武田真一・田中泉 (キャスター)

“不妊手術を強いられた” 追跡・旧優生保護法

突然、子どもができない体にされたら、あなたはどうしますか?
70代の女性です。
16歳の時、障害があるとされ、不妊手術を強いられたと明かしました。
被害を訴える女性
「それから苦しみが始まって、本当に不幸ですよ。幸せがあったのに。」
不良な子孫の出生防止を掲げ、平成8年まで続いた旧優生保護法。知的障害や精神障害などを理由に不妊手術が強制されました。その数は分かっているだけでも全国で1万6,000人を超えると見られています。
今、こうした人たちが国を相手に謝罪や補償を求め、裁判を起こし始めています。
なぜ、人権を踏みにじる事態が起きたのか。

私たちは100人を超える関係者を取材しました。見えてきたのは、社会全体が不妊手術を後押ししていた実態。

しかも、このままでは当事者の多くが救済されない現状も見えてきました。

被害を訴える男性
「60年ぶりに会いに来ました。」
多くの人の人生を奪った国による命の選別。その実相に迫ります。

強制不妊手術 “奪われた”人生
不妊手術の強制を告白した、仙台市の飯塚淳子さんです。
飯塚淳子さん(仮名)
「書かれているものがあるんですよ、優生手術必要って。」

家庭が貧しく満足に学校に通えなかった飯塚さん。知能テストの点数が低かったため、中学生の時、軽度の知的障害とされました。
16歳のある日、飯塚さんは宮城県内の診療所に連れていかれました。
何も告げられないまま麻酔をかけられ、卵管を縛る不妊手術が行われました。
その後、両親の会話から子どもを産めなくなった事実を知りました。
飯塚淳子さん
「いつも落ち込んでいました、うちに閉じこもって。手術が本当に憎い。」

飯塚さんは20代で結婚しましたが、子どもができないことで次第に夫婦関係が悪化、離婚しました。

その後、30代で再婚しましたが、夫に手術の事実を告げると、家を出ていったといいます。
不妊手術がなければ、明るい家庭が築けたのではないか。

50年余り、苦しみを抱え続けてきました。

飯塚淳子さん
「やっぱり、うらやましいなって。子どもがいたら、こういう家庭だろうなとか、いろんな思いはあります。本当に戻れるなら、16歳にかえしてもらいたい。」
強制不妊手術はこうして広がった

優生保護法が作られたのは、昭和23年。終戦直後の貧しい時代、大量の引き揚げ者や出産ブームによる人口急増が大きな社会問題になっていました。

その対策として、中絶の容認とともに重視されたのが、障害者の不妊手術でした。

当時、法案を提出する中心となった国会議員の発言です。

谷口弥三郎参議院議員(当時)
“本人の同意がなくても優生手術を行おうとするものであります。これは悪質の強度な遺伝因子を国民素質の上に残さないようにするためにはぜひ必要であると考えます。(当時の議事録より)”
不良な子孫を排除し、優良な遺伝子だけを残そうという優生思想。人権をないがしろにした誤った思想をもとに、強制手術が始まったのです。

東京大学大学院 市野川容孝教授
「過剰人口問題、それに由来する貧困をどう防ぐかという所に力点があったことは事実。

“量を減らす”と同時に“人間の質を高める”、“質を上げる”目的が、この法律にセットで入っていた。」

今から見れば、人権侵害といえる事態は、なぜ広がっていったのか。
当時の状況をよく知る宮城県の元職員に話を聞くことができました。

男性によると、障害者が入所する施設や病院だけでなく、地域ぐるみで障害が疑われる子どもがいないか積極的に探していたといいます。

宮城県元職員
「学校はあるし、民生委員はあるし、親が通告する場合もあります。あるいは警察。『どうやら頭が悪いんじゃないか』とか、『こんな癖があって困っている』とか。」

こうして集められた子どもたちは医師が診断を行った後、県の審査会を経て、本人の同意なく手術が行われていったのです。
取材を進めると、こうした流れが加速した背景に宮城県では、ある運動があったことが分かってきました。

昭和32年に始まった「愛の十万人県民運動」です。

寄付を募り、障害者施設を作ることを目標に進められたこの運動。不妊手術の徹底も掲げられていました。

そこでは、障害者が子どもを産まないようにすることが本人と家族の幸せのためだと呼びかけられていました。善意という名の下に、強制不妊手術は広がっていったのです。

宮城県元職員
「(障害者は)本人も気の毒だし、家庭も気の毒だし、それから扱う方だって大変になる。だから(当時)“そういう子どもが産まれないように”ということ。」

さらに、手術を強いられた子どもたちの姿を目の当たりにした人も見つかりました。男性が働いていた障害者施設では、親の承諾があれば、本人の同意がなくても手術を受けさせられていたといいます。

障害者施設の元職員 三宅光一さん
「『自分の好きな人と一緒になって家族を持つんだ』という話をよくしていました。(手術のあと)部屋の隅で泣いていました。『もうお嫁さんに行けないんだ』と。何と言ってなぐさめていいか分かりませんでした。」

強制不妊手術 “奪われた”人生

16歳の時、不妊手術を受けさせられた飯塚淳子さんです。

なぜ自分が手術を受けなければならなかったのか、飯塚さんは当時の担任の教師に問い続けてきました。教師から届いた手紙です。
“周囲の人たちはみな、あなたの幸せを望んでいたはずです。

それが結果としてあなたに大きな不幸をもたらしたことは本当に残念でなりません。善意が裏目にでたことに大きな衝撃を受け…”

飯塚淳子さん
「善意じゃないですよ、こんなの。自分たちは良いつもりでやったかもしれないけど、手術された側にとっては不幸です。不幸ですよ、本当に。」

強制不妊手術 “善意”の下で何が

ゲスト 森岡正博さん(早稲田大学教授)
生命倫理の立場から、優生思想について長年研究をしている森岡さん。
人権をないがしろにした法律だったと、強い憤りを感じるが?

森岡さん:そのとおりですね。

当時としては合法だったと言われるかもしれませんけれども、これがもう悪法であったということは間違いがないことだと思います。

どこが悪かといいますと、やはり本人の同意なしに、本人の意思なしに、強制的に手術をされてしまう。そして子どもを産めない体にされてしまう。まさに、ここに悪が凝縮されていると思います。

さらに考えなくてはならないのが、それが善意の名の下に、地域ぐるみで、障害のある方にとっては逃げ場がない中で行われたということだが?

森岡さん:2つあると思うんですね。

つまり上からと下からなんですけれども、まず優生医学、優生思想というのは、国家が国民の質をよくしようとかいう形で、上からやられていくということがあるんですけれど、もう1つ、それを下から支える、われわれ一般民衆の側の問題があるんですね。

そして、そのわれわれ、下から支える時に善意というのが出てくるわけですね。

つまり本人のためを思って、こうしてあげるのが本人のためなんだ、幸せのためなんだと、つまり優生思想は、いつも善意の形を取って表れると。

そういうことをきちっと見ていかないといけないと思います。

そして取材に当たった福田記者。
なぜ、この問題がここまで埋もれてきたんでしょうか。

福田記者:理由は2つあると思います。

1つは、当事者がこれまで声を上げられなかったということです。

取材した人の中には障害の程度が重く、自ら声を上げられなかったり、手術のことを家族や周りの人に言えなかったという人もいました。

さらに、自分が不妊手術を受けたということさえ分からない人もいたんです。

もう1つ大きいのが、社会が目を向けてこなかったということです。

国は国際的な批判を受けて、平成8年に法律をなくしました。

しかしこの時に、謝罪や救済ということは進まず、われわれ報道機関も含めて、社会がほとんどこの問題に注目せずに事実が埋まっていってしまったんです。

この実態は、今、どこまで分かっている?

福田記者:優生保護法による強制不妊手術というのは、47都道府県全てで行われていました。ピークは昭和20年代から30年代でした。

人数は、分かっているだけで1万6,000人以上と見られ、中には9歳の少女がいたことも分かっています。
しかし、実は国が把握しているのは、この1万6,000人という数字だけであって、誰が手術を受けて、今、どのように過ごしているのかというのは分かっていない状況です。

なぜ、そこまで拡大していった?

福田記者:それは障害があったか疑わしい人まで手術が拡大していったということがあると思います。例えば、貧しくて学校に通えず知能テストの結果が悪かったり、非行を繰り返していたということだけで障害者とされていたということもありました。

実はVTRの飯塚さんも、最近になって医師から「知的障害はなかった」というふうに告げられています。さらに、国が自治体に対して不妊手術を強制していたと、徹底するように進めていたということがあります。

違う手術だとだましたり、拘束したりしてもよいという通知まで出していました。

田中:そもそもこの問題が注目されるようになったのは、今年(2018年)1月、1人の女性が裁判を起こしたことがきっかけでした。女性には重い障害があり、親族が、このままでは事実が埋もれてしまうと声を上げたのです。

今、こうした当事者5人が、謝罪や補償を求めて裁判を起こし始めています。

しかし、これから多くの人が救済されるためには、大きな壁が立ちはだかっています。

先月(3月)NHKが自治体などに調査した結果、およそ1万6,000人のうち8割の人の手術の記録が残っていないことが分かったのです。
強制不妊手術 救済のための記録が…

裁判に向けて準備を進める、北三郎さんです。
北三郎さん(仮名)
「これが『修養学園』。」
非行を理由に宮城県の施設に入所していた14歳の時、不妊手術を強いられたといいます。

報道で初めて提訴の動きを知り、自らも国を訴えることを決断しました。

北三郎さん
「うわーっと思った、びっくりした。あれ、俺もそうだと。」

北さんを支えているのは、5年前に亡くなった妻への思いです。

子どもがほしいと望む妻に、長年、手術のことを打ち明けられませんでした。妻のある姿が頭から離れないといいます。

北三郎さん
「知っている人の子どもとか、(妻が)あやしているんですよね。その姿を見ると本当につらい。(手術のことを)はっきり言うべきだったのか、でも言えない。」

裁判に向けて、北さんは手術の記録の開示を県に求めました。ところが回答は「一切残っていない」というものでした。

北三郎さん
「がっくりですよね、なぜ資料がないのか。どうにも(手術の)証明ができない状態。」

今、全国の自治体で同じような事態が起きています。
国の統計で最も多くの手術が行われた北海道では、全ての保健所を対象に不妊手術の調査を行ってきました。

「この中に入っていました、半世紀以上。」


しかし、30の保健所のうち記録が残されていたのは、わずか4か所でした。

北海道 こども未来推進局 花岡祐志局長
「やはり時間の経過というのは、書類の保存にとって大きな影響を与えている。書類によっての実態把握は難しい面もあると考えています。」

記録がなかった北三郎さんです。手術を受けたことを自ら証明しなければならず、この日、医師のもとを訪ねました。体に残された手術の痕が証拠になると、弁護士から助言を受けたのです。

医師
「(不妊)手術した痕が医者が診てわかるかどうか?」

北三郎さん
「傷は残っているんじゃないか。」

診断の結果、太ももの付け根に、不妊手術のものと見られる、およそ2センチの手術痕が見つかりました。

しかしこれだけでは、当時、手術を強制されたかは分かりません。人づてに探し当てたのは、当時いた施設の元職員です。

北三郎さん
「『修養学園』でお世話になった■です。60年ぶりに会いに来ました。」

しかし、応答がなく、会うことはできませんでした。後日、元職員の家族から連絡があり、「当時のことは覚えていない」と伝えられました。

北三郎さん
「あとは何を証拠に出せばいいのか、自分でも分かりません。どんなふうな形にしてやっていけばいいのか。」

40年以上連れ添った妻に手術のことを言えず、悔やみ続けていた北さん。初めて、その事実を打ち明けたのは、妻が亡くなる直前のことでした。

北三郎さん
「隠していることがあるんだ。『何?』と言うから、実は俺、小さい時に子ども産めないような手術をしていて悪かったと。『うーん』と、うなずいただけで、『私のことよりも、ちゃんと食事をとってね。必ずご飯だけはしっかり食べてよね』と、そう言いながら、息をひきとりました。女房に対して、あぁ、すまなかったな。(国に)私らの気持ちをくんでもらいたいという気持ちでいっぱいです。」

強制不妊手術 急がれる救済

ここまで苦しい思いをされてきた北さんが、記録がないということで救済の道が閉ざされてしまいかねない現状、どう見る?

森岡さん:まず、今の方の声をお聞きして、本当胸が詰まる思いですね。

この問題が表面化してから約20年ですか、非常に遅きに失したと思うんですけれども、ようやくここまで来たかというような感じを私は今、抱いています。

ですから、この機を逃さずに、ぜひともよい方向に持っていっていただきたいと思いますね。

国はどう対応しようとしている?

福田記者:国はこの旧優生保護法について、これまで一貫して、当時は合法だったとしてきましたが、裁判のほか、与党や超党派の議連が救済に向けた議論を始めたことを受けて、実態調査を進めることにしています。

救済の対象は、記録が残っていない人や声を上げられない人も調査した上で、幅広く含めていく必要があると思います。

さらに、この1万6000人のほかに、強制ではなく同意して受けたとされる人が9,000人近くいます。同意させられたという可能性もあり、幅広く救済することを検討すべきだと思います。

田中:不妊手術を強いられた人たちの救済。海外では、人権上の問題を認めた上で、具体的な仕組みを作り、謝罪や補償を進めています。

スウェーデンでは、本人が資料をそろえるケースだけでなく、国の補償委員会が必要な資料を本人に代わって入手し、被害を認定する仕組みを設けました。

さらにドイツでは、手術の実施を決定した通知書がない場合でも、専門医の鑑定で、手術痕やカルテから被害を認定して、救済を進めました。


この問題について、取材を通じてどんなことを感じた?

福田記者:障害者に対する差別意識というのは、今もわれわれの心の中に残っているんではないかなと感じました。

実際、取材をしていると、法律がなくなった後でも、親や医師に結婚や出産を諦めるよう説得されたり、実際に不妊手術を受けたという人さえいました。

やはり何よりも強制不妊手術が行われてきた、この事実を、再び埋もれさせてはいけないというふうに強く感じています。

森岡さんは、この問題が今の私たちに突きつけることをどう考える?

森岡さん:今も話が出ましたけれども、こういう問題を支えている根本として、優生思想というのがあると思うんですね。

ですが優生思想は、誰かが持ってるだけではなくて、全員が持っていると思うんですよ。全員が持っている。濃淡はあるとしても、みんなが持っている。

それはもうなくならないかもしれません。

だけれども大事なのは、われわれ皆が持っている優生思想が現実社会にあふれ出てきて、誰か弱い人の人権や尊厳を傷つけていくというところをストップをかける。

この仕組みを考えないといけないと思います。やはり、どのような人であれ、基本的人権は持っているわけですよ。ですから、基本的人権がなくてもいいという人はどこにもいないわけですよね。

ですから、子どもを持てないような体にしてはならないというのは基本的人権ですから、そういう人が出てこないようにするように頑張らないといけない。

もちろん、子どもを産んだり育てたりすることがうまくいかない方もいるかもしれませんが、その場合は、その状況や環境をわれわれがみんなで頑張って考えていく、そして変えていく。

それをしないといけないと思います。

私たちの心の中に、かつての誤った思想が本当に残っていないのか、今も自らの胸に問い続ける必要があると感じます。そして、人生を踏みにじられた人たちの重い言葉に、真摯に向き合っていかなければならないと思います。

 

 


優性保護法が奪った人権

2019年04月25日 21時58分43秒 | 社会・文化・政治・経済

96年まで続いた「差別」 なぜ国は障害者の人権を奪ったのか?

戦後50年近くの間、日本では国の法律により、障害がある人たちに子どもを持てなくなる手術(不妊手術)を無理やり受けさせていた。
当時手術を受けた人たちが今、国に謝罪や補償を求め、声を上げ始めている。

なぜこんな悲劇が起きたのか。

毎月話題になったニュースを子ども向けにやさしく解説してくれている、小中学生向けの月刊ニュースマガジン『ジュニアエラ』に掲載された朝日新聞社会部の貞國聖子さんの解説を紹介しよう。
問題の法律は「優生保護法」という。
法律ができたのは、終戦直後の1948年だ。
背景には、戦前に広がった「優生思想」がある。これは、障害や精神病などは遺伝するとして、彼らが子どもを持つ選択肢を、国が奪うことを認めるという間違った考え方だ。
だが、当時は多くの人がこれを受け入れており、障害者への不妊手術を強制できる優生保護法が成立。医師らの審査を経て、病院で手術が行われた。9歳の少女が手術を受けさせられたケースもあった。

国は、やむを得ない場合は拘束したりだましたりしてもいい、という通知を都道府県に送っていた。

「障害者に対する差別だ」として、法律がなくなったのは96年。

この間、少なくとも1万6千人が手術を強制されたとみられる。同じような手術をしていたスウェーデンでは90年代後半、国が被害者に謝り、補償をした。同じ時期に日本の障害者団体も被害の実態調査や補償を求めたが、国は「当時の法律に従ってすすめた」と対応しなかった。

「最後の手段」として今年1月、宮城県の60代女性が初めて裁判を起こした。「子どもを産む権利を奪った優生保護法は、基本的人権を保障する憲法に違反する」と主張。これに続いて、全国各地で訴訟が起きている。国会議員も動きだし、国も今春から調査を始めた。
提訴した女性の一人は、法律が廃止された直後から声を上げ続けたが、なかなか支援が広がらなかった。

長い時間が経過してしまったため、朝日新聞の調査では、誰が手術をされたのかわかる記録が、被害者全体の3割しか残っていない。被害者の多くは、すでに60~80代。

国は過ちを認めてすみやかに調査し、謝罪・補償する必要がある。そして、いまも障害者への偏見や差別がないか、私たち一人ひとりが考えていきたい。(解説/朝日新聞社会部・貞國聖子)
【キーワード:優生保護法】
「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的に、知的障害や精神障害がある人等に対し、子どもが生まれないようにする不妊手術を無理やりしてもいいなどと決めた法律(1948~96年)。

事情や理由もわからないまま手術をされた人が多く、長年声を上げられなかった。

※月刊ジュニアエラ 2018年8月号より

 


措置入院制度の見直し議論と断念

2019年04月25日 21時44分07秒 | 社会・文化・政治・経済

社会への影響

精神保健及び精神障害者福祉に関する法律による措置入院のあり方について、解除の判断や解除後の支援体制、警察・関係団体との連携などが十分でなかったとの指摘が出ていることから、日本国政府は再発防止に向けて措置入院の制度や運用が適切であったか再検証し、必要な対策を検討することを厚生労働大臣塩崎恭久が指示した[1。
精神保健指定医資格の不正取得事件が複数発覚しているが、その中の1人は犯人Aの措置入院に関わっていることが判明し、医道審議会で指定医取り消し処分を受けた。
2016年9月14日に公表された厚生労働省の中間報告において、Aを措置入院させた北里大学東病院と相模原市が、本来は退院後に必要なケアや復帰プログラムなどを検討しないまま、退院させていたことが明らかとなった。

また、措置入院させた北里大学東病院内には、薬物使用に詳しい専門の医師がおらず、外部に意見を求めることもなかったため、以後の薬物依存を防ぐ手立てが何一つなされていなかったことも指摘された。

さらに、他の精神障害の可能性や心理状態の変化、生活環境の調査や心理検査が行われなかったことも問題とされた。

措置入院解除の時に必要な届け出に2点の不備があり、また病院とAの両親との間で理解に食い違いがあり「同居を前提とした」措置入院解除であったにもかかわらず、Aは実際には一人暮らしとなった。

届書に空白欄があったにもかかわらず、相模原市がその空白欄を追及しなかったため、精神保健福祉法で定められている「精神障害者の支援」の対象とならなかった点について、報告書は「相模原市の対応は不十分であった」と結論づけた。
2016年12月8日、厚生労働省の有識者検討会は最終報告書を発表し、措置入院後に「退院後支援計画」を義務づけることを表明した。
2017年2月14日、障害者団体が保安処分や「患者の監視強化につながる」として反対する中、厚生労働省が相模原障害者施設殺傷事件を受け「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律改正案」が第193回国会に提出された。
参議院厚生労働委員会で審議されるも、改正の要旨に掲げた『相模原市の障害者支援施設の事件では、犯罪予告通り実施され、多くの被害者を出す惨事となった。

二度と同様の事件が発生しないよう以下のポイントを留意して法整備を行う』など数カ所を、2017年(平成29年)4月13日の参議院厚生労働委員会で削除する異例の事態が発生、措置入院退院後に警察も関与する「退院後支援計画」などを巡って議論が紛糾、参議院で改正案が成立するも、衆議院で審議入りもされないまま会期内に成立せず、継続審議ののち、9月28日に第194回国会の冒頭で、衆議院解散により廃案となった。
2018年(平成30年)、第196回国会で第193回国会で廃案となった精神保健福祉法改正案の国会提出を、3月9日に断念することを固めた。

障害者団体や野党の反対が根強く、働き方改革関連法案の審議にも影響しかねず、後任の加藤勝信厚生労働大臣も慎重姿勢のままであり、次回以降も同じ内容の法案を厚生労働省は提出しない考え。
2019年(平成31年)の第198回国会で、廃案になった精神保健福祉法改正案の提出を、第25回参議院議員通常選挙の実施により、国会の会期延長が難しい日程を理由に、1月21日に改正案の提出を断念することが、共同通信社の取材で分かった。


「私が殺したのは人ではない」

2019年04月25日 21時28分00秒 | 社会・文化・政治・経済

Aは子供のころ、いじめられている猫をかばうなど優しい少年だったものの、高校入学後には同級生を殴って転校したほか、帝京大学在籍時(3年生 - 4年生ごろ)には刺青を入れていた。
このころ、Aは「強い人間」に憧れ、ナイトクラブに通い、2010年(平成22年)ごろからは大麻などを吸引し始めるなど薬物に手を出すようになり、卒業後は半グレ集団・右翼関係者とも交友を持つようになっていた。
Aは、2011年(平成23年)5月末から約1カ月間、母校の相模原市立千木良小学校で、教員免許を取得するために教育実習を行った。
2012年(平成24年)3月、Aは帝京大学を卒業した。
事件の4 - 5年ほど前には夜中にA宅から母親とみられる女性の泣き叫ぶ声が聞こえ、その約半年後、Aとの同居に耐えかねた両親はAを1人残して東京都八王子市のマンションに引っ越した。
Aは大学卒業後、自動販売機の設置業者、運送会社、デリヘルの運転手など職を転々とし、相模原市内のクラブにも頻繁に出入りしていた。
転居の理由について近隣住民らは「Aの母親が野良猫に餌を与えて近隣とトラブルになったから」という説や「A君が入れ墨を入れたことに両親が怒ったから」という話があったという。
Aは大麻を吸っていても「効かない」と言いつつ、さらに危険ドラッグを吸うこともあったほか、後述の措置入院後も、大麻・危険ドラッグを使用していたという。
帝京大学卒業後の2012年12月1日付で「津久井やまゆり園」に非常勤職員として採用され、翌2013年4月1日から常勤職員として採用されると後述のように退職した2016年2月まで勤務していた。
Aは2012年8月、施設を運営する社会福祉法人「かながわ共同会」の就職説明会に参加し、「明るく意欲があり、伸びしろがある」という判断で採用されたが、採用後の勤務態度には「施設入居者への暴行・暴言」などの問題があったため何度も指導・面接を受けていたほか刺青を入れる・業務外の問題行動も散見された。
Aは2015年6月ごろから尊敬していた彫り師に弟子入りして本格的に彫り師修業を始めていたが、同年末ごろに「障害者を皆殺しにすべきだ」と発言するなどの異常な言動が見られたことから彫り師から「ドラッグを使用している可能性が濃厚だ」と判断され破門された。
Aは2016年2月中旬ごろに衆議院議長公邸を訪れて衆議院議長の大島理森に宛てた『犯行予告』とされる内容の手紙を職員に手渡した。
「津久井やまゆり園」と同県厚木市内の障害者施設の2施設を標的として名指しした。
具体的な手口として「職員の少ない夜勤に決行する。
職員には致命傷を負わせず結束バンドで拘束して身動きや外部との連絡を取れなくする。2つの園260名を抹殺した後は自首する」などの内容が記されていた。
そして「『逮捕後は心神喪失で無罪として2年以内に釈放して5億円の金銭を支援し自由な人生を送らせる。新しい名前として“伊黒崇”を与え整形手術をさせる』などの条件を国から確約してほしい。
日本と世界平和のためにいつでも作戦を実行するつもりだ」という要求もあった。
また、供述によれば、Aは同年2月に安倍晋三首相宛の手紙を自由民主党本部にも持参していた。
事件を受けて7月26日、衆議院事務総長・向大野新治が記者会見し、手紙を受け取った経緯などを説明した。
それによると、Aは2月14日午後3時25分ごろに議長公邸を訪れ、書簡を渡したいと申し出たが受け入れられず、土下座をするなどしたため、警備の警察官が職務質問したところ、そのまま立ち去った。
その後、男性は翌日午前10時20分ごろに再訪し、正門前に座り込むなどしたため、衆議院側で対応を協議して午後0時半ごろに手紙を受け取ると、ようやくその場を立ち去った。
手紙に犯罪を予告するような内容があったため、衆議院の事務局が警察に通報し、手紙を提出。
向大野は「すぐに大島議長の指示をあおいで警察に連絡しており、適切な対応だったと考えている」と述べた。
この手紙について、警視庁は同15日中に津久井署に情報を提供した。
Aは2016年2月17日、LINEで同級生らに「重度の障害者たちを生かすために莫大な費用がかかっている」などと自説を展開するメッセージを一斉送信し、その後直接電話を掛けた同級生には犯行への加担を要求したり、反論した友人に「お前から殺してやる」と脅したばかりか激怒した友人から「ふざけるな」と殴られても考えを改めなかった。
さらにAは2016年2月18日の勤務中に同僚職員に「重度の障害者については安楽死させるべきだ」という趣旨の発言をして施設側から「ナチス・ドイツの考えと同じだ」と批判されたが、その主張を変えなかったことから、翌19日に同施設が警察に通報し、これに対応した津久井署は「Aが他人を傷つけるおそれがある」と判断して相模原市長精神保健福祉法23条に基づき通報を行った。
同市は、措置診察を行うことを決め、1人の精神保健指定医が「入院の必要がある」と診断したため、精神保健福祉法に基づいて北里大学東病院へ緊急措置入院を決定した。
Aは同日、勤めていた同施設を「自己都合」により退職した。
さらに、翌20日には尿から大麻の陽性反応が見られ、22日に別の2人の精神保健指定医の診察を受けたところ、指定医の1人は「大麻精神病」「非社会性パーソナリティー障害」、もう1人は「妄想性障害」「薬物性精神病性障害」と診断。
市は同日、Aを正式な措置入院とした。
指定医は「症状の改善が優先」などとして警察には通報せず、市は3月2日、医師が「他人に危害を加える恐れがなくなった」と診断したため、Aを退院させた。
Aは2016年2月ごろに「ニュー・ジャパン・オーダー(新日本秩序)」と題して「障害者殺害」「医療大麻の解禁」「暴力団を日本の軍隊として採用」などの計画を記した文章を書き記していたほか同級生に対し「革命」という言葉を繰り返し使っていた。
事件発生から約1年半が経過した2018年1月、Aは横浜拘置支所で、時事通信社記者との接見取材に応じた。
Aは、「事件当日、津久井やまゆり園を襲撃した後、犯行予告状で名前を挙げた、同県厚木市の障害者施設を襲うつもりだった。
しかし、やまゆり園で職員に逃げられ、拘束に失敗したため、警察に通報されると思った上、やまゆり園だけでも結構な人数の殺傷行為ができたため、断念した」と語った。
横浜地検が起訴前に行った1度目の精神鑑定の結果について、Aは「自分は質疑応答できるので、責任能力はある」と言及した上で、今後の刑事裁判では、「私が殺したのは人ではない」として、殺害行為の正当性を主張したいことを話した。
その上でAは、この時点でも「意思疎通できない人は安楽死させるべきだ」と、重度障害者を殺傷した犯行の正当化を続けた。
しかし、時事通信社記者から「刃物で刺す行為は安楽死ではない」と指摘されると、「申し訳ない。他に(殺害)方法が思いつかなかった」と、初めて被害者に対する謝罪の言葉を口にした。
そして、裁判で死刑判決を受ける可能性が高いことについて、Aは顔を歪めつつ、「(死刑判決なら)『ばか言ってんじゃねえ』と言ってやる」、「僕の中では、懲役20年くらいかな」と語った。


相模原障害者施設殺傷事件と優生思想

2019年04月25日 21時10分55秒 | 医科・歯科・介護

 相模原障害者施設殺傷事件とは、2016年(平成28年)7月26日未明、神奈川県相模原市緑区千木良476番地にある、神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に、元施設職員の植松聖被告は(犯行当時26歳)が侵入し、所持していた刃物で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた大量殺人事件である。

殺害人数19人は、第二次世界大戦(太平洋戦争)後の日本で発生した殺人事件としてはもっとも多く、戦後最悪の大量殺人事件として、日本社会に衝撃を与えた。
植松聖被告は、「意思疎通のできない人間は生きる価値がない」という理不尽な理由で19人もの命を奪った。
2016年7月26日午前2時38分、相模原市緑区千木良の知的障害者施設「神奈川県立 津久井やまゆり園」から神奈川県警察・相模原市消防局にそれぞれ、「刃物を持った男が暴れている」との通報があった。
事件に気づいた施設の当直職員が、非番の男性職員にLINEを使って「すぐ来て。やばい」と連絡を取り、連絡を受けた男性職員が電話で確認の上警察に通報した。
現場に駆け付けた医師が19人の死亡を確認し、重傷の20人を含む負傷者26人が6か所の医療機関に搬送された。
死亡したのは、いずれも同施設の入所者の男性9人(年齢はいずれも当時41歳 - 67歳)、女性10人(同19歳 - 70歳)である。
死因は19歳女性が腹部を刺されたことによる脾動脈損傷に基づく腹腔内出血、40歳女性が背中から両肺を刺されたことによる血気胸、残り17人が失血死とされ、遺体の多くは居室のベッドの上で見つかっていたことから、Aが寝ていた入所者の上半身を次々と刺したとみられる。
また、負傷したのは施設職員男女各1人を含む男性21人、女性5人で、うち13人は重傷を負った。
入所者24人の負傷内容は全治約9日 - 約6か月間の胸への切り傷や両手の甲への打撲などとされる。
被害者の名前について、神奈川県警は同26日、「施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」として、公表しない方針を明らかにしている。
これについて「日本では、全ての命はその存在だけで価値があるという考え方が当たり前ではなく、優生思想が根強いため」と説明する被害者家族、本人が生きた証として名を公表する遺族、匿名であるため安否が分からず自分なら公表してほしいとする入所者の友人、根底に障害者差別があるとするなど様々な意見がある。

 


無謀な戦争の<捨て石>にされた沖縄戦

2019年04月25日 20時56分32秒 | 社会・文化・政治・経済

4人に1人が亡くなったとされる凄惨な地上戦を経験し、無謀な戦争の<捨て石>にされた沖縄戦。
死者数
日本 18万8136人(沖縄県出身者12万2228人(一般人9万4000人、軍人・軍属2万8228人)
(他都道府県出身兵 6万5908人)
米国 1万2520人
沖縄戦において、日米両軍は、総力を挙げて死闘をくり広げた。米軍は物量作戦によって、空襲や艦砲射撃を無差別に加え、おびただしい数の砲弾を打ち込んだ。
 この「鉄の暴風」は、およそ3カ月におよび、沖縄の風景を一変させ、軍民20万の死者を出す凄まじさであった。
・沖縄戦の戦闘経緯
沖縄戦の戦闘経緯→慶良間列島・沖縄本島上陸→本島北部・伊江島の戦闘→
本島中部・首里の戦闘→本島南部の戦闘→大東諸島の戦闘→宮古・八重山の戦闘

 ・沖縄戦戦争体験証言集


想像の翼を広げる「読書」

2019年04月25日 13時33分42秒 | 社会・文化・政治・経済

 今年の標語は『ドは読書のド♪』

読書こそ想像力を高める。
想像力は、他人の視点に立って考える力ともいえる。
<あの人に何をしたら喜ばれるだろうか>
<今の状況を客観視したらどう見えるだろう>等と思い巡らす力だ。
人間的な想像力を育む豊かな時間が読書である。
心の成長には時間が必要だ。
ただ効率性に追われ、読書をないがしろにした社会は、殺伐としたものとなり、生きづらさを深めてしまうのではないか。
今年の「こども読書週間」の標語は『ドは読書のド♪』


1日の読書が「0分」の大学生が約半数

2019年04月25日 13時06分31秒 | 社会・文化・政治・経済

全国学校図書館協議会の調査 

不読率
小学生8・1%
中学生15・3%
高校生55・8%
大学生
1日の読書が「0分」の学生が約半数に迫る。
スマートフォンの普及が読書時間に与える影響も懸念される。

2018年度学校図書館調査および第64回学校読書調査|2018年の ...

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2018年12月25日 - 2018年11月1日、全国学校図書館協議会(全国SLA)は、2018年6月に実施された2018年度全国学校図書館調査 ... 昨年は高校生の不読率の低下が注目され、読書離れに歯止めをかけることが期待されていたが、今年は全体的に不読率が ...


6割がしつけの体罰を容認

2019年04月25日 12時59分19秒 | 社会・文化・政治・経済

 しつけとしての体罰、6割の大人たちが容認。

保育園でも「たたいたほうがいい時あるよね」
2018年
2月15日に公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが発表した『子どもに対するしつけのための体罰等の意識・実態調査』(昨年7月、国内の成人男女2万人を対象にインターネットで実施)の結果によると、子どもに対する「しつけとしての体罰」を容認する大人は6割近くにのぼった。家庭での「しつけとしての体罰」は未だに許容・肯定される傾向が残っているということだろうか。
今回発表された意識・実態調査は、昨年7月、全国の20歳以上の男女2万人を対象に、ウェブアンケート方式で実施されたものである。
意識調査では体罰等の容認度や子どもの頃に受けた体罰等の経験について。

実態調査では意識調査回答者の中から18歳以下の子どもを持つ者を1,030人抽出し、自身の子どもへの体罰等の実態や子育て状況を質問している。
まず意識調査では、しつけのために子どもに体罰をすることについて、「積極的にすべきである」1.2%、「必要に応じてすべきである」16.3%、「他に手段がないと思った時のみすべきである」39.3%と、56.7%の回答者が、程度の差はあれ体罰を容認・肯定する考えを持つことが明らかにされた。

「決してすべきではない」は43.3%だった。
回答内容と回答者の属性(年齢、性別、居住地、子どもの有無など)に大きな因果関係は確認できなかったという。「体罰」という言葉から連想する行為には個人差があるが、しつけのために子どもをたたくことについては、「積極的にすべきである」0.9%、「必要に応じてすべきである」15.5%、「他に手段がないと思った時のみすべきである」43.7%、「決してすべきではない」40.0%と、60%がしつけのために子どもをたたくことを容認・肯定している。
しつけのために子どもをたたくべき理由としては、「口で言うだけでは、子どもが理解しないから」が42.8%で最多、「その場ですぐに問題行動をやめさせるため」23.6%、「痛みを伴う方が、子どもが理解すると思うから」20.6%、「たたく以外に子どもをしつける方法がわからないから」2.6%、「大人の威厳を示すため」1.8%。

 また、全回答者に「怒鳴りつける」「にらみつける」などといった体罰以外の子どものこころを傷つける行為について質問すると、「怒鳴りつける」を58.2%(「積極的にすべきである」0.9%、「必要に応じてすべきである」20.2%、「他に手段がないと思った時のみすべきである」37.1%)が容認・肯定。

「にらみつける」を44.9%、「屋上やベランダに出す」を25.9%が容認・肯定。最初の質問で、体罰を「決してすべきではない」とした回答者であってもうち33.4%は「怒鳴りつける」を容認・肯定していることも明らかになった。
なお、回答者の体罰等の経験と子どもに対する体罰等の意識の関連については、たたかれる経験や怒鳴られる経験を持つ回答者は、そういった経験が全くない者と比べ、体罰等を容認・肯定する割合が高かった。

他方、たたかれる経験や怒鳴られる経験が全くない回答者であっても3~4割が「お尻をたたく」「怒鳴りつける」行為を容認・肯定している。

 実態調査の結果で、18歳以下の子どもを育てている1,030人の男女のうち、過去にしつけの一環として子どもをたたいたことが「日常的にあった」1.9%、「時々あった」37.0%、「1~2回あった」31.2%、「全くなかった」29.9%。約7割が実際に子どもをたたいた経験を持っていた。子育てに関する状況との関連を見てみると、過去に子どもをたたいたことのある者の約8割が、日常において「子どもの言動に対してイライラする」「孤独を感じる」「家事、育児、仕事の両立が難しいと感じる」「家に引きこもり、子どもを連れての外出が難しい」と回答している。そして意識調査同様、子どもの頃に体罰等を受けた経験がなくても自身の子どもに体罰等をおこなう回答者は一定数存在し、また体罰等を「決してすべきではない」と考えていても子どもに対して体罰等をおこなってしまう回答者も同様だった。
日本の法律では、学校などでの体罰および家庭などでの虐待は禁止されているが、家庭などでの体罰については明確に禁止されているわけではない。民法では「第822条 親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる」と親権者の懲戒権が認められており、「しつけとしての体罰」は懲戒権の行使なのか濫用なのか、あやふやともいえる。しかし日本は国際条約である「児童の権利に関する条約」の批准国だ。同条約には、子どもに対する体罰は、どんなに軽いものであっても子どもに対する暴力であり禁止されるべきであると明確に規定されている。

 セーブ・ザ・チルドレンは、この報告書で3つの提言をしている。(1)子どもに対する体罰等を容認しない社会をつくるために、啓発活動を推進すべきである。(2)家庭を含むあらゆる場面での子どもに対する体罰等を、法律で禁止すべきである。(3)親や養育者が体罰等によらない子育てを学び、実践するための支援をさらに拡充すべきである。

 


キーワードとは?

2019年04月25日 12時43分03秒 | 社会・文化・政治・経済

キーワードとは、「key(鍵)」と「word(言葉)」の複合語である。
問題の解明や内容の理解の上で、 重要な手掛かりとなる語。
情報検索で、検索の手掛かりとして使用する語句。
鍵になる言葉 (文章中でも特に重要な意味をもつ言葉)
ヒントを探す検索の手掛かりとなり、特定の問題を解く鍵(キー)となる有用な言葉。
何かのきっかけになる言葉、という意味である。

キーワードの、<受け止める力と受け流す力>

 



盛岡市いじめ防止方針を策定

2019年04月25日 11時53分29秒 | 社会・文化・政治・経済

盛岡市教育委員会では, 盛岡市いじめ防止等のための基本的な方針を策定しました。

計画の内容は,下記のPDFファイルをご覧ください。


「子連れ狼」漫画原作者の小池一夫さん死去

2019年04月25日 11時38分52秒 | 投稿欄

 「弐十手物語」
2019.4.19 産経新聞

大ヒット漫画「子連れ狼」など数多くの人気作品を手掛けた漫画原作者の小池一夫(こいけ・かずお)さんが17日、肺炎のため死去した。82歳だった。葬儀は親族で営んだ。
小池さんの公式ツイッターで19日発表された。同ツイッターによると、「かねてより入院療養中」だったという。

 昭和11年、秋田県生まれ。中央大学法学部卒業後、劇画の魅力にひかれ、漫画家のさいとう・たかをさんのプロダクションへ。

初期の「ゴルゴ13」や「影狩り」の原作を担当し、頭角を現した。

 独立後、出世作となったのが時代劇画「子連れ狼」=画・小島剛夕(ごうせき)=だった。45年から51年にかけて漫画誌「漫画アクション」(双葉社)に連載され、多くのファンを獲得。

幼子の大五郎を連れて諸国をさすらう刺客・拝一刀(おがみいっとう)の復讐譚(ふくしゅうたん)を描いた内容は、映画やテレビで作品化され、幅広い人気を集めた。以後も、「弐十手物語」「傷追い人」「キンゾーの上ってなンボ!!」「クライングフリーマン」などヒットを連発。漫画原作で一時代を築いた。

 一方、漫画家育成にも力を入れ、52年に「小池一夫劇画村塾」を設立。塾からは「うる星やつら」の高橋留美子さんや「北斗の拳」の原哲夫さん、ゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズの堀井雄二さんら数多くの人材を世に出した。大阪芸術大などでも教鞭(きょうべん)をとり、「漫画はキャラクター」の持論のもと、創作法などを指導していた。
小説や脚本なども手掛け、近年はSNSで発信を繰り返しており、さらにファン層を広げていた。

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死去の小池一夫さん、ツイッターで多くの「名言」 「自分が自分として生きることに、誰の許可もいらない」
J-CASTニュース

ツイッターのフォロワーは90万人

小池さんは『子連れ狼』(作画:小島剛夕)や『御用牙』(作画:神田たけ志)、『クライングフリーマン』(作画:池上遼一)などの原作者として知られる。特に『子連れ狼』は若山富三郎さんの主演で映画化、人気シリーズとなった。
原作漫画、映画版ともに、海外でも評価が高い。

2010年3月からは、ツイッターを始め、豊富な人生経験に基づく投稿内容が反響を呼んだ。フォロワー数は19日現在、約90万人に達する。
つぶやいた文章から225編を集め、再編集した『だめなら逃げてみる―自分を休める225の言葉』(ポプラ社)の「魅力」という一文には、

「自分が自分として生きることに、誰の許可もいらない。」
「人と繋がることは、幸せの始まり」という一文には、

「人とは繋がるが、人に干渉はしない。
人とつながることは、幸せの始まりで、
人に干渉することは、不幸の始まり。」
などなど、小池一夫さん自身の想いが綴られていた。

生年月日:1936年5月8日 (82歳)
出身地:大仙市
小池 一夫は、日本の漫画原作者、小説家、脚本家、作詞家、作家。
秋田県大仙市出身。男性、身長183cm、血液型はB型。
1976年までの筆名は小池 一雄。


横浜DeNA泥沼7連敗のなぜ?

2019年04月25日 11時14分02秒 | 社会・文化・政治・経済

4/25(木) THE PAGE

ラミレス監督は「勝つときがあれば負けるときもある。今日は負ける日だった」
横浜DeNAが24日、横浜スタジアムで行われた阪神戦に1-3で惜敗、4年ぶりの7連敗を喫し、阪神と同率最下位に転落した。

4番・筒香、5番・宮崎のクリーンナップ2人が沈黙。7連敗中の平均得点は1.86点という打線の不振が連敗の要因となっている。昨年“カモ”にされた阪神への苦手意識も重なって泥沼のトンネルから脱出できなかった。

4番・筒香がブレーキ
 横浜DeNAの苦しさを象徴するようなシーンだった。
 2点を追う9回無死一塁で、打席には筒香。一発で同点となる大事な打席で、阪神の守護神、ドリスが投じた初球の外角ストレートに中途半端なスイング。バットは空を切る。2球目は、156キロが甘いコースへ。

万全の筒香ならスタンドに消えているようなコースのボールだった。それがバックネット直撃のファウルになった。これが現状の4番打者の調子のバロメーターだろう。

最後も157キロの外角ストレートにバットが離れて三球三振。この日、4打数3三振である。

 13日の広島戦で床田に肘に死球を当てられて3試合欠場した。

登録抹消手続きは踏まずに19日の広島戦から復帰、20日には2打席連続アーチを放っているが、まだ痛みは取れずに満足にバットを振れる状況にはないという。

筒香は、一切、そういう話を表に出さないが、最初の打席では才木のとんでもない“吊り球”にバットが止まらずハーフスイングを取られた。怪我の影響だろう。

 5番の宮崎もブレーキだった。追い込まれて落ちるボールに体が開きバットを当てに行った。当然、レフトへ舞った打球は伸びない。この日は、4タコ。打率は1割台。チャンスで、当てにいく凡退を繰り返した。6番の佐野も、まったくタイミングが合わずに4打数ノーヒット。彼はことごとくボール球に手を出した。

 ラミレス監督は、「7番・ショート」に柴田を起用したが、4、5、6、7、8、9番に1本もヒットが出ないのだから打線は機能しない。才木の150キロ級のストレートに押し込まれた。
 この日、桑原、中川、砂田の3人を2軍に落とし、梶谷、大貫、進藤と入れ替え、昇格させたばかりの梶谷を6回、先頭の大貫の代打に使ったが、突破口は開けなかった。
「勝つときもあれば負けるときもある。今日は負ける日だった」
 試合後、ラミレス監督は、努めて冷静にコメントした。
 筒香のブレーキに対しても「(こういう結果は)起こりうることだ。彼は何度もチームを救っている」と責めず「一人一人はベストを尽くしているし、打てるときもあれば打てないときもある」と、ポジティブに7連敗を受け止めた。
阪神への苦手意識
 だが、ラミレス監督の采配にも焦りは見えた。足を絡めてチャンスを広げようと、才木の立ち上がり、先頭の神里がライト前ヒットで出塁すると続くソトの打席で盗塁を仕掛けて失敗した。

配球を読み間違い、捕手が最もスローしやすい内角高めのストレートで走らせてクロスプレーにもならずにアウトとなった。走者がいなくなってロペスにヒットが出た。典型的なチグハグな攻撃になった。

 筒香が受けた死球からすべての歯車が狂ったのは確かだが、対阪神に限っては、昨年からの苦手意識というものもある。

 今年の沖縄・宜野湾キャンプでラミレス監督は、視察に訪れた阪神の掛布雅之SEAに対して「阪神とは相性が悪いので知らないうちに意識過剰になっていた。今年は阪神との対戦がポイントになる」と語っていた。昨季は対阪神に8勝17敗。横浜スタジアムでの戦績は3勝10敗である。

対阪神のチーム防御率の4.81は、5球団のうちワースト、被本塁打、25本も、対巨人と並ぶ4位タイの数字。対阪神のチーム打率.247も平均の250よりも下がる。つまり阪神に対しては「打たれる」「打てない」の最悪の巡り合わせとなっている。

 昨季セ・リーグでトップの185本塁打をマークした横浜DeNAにとって狭いハマスタは有利に運ぶはずだが、本拠地で一発の出ない阪神がここでは、逆に恩恵を受けている。この日も、9回に代打・陽川が貴重なソロアーチでリードを2点差に広げた。

 投手陣は「先に点はやれない」と丁寧に攻めようとして球威が落ち失投を打たれるという悪循環に陥ってしまっている。

ルーキーの大貫も、6回2失点の力投はしたが、11日の甲子園での阪神戦で5回1失点でプロ初勝利を飾ったゲームとは違った配球を意識する余り、勝負どころで持ち球のツーシームを使わずに変化球を狙い打たれた。

 阪神はチームとして変化球に的を絞ってきていた。糸井も追い込まれて落ちるボールに食らいつき3回に先制タイムリー。6回も大山、福留の連打から追加点を奪うが、2人共に落ちるボールを仕留めた。

 試合後、ラミレス監督は、「試合的にはいい試合だった。大貫はいいピッチングをしたし、リリーフも頑張ってくれた」と、3失点の投手陣の健闘を称えた。前回、ルーキーにやられて学習した阪神ベンチの戦略の勝利とも言えるが、横浜DeNAバッテリーには、さらにその上を行く対応力が足りなかった。

こういう悪循環を苦手意識、相性と呼ぶのかもしれない。

 おそらくラミレス監督は、今日25日は、打線のつながりを呼び戻そうと打順を変えてくるだろう。阪神の先発は、左腕・岩田。技巧派の罠にはまる危険性が残るだけに、開幕投手を務めて復活を遂げた左腕・今永のピッチングに賭けるしかないのかもしれない。
「彼はナンバーワンの投手。今年は、ずっといいピッチングをしている。明日、強い期待感を持っている」
 ラミレス監督は、そう話した。